Mozart:交響曲第40番ト短調K.550

(1) O.クレンペラー/PO.
  56.7.19,21-24 Kingsway Hall, London (EMI) Stereo

(2) O.クレンペラー/PO.
  62.3.8,28 Kingsway Hall, London (EMI) Stereo

(3) O.クレンペラー/北ドイツRso.
  66.5.3L
 Hamburg Mono
(4) O.クレンペラー/NPO.
  70.11.8L 
Royal Festival Hall, London Mono

 〜第4楽章1-124小節リハーサル
ストックホルムpo.
65.5.11L Stockholm Concert Hall (BIS) Mono

(1)はEMI録音にもかかわらず「クレンペラーとの対話」の旧版ディスコグラフィには記載がなかった。
(4)は「指揮者の本懐」巻末Discoによれば70.9.8L、L&Tには70.11.8L。Arkadia盤には70.10.8Lと表記されている。
この他にPASSION & CONCENTRATION PACO1009(CD-R)でRIASso.との57.5(?)ライヴが出ている。
(1) EMI
  CMS 7 63272 2
  A
  EAC-40049(国LP)

(1) 一般に市販されている音源は62年録音ではなく56年録音の方です。クレンペラー56年の録音としては驚くほど穏やかな演奏です。
 この曲については、少しお年の方は小林秀雄の「モオツアルト」にある「疾走する悲しみ」みたいな文学的表現の影響も少なからずあったと思います。また、この曲には昔から名盤と言われた演奏がいくつもありました。人によってはフルトヴェングラーであったり或いはワルターのいくつかの録音のどれかであったりしました。私はこの曲をやはりワルターで初め聴きました。コロンビアso.のStereo盤とNYPのMono盤のうち後者が数段良いという人からの薦めもあってMono盤で聴いていました。後にStereo盤も買いましたが(共にLP)、今でもNYP.の方が引き締まった清楚な演奏で好きです。当時ワルターのMozartは今より遙かに評価が高かったように思います。第1楽章の有名なルフト・パウゼの鮮やかさは今聴いても感激します。こうした間の取り方はその長短に関わらず随分印象的なことがあります。私にとっては他にトスカニーニの「ウィリアム・テル」序曲の演奏。半ばで冒頭の刻みに戻るところがありますが、その直前の瞬間的な間、これが絶妙で聞き手が期待する一呼吸より僅かに短いのが、逆に効果的で印象深いものがあります。
 ワルターの演奏は今考えると、ロココ的な演奏というのではなくむしろロマン的な解釈がその基盤にあったのかなという気がしますが、これはその後のピリオド楽器での演奏に違和感を覚えなくなった聞き手の変化の方に原因があるのかも知れません。ただコロンビアso.とのStereo盤は当時から低域をブーストしたような録音(チェロパートなどは人数を数えられるくらい少ない人数だと思われるのに異様に音は大きかった)はちょっとやりすぎかとは思いましたが。
 現在はともかく、昔はMozartに関してクレンペラーの評価は芳しくありませんでした。特にこの40番は繊細な曲の雰囲気がクレンペラーの演奏様式と相容れないと感じられていて(という私もそうなのですが)言及されることすら少なかったように思います。
 この演奏は思ったほど愛想のない四角四面の演奏ではなくて意外に端正な古典的演奏であることに驚かされます。少なくとも私にとってはワルターの演奏の印象が変わったのと相対してクレンペラーの演奏の受容の仕方が変化してきたようです。

 全体に感傷的な気配はなく、又重い演奏でもありません。元々クレンペラーは低域を強調するタイプの演奏家ではなく、どっしりとしたピラミッド型の音響を指向してはいませんでした。「重い」と感じるのは旋律線を浮かび上がらせるようなホモフォニックな演奏を恣意的に遠ざけていたことと、特に後年のテンポの遅さによるもので、この時代のクレンペラーは重厚さよりむしろ明晰さを重視していたように思います。
 この演奏は軽やかではないにしろ、非常に均整のとれたバランスと全曲を通して維持されている張りつめた緊張感を感じさせます。また対位法的な横の線が音響に紛れることなく非常に素直に聞き手に伝わってくるという点で非常に優れた演奏のひとつです。終楽章は押し出しが強く、途中から若干テンポを上げて強靱な音楽にまとめ上げています。あくまでもインテンポを守りつつ次第に熱気を孕んでいくようなこの演奏は、フルトヴェングラーのようにアッチェランドで追い込むような熱狂的な曲作りとは正反対でありながら非常に効果的です。なお終楽章でのテンポの加速はクレンペラーとしては珍しいことのように思えますが、50年代のクレンペラーの演奏では他の曲でもよく見られることで、ここでもその名残を留めています。

(2) この演奏はデータの上で上記の録音と混乱しています。上に書きましたとおり一般にクレンペラーの40番といえば56年のスタジオ録音を指します。
 私がクレンペラーを聞き始めた頃(70年代後半)は、ディスコグラフィというのが「クレンペラーとの対話」(当然旧の方。この本は76年発行。)の巻末の表しかなく、買い集める演奏はこれを頼るしかありませんでした。しかし、このディスコグラフィは完全ではなく、正規スタジオ録音でも抜けているものがいくつもあり、この40番も1種のみの記載しかありませんでした。それは62年盤の方で、56年録音は記載がありません。当初私はこのディスコグラフィしか参照するものがなかったので、40番の演奏は62年盤だけが存在すると考えていましたから、少しばかり訝りながらもLPの56年という表記は誤りだろうと考えていました。その後、レコ芸でディスコグラフィが連載され始め56年録音と62年録音があることを知ったのですが、ここでまた混乱することになりました。このレコ芸ディスコグラフィでは当初、国内盤で出たCDのCC33 3795は62年録音と記載されていました(これは何月か後に訂正削除されたましたが)。そして更に悪いことにその後発売されたクレンペラーの国内盤は、レコード・イヤー・ブックなどでも56年盤を62年の誤り、としていました。これは恐らく後の訂正削除を確認できずにレコ芸ディスコグラフィ本文の間違った記述をそのまま参照したことによる誤記です。
 この62年録音は、「指揮者の本懐」及びL&Tのディスコグラフィを見る限り、少なくともこの2冊のディスコグラフィ作成時点ではCD化されていません。現在でもCD化されていないようですからこの演奏を聴くには未だLPしかない状況です。(この件についてはSyuzo's PageのSyuzoさんも全く同じ経緯を書かれています。恐らくクレンペラー・ファンの方にはこの62年録音を探していた方も多いのではないでしょうか。)
 この40番新録音がCD化されていないのは56年録音がStereoであることが原因です。ただこの演奏が56年7月録音で当初からStereoであるというのは、例えば38番、39番のTestament盤Monoとは時期的に重なっているので、ちょっと不自然に思えます。一連のStereoへの録り直しは、56年盤がMono録音だったので62年にStereoで録り直した、というのが一番考えられる理由でしょうけれど、Beethoven7番の55年録音盤がStereoとMonoの両方の録音が残されていることから、これと同様に2種のテープが存在し、採用された録音がたまたまそのStereo盤の方であった、ということかも知れません。しかしどうしてEMIはCD化の際新しい方の62年盤を使っていないのでしょうか。EMIでリリースする予定がないのであれば、TestamentあたりでもCD化されれば嬉しいですね。
 尚、クレンペラーのEMIへの録音はほとんどCD化されていますが、録音が2種あるものについては、古い方の録音がCD化されていない場合と、逆に新しい方の録音がCD化されていない場合があります。前者は例えばBeethovenの「フィデリオ」序曲と序曲「献堂式」のMono録音等はCD化されていないようです(2000.11.1現在)。

 左のLPは中古で購入した盤です。ジャケット裏には63年にリリースされたレコーディングとあり、L&Tのディスコグラフィにも62年盤として載っています。このLPにはタイミングの表示がありませんので実測したところ(前後の余裕をとっていませんので若干のずれがあるでしょうが)、第1楽章を除いては56年盤とほとんど変わっていません。そして第1楽章は何と56年盤にあった繰り返しがないので、3分以上短くなっています。まるで56年盤から第1楽章の繰り返しをカットしたたけ、といったタイミングです。同じように56年と62年の2種のスタジオ録音された38番や39番を見ますと、確かに後年の演奏時間が若干伸びているもののそれほど大きく変わっていることはないようです。面白いのは38番もやはり新録音の方に旧盤で行っていた繰り返しがありません。これを整理して考えると、スタジオ録音では楽章の違いはあっても一般に後年の録音では繰り返しが省略されていることが多くなっているようです。

 この演奏でも一貫して緊張感の強く、立派な演奏です。しかし上にも書いたとおり第1楽章の繰り返しが省略されていて、この楽章の印象が希薄になるのは否めません。これはクレンペラーの本意ではなかったのかも知れませんが、バランス的には繰り返しをして欲しかったところです。
 解釈そのものは56年盤とほとんど変わっていないと言って良いでしょう。演奏は56年盤の颯爽とした勢いは若干後退しているかな、という感じはしますがこれは聴き比べないと分からないくらいの差です。旧盤はレガートがかかったような滑らかな旋律線と強い集中力でダイナミクスのコントラストで聴かせる演奏とすれば、この新盤の方は一音一音しっかりとした粒立ちで奏されていて、音楽の深い陰影を浮き立たせる演奏と言えます。終楽章では56年盤の方が確かに推進力が勝っていて、独特の高揚感があります。この辺は好みの問題で、例えば41番でもMono期の録音の方が良いという人であれば、40番でも56年盤を取ることでしょう。ただこの曲で言うとその差はずっと少ない。Mozartのポピュラーな曲についてはクレンペラーの演奏方法はほとんど50年代から変化がなかったとも言えます。

 録音については、低域の量感が今ひとつ足りないような印象です。楽器の分離はこちらの方が良く音の動きが明瞭であるものの、再生装置の関係からか中域が全面に出てくる感じです。と言っても最近LPを聴く機会はあまり多くはないので、これは単にフォーマットの違いによる印象の差かも知れません。

(3) 追加
 Music & Arts からリリースされた66年5月3日の演奏。放送オーケストラでも、ベルリンRIASso.、ケルン(西ドイツ)Rso.、バイエルンRso.との録音はありましたが、北ドイツRso.(NDR)との演奏が出たのは初めてかと思います。
 この年の前半、クレンペラーはドイツのオーケストラを精力的に振っており、まず3月にケルンRso.とBeethoven(3月17日)、その後、EMIから正規盤でリリースされている4月1日のバイエルンRso.との演奏(Schubert8番、Bruckner4番)、4月25日にハンブルクに入り、そこでの唯1回のコンサートがここに収められている演奏。この後クレンペラーはベルリンでBPO.との演奏を行い、5月半ばにチューリヒに戻っています。
 クレンペラーは4才の時ブレスラウからハンブルクに移り、音楽の勉強のためフランクフルトに移る16才までこの街で暮らしていました。彼の記憶に残る街角に見たMahlerの姿もこの街でのことでした。1910年から3年間は市立劇場の楽長でもあった土地です。いくつかの思い出したくない記憶もありはしましたが、この時のクレンペラーは大変懐かしがっていて上機嫌だったようです。街を巡り、古い友人と会い、たった1回のコンサートにも関わらず2週間もここに滞在しました。

 そうした気分の高揚もあったのでしょうか、これはクレンペラーの40番の中でもライヴらしい気迫が感じられる演奏。タイミングだけで言うと62年盤に比べても、繰り返しのない1楽章は別にしてテンポはそう変わりませんし、56年盤とも大きくは変わりません。この頃はスタジオ録音などで聞かれる演奏でも、かなり遅くなっているのですが、ここでの演奏はそう極端な遅さを感じさせません。ただ、演奏そのものは流石に最晩年のものだけあって重い。第1楽章からレガートがかかたったような独特の引きずるようなリズム。スタジオ録音のような引き締まった造形は影が薄く、その分重厚さが増したような印象。終楽章は得意としていた楽章だけあって、重いながらもライヴ特有の集中力とにじみ出るような熱気を感じます。
 スタジオ録音のように整った演奏ではないのですけれど、スタジオ録音にはないクレンペラーの一面を見ることが出来るという点では貴重な録音です。

 録音は同年のバイエルンRso.との録音に比べるとやや落ちます。放送局音源でしょうから、はじめもう少し良いのではないかと想像していましたが、まあ状態は良い方でしょう。ただしこの録音はMonoで、この頃であればStereoであって欲しかった。

 それにしてもこのCDを出した Music & Arts というレーベルは今までもかなり怪しげな音源を出していてあまり信用をおけないところだと思ったのですが、今回のこの3枚組は何と正規盤であるようです。リーフレットの終わりにあるクレジットには、ハンブルク北ドイツ放送の協力でプロデュースされたとあり、更にクレンペラーはEMIのアーティストである、とわざわざ明記しています。また、そこにはクレンペラーの娘、ロッテ・クレンペラーの名前も見えますから、今回のものは所謂海賊盤の範疇には入らないんでしょうね。リーフレットも今までのこのレーベルには見られなかったしっかりとしたものですし、いかにも海賊盤的な何かうしろめたいデザインではなく、何か急に垢抜けた雰囲気です。個人的にはノンオーソライズ盤をいくつも買っているわけで、決して否定的ではないのですが、やはりきちんとした出所の良い音で聞けるのは嬉しいことです。

(4) これはクレンペラー最晩年70年のライヴ録音。「指揮者の本懐」巻末Discoによれば70年9月8日の演奏となっていてArkadia盤の10月8日という表記と異なります。またL&TはArkadia盤の表記とも違う11月8日のコンサートを収録したものとあります。

 全体に相当遅いテンポで、特に1楽章と2楽章の遅さが目立ちます。第1楽章の演奏時間がのびているのは提示部の繰り返しを行っているためです。
 演奏ははじめのうちオーケストラがこのテンポに合わせづらそうな部分があってギクシャクしたところがあります。それにしてもこの演奏は、手兵のPO.であってもかなり分かりづらかったであろうクレンペラーの指揮と、通常感じる音楽の呼吸というか音楽が要求するリズム感からかけ離れてたテンポのため、要求されている音楽に合わせるためにオーケストラが苦労しているのがありありと分かります。
 3楽章以降はやはり遅めのテンポではありますが、前2楽章と比べればずっとまともになって、ライヴならではの一種暗い熱気みたいなものを感じさせます。全体に感傷味は全くなく、恐ろしく重い足取りです。
 Mozartに限らず音楽の呼吸みたいなものがあって、演奏によっては逆に新鮮で不思議な魅力を放つ演奏になることも少なからずあるわけですが、この演奏の場合、音質の悪さとの相乗効果から、ひょっとしたらこれがドイツ的な巨匠的演奏かと思わせる(錯覚させる?)重厚さを感じさせはするものの、遅いテンポ故の利点というものが演奏の解釈という点でいうと希薄ではないかと思います。勿論曲との相性もあってテンポの遅さを否定するわけではありません。例えばWagnerの「ワルキューレ」第1幕は69年という最晩年の録音のひとつですがクレンペラーの全録音の中でもとりわけ素晴らしい演奏だと思います。しかし、この演奏の特に前半の2つの楽章はオーケストラの反応を含めて私には聴きづらい音楽です。後半の2つの楽章は確かにクレンペラー晩年の大きさを感じさせはするのですが。

I II III IV Total 増減
PO.(56.7) 8:45 8:58 4:14 5:04 27:01 0
*ベルリンRIASso.(57.5L) 8:23 8:07 3:55 4:54 25:19 -1:42 CD-R
PO.(62.3) 5:34 8:53 4:20 5:12 23:59 -3:02 演奏時間は実測 I 繰返なし
北ドイツRso.(66.5.3L) 9:06 9:05 4:19 5:10 27:40 0:39
NPO.(70.10.8L) 10:05 10:04 4:40 5:50 30:39 3:38

 リハーサル:
 BISレーベルのストックホルムpo.75周年記念の8CD組物に収録されているリハーサルの模様を収録したものです。このリハーサルは65年5月11日のもの。ストックホルムでは4回の公演を行いましたが、いずれの演目も音盤化されておらず、この6分弱のリハーサル風景が聴けるだけです。
 このBIS盤に収録されているリハーサル風景は48年のフルトヴェングラーによる「レオノーレ3番」から83年のアロノヴィチ指揮のPettersson交響曲16番に至る総勢14名分で、それぞれ特徴があって聞き飽きません。フルトヴェングラーやフリッチャイは曲の大きな流れを重視していたことがわかりますし、ドラティやロジェストヴェンスキーは非常にてきぱきとした口調で細部を整えていく様子が分かります。クレンペラーの場合は細かい解釈上の指示というのはなくてフレーズの輪郭を歌って伝えるだけです。発音が不明瞭で何を言っているのか分かり辛いのは年と障害のせいでしょう。これを聴いただけでは何とも言えませんが、少なくとも神経の行き届いた緻密な音楽の組立というようなリハーサルではありません。
 
 尚、リーフレットによるとこ個々に収録されている音源のほとんどは放送局に残されているテープによるもので(一部アセテート盤)、恐らく収蔵用の整理番号であると思われる記号が記載してありますが、クレンペラーのものだけはプライベート録音が音源のようでこの記載がありません。演奏会そのものはこの翌日の12日でこちらの方は録音は残されているようです。
(2) Columbia(EMI)
  SAX 2486(英LP)
(3) M&A
  CD1088
(4) Arkadia
  CDGI 729.1

リハーサル
BIS
CD-421/424


M-41

Mozart:交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」

(1) O.クレンペラー/PO.
  54.10.5-6 Kingsway Hall (EMI) Mono

(2) O.クレンペラー/PO.
  62.3.6-8,26-28 Abbey Road Studio (EMI) Stereo

(3) O.クレンペラー/VPO. 
  68.5.19L Musikvereinssaal, Vienna Mono

フィラデルティアo.との録音(62.12)がNOVIKIESEから出ている(NAV-4019 CD-R)。
(1) Testament SBT1093 (1) クレンペラーのEMI録音はこの演奏から始まりました。ウォルター・レッグは、51年イギリス音楽祭でのこの曲の演奏を聴き(オーケストラがPO.だったので)その終楽章を気に入ったことがEMIへのレコーディングのきっかけとなりました。しかし実際は怪我やパスポートの失効などで54年までヨーロッパに戻れず、結局この録音までずれ込んだようです。
 この時のことが「クレンペラーとの対話」に書かれてありますので少し引用しますと、

 イギリス音楽祭の2度目のコンサートでは、わたしはウォルトンの『スカピーノ』序曲とエルガーの『エニグマ変奏曲』をやる予定になっつているのに気がつきました。しかしすでにウォルトンをやっているのに、なぜエルガーをやらなければいけないのか? ウォルトンもイギリスの作曲家です。なぜわたしは『ジュピター交響曲』をやれないのか? 「だめです、だめです。プログラムは変更できません。聴衆は外国人の指揮者によって演奏される『エニグマ変奏曲』をとくに聴きたがっているのです。」「それならわたしは指揮しない。」それで彼らは考えを変え、わたしは『ジュピター交響曲』を指揮しました。 「クレンペラーとの対話」

 頑固なクレンペラーのことですから、主催者側が考え直さなかったらこの演奏会はなかったでしょう。それにしても全くサービス精神というものがない人でした。Mahlerの曲でさえ全てを演奏することをしなかったクレンペラーですから、イギリスの作曲家だからというより、自身演奏する価値を認めたもの以外やりたくなかったのでしょう。それにしても、ここで我を通した結果、その演奏でレコーディングの契機を得たわけですから、世の中分からないものです。

 クレンペラーはこの曲を得意にしていたようで度々演奏していました。ロココ的な遊びや感傷味が少ないこの曲は自分に合っていることをクレンペラーも認識していたようです。
 この演奏ではクレンペラーの指揮もさることながらPO.のアンサンブルの確かさも特筆されます。この頃のPO.は独自の音色を持たない録音用新興オーケストラという一面も確かに持っていたのですが、プレーヤーはそれぞれ皆一流であり技術的にも申し分ありません。
 クレンペラーがPO.を使って録音しはじめた時はまだカラヤンがこのオーケストラの主席指揮者でした。PO.の透明感のあるアンサンブルは同時期のカラヤンの演奏でも聴くことが出来ます。これは別の言い方をするとカラヤンのオーケストラでクレンペラーが指揮しているわけで、クレンペラーの方もかなり意識した演奏になっているような気がします。クレンペラーはカラヤンを嫌っていて、わざわざコンサート会場まで出向いていって悪口を言ったり、カラヤンの演奏について訊ねられても奥さんが綺麗だ、などと訳の分からないはぐらかし方をしたり、それは相当辛辣な態度でした。ナチ党員だったカラヤンが上手い世渡りで良いポストに就いていることに反感を持っていたのでしょう。
 余談になりますが、この時期のモノラル録音ではホルンのトップをデニス・ブレインが吹いています。ブレインはPO.発足当時から57年の自動車事故死まで在籍していたのですが(PO.には当初、空軍オーケストラ時代からの大親友ノーマン・デル・マーも在籍していたが、早い時期に指揮者へ転向していた)、あまりに忙しかったため(しばらくはRPO.と掛け持ちだった)全ての演奏には参加していないと言われています。しかし、この時のセッションではブレインをソリストとしたHindemithのホルン協奏曲の録音を翌7日に控えていましたので、ブレイン独特の決して大きな音ではないが(クレンペラーは音が小さいと苦言を呈している。)伸びやかに歌うホルンを聴くことが出来ます。(ただし、翌日のセッションは失敗)

 この演奏は全曲通しての演奏時間は62年盤とほとんど変わりませんが、終楽章はリピートしていますので、それを考慮するとかなり速めの演奏です。50年代の特徴的な演奏ではあるのですが、以前のような、前への推進力を支えきれずに前のめりになって表面を上滑りするようなこともなく、一部のライヴでの息苦しさを感じさせる窮屈さもなく、しっかりバランスをとった構成感が出ています。またStereo盤に比べるとこの時期の演奏は拍感が強く引き締まった響きです。60年代以降のクレンペラーの演奏にはアタックの強さが少し薄れてくるように感じられますが、Mono期の演奏には非常に強いアタックが聴かれます。
 第1楽章の厚めの音で引っ張っていく推進力、曖昧さのない音型、力感。前へ前へと進む推進力をしっかりと受け止める強靱な音楽の作り。
 一転して静寂を感じさせるもののやはり緊張感を持続した第2楽章、リズムの切れがよくコントラストの明快な第3楽章もそれぞれ素晴らしいのですが、気力の充実した終楽章はこの曲中一番の聞き物でしょう。クレンペラーにとっても最も得意とした音楽だったと思います。かなり速いテンポで、第1楽章同様強い意志を感じさせます。ここでのPO.の合奏力はとりわけ素晴らしく、目眩く、といった表現が適切かどうか分かりませんが、とにかくポリフォニックな音の動きがごっちゃにならず、互いに並立しながら進んでいく様は圧巻。Monoでありながら、フガートでの弦の受け渡しは非常に明確で、声部が各々綺麗に浮かび上がります。また、静と動の対比(特に動に挟まる静の美しさ)もはっきりしていて強いコントラストを作っています。
 どれをとっても壮年期(と言ってもこのとき70歳近かったのですが)のクレンペラーの最も動的な特徴が良い方向に生きた名演奏です。ストイックで重厚で覇気があって、この曲にロマンティックな要素を求めなければこの演奏は最も完成された容姿を持っています。クレンペラーの強い意志が良い意味で強固な造型を支え、表現的傾向がこの曲に内在する力強さを見事に表現しています。またここで聴かれる強い集中力と音楽の流れを考えると、ほとんど取り直しなしに通して収録されたように思えます。

(2) Mono録音に比べれば、テンポはずっと遅く淡々としていますが、「ジュピター」の名に相応しい堂々とした演奏です。第1楽章冒頭から既にクレンペラーならでは充実した音楽です。40番と同様思ったほど重くはなく、中声部に重きを置いた美しい響きに惹かれます。
 第2楽章はMono盤よりも更に深い密やかさで弱音器付きの弦が非常に美しい。色彩的な陰影には乏しいのですがそれを上回る奥の深さがあります。第3楽章はMozartとしては英雄的な響きのメヌエットです。クレンペラーの演奏は安定感のありますけれど基本的にメヌエットの範疇をはずれるものではありません。
 それにしてもこの隙のない、まるで建築物を思わせる構成感。個人的にはクレンペラーのMozart交響曲の中でも最も成功した演奏、録音だと思います。特に終楽章は気力、スケールともに素晴らしく、フガートでヴァイオリンが左右で旋律を受け渡しする様はスリリングでさえあります。こうした楽器の配置による効果は、ロマン派後期以降の曲ではあまり効果的ではないでしょうが、古典期のシンプルなオーケストレーションの曲を聴くと、改めてその効果に驚きます。クレンペラーがこの配置に固執していたのは録音の効果のためではありませんが、結果として残された録音からはクレンペラーの響きの特徴を形つくっているのは確かでしょう。
 私がこの演奏を初めて聴いたのはもうかなり前のことですが、その時からこの終楽章には驚きました。非常に複雑に出来ている音楽に聞こえたのです。次々に出てくるフレーズが全て均等な力を持って紡ぎ出され、複雑に絡み合いながら進んでいくのです。曲の流れの中にフレーズがある、というより次々に生まれるフレーズが先の音楽を作っていくような有機的な連鎖を感じます。確かに他の演奏でもスコアを追っていけば譜通りに鳴ってはいるのですが、クレンペラーのようには聞こえません。Mozartはこういう書き方をしたのだ、ということがスコアを見る以上に体験的に感じられます。
 クレンペラーが現代音楽を手掛けた前々の時代からこうした演奏様式を身につけていただろうことは容易に想像できることですが、50年代頃までは表現主義的指向もあって素直な形では見えづらかった、ということがあったのでしょう。しかし、現代音楽を得意とした指揮者に時折見られる平板な即物的印象と違うのは、例えば2,3楽章にも見られる古典的様式も同時に持っていたからに他なりません。

(3) この演奏は68年5月から6月にかけてクレンペラーがVPO.に客演した際の演奏です。この時クレンペラーは5回のコンサート(順に5月19日、5月26日、6月2日、6月9日、6月16日)を指揮しており、この演奏は初日に当たる5月19日のものです。DGから出ていたBeethovenの5番、Schubertの8番やKingから出ていたBruckner5番もこの一連の演奏会からのものです。

 第1楽章の出だしはいささか躓いている感がありますが、曲が進むに従ってライヴ特有の熱気を帯びてきます。遅めのテンポではあっても決して遅すぎないのはVPO.との演奏によるところが大きいかも知れません。不思議とVPO.との組合せは最晩年の遅さを感じさせません。音は聴く分にはそれほど問題はないもののやはり潤いと色彩感が乏しく惜しいところです。2,3楽章はライヴとスタジオ録音との違いもあって若干構成感が緩い感じですが、概ね62年盤と同じ解釈だと思います。
 この演奏の終楽章はこの時期のクレンペラーにしては速い。繰り返しの有無もあって厳密に比べることは出来ないのですがここでのテンポは68年とは思えない位。この頃としては良くない音の状態からの印象か、ちょっと乱暴に聞こえるほど気迫に満ちた演奏です。叩きつけて押しつけるような重いリズムはMozartの優雅さを微塵も感じさせません。録音もMonoなのでスタジオ録音で聴かれる両翼配置の恩恵はなく、曲の構造を透かして見せるようなスリリングな魅力は薄いとは言えますが、壮絶と言っても良いような激しい気力を感じさせる演奏です。ただしこれがいつも取り出して聴けるような演奏か、と言うとちょっと疑問ではあります。やはり美しい構成感となるとスタジオ録音を聴きたくなります。
 尚、演奏に関してではなくこれは録音上の問題なのですが、最後の音が余韻もなくブッツリ切れるのはいただけません。恐らく音源がこうだったのでしょうけれどこれは全く興ざめで、せっかくの熱演がここで台無しになってしまいます。

 この演奏はスタジオMono盤と同じく終楽章の前半部を繰り返しています。現在のピリオド楽器全盛の時代では決して珍しいことではありませんが、この録音当時はそう多くはなかったように思います。
 クレンペラーは「対話」の中でこの曲の場合、終楽章の繰り返しは行わなければならないと言っていますが、62年スタジオ録音では繰り返していません。それ以外の演奏では繰り返しがあります。また、第1楽章の繰り返しは2つのスタジオ録音はなし、2つのライヴでは共にあります。各楽章のタイミングを見ていただくと、若干のテンポの違いが影響するとは言え、そのことが良く分かります。スタジオ録音での繰り返しなしは、ひょっとするとクレンペラーの意志ではなくLPというフォーマットの制約によるものかもしれません。この曲をLPの片面に納めるためには何としても30分以内に抑えたいところでしょう。この録音と同年のフィラデルフィアo.とのライヴ(これはスタジオ録音と同年)、そして68年のVPO.とのライヴでは第1楽章の繰り返しも行っているところをみると、クレンペラーはこの曲の場合基本的には繰り返しが必要だと考えていたと思われます。奇妙なのは、54年のスタジオMono盤で、これは1楽章は繰り返し無し、終楽章は繰り返し有り、というものです。この時点ではクレンペラーは1楽章の繰り返しを必要と考えていなかったのか、或いは全体の演奏時間の制約によるために省略した録音になったのか分かりません。しかし、この演奏でも終楽章の繰り返しは行っているので、クレンペラーはかなり早い時期から(或いは最初から?)この楽章の繰り返しを行っていたと思われます。
 
I II III IV Total 増減
PO.(54.10) 8:12 8:16 4:06 8:28 29:02 -0:54 IV繰返しあり
PO.(62.3) 9:17 9:08 4:48 6:43 29:56 0
*フィラデルフィアo.(62.12.5L) CD-R 12:54 9:02 4:43 8:20 34:59 5:03 I,IV繰返しあり
VPO.(68.5.19L) 12:27 9:14 4:28 9:02 35:11 5:15 I,IV繰返しあり
*ただし終楽章中間部(158小節から356小節)の繰り返しは全てなし。

この他にフィラデルフィアo.との62年12月のライヴとされる演奏がCD-R化されています。これは62年10月からのアメリカ公演での記録で、この時クレンペラーはフィラデルフィア、ニューヨーク、ワシントン、ボルチモアで演奏しています。なおNOVIKIESE盤の日付についてですが、クレンペラーはこの年の11月22日までにはチューリヒに戻っていますので、この日付は誤りかと思います。
(2) EMI
  CMS 7 63272 2
  A
  EAC-40049(国LP)

  Columbia(EMI)
  SAX 2486(英LP)
(3) Desques Refrein
  DR920019