Mozart:交響曲第25番ト短調K.183(173dB) (1) O.クレンペラー/パリ・プロ・ムジカo. 50.2 Salle Pleyel, Paris (Vox) Mono (2) O.クレンペラー/ベルリンRIASso. 50.12.20 Jesus Christus-Kirche, Berlin Mono (3) O.クレンペラー/ACO. 51.1.18L Concertgebouw, Amsterdam Mono (4) O.クレンペラー/PO. 56.7.19,21-24 Kingsway Hall, London (EMI) Stereo ![]() |
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(1) Vox CD6X-3605 ![]() |
![]() 音楽之友社「新音楽辞典」によると、この「疾風怒濤」 Sturm und Drang という言葉は元々1770-85年頃のドイツの文学運動を指す言葉だったようで、F.M.クリンガーの戯曲につけられたタイトルによるそうです。この戯曲は1776年の作で、社会的・芸術的因習に対しの若い世代の反発を具現化したもの、とあります。時期的なことだけを言えば、Mozartの曲もHaydn曲もこの戯曲より早く書かれているわけですから、芸術史上の文学の世界に限ったことではなく、芸術一般、世情一般の流行だったのでしょう。おかげでMozartのこの曲、Haydnの膨大な数の曲も後の聞き手からしてみれば随分バラエティに富んだ音楽を残してくれました。久しぶりにこの頃のHaydnを聴きましたが晩年とは違った魅力があって非常に面白く聴けます。Haydnの場合、交響曲だけでも100曲以上あるわけですから全曲通して聴くというのは困難、何かの機会にいくつか取り出して聴くのも聴き方のひとつかも知れません。 ![]() オーケストラは全体に明るめの音で、締め上げられた感じを与えるVSO.との録音とは趣が違うようです。特にトリオに代表される管楽器の音が素晴らしい。このオーケストラ、パリ・プロ・ムジカo.という名称は、ウィーン・プロ・ムジカo.(実体はウィーン響らしい)と同様、いかにも疑わしい名前ですが、フランスの洒脱な音色の絡み合いは何とも香しい雰囲気を持っています。(このオーケストラの実体は一体どこなのだろう。パリ音楽院o.か、フランス国立Ro.あたりでしょうか?) 第2楽章以降は、ライヴに聴かれるような激しさは影を潜めていて、逆に拍子抜けする感じさえします。EMIのスタジオ録音とではStereoとMonoという違いも含めて音質が違いますけれど、殊更劇的な演奏を目指しているということはなく(例えば第3楽章のテンポ)、こうした点においては似た解釈であると言えます。ただ、壮年期のクレンペラーのこと、終楽章コーダではライヴでよく聴かれる気合いのうなり声も録られていて臨場感を感じさせます。 尚、第1楽章のタイミングが後年のものより長いのは繰り返しを行っているためで、初めの方の繰り返しは後の演奏でもやっていますが、この録音では83小節からの2つ目の繰り返しも行っています。この辺の考え方は一体どうだったのでしょうね。 (加筆 2002.4) ![]() 1楽章のテンポは速めで冒頭の楽想は強い響き。音の切れが悪くて上滑りしたような音で始まります。クレンペラーのライヴ演奏ではこうした曲頭のアインザッツのズレが時折見られますが、これはクレンペラーの入りの指示がわかりづらいためなのでしょうか。最晩年の遅いテンポでは、一般的なテンポからみると相当ずれているのでオーケストラ側が戸惑っている雰囲気も垣間見られれますけれど、この時期ではテンポの食い違いとは考えられない気がします。 全体にインテンポの快速演奏、クレンペラーの場合細かい旋律の表情を付けるということがないので、特に速く感じます。また、テンポの揺れがない代わりに、速い楽章では演奏が進むに従って若干加速しているようです。これもこの時期のクレンペラーに特徴的な点で、少しづつテンポが前のめり気味になるところが余計速い演奏と感じさせる原因となっているかも知れません。 第2、3楽章は、少しだけ締め上げていた手綱をゆるめたかのような印象ですが、基本的な演奏の仕方は同じで、優雅な演奏とは違います。終楽章では再び強い緊張感を持った演奏。こうしたクレンペラーの非ロマンティックな演奏は、この曲に一番似合っているのかも。 (加筆 2002.9.21) Great Conductors of the 20th Centuryのシリーズとしてクレンペラーの巻が出ました。この演奏そのものはいくつもの海賊盤がリリースされていましたが、正規盤は初めてでしょう。この演奏前後の状況について、EMI盤ライナーに簡潔に記されていますので、引きますと、 クレンペラーは、50年の暮れ近くにWeberの「魔弾の射手」を東ベルリンのコミシェ・オパーで指揮することを同意した。リハーサルが近づいた頃、クレンペラーは西ドイツ当局との関係だけでなく、東側においては彼のアメリカのパスポートまで危うくなりそうな状況を心配し始めていた。彼は既にベルリンRIAS(Radio in the American Sector アメリカ占領地区のラジオ)のオーケストラとともにMozartの曲を放送用に録音するという契約を引き受けていた。この状況は、彼がベイヌムとクーベリックの代役(2人とも体調が悪かった)となってコンセルトヘヴォの指揮を頼まれるギリギリの時点まで保留されていた。そして、これが東ベルリンの契約を取り消す理由となった。 この東ベルリンでのプロダクションはフェルゼンシュタインのものでした。この公演自体はクレンペラーにとって大切なものだったようですが、政治的な緊張状態にあったベルリンで、アメリカに世話になっている根無し草状態の一個人には流石に不安だったでしょう。ベイヌムの代役としてのコンサートは12月10日、フェリアーとの「大地の歌」とMozartのピアノ協奏曲K.503、3日後の13日と14日にSchumannの第4交響曲とPoulencのピアノ協奏曲(作曲者のピアノ)。この後ベルリンへ飛び、このRIASへの録音となります。翌年、1月3日に再びアムステルダムに戻り、クーベリックの代役として振ったコンサートのうちのひとつが下記(3)の演奏。 時期的に1ヶ月も間がないのですが、翌年のACO.との演奏に比べてタイミングは少し短いようです。一般にクレンペラーは実演のテンポの方が若干速めになる傾向がありますから、この演奏も放送用のスタジオ録音であったことが影響しているかもしれません。 録音は非常に良く、これまで聴いてきた海賊盤でも音源自体の良さは予想できたもののその良さを実際に聴くことができないもどかしさがつきまとっていましたが、これでようやくこの演奏をまともに評価できるようになったと言ってよいでしょう。過去に書いた感想は上記の通りで、これはこれで私の偽らざるところです。改めてこの演奏を聴き直してみて感じるのは、そこに見られるいくつかの綻び、過剰なまでの緊張感が、クレンペラーのこの音楽に対する真摯な取り組みの結果であったのだろうということです。この疾風怒濤期のMozartの音楽は、Haydn等の同時期の音楽と同様、現代においていささか手練手管の対象となったきたきらいがあります。古楽器での尖鋭な解釈−例えばアーノンクールの興味深い演奏は、古色蒼然とした、或いはロマン的な垢を拭い去ったヴィヴィッドな演奏ではあるのですが、そこに聴く者の意表を突く面白さを幾分誇張した印象が残ります(それでも大変面白いのは事実ですが・・・)。 クレンペラーの演奏からは、この音楽が持つデモーニッシュな側面が迸るような感情の表現に起因していることを思い起こさせます。第2楽章の静謐な音楽、メヌエットに聴かれる抑制された表現とは対照的に両端楽章の意志的な表現がクレンペラーの真骨頂であり、これはVOXの録音からEMIのスタジオ録音まで一貫したスタイルです。Mozartの曲の中でもとりわけこの曲をクレンペラーが得意にしていたのも頷けることです。 それにしても、残された録音の良し悪しによって大きく印象が変わることを改めて認識させられました。 ![]() 上記のベルリンRIASso.との演奏も速めですが、この演奏は更に速いテンポでびっくりします。第1楽章の66小節あたりからテンポは徐々に加速し、繰り返しで冒頭に戻る時は1回目より更に速いテンポであり、このスピードが全然緩まないまま(印象としては更に加速されて)突っ走ります。何かに取り憑かれたような演奏、というか。これは後年のクレンペラーに慣れた耳には奇異に感じられることでしょう。上記のベルリンRIASso.との演奏がテンポが少し速いとは言え、後のスタジオ録音と比べてもそれほど変わらない表現であることを考えると、時代を遡ったかのような印象です。データで見るとRIASso.との演奏からわずか1ヶ月後の演奏となりますが、この劇的な表現はどう説明すればよいのでしょうか。演奏だけを考えるとこちらの方が数年早い時期の演奏であっても不思議ではないでしょう。一般にクレンペラーのACO.との録音は極めて躍動的で凝集された意志の強さを感じます。それにしても冒頭こそ若干乱れがありますが、全編このテンポにびったりあわせていくACO.の実力は大したものです。 第2楽章も演奏としては1楽章と同じく速いのですが、クレンペラーとしては表情が豊かに感じられます。これもACO.の能力の高さ故でしょうか、愛想のない指揮にも関わらず不思議なしなやかさがあります。 第3楽章も起伏があり、スタジオ録音とは全く違った(そしてベルリンRIASso.とも違った)気迫溢れた演奏。古典的な佇まいのスタジオ録音とは対照的です。終楽章も同様で、録音のせいもあるのでしょうか、「シュトルム・ウント・ドランク」という言葉を如実に思い起こさせる表現的傾向。ここでもACO.は素晴らしく巧い。VPO.とは又違った意味で最上級のオーケストラであることを教えてくれます。Mahler2番のDecca録音でも知れるように、このオーケストラは十分機能的でありながら音楽の起伏が自然で、クレンペラーの異常なテンポと即物的な指揮にも関わらず、極めて音楽的であるのには驚きます。こうした演奏を聴くと、クレンペラーの演奏様式という点はともかく、演奏の表情のというのは、随分オーケストラそれ自体に依存しているように思えます。単に機能的なオーケストラを振ったときと伝統と演奏様式を持ったオーケストラを振った場合では、同じ演奏方法でも随分違って聞こえます。どの演奏でもそうか、と言われると困りますが、少なくともここでは、クレンペラーの強靱な音楽の作りに対してオーケストラ独自のしなやかさが異様な(?)高揚感を生んでいるのは確かです。 Archiphon盤の録音状態は、全ての音に歪みが付いてまわるような聞き辛い音です。これは電気的なノイズには聞こえません。何か近くの物が共振しているような音が全曲通して付きまとっています。しかし、ノイズを排除した結果生気が失せてしまったような音ではなく、非常に生々しい音で、歪みがなければ当時としては相当良い録音でしょう。 コンセルトヘボウ・シリーズの1枚としてリリースされたAudiophile盤はArchiphon盤に比べると、ほんの少し共振音が聞こえるものの遙かに聴きやすい音。 ![]() クレンペラーは流麗華麗な曲よりどちらかというと短調の曲を好む傾向があるようで、例えばSchubertでは5番より4番を好んで演奏したようですし、グレートより未完成といった風です。Mozartのこの曲の場合は、ト短調という調性もあって、デモーニッシュな曲の性格が自分のスタイルに適していると考えていたかも知れません。また、大曲を演奏するときにはこうしたMozartやBachの曲をよく一緒に取り上げていたことから、プログラム構成上ちょうど良い長さの曲という理由もあったのでしょう。 演奏は全体に、様式的に整った、という言い方は変かも知れませんが、良い意味でも悪い意味でも古典的な骨組みをしっかり見せてくれるもの。上記2つのライヴと比べて聴いてみると印象は少しずつ違いますが、解釈そのものはそれほどの差はないように思います。比較すればテンポは遅め、でも他の指揮者による演奏と比べても決して遅くはありません。 冒頭のシンコペーション的な特徴的主題は、ボウイングのせいなのか、1音づつ切れないでレガートをかけたような演奏。これはライヴ録音でも見られるもので、クレンペラーの解釈なのでしょう。低弦だけはシンコペイテッドな音型ではないので(4分音符4つ)、両翼配置の場合、これが綺麗に左右に分離しません。こうして弦がブレンドされると独特の混沌とした響きになります。まさかクレンペラーが録音での効果を考慮することはなかったでしょうから、こうした効果を狙っていたとは考えられませんが、他ではあまり聴けない雰囲気です。 この1楽章は、冒頭からグッと押し込んでいって、全体の情感を維持していく演奏もありますし、Mozartが書いた様々な対比を生かして起伏と変化を求める演奏も可能でしょう。クレンペラーのやり方は明らかに前者で、一貫した気分を持続していくやり方。56年という時期から晩年のクレンペラーから見ればやはり躍動性を持った演奏と言えますが、基本的には変わりません。ただ音楽が整然としている分だけ、表現的な押し出しが薄れ、より客観的に楽譜を音化しているように思えます。 2楽章から終楽章は淡々とした表情で意外にテンポは遅い。3楽章などは通常もっとエッジを立てたリズムを刻むところですが、随分おとなしい。ちょっと引きずるようなリズムとゆっくりとしたテンポはBeethovenの荘重な響きを思わせます。トリオでのオーボエの旋律とホルンの音は大変美しい。この頃のPO.は特に透明感のある音が特徴で、木管と弦が交互に出てくるトリオ等はその美点が顕著に表れています。 終楽章も基本的に古典的均整を崩すような劇的表現を狙わない表現で、非常に静かな印象です。この頃のクレンペラーの表現はまだかなり激しい気性が残っていたはずなのですが、そういった表現は不思議なほど姿を潜めていて、逆に不思議です。
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(2) Arkadia CDHP572.1 Archipel ARPCD0017-1 EMI 5 75465 2
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(3) Archiphon ARC-109 Audiophile APL101.547
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(4) EMI CMS 7 63272 2 EMI 5 67331 2 A EAC-40044(国LP)
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Mozart:交響曲第29番イ長調K.201(186a) (1) O.クレンペラー/ベルリンRIASso. 50.12.20 Jesus Christus-Kirche, Berlin Mono (2) O.クレンペラー/デンマーク王立o. 54.1.28L OddFellow Palaeets Store, Copenhagen Mono (3) O.クレンペラー/PO. 54.10.8-9 Kingsway Hall, London (EMI) Mono (4) O.クレンペラー/北ドイツRso. 55.9.28L Humburg Mono (5) O.クレンペラー/NPO. 65.9.20-21 Abbey Road Studio, London (EMI) Stereo ![]() ![]() ![]() |
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(1) Arkadia CDHP572.1 Hunt CDLSMH 34001 Archipel ARPCD0017-1
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![]() 尚、第2楽章はスタジオ録音で行っている前半の繰り返しがないため演奏時間が短くなっています。 この演奏について私の持っているのは左のHunt盤、Arkadia盤の2種プラスArchipel盤(Frequenz盤、Urania盤は未聴)。通常Hunt盤のジャケットは受け継がれたArkadia盤にも見られる、拡大された葉の一部の図柄を使っていて(これがどういう意味の意匠か分かりませんが)、CDそのものもジャケットを模したデザインになっていますが、このHunt盤は少々違います。番号の付け方も装丁も普通と違っています。ジャケット裏にはイタリア語、英語、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、日本語、中国語?で「最高傑作」(日本語はカタカナで「マスターピース」、恐らく中国語で「最高傑作」と書かれているのが愛嬌)と書かれていて、イタリアのレーベルには変わりないもののフランスで生産されたとあります。収録されている音についてもHunt盤はそのままの形でArkadia盤に引き継がれているのが普通で、極端なものではHuntのCDがArkadiaのケースに入っていたりしました。しかしこのHunt盤に収録されている音はArkadia盤と全く同じと言う訳ではありません。音質自体も若干違いがあり、Arkadia盤は若干こもった感じであるのに対しHunt盤は割にストレートな音質。そしてもうひとつ、Hunt盤には拍手が入っていますがArkadia盤には入っていないのです。この演奏は同じオーケストラとの25番と38番同様演奏中には全く聴衆の気配が感じられませんので放送用の録音だと思われます。これは拍手をカットしたものにしては不自然だと思っていましたら、SyuzoさんのHPにあるKna-parc 掲示板で山崎浩太郎さんが「Arkadia拍手」なる拍手の追加をしたものがある旨書き込まれていました。これは本来拍手のない演奏にいかにもライヴである如く拍手を付け加えるものだそうで、典型的なものはパチパチと2,3の拍手があり続けて大きな拍手が続く、というものです。ホーレンシュタインの指揮したBerliozの幻想交響曲はまさにそれだそうで、確かに非常に不自然なつながり方をしています。しかし、拍手がないとは言え、正規の録音ではないものにわざわざ拍手を付け加えてみても何の利益があるのかは分かりません。却って不審に思われるだけ損じゃないかと思いますが、こんなものまで掘り出してきたよ、といったマニア心理を考慮したものだったのかもしれません。 さて29番のHunt盤の拍手はホーレンシュタインの演奏に足された「アルカディア拍手」とは違い、パチとひとつの拍手に続きそれを追うように盛大な拍手になるというものですが、Arkadia盤にはどの曲にも拍手がなく(上記25番、当曲、38番、セレナード6番の組合せ)、加えて演奏後数秒の無音部分があってフェードアウトしているところをみるとこれも別種の「アルカディア拍手」のように思えます。この録音はHunt盤、Arkadia 盤以外にも非正規盤がありますが、拍手はHunt盤だけのようです。まあ非正規盤同士について勘ぐっても仕方ないところですが妙な話です。 Archipel盤にはオリジナル・テープの24ビットリマスターとありますが、この「オリジナル・テープ」というのは何なんでしょうか。それでもHunt盤の帯域を狭めて聞き易くしたような音に比べるとこちらの方が余計な残響もなくストレートな音質という印象。この時代の録音としては非常に良い状態です。 ![]() (3)のEMI録音と同年の演奏ですが、スタジオ録音ともまた違った、ライヴらしい素晴らしい演奏です。初めの2つの楽章はクレンペラーのライヴとしては割に端正な作りに聞こえますけれど、気合いは充分。f での入りには必ずといってよいほどうなり声が入ります。メヌエットはこの時期らしい彫りの深い表現です。優雅さよりこの音楽が持つ陰翳を前面に出したような演奏で、スタジオ録音より遙かに強い響き。特に後半の重量感あふれた鳴らし方は、終楽章Allegro con spiritoへのつながりを意識したものだと思います。このメヌエットはプツッと切れたような終わり方をしますが、ここでの演奏はわずかなな空白を挟んで始まる終楽章とのつながりに響きの上での連続性を感じさせます。そして、終楽章の、ライヴならではの集中力の強い演奏が何より聞き物です。思わず聞き入ってしまう迫力。この曲を屡々取り上げたクレンペラーの心境がわかるような気がしました。 (加筆 2002.4) ![]() フレーズの表情は変化があり、全般に後年より躍動感を感じさせますが、例えば41番Mono盤あたりの強い押し出しはあまり感じられずこの時期としては意外と穏やかな印象です。と言っても終楽章ではやはり低弦を強調したコントラストの強い表現で、この辺にこの時期の特徴的な演奏スタイルが窺われます。録音はこの時期のものとしは時代相応、定評のあるTestament盤とは言え後年のStereo盤に比べるとやはり楽器の分離は若干苦しいところがあります。 ![]() 前年のスタジオ録音に比べると全体に速め、そしてごつごつとしたクレンペラーの指揮ぶりからすると意外に流れの良い演奏。尤も基本的な解釈は同じなのですが、ここではスタジオ録音には見られない一種の余裕が見られます。レンジが広く、オーケストラの自由な呼吸が大きな流れの中で適度にメリハリを効かせているようです。気力も十分で、この時期の充実した演奏のひとつだと思います。 ところでこの録音、最初の12小節(20秒位まで)が異様に録音レヴェルが低くてかすれたようになっています。プレーヤーのトレースが対応できないのかと別のプレーヤーで聴いてみましたが状態は同じなので、これは元テープの劣化によるものなんでしょうね。 ![]() 録音が新しいだけあって各パート間の旋律の絡みも非常に明確に聞き取れます。特に淡々と進む第2楽章は透明感のある弦の音色とともに虚飾のない清楚な雰囲気で、こうした硬質の緩徐楽章もまたMozartに似合っていると思います。 リズムもこの時期としてはしっかりしていて54年盤と比べてもそう変化はないようです。一音一音しっかりとした足取りで古典的な落ち着きを感じさせます。Mono盤も終楽章の弦のかけ合いはそれなりに聞こえたのですが、さすがStereo盤では対抗配置の面白さが際立っています。74小節以降のヴァイオリン同士からバスとの呼応、146小節からのシンコペーティドなヴァイオリン同士の掛け合いなど、普段すっと聞き流してしまうようなフレーズで新鮮な響きに出会います。
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(2) Testament SBT 2242 ![]() |
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(3) Testament SBT1093 ![]() |
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(4) M&A CD1088 ![]() |
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(5) EMI CMS 7 63272 2 EMI 5 67331 2 A EAC-40044(国LP)
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Mozart:交響曲第31番ニ長調K.297(300a)「パリ」 O.クレンペラー/PO. 63.10.16-19 Abbey Road Studio, London (EMI) Stereo |
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EMI CMS 7 63272 2 EMI 5 67331 2 A EAC-40045(国LP)
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![]() ![]() 改めてこの演奏を楽譜を追って聴いていますと、クレンペラーは楽譜に書かれた指示に非常に忠実であることがわかります。特に個々の音符に記されたコントラストには細心の注意が払われており、スタカートの処理は現在のピリオド楽器での演奏にも劣らないくらい明確ですし、フレーズの切れもしっかりしています。透明感のある音も効果的で、とにかく非常に見通しの良い響きが印象的です。 しかし、クレンペラーの演奏はこの曲の持つ華やかさには欠けるように聞こえるかも知れません。この曲は編成の大きさから強弱の幅があり、Mozartとしてはメリハリの強い音楽だと思いますが、クレンペラーの演奏はどうもこうした強弱の幅を圧縮してしまったところがあります。具体的に言いますと第1楽章74小節から79小節(時間表示でいうと2:00位から)、同じく93小節から98小節の f 以降のバランスの処理の仕方です(他にもこの楽章には何回か同じような部分が出てきます)。この部分はトレモロのヴァイオリン群の上で木管と低弦が上昇音階を交互に繰り返すところですが、ここでクレンペラーはヴァイオリンの音量を意識的に下げています。通常全てのパートに f が付いている場合、全体のバランスを考慮しつつもやはり全てが f となって全体に音量が増すというのが普通でしょうが、クレンペラーは特に木管がつぶれないようかなり意識して弦の音量を調節しているのです。ここでは、響きの強さを求める以上に、木管と低弦のやりとりが十分聞こえることが意図されていて、クレンペラー自身が言っているように木管が他の音でマスクされてしまわないようにするための手段でした。これは他の演奏に慣れている耳で聞くと全体の音量も下がったような、極端に言いますとリミッターがかかったような感じで響き的には物足りなく感じます。恐らく今日には殊スタジオ録音に関してはマルチマイクの恩恵で(と言っていいのかどうか分かりませんが)楽器毎の音は例え相対的に小さくてもかなりクリアに捉えられますから、こうしたバランスの必要はないでしょうが、クレンペラーにとって自らの演奏様式はレコーディングとは何の関係もなかったのです。とにかく大音量で音楽が団子状態になってはならない、というのが基本で、結果的にディナミークの幅が小さいというクレンペラーの特徴はこうしたところにも表れています。 現代のピリオド楽器での小編成の音バランスを聴いたらクレンペラーはどう思ったでしょうか。Bachの演奏でクレンペラーは伝統的な大編成から響きが明瞭になる小編成への指向を強めていましたから、奏法の問題は別にしてもかなり興味を示したのではないかと思います。こうした点を考えると、従来のオーケストラでの演奏でクレンペラーが導き出した様式は非常に興味深いものがあります。 |