Mozart:アダージョとフーガ ハ短調K.546

O.クレンペラー/PO.
56.3.27 Abbey Road Studio, London (EMI) Stereo
EMI
5 67331 2

A
EAC-40044(国LP)

フーガは元々1783年12月に作曲された2台のクラヴィーアのための曲(K.426)で、丁度MozartがBachやHändelに傾倒していた時期の産物。後にアダージョを加え弦楽合奏としたものがこの曲です(フーガの一部にバスが2部に書かれている部分があって、それ故合奏用であると推定されている)。この時Mozartは2人の奏者の左右の音符をそれぞれ第1ヴァイオリン、ヴィオラと第2ヴァイオリン、チェロ(コントラバスも)に振り分けました。編曲の完成は1788年6月26日、つまり交響曲39番の完成と同日。
 この弦楽合奏版がどういった目的のために作曲されたか詳しくはわからないようですが、私的な演奏会のためであったようです。それにしてもこのような厳しい音楽がどのような機会に似合うのでしょうか。聴く側もどんな反応だったんでしょうか。Mozartのことですから神妙になった客を見て喜んでいたかも知れませんね。
 原曲を聴くと穏やかな音楽に聞こえます。2人の掛け合いと、音の絡み合いが面白いのですが、ピアノの音色もあって弦楽版に比してそれ程深刻な雰囲気はありません。
 一方弦楽合奏版は、付け加えられたアダージョから非常に重い荘重な雰囲気を持っており、これを前奏曲として使うことによって続くフーガをより劇的な音楽にしています。特にフーガの不協和に響く部分はピアノより弦楽で効果的でしょう。

 私がクレンペラーの演奏を初めて買ったのは左の38番、39番の国内廉価盤で、この余白に入っていたのがこの曲でした。特に大好きな38番の後にこの曲が入っていましたから、途中で針を上げることもなく半面聴き通すと必然的にこの曲も聴くことになります。と言うわけで、恐らく「プラハ」とともに最も数多く聴いたクレンペラーのMozartではなかったかと思います。
 私にとってこの曲の初めての体験がこの盤でしたので、正直、Mozartにもこれほど恐ろしく響く曲があったのかとびっくりしました。Beethovenの大フーガと比べてもその直截に響いてくる生々しさは別格で、深淵の傍らに立つ危うさみたいなものに圧倒されたことを思い出します。

 手元にあるこの曲をいくつか聴き比べてみましたが、何れもクレンペラーのような息詰まるような迫力はありません。PhilipsのMozart全集にはP.シュライアーがドレスデン・シュターツカペレを指揮した演奏が収められていますが、これは完全に今日の古楽器演奏スタイルで、音を短く切りアクセントを効かせた演奏。G.テイト/ECO.はクレンペラーと同じAbbey Road Studioで録音された演奏ですが、丁寧に対位法的ラインを浮かび上がらせようとしたやや暖かみを感じさせるもの(EMI)、S.ヴェーグが晩年にMozartを振った演奏(カメラータ・ザルツブルグ Capriccio)は太い筆致ながら非常に豊な表情を持った演奏。個人的にはMozartへの愛情の感じられるヴェーグの演奏は好きです。
 これに比べ、クレンペラーの演奏は、とにかく言いようがないくらい厳しい。クレンペラーの方がオーケストラの規模が大きいのですが、そのことを差し引いても尚ここに聞かれる演奏は全く印象が違います。もうアダージョの第1音から押しつぶされそうな重い音。そして曲が進むにつれ、何もかも一様な色彩に塗り込まれていく世界。
 フーガも又非常に緊張感が強い。この部分が始まってすぐに、キーという恐らく弦が指板を滑った時に出てしまった音がしますが、私は長く聴いてきたせいか、この音まで演奏の緊張感の一部をなしているように聞こえるほどです。こうしたことを書くと的はずれで失笑を買うかも知れませんが、フーガでの持続する緊張感と混沌としながら強い意志を感じさせる響きからは、まるでSchönbergの「浄夜」に似た響きさえ聴かれるように感じます。

 クレンペラーの演奏が特に緊張感を生んでいるのは、低弦の勢いとぶつかり合う不協和音の生々しい表現にあるのではないでしょうか。ここには優美なMozartはその片鱗さえありません。強いけれど表情のない平板な音は、一方で積み重なる声部を表現するには好都合でしょう。またバスが常に底流を支える様は、この曲のオルガン版演奏を聴いてみると実に似通ったスタイルであることに気づきます。これはMozartと言うよりBach的な(勿論クレンペラーなりの)世界ですね。クレンペラーの隠れた名演だと思います。

masonic

Mozart:フリーメイスンのための葬送音楽ハ短調K.477(479a)

(1) O.クレンペラー/NPO.
  64.11.14 Abbey Road Studio, London (EMI) Stereo

(2) O.クレンペラー/VPO.
  68.6.9L Musikvereinssaal, Vienna
(1) EMI
  CDM7 63619 2
  A
  EAC-40045(国LP)


(1) Mozartがフリーメイスン「Zur Wohltatigkeit」に入ったのは1784年で、翌年、2人の有力フリーメイスンの葬儀のために書かれたのがこの曲でした。解説本を読むとこの曲の編成は若干変わっていて、弦とオーボエ、クラリネット、ホルンに加え、バセットホルンが3にコントラ・ファゴット(?)となっています。バセットホルンと言えば、アダージョK.411(484a)とかディヴェルティメントK.Anh.229(439b)がやはり3本のバセットホルンを使った曲であり、近親性を窺わせますが、前者はこの曲と同じくフリーメイスンのA.ダーヴィトとV.シュプリンガーという奏者のために書かれたと推測され、これもフリーメイスンとの関わりから作曲されたようです。
 このクラリネット属のバセットホルンという楽器は、1770年頃マイアーホーファーによって考案されたということですから、Mozartの時代はまだ新しい楽器でした。Harmonia Mundi Franceから出ていたニュー・ワールド・バセット・ホルン・トリオが録音したK.Anh.229は、Mozartの時代に近いと思われる、折れ曲がったクラリネットの胴の先に箱が付いていてここからラッパが出ている形の楽器が使われており(ライナーによると1本はオリジナルで2本が複製)、音域の低さと馴染みの薄さからか、クラリネットよりも古雅な音色に聞こえます。後年書かれたクラリネット協奏曲もはじめはバセットホルンのために着想された曲だったようで(協奏曲断章K.621bがその原型か)、この曲が書かれたクラリネット奏者アントン・シュタードラーのトリオもこのCDに収められています。Mozartのような才気には乏しいもののおっとりとした牧歌的雰囲気が和やかな気分にさせてくれます。           
 ところでこのシュタードラーもフリーメイスンでした。こうして見ていくと、Mozartのこの種の楽器への趣向はフリーメイスンと密接に関係していたようです。

 クレンペラーの演奏ははじめから木管の出方が非常に印象的。弦とのバランスもかなり特異。中間部で木管が一斉に鳴って、弦が特徴のあるフレーズを繰り返す部分などは、木管が響きの裏打ちみたいに後ろで鳴っているのが普通ですが、この演奏で聴くと、木管の流れが主でそこに弦が加わってくるといった感じです。録音自体新しいものではありませんが、全ての音が漏れなく聞こえ、そして鄙びた雰囲気を帯びています。一聴すると、響きが全然整理されていなくて、全ての音が渾然と押し寄せてくるように聞こえます。少々うるさく聞こえるかも知れません。しかし、クレンペラーの意図は木管−−このかなり特殊な編成−−の響きを明確にしてみせることで、荘厳で厳粛な気分ではなく、質素で慎ましやかな音楽を作りたかったのでしょう。勿論、こうした木管の強調はこの時期のクレンペラーのスタイルであったわけですが、ここではそれが実に上手く作用していると思います。丁度木管だけの編成によるセレナードの演奏の延長にあたると言えるでしょう。クレンペラーは「レクイエム」を残していませんが、もし演奏したとしたらこんな感じのかなり変わった演奏だったでしょうね。

(2) 「クレンペラーとの会話」にあるようにR.ケネディの死を悼んで演奏されたもの。VPO.とのMahler9番の演奏会でのことで、クレンペラーはこのことについて次のように話しています。

 ひとつお話ししなければなりません。わたしがマーラーの第9を指揮することになっていたコンサートの直前に、ロバート・ケネディ上院議員が暗殺されたので(68.6.6)、わたしはモーツァルトの『フリーメーソンのための葬送音楽』でそのコンサートをはじめようと言いました。すると、オーケストラ運営委員会がロッテに話に来ました。なにか都合の悪いことがあると、連中は必ずロッテのところへ言ってきて、けっしてわたしのところへは来ません。「『フリーメーソンのための葬送音楽』を演奏するというこの決定は誰がしたのですか。」と連中がたずねました。
「父ですわ。」
「しかしですね、いいですか、これは政治的なことなのです。」
「政治的ですって?」
 それでわたしは、この曲は暗殺された上院議員の追悼のために、指揮者の特別な希望により演奏される、という告知をプログラムに入れさせました。すると音楽協会の理事ガムスイェーガーが、「ちょっと、プログラムのなかのこの《暗殺された》という言葉はまったく見苦しいね。《追悼》とだけ書くことはできないだろうか」と言い、わたしは同意しました。
 (「クレンペラーとの対話」)

 録音のせいもあるでしょうが、スタジオ録音に比べると木管があまり表に出てこない低音の厚い響きです。テンポもやや遅い。確かに晩年の重厚な響き、と言えばそうかも知れませんが、もう少し良い音でなければクレンペラーらしさが聞き取れないといったところでしょうか。

NPO.(64.11) 5:23
VPO.(68.6.9L) 6:00
(2) Arkadia
  CDHP578.2

S6

Mozart:セレナード第6番ニ長調K.239「セレナータ・ノットゥルナ」

(1) O.クレンペラー/ベルリンRIASso.
  50.12.22L Jesus Christus-Kirche, Berlin Mono

(2) O.クレンペラー/PO.
  56.3.25 Abbey Road Studio, London (EMI) Mono/Stereo
(1) Arkadia
  CDHP572.1
  Arkadia
  CDGI 729.1
  Sarpe
  CD-7008

  Archipel
  ARPCD0017-1
(1) この曲は弦とティンパニという編成で木管を含みません。Mozartのセレナードではこうした編成はこの曲だけで、例えば13番の弦楽合奏にティンパニを加えたといった形ですが、複数のソロを持ち(ソロはヴァイオリン2,ヴィオラ、そしてコントラバス(ヴィオローネ))これに弦楽4部が組み合わされるという現在から見ると一風変わった構成で、言わば合奏協奏曲のような構成になっています。楽章も3つしかなく、第1楽章はソナタ形式で書かれた行進曲、第2楽章はメヌエット、第3楽章ロンド。多楽章であることが普通のセレナードにあって3つの楽章だけというのは作曲の時点で何かしらの理由があったのでしょう。また、前後に行進曲が組み合わされるセレナードがありますが、ここではそれが第1楽章に組み込まれているところを見ると、形式的に行進曲を残しながらも入退場が必要のない機会のために作曲されたことが分かります。

 この演奏はArkadia盤CDHP572.1に収められているようにベルリンRIASso.との放送用録音のひとつ。全く会場の雑音はなく、少しこもった音でレンジが狭いですが同じ交響曲3曲と同様この時期としてはそれほど悪くない録音です。Arkadia盤は2種持っていますが、恐らくソースは一緒だと思いますが音は微妙に違っていて、CDGI 729.1の方が幾分抜けの良い音に聞こえます。
 演奏は曲自体プレストのような特に速い楽章があるわけでもないのでこの時期のクレンペラーとしては特別力が入ったところもなく、割に淡々と流れる音楽です。後のEMI録音と比べても第1楽章のリピートの関係でタイミングこそ変わっているもののほとんど変わらない解釈といえます。同じ日に録音された交響曲の一部でも言えることですが、ここでのクレンペラーは舞台での演奏とは幾分趣が違って、スタジオ録音のように少しかしこまっている部分が見受けられます。ライヴでは又違った表情だったかも知れません。

(2) クレンペラーはMozartのセレナードを何曲か録音していますが、木管のための曲を除くと、この曲と13番しか残していません。規模の大きい「ハフナー・セレナード」や「ポスト・ホルン・セレナード」、ディヴェルティメント15、17番あたりは録音を残しませんでしたし、演奏もしていなかったようです。

 この曲にはMonoとStereoがあり、EMI盤はMono、Testament盤はStereoで同一録音です。
 L&Tによればこの曲は最晩年(引退後72年9月頃)、「後宮からの逃走」の録音がだめになったときその代わりに再録音する計画(他にBeethovenの大フーガとBrahmsのハイドン変奏曲)があったそうで、クレンペラーもはじめその気があったようですが、結局実現しませんでした。EMIはクレンペラーにそれほど負担がかからない、そして以前の録音が何れもMono期からStereo期にかけての古い録音しか残っていない曲目を提案したようです。このうちBrahmsは完全にMono期の54年の録音、BeethovenはEMIではStereoでリリースされていますが、時期からいうとこの録音と同じセッションで録音された物です(セレナータ・ノットゥルナは56.3.25、同日13番、大フーガは翌日からの56.3.26-27)。Grayのディスコグラフィによると「大フーガ」の方もMonoテープから疑似ステレオ(artificial stereo from mono tape)で出たことがあるそうですから、丁度この時期の録音は物によってMono/Stereoの2種のテープが存在しているようです。
 Testament盤のリーフレットには次のようにあります。

 この頃までにはEMIは試験的にステレオレコーディングを行っていた。しかしメインプロダクションはモノであり、必ずしも全ての演奏がステレオで録音されたものではなかった。ステレオ録音は別の部屋で行われ、それはメインのレコーディングが行われているときに新しい機器が使えるかも知れないということでたまたま行われたことだった。この2つのセレナーデ(この録音と13番)にはステレオがあるが、13番は初めステレオ盤のみリリースされ1年後にモノ盤も出された。6番のステレオバージョンは初めて陽の目を見るもので、テスタメントのこの新しいリリースで初めて聞かれるものだ。交響曲38,39番は僅かに後の録音だが(56年7月、10月)、これにはモノ録音しか存在しない。

 これを読むと、EMIはMonoのテープを使ってマスターを作り(オリジナルのテープまで遡らない限り、通常編集したマスターから起こすのが普通ですから)その後リリースを続けているのでしょう。一方TestamentはこのStereo収録のテープを掘り起こしてきてリリースしたものと思われます。

 音はRIASso.に比べ遙かに良く、EMIのMono盤でさえ、演奏そのものは余り変化がないにも関わらず響きが豊かで音の空間を感じさせます。StereoのTestament盤は音楽の前に僅かなテープのヒスノイズが聞こえますが、更に広がりと細部の音の絡み合いが明瞭になります。ここではTestament盤のStereoの効果がはっきり表れていると言ってよいでしょう。音質もEMIのちょっと神経質な、クレンペラーの激しい気質が窺われる録音より幾分ゆったりとしていて、幾らか整えられた音質という気がしないでもないのですが、スケールが大きくなった雰囲気さえあります。
 同じ録音とは承知しているものの、こうした録音技術上の問題に私のような聞き手は結構左右されます。「スケール」と言うような言葉が、録音の面から感じられる要素に影響されていないとは限りませんから、なかなか難しいものです。良い録音で初めて真価が分かる演奏もあるわけですから自戒しなければならない点が多々ありますね。
 
 Testament盤を主に聞きましたが、この頃のPO.のリズムと音楽性が素晴らしい。後年のこのオーケストラより若干細身の響きながら精緻な合奏力とフットワークの良さがあります。中でもソロの上品な弾き方、ディスコグラフィによるとM.パリキアンのヴァイオリンが何とも言えぬ味わいで、聞き惚れていました。特別上手くとか楽しくとか言うわけではないのですが音に品があってこうした音楽にはすごく似合っています(ソロは、M.Parikian、D.Wise(vn)H.Downes(va)J.E.Merrett(cb)の4人)。クレンペラーの指揮はこの4本のソロを有る程度自由に弾かせながらリズムの要所を押さえていくやり方で、クレンペラーらしいきっちりとした演奏です。

I II III Total 増減
ベルリンRIASso.(50.12.22L) 3:02 3:25 5:01 11:28 -1:25 Arkadia
PO.(56.3) 4:30 3:21 5:02 12:53 0 EMI
(2) EMI
  CDM 7 64146 2
  Testament
  SBT1094