Schubert:交響曲第8番ロ短調D.759「未完成」 (1) O.クレンペラー/ベルリン国立歌劇場o. 24 (Polydor 66339-41) Mono (2) O.クレンペラー/ブダペストso. 48.6.18L (Hun) Mono (3) O.クレンペラー/トリノRAIso. 56.12.17L Auditorium RAI, Turin Mono (4) O.クレンペラー/PO. 63.2.4,6 Kingsway Hall, London (EMI) Stereo (5) O.クレンペラー/バイエルンRso. 66.4.1L HerkulesSaal, Munich Stereo (6) O.クレンペラー/エルサレムso. 67.5.20L Mono (7) O.クレンペラー/VPO. 68.6.16L Musikvereinssaal, Vienna Stereo |
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(1) Archiphon ARC-121/25 ![]() |
![]() 第1楽章のタイミングは後年の録音より短いのですがこれは提示部の繰り返しがないためで(提示部は実測で3分ちょっと)、テンポはそう変わりません。第2楽章も、少なくともタイミング上では後年の演奏と比べても遅くはありません。同時期のBeethovenの8番と同様、この時期のクレンペラーはこれと言った特徴を見つけるのは難しいと思います。若干テンポの変化はありますが、極端なアコーギグが見られるわけでもなく現在の演奏と比べても時代を感じさせるような演奏ではありません。180小節からの速いパッセージで弦が乱れているのは愛嬌。 ![]() テンポは概ね速い。第1楽章は繰り返しを行っても尚12分ジャスト、第2楽章も9分半程に収まります。強い力感と激しいリズム−−ただしよく聴いてみると、単純に速いばかりではなく、音量の強弱とテンポの緩急は綿密に計算されています。例えば第2楽章のメロディはしっかり浮き立つように歌わせていますし、爆発前のデクレッシェンドではさりげなくテンポを緩めるなど、メリハリは付けています。この曲の深い抒情性には薄いのですが、興奮と沈滞が同居する熱い情念の世界を表出した特異な演奏と言えるでしょう。 ![]() この演奏の56年というのはクレンペラーがMozart、Beethoven、Brahmsといったレパートリーの中核とも言える曲をEMIに録音していた時期に当たります。スタジオ録音と比べるとテンポは若干速め、両楽章とも展開部に力点を置いたより推進力のある演奏。音の見通しが悪い録音とライヴというハンデを考慮しても、スタジオ録音の整然とした構成力とは違った印象を受けます。これはオーケストラの質と音が広がっていかないデッドな音質によるところも大きいのでしょう。録音そのものはこの時期のライヴとしてもそう極端に悪い方だとは思いませんが、初めのうちかなり頻繁に音がこもるような部分があり結構気になります。 ![]() ところで、私が演奏を聴きながら見ているのは全音のポケットスコアなのですが、これで見る限りクレンペラーはスコアにはない音を追加している部分があります。第1楽章の展開部後半、練習番号Dから弦が小刻みに2度上昇していった後のクライマックスの部分で付点リズムのティンパニが入るところがあります。184小節から186小節の1拍目まで、言葉で書くのは難しいのですが『タンタ、タンタ、タンタ|タンタ、タンタ、タンタ|タン』というリズムを刻み、同型で188小節から190小節と繰り返します。次に192小節から194小節ではティンパニを除いて各楽器は前2回と同じ音型で更に繰り返します。つまりここでオーケストラは3度同じ音型を繰り返すのですが、3度目はティンパニを抜いているのです。普通この部分を聴いていますと、それまで徐々に高められてきた緊張が何かしらフッと軽くなったような、少し見通しが良くなったような感覚があります。恐らくSchubertのオーケストレーションはそうした効果を狙っていたんじゃないかと思います。しかし、クレンペラーはこの3回目に前2回と同じティンパニを加えています。慌てて他の録音も調べてみると、ティンパニを追加しているのはこのスタジオ録音の他に、66年のバイエルンRso.との演奏、67年のエルサレムso.との演奏の3種(トリノRAIso.とVPO.は譜面通りなし)。しかもエルサレムso.では最後の音を連打しているようです。クレンペラー以外の演奏もいくつか聴いてみましたが何れもティンパニを追加したものはなく、これはクレンペラーが独自の解釈で追加したものだと思われます。 この曲でのクレンペラーの演奏方法は、ソナタ形式で書かれたそれぞれの楽章の展開部を演奏の頂点に持ってくるシンプルな解釈です。ほとんどロマン的な奏し方をしないクレンペラーにとっては構造的な対比がこの曲の解釈であって、このオーケストレーションの変更もそうしたことから派生したことだったのでしょう。大きな改変やカットをしたクレンペラーではありますがオーケストレーションの変更でこれほどあからさまにわかる例は珍しいのではないでしょうか(・・・気づいていないだけかもしれない?)。 私はCDを持っている演奏については最近LPを聴いていないのですが、久しぶりにLP盤を取りだして聴いてみると結構いい音がしています。art処理された最近のEMI盤については色々言われていますが、個人的には良い音だと思います。しかし比べてみると(あくまでこの曲だけに関して)LPの方が輪郭がシャープで、楽器の距離感と言えばよいのでしょうか、音が張り付いてしまわないで空間の中で定位しているように聞こえます。CDは若干角がとれ音が丸みを帯び、そして音の出が横に並んでいるような気がします。でも私が聴いているのは左のジャケットを見ていただければお解りのように高価なオリジナル盤でも何でもなく、LP末期の安物です。プレスはイギリスではなく、TeldecのDMM(Direct Metal Master)という技術を使ったドイツプレスで、このシリーズは物によっては片面に40分近くカッティングしたものもありました。この違いはCDのart処理によるものなのか、フォーマットの違いによるものなのか、アナログの場合カートリッジやRIAAイコライザーも相当音質を変えますので或いは機器のせいなのかも知れません。昔の(私もかつて随分お世話になった)国内廉価盤は論外ですが、EMIの独盤とも仏盤とも違った英盤のちょっとセンシティヴで先鋭な音の傾向をこの盤(この盤は(c)1985)も残していたようで、懐かしい気がしました。・・・余談でした。 ![]() この時の演奏についてクレンペラーは、「特に『未完成』は今までもこんなに上手く演奏出来たことはなかった」(L&T)とオーケストラ・マネージャーに書き送っているくらいですから、大変満足していたようです。 演奏はEMIへのスタジオ録音と基本的には同じですがオーケストラの違いから雰囲気は随分違っているように思われます。やはりバイエルンRso.の方が音楽の運びがしなやかでライヴにも関わらず音の鮮度が高くDレンジも広く感じられます。第1楽章の展開部中程、練習番号D(176小節)からの盛り上がりはスタジオ録音の厳しい響きに比べ余裕のある響き、しかし緩急の差はしっかりしていてクレンペラーにしては珍しいことですが音楽のふくらみを感じます。 第2楽章も落ち着いた足取りながら、音楽の細部まで気が配られた弾力のある美しい演奏。弱音でのバイエルンRso.はその表情といい音色といいとても美しく、録音のせいもありましょうが全体明るい音で、Schubertのロマン的な性格が実に良く出ています。テンポもスタジオ録音に比べて遅くはなく、きっちり組み立てられたクレンペラーの造型の中でこのオーケストラが十二分に歌っているといった風です。演奏の精度もライヴとしては驚異的に高く、縦の線もひょっとしたらスタジオ録音以上に揃っているかもしれません。VPO.との演奏とはタイプが違いますが、クレンペラー自身が言うように彼にとっては最大級の名演だと思います。 ![]() これは、97年11月23日NHK-FMで放送されたイスラエル放送協会提供の67年の演奏。拍手が入っているので、実際のコンサートを放送用に録音したものだと思われます。私にとって、クレンペラーのイスラエルでの演奏を聞けたのはこの時が初めてで、FMでクレンペラーの未聴の音源を聴けたということ自体、かつてロシアから返還されたフルトヴェングラーの音源を聴いたときと同じくらいの驚きでした。この放送を録音された方も沢山いらっしゃるでしょうからそのうちCD-Rで出るかも知れません。確か放送では月日までは説明がなかったと思いますが、L&Tによると演奏されたのは67年5月20日。同日は他にMozartの41番が演奏されました。エルサレムso.はHPも持っているオーケストラで、クレンペラーが振ったときは、まだ放送オーケストラであった頃だと思われますが(L&TではRadio Orchestra)、ここで放送されたオーケストラの名称は現在のものです。他にこのオーケストラとの演奏はCD-R盤で出ているMahlerの9番があり、表記はイスラエルso.となっているもののこれもこのオーケストラとの演奏です。 クレンペラーは戦後数回イスラエルに招かれ指揮していますが(指揮の仕事以外にも訪れてはいますが)、何れも相手はエルサレムso.でした。イスラエルpo.とは何度も指揮する話があったのですが様々な理由で結局実現はしなかったようです。 このオーケストラは一流とは言えません。技量の点でもそうなのですが、しなやかさ、繊細さという部分では幾分かの不満が残ります。しかし、上手いオーケストラの演奏から生まれる余裕はないにしろ、ここでのエルサレムso.は数日前に82才になったこの老巨匠の棒に反応しようとする頑張りは聴いていてもひしひしと伝わってきます。(実は同日続けて放送されたムラヴィンスキー/レニングラードpo.の同曲ライヴを通して聴いているのですが、その一糸乱れぬ統率されたオーケストラはすごいですね。ムラヴィンスキーの独特の解釈もまた非常に興味を惹かれます。) 一方、ここでのクレンペラーもスタジオ録音やバイエルンRso.との演奏のように強固な構成感を感じさせるスケールの大きい指揮とは少し違います。テンポは確かに晩年のものですが、全体的に意志的な演奏となっています。冒頭の沈み込むようなフレーズはクレンペラーとしてもかなり大きな音量でどちらかといえば情緒的な響き、テンポの収縮も結構見受けられます。一番目立つのが第1楽章の第2主題で、テンポを落としてじっくり演奏しています(再現部も同じ)。晩年の映像を見ると指揮席でのクレンペラーは存在感はあるものの淡々と棒を振っているのですが、ここではかなり意識的にオーケストラを引張っている様子が窺われます。同じライヴと言ってもバイエルンRso.やVPO.とは違った感情の大きな起伏を感じさせる表現が見られ、興味深いですね。やはりユダヤの血からくる思い入れみたいなものがあるんでしょうか。 尚、この演奏では第1楽章の繰り返しを行っていません。クレンペラーはベルリン国立歌劇場o.とのSP録音を除いて繰り返しを行っているので或いは放送の時間枠にあわせたためでしょうか。 ![]() 第1楽章のチェロとコントラバスで始まるうごめくような深いパッセージは上記の2つの正規盤に比べても重々しく、その後のヴァイオリンの刻みもしっかりと弾いていて、スコアを見ていても16分音符を一音一音追っていけるくらい遅い演奏。この冒頭部分だけを取り出してみれば他にも同じくらいのテンポで演奏している指揮者はいますが、もう少し滑らかに流れます。クレンペラー晩年の演奏ではこうした刻みのパッセージを恐ろしく真面目に演奏するのが特徴でもあるのですが、これがテンポを遅くとっているためなのか、一音一音きっちり弾かせるためにテンポが遅くなるのか。結果的にはどちらでも似たようなものなのでしょうが、例えばライヴで他のオーケストラを振ったときでもこうしたパッセージの扱いは全体のテンポに関わらず同じであるところを見るとむしろ後者によることではなかったかと思います。色々聴いていますと、クレンペラーはインテンポを基調にして音符そのものの奏法についてもかなり厳格です。スラーがかかった音符、スタカートの指定の音符などは文字通り楽譜に忠実に演奏していて、旋律的な部分でも悪く言えば融通の利かないところがあります。 第1楽章展開部への入りの深い音からヴァイオリンの情動的な高音、恐ろしく長く感じられる静寂を経て決然とした上昇音階からの高揚感、このあたりの演奏ははどの盤より迫力があります。再現部は再び穏やかな雰囲気が戻りますがここでの落差というか対照が素晴らしく、続くコーダとの対比も感動的です。第2楽章もこの曲のもつ躁鬱的な(?)強弱と明暗交替が明快に表現されていて非常にスケールの大きい演奏。 VPO.の方はゆっくりとしたテンポにもかかわらず、旋律やパッセージが浮き立つって隈取りがしっかりついています。1楽章チェロの第2主題も殊更感情を表出した弾き方ではないのに(クレンペラーがそれを要求していない)独特の呼吸感を持っていて感心します。トゥッティでも音量だけに任せず、全ての楽器のブレンドした美しさ。ひとつひとつの音の重量感はありますけれど決して重くならないですし、クレンペラーのような遅めのテンポでは普通だれてしまうようなところでも抑揚のある歌い方をします。こうしたウィーン風の歌い方、独特のフレージングの巧さはPO.との演奏では全く望み得ないもので(PO.が悪いわけではないのですが)、VPO.というオーケストラだからできた演奏といえます。 勿論、この名演が全てVPO.に帰すものではなく、スタジオ録音でも見られる強固な音楽の枠組みがあってのもので、この中でVPO.の特徴が十全に生かされた結果でしょう。この盤にカップリングされているBeethovenの5番と共に数多いクレンペラーの演奏の中でも最も聴き応えのある演奏です。 録音は会場のノイズやテープのサーフェイス・ノイズも不用意にカットせずしっかり入っている分、演奏会の臨場感を生々しく伝えていて素晴らしいと思います。
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(2) Hungaroton LPX 12379(洪LP) ![]() |
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(3) Cetra LAR 37(伊LP) ![]() |
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(4) EMI 5 67338 2 EMI TOCE9760-61(国) EMI ED29 04601(英LP)
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(5) EMI 5 66868 2 Hunt CD 701 Arkadia CDGI701.2
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(6) Virtuoso 94001 ![]() |
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(7) DG 435 327-2 ![]() |
Schubert:交響曲第9番ハ長調D.944「ザ・グレイト」 O.クレンペラー/PO. 60.11.16-19 Kingsway Hall, London (EMI) Stereo |
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EMI 5 67338 2 EMI TOCE9760-61(国) A EAC-40066(国LP)
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![]() 主題は明らかに構成的要素とはなりにくいように思います。このテーマはBeethoven的なテーマの発展がそのまま構成要素となるのとは明らかに違い、歌謡的でありすぎて、展開しにくいところがあります。ですから、Schubertの場合、テーマが表面的に変化しても内実はとんど変わらずに回帰します。そこには、Beethovenの動的発展から−必然的に感じ取られる−最終目標を持っていないかのように見え、ただ形を維持するための交響曲形式の中で作曲家の音楽が流れていくだけ。言ってみればSchubertにおいては、音楽がそれ自体何か終結点を見出して生成発展していくものではなく、その変化の過程が如何に構造に織り込まれているかという点を強く感じさせます。そしてSchumannが発した上述の言葉が端的に表しているように、そこにはBeethovenとは違った「長さ」があるのです(それは又Schumannとも違う「長さ」であったでしょう)。音楽史の上では、SchönbergがSchubertに見出した特質(確か吉田秀和氏もどこかで書いていた気がします)が後の作曲家に与えた影響は大きかったのかもしれません。歌の才能の後継者はそう多くなかったのでしょうが、Schubertの音楽構造という点では奇しくも最もロマン的な要素を備えていたと言えます。 それにしても、Schubertのこの曲は驚くべきものです。傑作?確かに傑作であるでしょう。それも大傑作。しかし曲の評価とは別に、Schubertが例えば2楽章ともソナタ形式の劇的な「未完成」を書く一方でこの大ハ長調のようなロマン性と歌謡性が様式感を超えてしまったような曲を書いたことに非常な驚きを感じます。おそらくSchubertという人は、交響曲に限らず室内楽でもピアノ・ソナタでも楽曲の様式感ということに気を配っていたと思います。にもかかわらずこれらの曲から聴かれるのは様式のバランスを危うくするような彼自身の音楽性なのです。これは天才性というようなことではなくて、一種音楽的純粋性と言えるものではないでしょうか。 ![]() それにしても、クレンペラーのSchubertには「未完成」が沢山ある割には他の曲の録音が少なくて、特にこの曲はもう少し録音があっても不思議ではないようなもののひとつですが、意外なことにクレンペラーはこの曲を得意としていなかったようで、この録音があるもののStereo期になってからは全く演奏しなかったようです。また、実際プログラムに載せていても変更したことさえあるそうです。L&Tによると戦前は何度か指揮した記録はありますが何れも芳しい評価ではなかったようです。『未完成』とは違って演奏会場でこの長い曲をロマンティックな要素を排して何の綾もなしに演奏するのは、聞き手のこの曲に対する期待を裏切ることになるかもしれませんね。一般聴衆の反応もトートと同様で、やはりSchubertでは歌うところは歌って欲しいというのがあったのではないでしょうか。このあたりのことをクレンペラーもわきまえていて、自分の芸風にそぐわない曲として自信を持てなかった(嫌がっていた)ようです。 聞き始めると、この曲やはり長い・・・。単に音楽に身を任せてしまえばそうでもないんですが、こんな駄文でも何か書こうとして慣れない聴き方をしているから特別なんでしょうね。クレンペラーの演奏を他の指揮者のものと比べてみると速くはないのですがそう遅いほうでもないようです。手持ちの録音10種位のデータをとってみると面白いことに同じMahler門下とはいえかなり演奏スタイルの異なるワルターの演奏とほとんどタイミングが一緒でした。トータル・タイミングもそうですが各楽章のタイミングも驚くほどよく似ています。このタイミング表示は盤によってかなり誤差がありますから(私の盤はLP)一概には言えませんし、これは偶然でしょうけれど面白いですね。 さて、ここで聴ける演奏はクレンペラー自身得意ではない曲と言っている割にはしっかりしたもので、次々に出てくる旋律線に耳が心地よい演奏とは違うものの非常に端正な作りになっています。この時期のクレンペラーの演奏らしく、緊張感の強さ、テンポもしっかりした演奏です。 しかし、この時期のクレンペラーに見られる厳しい造形と内面への掘り下げはこの曲の場合少しばかり薄いかな、という気はします。とは言ってもこの曲の場合、そうしたアプローチが有効なのか、という疑問もあります。『未完成』の所でも書きましたがクレンペラーはSchubertを古典的枠組みの中で捉えていたように感じます。ですから、細部のニュアンスを積み重ねることによるダイナミクスと大きな情感の波を表現するにはクレンペラーの演奏方法は少々質実剛健に過ぎるのかも知れません。その辺もクレンペラー自身自覚していたのでしょうか。 他の演奏もいくつか聴き比べた中では、セルの晩年の演奏であるEMI盤が気力もオーケストラの鳴りも充実していました。恐らくSchubertの歌の美点を考慮しながらも確固たる造形をを求めればこうした演奏になるでしょう。
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