Schumann:交響曲第1番変ロ長調op.38「春」

O.クレンペラー/NPO.
65.10.21-23,25,27 Abbey Road Studio, London (EMI) Stereo
EMI
CMS7 63613 2
A
EAA-93095B(国LP)

この曲は1841年に作曲、スケッチはわずか4日間で完成したそうです。この少し前、SchumannはSchubertの兄宅で大ハ長調(一般に9番と呼ばれている「グレート」)を発見、これをMendelssohnに送り、Mendelssonはこれをライプツィヒで初演しました。Schumannのこの曲、特に第1楽章を聴くと漠然とではありますけれど「グレート」の影響が特別濃厚ではないかと思われます。Schumannがそれまでのピアノ曲やリートの世界から交響曲という分野に手を出すことにした(1832-33の「ツヴィカウ」交響曲は未完)のは、Schubertのこの曲によって、交響曲という形式が十分にロマン的な音楽たり得ることを確信したためではないでしょうか。
 Schumannのこの曲の場合、同年に初稿が書かれた現在の4番ほどではないにしろ、やはり古典的な交響曲の範囲を踏み出しているように思います。ただ、若いSchumannの創作意欲に溢れており、4曲の中では最も古典的な交響曲然とした容姿を持っているのは確かでしょう。むしろ、同時期の4番との関係でいうと、持ち合わせていた対照的な2つのテンペラメンツ(或いは作曲者の溢れ出る2つの奔流)をそれぞれ別の曲で結実したと言えないでしょうか。1番は外へ向かう外向的な古典的美を、4番は内向的に深く精神性の発露としての面を。これに同時期に書かれたもう一つの管弦楽曲「序曲、スケルツォとフィナーレ」も加えると、Schumannの楽想は音楽の形態とは関係なく、まことに自由、豊穣なものであったことを窺わせます。

 クレンペラーのこの演奏は、65年の録音で4番の録音から5年後のことです。しかしこの曲の録音は既に1963年に一度試みられたようで、11月8日には収録し始めたのことです(録音場所はアビーロードスタジオ)が、これは翌年の64年再度セッションを持ったにも関わらず全曲の録音にはならず更に翌年のこの録音となったようです。クレンペラーの時期的には、颯爽とした指揮ぶりからから徐々に遅くなってきて、晩年の極端に遅いテンポへの過渡期。この演奏も極端に遅いという印象は与えませんが、楽章によっては晩年の独特のテンポ配分になっています。

 第1楽章、この楽章、実に変化に富んでいて好きです。そして最もSchubert的な語法を感じさせる楽章だと思います。
 クレンペラーは長い序奏の後、 Allegro molto vivaceに入ってもテンポがあまり上がらない。一般的にここからテンポを上げて演奏するのが普通ですけれども、クレンペラーの場合曲想は変わるが雰囲気はそう変化しません。また、クレンペラーの演奏様式に特徴的な旋律を木管に与えている部分での弦の音量を若干セーヴするところが見られます。
 次の2楽章はとびきり美しいですね。途中低弦に受け持たせた旋律線が延々歌うところが特に美しい。Mahlerはウィーン時代にこの曲を好んで指揮したそうですが、例えば5番のアダージェットなどは(Mahlerとしてもかなり特異な耽美的とでも言える曲ですが)、この曲のSchumann的幻想世界をMahlerなりに指向したものではないかと思えるくらいです。クレンペラーがもしMahlerを演奏したならばこんな感じだったのではないでしょうか。
 終楽章の第1主題とそこから展開される旋律的な部分はTchaikovskyの「くるみ割り人形」、或いはまたMendelssohnの「真夏の夜の夢」の幻想とメルヘンの世界を思わせないでしょうか。わたしはどうもそう感じてしまうんですね。例えばTchaikovsky独特の木管の重ね方とか、Mendelssohnのファンタジックな細かいリズムとか・・・。調べてみるとTchaikovskyは当然ながら、Mendelssohnの「真夏の夜の夢」もこの曲の後に作曲されたんですね。するとMendelssohnがこの曲を聴いて影響されたということもあり得るわけです。
 クレンペラーの演奏は豪奢な響きではありません。またそれぞれの楽想を巧みに描き分けるといった風ではなく、そこに書かれた譜を忠実に追っていきます。木管と弦のバランスもクレンペラー独特。こうした厳格なやり方はこの曲特有の様々な要素を描き分けることによって得られる面白味と躍動感を減じてしまうことになるのですが、そうした欠点を補ってあまりある力感と強固な構成感は他の指揮者からは得られないものでしょう。

 Schumannのオーケストレーションについては昔からあまり評判が良くありません。演奏では指揮者により程度の差こそあれ色々手を加えられてきたようで、Mahlerがオーケストレーション等に手を加えた版もあり、これはBISのチェッカート盤で聴くことが出来ます。こうしたことについて「クレンペラーとの会話」の中でヘイワースが訊ねている部分があります。

P.H 「ではマーラー版のシューマンの交響曲についてはいかがでしょうか。マーラーは加筆しただけではなく、カットもしておりますが・・・。」
O.K 「これはこれは、驚きました。あれはマーラーが自分のために作ったものです。それが出版されたのは、ただ財政上の理由からでした。マーラーの死後、未亡人のアルマが彼の改訂版を出版社のユニヴァーサルに売却したのです。」
P.H 「先生はシューマンに加筆しておいでですか。」
O.K 「ええ、でもマーラーほどではありません。どうしても改めなくてはならないところがいくつかあるのです。」


 ここでクレンペラーが加筆している部分が具体的にどこなのかは書かれていませんが、恐らくオーケストレーションの一部についてでしょう。
 しかしここでのクレンペラーの反応は、私たち聴く側にとっては少し戸惑いを感じさせるのではないでしょうか。クレンペラーは、ヘイワースのこの問いそのものに驚いているのです。「Mahler版」は単にMahler自身が演奏するためだけのもので、そのことについて訊かれること自体怪訝に感じているのでしょう。クレンペラーが自らの編曲なりカットなりするときは全て指揮者としての信念と責任を持って行うと言っているように、演奏に関しては基本的に指揮者個人が責任を負うべきものと考えていました。だからこそ、ここではその問いかけそのものに驚いているのです。クレンペラーにとってMahlerは偉大な作曲家であったとともに偉大な指揮者でもありました。
 逆に言うと、クレンペラーが「作曲もする指揮者」に終生こだわりを持っていたのは、単に上手く演奏できるという以上に「作曲家としての目」で曲の良し悪しを判断できるか、解釈できるかということであったようです。クレンペラーがMahlerの交響曲でも指揮しなかった作品があるのは、単なる職業指揮者であることを良しとしなかったためであろうと思われます。それがクレンペラーにとって生涯譲れない一線であって、自負であったのでしょう。まあ、作曲家としてのクレンペラーが評価されているとは言えませんし、僅かに残っている自作の録音についても、(個人的な意見では)遅れすぎてやって来た分裂気質の表現主義者、といった感じで、殊更重要性があるとは思えませんが、とにかくクレンペラーとしては唯のオーケストラ・トレーナーの手腕だけでは音楽家として認めませんでした。ストコフスキーもトスカニーニも彼にとっては非常に優れた指揮者だったということです。

I II III IV Total 増減
NPO.(65) 12:32 7:24 6:07 9:25 35:28 0 I/IV繰返しあり
ハイティンク/RCO.(83) 11:36 6:19 5:44 8:45 32:24 -3:04 参考


sym.2

Schumann:交響曲第2番ハ長調op.61

O.クレンペラー/NPO.
66.10.5-6 Abbey Road Studio, London (EMI) Stereo
EMI
CMS7 63613 2

A
EAA-93095B(国LP)

この曲は、恐らくほとんどの人に今少し印象的な演奏をすることが難しい曲と考えられていました。先日オペラ指揮中に亡くなったシノーポリの盤がリリースされたとき、初めてこの曲の理想的(というかやっとこの曲が注目された)演奏と言われたくらいです。その当時この演奏はシノーポリの変わった経歴から分析的な演奏と言われましたが、私にはこの曲のつかみ所のないような構成を上手く組み立てた躍動感のある指揮の方に感心した覚えがあります。このシノーポリの演奏はやはり素晴らしいのですけれど、実はこの曲がSchumannの交響曲の中でも決して他に劣らない名曲であることに目を向かせてくれた功績の方が大きかったと思います。

 それにしてもこの曲は聴けば聴くほど魅力のある曲ですね。それにいろいろ聴き直してみると意外にどの演奏もこの曲の魅力を様々なやり方で引き出しているように思えます。その中でもクレンペラーの演奏はかなり独特です。まずテンポが遅いというのは、演奏の時期から言っても仕方ないことでしょう。とにかく3楽章を除くと相当に遅い。
 1楽章も随分重々しい。Un poco piu vivaceに入っても遅く、主部のAllegroに入っても遅い。ここからはSchumannの曲の中でもリズミックに進行する部分ですが、クレンペラーが指揮すると荘重な雰囲気を帯びたままです。この曲の快活な演奏に慣れた耳には知らないうちに随分恐ろしげな世界に足を踏み入れたような感じがするでしょうね。Schumannが書いた、前々へ漸進する推進力の秘密をひとつひとつ検証して歩いているような世界です。
 2楽章のスケルツォでは、得意としたMendelssohnの音楽を振っている気分ではなかったでしょうか。ゆっくりとした一見無骨な表現で、コントラストもほとんど感じさせないながらもMendelssohnの演奏に共通した実に味わいのある響き。ここでも木管と弦の対比に気が配られていることが良くわかります。
 そしてこの曲での白眉は次の Adagio espressivo でしょう。cantabile で歌い出される切なげな主題から、他の演奏とは全く違う、言ってみれば書かれた音楽に語らせる自然さと清楚さを感じさせます。何も加えない、何も引かない、と言ったらどこかのCMみたいな表現ですが、その飾りのない演奏から実に奥深い響きを引き出しています。
 この楽章、色づけはまさにSchumannですが、こうした音楽の作り方は(例えばバスの使い方)等はBrahmsの作品を思わせます。そして私はここでもMahlerの世界を感じてしまいます。実のところ私はこの曲をそう聴いてきたわけではありませんけれど、クレンペラーの過去の美しいシーンを回想するような寂寥感を滲ませる音楽を聴いてすっかりSchumannの緩徐楽章のファンになってしまいました。
 第4楽章、Schumannはこの楽章に様々な趣向を凝らしていますが、この長大な全編これコーダへのつながりのような音楽は演奏の仕方によりくどい感じを与えることもあります。この楽章のいくつもの波を、Schumannの書いたように趣向を変え、そしてコントラストをつけて引っ張っていくのは結構大変なことだと思います。ここに同居するマーチ風の威勢の良い音楽と揺れるロマンティズム、この2つの要素は、クレンペラーの遅い棒の下では対立とコントラストのためではなく、冷ややかに並列的です。そして音楽は極めて接続曲的になります。

 この演奏は多くの人には全く好まれないものかも知れません。私もこの演奏がこの曲の第一に推せる演奏だとは思いませんし、もしこの曲を初めて聞くならばクレンペラー盤はよした方がよいとさえ思います。クレンペラーの年齢からくる極端な遅さはこの曲のある大事な魅力を奪っていることは確かだからです。
 微妙なニュアンス、譜の端々に見られるほんの少しの綾とか、気分の交替とか・・そうした雰囲気はクレンペラーの演奏にはほとんど見られません。そして私たちがSchumannという作曲家に抱く最もロマン的な資質の具現を裏切るかもしれません。けれどこの楽譜の中に、Schumannがそうしたことを意図して書いた音楽の中に立ち現れるロマン性をクレンペラーほど克明に描き出した人はいなかったでしょう。そしてここに聴かれる客観的なロマンの表出。逆説的でも何でもなく、これほどSchumannの筆に近い演奏があったでしょうか。それはロマンの叙述的表現とも言えるものです。
 クレンペラーは決して分析的に演奏しているわけではないですけれど、何回か聴くうちにSchumannのロマン性がいかなる表現の中に生きているかを考えさせられてしまう演奏ではないでしょうか。

I II III IV Total 増減
NPO.(66) 14:11 7:53 8:34 10:27 41:05 0
ハイティンク/RCO.(84) 11:51 6:54 9:32 7:58 36:15 -4:50 参考
サヴァリッシュ/SKD.(72) 12:29 6:44 10:19 8:00 37:32 -3:33 参考


sym.3

Schumann:交響曲第3番変ホ長調op.97「ライン」

O.クレンペラー/NPO.
69.2.5-7 Abbey Road Studio, London (EMI) Stereo
EMI
CMS7 63613 2
A
EAA-93095B(国LP)

この曲はSchumannの交響曲の中でも幻想性と様式とが高次元で結晶した傑作だと思います。この曲はSchumannがデュッセルドルフへ転居した年に書かれ、作曲者自身の手で同地で初演されたものの、あまり評判は芳しくなかったようですが、一体どうしてなのか不思議なくらいです。

 この盤はクレンペラーのSchumannでは最後に録音されたもの。最晩年の69年に「ファウストからの情景」序曲とともに録音され、カップリングもこの形でした。この曲が最晩年に録音されたというのはどういった理由だったのでしょう。

 第1楽章の冒頭、トゥッティで出るテーマからかなり遅いテンポで驚かされます。録音年を考えると十分予測がつく遅さなのですが、聞き始めるとやはりこのテンポは常識を越えていますね。テンポが遅いせいで、ひとつひとつの音が他の音との関連を薄めているよう。pの所なんかほとんど静まりかえったようになります。続くスケルツォも遅い。スタカート付きの弦の愛らしさ、朗々と歌うホルンに木管が加わる場面は少し晴れやかに感じるところですが(何度聴いてもゾクゾクするような美しい音楽)、クレンペラーの演奏は森に木霊する遙かに遠い響きに聞こえます。こうした幾分翳のある響きはこの頃のクレンペラーに特徴的です。
 ファンタジックで夜想曲風な第3楽章。遅いけれど曲想からするとこれは許容範囲でしょう。静寂の中をそぞろ歩く風情で、木管の掛け合いが美しく非常に丁寧に奏でられた音楽。
 次の第4楽章は唯一遅くない。極めて沈鬱な表情。まずはじめのsfzを聴いてもクレンペラーがここでは劇的に演奏しようとしていないことがわかります。非常に淡々として進める音楽から、逆にフーガ的な作りであることを強調しているようなところがあります。

 この曲が書かれた頃のライン河沿岸というのはどういう雰囲気だったんでしょうか。私はこの楽章を聴きながら度々連想してしまうのが、(本当は全く違う雰囲気なのかも知れませんが)ユゴーの「ライン河幻想紀行」での雰囲気なのです。私が読んだのは原著からほんの一部を抜粋した岩波文庫の1冊で、その全体像はうかがい知る由もないのですが、その中には著者自身の手によるいくつかの絵も挿入されています。
ユゴー:ラインの印象

 ユゴーはいくらか流れているドイツの血からか、フランス人でなければドイツ人でありたかったと言うくらいドイツに憧れを持っていた人でした。その大部分は、一見非常に活動的であったこの人のもう一つの面、幻想的でロマン的な気質から生まれたものでしょう。それが端的に表れているのがこのライン紀行文です。その幾らかは創作であったようですが、その点にこそ、古い城跡や川の流れから遠い過去に思いを馳せ幻想世界に遊ぶ彼の精神が端的に現れています。
 古城に過去の響きを聴く。強者共ではないですが、そこに蘇る響きがあったのかもしれません。

 再び終楽章は遅い。どの楽章もそうですが、Lebhaftの表示にはどう考えてもそぐいません。最後もSchnellerの指示にも関わらず全然速くならない。体感的にはむしろ減速しているような感覚です。しかしながら後半のコーダへ向かうところは晩年のBeethovenの演奏を思わせるような充実した音楽です。この曲、大がかりな作りのコーダの割に最後の2つの和音が軽い気がするのですが、クレンペラーの演奏だと古典曲のきっちりした終わり方に聞こえるのが不思議です。

 クレンペラーの演奏は全体に第1ヴァイオリンが弱く聞こえます。これはSchumannの曲の作り、第2ヴァイオリンとヴィオラのパートがかなりの部分連動して動いていることにもよると思いますが、クレンペラーも内声部を重視していた結果だったのではないでしょうか。相対的に高声部が引っ込むため、明るさがなくこの曲独特の快活さも感じられません。ですから遅い割にはかなり混沌とした響きです。遅いテンポは年齢からくるものだと思いますが、こうしたバランスは晩年のクレンペラーが意識していた点だと思います。極めてバロック的ですね。

I II III IV V Total 増減
NPO.(69) 10:56 7:58 6:48 5:38 7:15 38:35 0
ハイティンク/RCO.(81) 9:47 6:32 5:00 5:31 5:33 32:25 -6:10 参考
サヴァリッシュ/SKD(72) 8:58 6:42 5:29 6:53 5:31 33:33 -5:02 参考

 クレンペラーが幼年時代の思い出として語っている一文があります。

 音楽に関するわたしの最初の記憶といえば、父が歌を歌っていたこと、とくに『詩人の恋』を歌っていたことです。わたしはいつもシューマンが好きでした。今でも、シューマンの交響曲を指揮できるときにはいつも喜びを感じます。(「クレンペラーとの対話」)

 一体クレンペラーはどんな喜びを感じていたんでしょうか。彼の心の中にはひょっとするとずっとロマンティックな音楽があったのかな、と思ったりします。


sym.4

Schumann:交響曲第4番ニ短調op.120

(1) O.クレンペラー/PO.
  60.5.4-5 Abbey Road Studio, London (EMI) Stereo

(2) O.クレンペラー/フィラデルフィアo.
  62.10.27L
 Academy of Music, Philadelphia Stereo

(2)のAS disc盤は62年とだけ表示してある。CD-Rで出ているNavikiese NAV-4020はこれと同じ演奏。ただしNavikiese盤では62.11と表記されている。
(1) EMI
  CMS7 63613 2

  A
  EAA-93095B(国LP)

 周知の通りこの曲は4番とありますが、実際は2番目に書かれた交響曲です。作曲は第1交響曲と同年の1841年で、初演の際評判が悪く後に若干手を入れ出版されて結果的に最後になったというものです(この最初の稿は1841年版としていくつか録音も出ています)。1番と同じ時期の作品ですが、ここでは様相がかなり違います。まず、楽章単位に分けられておらず、全編続けて演奏されること。つまり楽章の独立性が生み出す曲の多様性とコントラストを犠牲にしながらも、全体の大きな流れを主眼に置いた構成で、実にSchumann的です。
 Schumannは初期にピアノ曲を集中的に書き、そのどれもが傑作で、私もそのいくつかは最も好きな曲なのですが、交響曲となるとその音楽的な興味とは別に少しばかり重い感じがして、ピアノに比べストレートに音楽の機微が伝わらないような気がしていました。

 Schumannの楽譜を見て最初に気づくのは、まず音符が多い、ということ。とにかく常に多くの楽器が鳴りっぱなしで、もう少し整理されて見通しが良くなれば響きもすっきりするのに、と思います。結果的に聴覚上でのダイナミクスを削ぐ方向に行ってしまうのとコントラストがつきづらいということは否めないでしょう。Mendelssohnなんかその点実に上手く、必要最小限で最大限の効果をあげていますが、Schumannの場合、ちょっと凝りすぎる点があるのか、譜を詰めすぎているという印象です(特に弦と木管)。全体にもやもやする吹っ切れない印象はこうしたことによるようで、演奏側としては音響的な整理も必要になるのでしょうか。Schumannではピアノ曲でもBeethovenのようには構成的に作られてはいませんから、こうした音楽のロマン的特性をどうやって再現するかが演奏家の質を問われるところなんでしょうが、オーケストラ作品では加えて音のバランスをどのようにとるかも問題ですね。
 しかし逆に言うとこうしたオーケストレーションはSchumannのロマン的印象の重要な部分を形作っているとも言えるでしょう。特にこの曲の場合はそう思います。

(1) クレンペラーのSchumannはこの曲だけ60年に録音されています。他の曲は60年代半ば以降の録音で、元々全集としてまとめる意識は薄かったかも知れません。流石にこの時期のクレンペラーは引き締まった充実した演奏をします。テンポの動きのない即物的な演奏ですが、しっかりとした足取りのこの上もなくがっちりとした構成。
 この曲、フルトヴェングラーの大変な名演がありますけれど、これは曲自体がどこをとってもこの指揮者にぴったりですね。クレンペラーの演奏を聴きながらもフルトヴェングラーはここでこんな風にアッチェランドをかけるなとか、ここのテンポは云々・・ということを考えてしまいます。クレンペラーの演奏はフルトヴェングラーの演奏のように、計算されたテンポルバートを巧みに使い、尚そこからはみ出す「力」が一層の躍動感と高揚感を与えるようなやり方とは違うものの、何か言い知れぬ感動と興奮を与えてくれます。
 
 演奏は始めからクレンペラーらしい非ロマンティクな厳しい表情。Schumannの厚いオーケストレーションなど気にしていないかのようで、全然細かい細工がないストレートな演奏です。色々な音が交錯する音楽ならば、それを整える手段はいくらでもありそうですが、それをしないクレンペラーの演奏からはSchumannの書いた音楽がそのままの形で立ち現れます。果たしてSchumannが欲した響きはこうだったのでしょうか。きっとフルトヴェングラーにずっと近かったような気がします。
 ロマンツェは下のタイミング表でもわかるように非常にすっきりしています。クレンペラーの場合、この演奏に限ったことではないのですが緩徐楽章の扱いは総じてドライです。けれど、スケルツォの部分が始まったときこの曲に付けられた「交響的幻想曲」という言葉が思い起こされます。この曲にSchumannは楽章の区別をしていません。楽章をアタッカでつなげると言うより意識的に交響曲の古典的構成から離れようとしているようです。ロマンツェ(緩徐楽章部分)を過度に遅くとらないテンポが逆にこの曲の特質を知らしめてくれているように感じます。スケルツォの力強い主題はロマンツェとトリオに挟まれ、交替するような形となり、終楽章に当たる序奏とLebhaft−延々続くコーダのような−との対照を示しています。そしてLebhaft以降、インテンポに進めながらも(或いはインテンポで進めることにより)、音楽はある部分では充実して響き、ある部分では重く畳みかけるように響く。音楽の躍動感を内側のエネルギーとして取り込み、蓄積された力が音楽を押し進めて行くかのような、冷静でありながら奥にパッションを秘めているかのようです。

 実は若い頃初めてこの演奏(というよりSchumannの録音全部)を聴いたとき私はそう感心しませんでした。音には全く華やかさがないし、何と言ってもSchumann独特のロマンティシズムに不足していました。しかし、幾度か聴いてきますとそんなことはどうでも良くなってきました。他にも沢山素晴らしい演奏がありますが、私にとってはこの演奏も特別の1枚です。
 最後に音質についてですが、この録音、他のこの頃の録音と比べても少し音が良くない気がします。何カ所か音が歪むところがあります。他の盤ではどうなんでしょうか?

(2) クレンペラーは62年10月4日にニューヨークへ飛び、1週間ほど体を慣らすと共にコンサート・プログラムの曲を勉強し直しています。11日にフィラデルフィアへ移動、最初のコンサートは19日。このツァーでの曲目はBeethoven3、6、7番、エグモント序曲、Brahmsの3番、Mozartの41番、Schumannの4番、Bachのブランデンブルク協奏曲1番。AS disc盤には62年としか表示がありませんが、Grayのディスコグラフィによると10月27日の演奏とのこと。Navikiese NAV-4020で出ているCD-R盤も62年11月と表示されているものの同じ演奏だと思われます。両方客席のノイズはそう大きな音ではありませんが聞こえます。両者拍手も収録されていて、これに全く同じ人間の声が入っています。多分音源は同じ放送か何かを録音したものでしょう。音はかなりデッド、マイクが近いような気がします(CD-R盤の方が幾分聞き易い)。会場の雑音もあまり拾っていないので、放送用にオーケストラの音を拾う形のマイクセッティングなのでしょう。また、両盤ともStereo表示がありますが、若干Stereoプレゼンスがある程度で、一般のスタジオ録音のような左右の定位はありません。どうも第2ヴァイオリンが右chから聞こえないので、通常クレンペラーが採用している両翼配置も良く分かりません。まさかオーケストラに敬意を表してストコフスキー配置となっているとは思えないのですが、まあ雰囲気程度のStereo感です。

 この頃のフィラデルフィアo.はオーマンディのもと全盛期であったでしょう。弦などは音質は悪いにもかかわらず、非常に良い音であることがわかります。そして実に機能的でパワーを感じさせます。昔来日時にこのオーケストラを聴いた時、いとも軽々とホールを埋め尽くす大きな音にびっくりさせたれた覚えがありますが(ムーティだったから?)、ここでも金管などはPO.にはない力強い音で開放的な鳴りです。
 クレンペラーの指揮はスタジオ録音と時期が近いのでほとんど同じような感じです。ただライヴであることと乾いた音質のせいで、音の重なりが明確ではなく見通しがよくありません。ライヴ特有の面白さがあるとはいえ、演奏の幅と深みという点ではスタジオ録音の方に歩があるように思えます。
 なお、終楽章に当たる部分はソナタ形式で書かれていますが、スタジオ録音と共にクレンペラーはこの提示部を繰り返していません。

 下の表のタイミングなのですが、実はCDに表記されているタイミングを少し加工してあります。EMIのCDとAS disc盤の3,4楽章は下の表とは違って実際は順にEMI盤6:27/6:29、AS disc盤6:30/6:40です。AS disc盤と同じ演奏だと思われるNavikiese盤の表示は5:28/7:45となっていたのでおかしいなと思っていたら、この続いて奏される楽章の間に打ち込まれているインデックスナンバーが違うところに入っていました。EMI盤とAS disc盤は終楽章序奏部Langsamの頭にではなく16小節後のLebhaftにインデックスが入っています。他の指揮者の演奏を4種くらい聴いてみますとどれもLangsam部分にインデックスが入っていますので比較するためにもここの部分を実測して加減しています。EMI盤で1:08位、AS disc盤の方は1:05位ですからこれを調整すると大体Navikiese盤と同じタイミングになります。

I II III IV Total 増減
PO.(60.5) 11:27 3:53 5:19 7:37 28:16 0 IV繰返し無
フィラデルフィアo.(62.10.27L) 10:55 4:00 5:25 7:45 28:05 -0:11 IV繰返し無
フルトヴェングラー/BPO.(53.5) 11:52 5:21 5:56 7:50 30:59 2:43 参考
(2) AS disc
  AS 533