Schumann:劇音楽「マンフレッド」op.115〜序曲

O.クレンペラー/NPO.
66.2.14-15 Abbey Road Studio, London (EMI) Stereo
EMI
CDM 7 63917 2

この劇音楽は、Tchaikovskyの同名の交響曲の題材ともなったバイロンの劇詩「マンフレッド」にインスピレーションを得て書かれたました。作曲は1948年、歌劇「ゲノフェーファ」を書き上げた後で、ゲーテの「ファウストからの情景」を書いている最中でした。

 Schumannに限らずクレンペラーがこうした序曲等をどの程度演奏していたかはよくわかりません。BeethovenやMendelssohn、Wagnerあたりはライヴでの録音も残っていますのでお気に入りであったようですが、この曲の場合どれくらい振っていたのでしょうか。
 苦悩に満ちた序奏からクレンペラーの懐の広い音楽が素晴らしいですね。激情的なテンポでと指定された主部は、逆にゆったりとした大きな響き。この割と長めの序曲にしては、音色と表情のの変化が乏しいのは確かですが、波のように寄せ返す執拗な主題から色濃い苦悩と焦燥感を引き出した名演だと思います。録音は66年でクレンペラーの最晩年にさしかかる時期ですが、例えば後年の交響曲(2、3番)での異様な遅さを感じさせません。

劇詩「マンフレッド」は1817年にロンドンで出版され、劇としては1824年、コヴェント・ガーデンで初演されました。バイロン29才の時の作品。この作品についてはゲーテの「ファウスト」の多大な影響が認められており、特に第1幕冒頭の聖霊達とのシーンは、バイロンが否定しているにせよ、類似は明白です。近代自我の苦悩を表出したロマン派先駆の作品と言われています。
 有名な作品ですが、順を追って簡単に流れを紹介します。

第一幕
 第1場 真夜中、アルプスの居城の回廊、マンフレッドが呼び出した聖霊達に何が望みかと問われ、自らの記憶の忘却を望むが、拒否される。聖霊が美しい女姿で現れすぐ消える。マンフレッドが倒れた後、呪いの言葉が聞こえる。
 第2場 朝、ユングフラウの断崖にひとり立つマンフレッド。人生への倦怠と空しさを語り、無意識に断崖から身を投げようとしたとき、かもしかの猟人に助けられる。
第二幕
 第1場 かもしかの猟人の小屋の中。実直な猟人と病んだマンフレッドの会話。ここで近親恋愛の宿業が暗示される。
「血だといったのだ−わが血! 清くあたたかくわが父祖の血脈を流れ、そしてわれら二人に流れたものだ。
われらが若く、ただ一つの心臓を持ち、
愛してはならなかったのに愛した時に流れ
そしてしたたった。しかも、なおも沸き立ち
私を天上からさえぎる雲を染め
そして、君は天上になく−私も決してのぼりゆくことはないのだ」
 
 第2場 アルプスの谷間、瀑布の前。マンフレッドが妖霊を呼ぶ。マンフレッドの独白。
 第3場 ユングフラウ山頂での運命の女神と天刑の女神の会話。
 第4場 邪神アリマニーズの宮殿にマンフレッドが現れる。天刑女神(ネメシーズ)はマンフレッドの願いを聴き入れ、アスターティの幻を呼び出す。マンフレッドは愛すべき者と呼びかけるが、幻は「あす、あなたの地上の苦患は終わる」と告げ消える。
第三幕
 第1場 マンフレッドの居城にサン・モーリス僧院長が訊ねてきて、許されざる霊との交流を諫めるが、マンフレッドは既に自らの生に否定的でそれは宗教によっても救われるものではないと言う。
 第2場 マンフレッド辞世の句。
 第3場 家臣ハーマンとマニュエルのやりとり。マンフレッドの孤独な性格と嫌世的な振る舞い、そしてマニュエルのアスターティを見たという言葉の途中、面会を求める僧院長が現れる。
 第4場 マンフレッドと僧院長のところへ霊(魔神)が現れ、霊との激しいやり取りとなる。マンフレッドは「死」を恐れるものではないが、「死」が霊によってもたらされるものではなく、自らの手によるものだと主張する。
「私は自己自身の破壊者だったのであり、そして今後も
それであるのだ。−−さがれ、挫折した悪魔らよ!
「死」の手は私の上におかれた−−汝らの手ではない!」

マンフレッド息を引き取る。
   (以上、引用は「世界詩人全集2−バイロン」 阿部知二訳 新潮社)

 マンフレッドは、自らの生にこれ以上意味を持ち得ないことを感じ、自己否定の中にいます。しかし、それは生に倦むのではなく、また絶望でもありません。生の意味と経験をすべて知り尽くしたところから来る言わば知的な苦悩です。しかしこの苦悩は哲学的なものではなく、若い頃から各地を遍歴し放蕩生活を送ったバイロンの経験的な(もっと端的にいうと体験的な)ベースの上に形作られたものでしょう。
 巻頭に「ハムレット」からの一文が引かれています。即ち
「ホレーショよ、人が哲学で夢みる以上の
さきざまなことが天地の間にはあるのだ」
 (「ハムレット」1幕、5場 116-7行)

 この苦悩を、最後まで内に持ちながら、尚すべての権利を渡さず、宗教に頼らず、全く個人として逝く。これこそ急進的なそして典型的なロマン派の人間像でした。しかし、こうした自己意識による破滅の典型的なロマン派人格が、現代においてどう受け入れられるかは微妙ですね。個人的にはバイロンの放蕩な生き方、「ドン・ジュアン」のような生活とそれに対する嫌悪の果て、ギリシャ独立戦争に客死したこの詩人の自己嫌悪と我儘な自己弁護ではなかったのかという気がします。時代的な意味を持つかも知れませんが、現代の醒めた目から見ると、思索の中に人間的苦悩のストーリーを創造したゲーテのファウスト像や、冷徹な目で人間そのものの所業を描いたシェークスピアのハムレットに比べると、新鮮さと新しさを認めつつも、やや底が浅いように思えてしまいます。文才を持った(むろん相当な文才ですが)自意識過剰の放蕩貴族、既にイギリスを追われ二度と帰らなかったこの詩人の「生」の没落過程を見ているようです。
 この「マンフレッド」はこの時代相当な人気だったといいます。「マンフレッド」という人格、本質的な人間の弱さを運命の女神に委ねず、自らの手によって引き取るというやり方は、その伏線となっているアスターティ(バイロンの実生活では異母姉オーガスタ・リー)との近親恋愛の悲劇を含めて、多感なロマン派芸術家に及ぼした影響は大きかったでしょう。(因みにTchaikovskyがこの題材で交響曲を書いたのも、偏執的な自我を抱える性格を考えると頷けるような気がします)
 Schumannにとっても「マンフレッド」は興味深い人格だったようで、それは彼の精神に住んでいた幾人かの人格に共通するところがあったためかも知れません。また、作曲の時期的にも「ファウスト」との類似性に興味を惹かれたのかもしれません。劇としてはコンパクトですけれど、曲を付けるには、幻想的でもあり劇的でもある「マンフレッド」は格好の題材だったのでしょう。

 この音楽は序曲だけの録音は多いものの、全曲の録音はあまりないようです。手持ちのLPではG.アルブレヒト/ベルリンRso.のSchwann盤とD.レンツェッティ/スカラ座o.のCetra盤(C.Bene編)がありますが、過去にもそう真面目に聴いた憶えがありません。改めてアルブレヒト盤を聴いてみますと、バイロンの激した雰囲気より随分美しい音楽で、どうしてもう少し録音がないのかと思います。
 この曲は序曲を含めて15曲から成りますが、このアルブレヒト盤では以下のようになっています。

 1. Ouvertüre / 2. Gesang der Geister / 3. Erscheinung eines Zauberbildes / 4. Geisterbannfluch / 5. Alpenkuhreigen / 6. Zwischenaktmusik / 7. Rufung der Alpenfee / 8. Hymnus der Geister Arimans / 9. Musik / 10. Beschwörung der Astarte / 11. Manfreds Ansprache an Astarte / 12. Musik / 13. Abschied von der Sanne / 14. Musik / 15. Klostergesang - Schlußszene

 これをバイロンの劇に対応させていくと概ね次のようになるようです。

1.序曲
2.聖霊の歌・・・第1幕第1場 聖霊の歌
3.幻影の出現・・・第1幕第1場 第7の聖霊が美しい女の形をとって現れた場面でのマンフレッドの台詞。音楽は台詞に重なる。 
4.聖霊の呪文・・・第1幕第1場 
5.アルプスのメロディ・・・第1幕第2場 アルプスの断崖に立つマンフレッド。遠くから羊飼いの笛の音が聞こえてくる場面の音楽。
6.第2幕への幕間の音楽
7.アルプスの霊・・・第2幕第2場 アルプスの滝の下、マンフレッドが霊を呼び出す。
8.アリマニーズ神への讃歌・・・第2幕第4場冒頭。
9.音楽・・・・第2幕第4場 アリマニーズ神の宮殿にマンフレッドが現れる。アスターティを呼び出すよう要求する。
10.アスターティの霊の出現・・・第2幕第4場 ネメシーズが霊を呼び出す呪文を唱える。この呪文に音楽が付されている。
11.マンフレッドがアスターティに話しかける・・・第2幕第4場 現れたアスターティにマンフレッドが呼びかける。
12.音楽・・・恐らく第3幕への幕間音楽。この後、第3幕第1場 マンフレッドを訪ねた僧院長との会話に重ねた音楽となる。
13.太陽への別れ・・・第3幕第2場 沈みゆく太陽に自らの運命を重ねるマンフレッドの独白。
14.音楽・・・死霊との戦い。
15.最後の場面・・・第3幕第4場 死霊とマンフレッドの戦いが終わり、マンフレッド最期の場面。

 アルブレヒト盤では台詞のキャストが6人、歌手が4人と合唱。台詞に音楽が重なる場面や台詞の間に挟まる音楽も多く、単純に音楽が15曲続くわけではありません。むしろ序曲、幕間音楽を含めて15の場面のために作曲された音楽です。このため、適度に台詞を入れないと音楽が成り立たないようで、このあたりの難しさがこの曲の録音が少ない原因になっているのでしょう。
 音楽は、アリマニーズの宮殿で、アスターティの霊が現れる場面(第2幕第4場)が一つの山場になっています。この場面は、幻想的であり劇的な場面ですが、Schumannは非常に効果的に音楽を付けていて、文字を追っているだけではなかなか実感できない緊張感と情感も、台詞の表情と音楽の雰囲気により場面が目に浮かぶようです。
 音楽は華やかな第3幕への幕間音楽から、マンフレッドの死を覚悟する穏やかな音楽(太陽への別れ)を経て、いよいよもう一つの山場、第14曲から第15曲へと進みます。「死」を巡っての死霊との戦いの場面、戦いが終わり、静かなオルガンに導かれ、レクイエムの合唱。このシーンは非常に美しい。特に静謐なレクイエムの合唱(出だしはFauréのレクイエム「Pie Jesu」の旋律を思わせる)は短いながらも感動的で、天から明るい光が指してきたような宗教的な感慨があります。

 バイロンの劇だけを考えてみるとこの2つのシーンはストーリー上の関連性が希薄であるように思われます。つまりマンフレッドという苦悩する人格の表現と、更に運命を司る霊との関わりの点だけで繋がっている印象を受けます。特に前者は、マンフレッドの苦悩が実はアスターティへの悔悟の念に多く負っているものに見えてしまう、という点で、バイロンの実生活を色濃く反映しているようですし、またこのことが私には少し異質な場面であるようにに思われます。しかし、この詩が演じられることを考えると、逆に感動的な作りになっているとも言えるんでしょうね。そしてSchumannの音楽の流れはこの2つの特徴的なシーンにより大変変化に富んだものになっています。非常に色彩的で、全体に非常にメリハリがあり、一方ではリリックな要素を持ち、一方では劇的要素を持ちます。これはアルブレヒトの演奏にもよるかも知れませんが、交響曲を聴いて感じるような重々しいところがなく、非常に美しい音楽です。それぞれの曲が少々短めになっていて趣向は若干違うものの、Mendelssohnの「真夏の夜の夢」に匹敵するような素晴らしい音楽だと思います。

NPO.(66) 12:24
アルブレヒト/ベルリンRso.(84) 12:40 参考
 参考:G.アルブレヒト/ベルリンRso.(84.7.16-20)    Koch Schwann 114 016 FA (独LP)