Mahler:交響曲第4番ト長調

(1) O.クレンペラー/ケルンRso. E.トレッシェル(S)
  54.2.21L
 Köln Mono
(2) O.クレンペラー/ACO. M.シュターダー(S)
  55.11.10L
 Mono
(3) O.クレンペラー/ベルリンRIASso. E.トレッシェル(S)
  56.2.13L Hochschule fur Musik, Berlin Mono

(4) O.クレンペラー/バイエルンRso. E.リンデルマイヤー(S)
  56.10.19L Herkules Saal, Munich Mono

(5) O.クレンペラー/PO. E.シュヴァルツコップ(S)
  61.4.6-7,10,25 
Kingsway Hall, London (EMI) Stereo

(1) L&Tによると54.2.21の放送用録音。Frequenz盤では54.2.11との表記。
(2) Hunt盤では56.2.18LとなっているがL&Tによるとこれは間違いで、上記が正しいとのこと。
(1) Frequenz
  CME 1

 Mahlerの第4交響曲というのは今でこそ10曲のうちの1曲ですが、私が聞き始めた頃(四半世紀前)は1番や「大地の歌」あたりとともに非常にポピュラーな曲でした。まず第1に時間的にLPで1枚に収まること。これは重要で、単発の発売の場合は特に重要なことでした。
 その頃Mahlerの交響曲全集で入手出来るのは、ショルティの旧盤(CSO.で統一される前のもの)、バーンスタインの旧盤(CS)、クーベリックのDG盤くらいのもので、余程のマニアでお金に余裕のある方でなければまとめて買うことは出来ませんでした。1枚物でもMahlerでは廉価盤はほとんどなかったと思います。どの演奏で聴くかというより、どの盤で聴けば安くあがるか、というのが特にあまりポピュラーでなかった曲(例えば3番や6,7番、そして録音の少なかった8番)の選択肢であったように思います。現在のように沢山の全集盤が市場を賑わし(一体どのくらいあるのでしょうか)、どれを買おうかと迷うほどの状況を見るとまさに隔世の感があります。

(1) EMIに録音を開始する直前のケルンRso.(北西ドイツRso.)との放送用録音。Monoですが、この種のものとしては極めて鮮明な音質。ホールのせいか録音のせいか、残響の少ない少し乾いた音ですけれど楽器の分離は驚くほど明瞭で、初期のスタジオ録音より良いくらいです。元の音源がかなりしっかりしているのでしょう。
 クレンペラーは戦後からこれも含めてかなりこの曲を演奏していて、翌年のACO.とのコンサート(55.11に3回)でも振っていますし、確かオーストラリアでも演奏していました。EMI時代のクレンペラーは録音の仕事にかなりの時間を取られるようになったので、コンサートレパートリー的にはかなり限定されてしまいました。曲によってはスタジオ録音だけがありコンサートでは後年振らなかった曲もありますが、基本的には録音の後にコンサートで演奏していたので、同時期に演奏が集中していることがよくあります。時期を問わず演奏していたのはMahlerで言えば2番ぐらいでしょうか。4番は50年代半ばにかなりの回数を指揮しているようです。この年の11月にはLSO.との演奏会でもこの曲を振っていました。

 この演奏はスタジオ録音に比べればテンポは速いものの極端に速いということはありません。演奏の方は、特に第1楽章と3楽章の表現がかなり違います。音楽の表情が意識的にメリハリのついたものになっていて、音楽の推進力を感じます。恐らく50年前後の凄まじいスピードでとばす演奏とは違ってきているとは思いますが、他の指揮者の演奏から比べると相当変わった(強引な?)Mahlerではないかと思います。クレンペラーはこの演奏時70才近い筈ですが、指揮ぶりは随分精力的です。3楽章途中(終わり近くの盛り上がるところ、番号12)でクレンペラーのものと思われるうなり声が入っています。
 トレッシェルの声質はどちらかというと明るめの声。(2)のベルリンRso.盤でも歌っていますが、どちらも良い歌唱だと思います。

(2) この演奏は確かRARE MOTH RM422-M(CD-R )の方が一足早くリリースされていました。このAudiophile盤はコンセルトヘヴォ・シリーズとしてリリースされたうちの1枚で、1955年11月に客演した時の演奏。TahraのTAH302の演奏記録によるとこの曲を11月9日、10日、12日と3回指揮しています。
 ACO.の演奏は、同時期の他のライヴと比べてもバランスのとれた良い演奏だと思います。これはACO.という特別音楽性に優れたオーケストラとの組み合わせによるところが大きいでしょう。ケルンRso.やベルリンRIASso.との演奏に感じられる幾ばくかの強引さとそれによる平板さが影をひそめているように感じられます。オーケストラの指揮への反応も良く、決して条件の良くないこうしたヒストリカル・ライヴ物でも楽器のそれぞれの音が表情豊かであるのがわかります。

 アダージョの雰囲気は特にいいですね。淡い悲劇的な雰囲気とダイナミクスとの対比が素晴らしく、クレンペラーの力感とオーケストラの技量がうまくかみ合った聴き応えのある音楽です。タイミングこそそれ程変わりませんが、他の演奏と比べてもテンポの細やかな動きと表情の起伏は大きいのではないでしょうか。恐らくこの曲に対するクレンペラーのアプローチは、この楽章を頂点として、終楽章を大きく転換させる点にあったように思いますが、スタジオ録音の醒めた感覚とも違い、ここでの演奏には音楽の表情としての劇性と表現方法を昇華させる意欲といったものが感じられます。
 終楽章のシュターダーのソロは表情豊かでかなり自由な歌い口と言ってよいでしょう。どちらかというとシュヴァルツコップの歌唱に近い。テンポの変化を付けたクレンペラーの伴奏に劣らず、伸びやかで躍動感に満ちた素晴らしい歌に感心しました。
 頻繁にこの曲を演奏していたこの時期のライヴの中でもこれは最も聴き応えのある演奏でしょう。

 録音状態はそれほど良いと言うわけではありません。録音レヴェルが低めで、全体にざらつきのあるややきつめの音質。第1楽章の10分過ぎに数カ所のノイズがあります。それでも鑑賞に不都合と言うことはありません。

(3) 上記ケルンRso.と比べれば幾分落ち着いた雰囲気ですが、他の演奏に比べればまだ随分表現的な意志を感じさせます。それでも以前は走り気味のフレーズのうちいくつかが意識して踏みしめるようなリズムになっているのが分かります。全体のつくりは似たようなものですが、細かいところをみると、たかだか2年の違いにもかかわらず、結構違ってきています。スタジオ録音を始めたことが影響しているのでしょうか、憑かれたように走るといったところが随分影を潜めています。
 1楽章はテンポも遅くなっていますし、インテンポ一点張りということでもありません。部分的にはかなり遅いテンポで演奏しているところがあります。
 2楽章はスケルツォにあたる音楽ですが、クレンペラーとしては珍しく弦に歌わせる箇所もあります(ドイツのオーケストラとの演奏ではよく感じることです)。でも全体に素っ気なく、かつリズムが重く弾むようなところがないのであまり効果的ではありません(尤もクレンペラーの演奏でそれを望むのは間違い?)。
 3楽章、ここはかなり劇的な音楽になっていてクレンペラーもかなり気合いが入っています。結構クレンペラーの声が入っていて楽章半ばから歌うとも唸るともつかない不気味な声が入っています。夜、一人で目を閉じて聴いているとちょっと気持ちが悪い。
 トレッシェルは上記の盤と同じような印象。ケルンRso.盤に比べるとオーケストラのアンサンブルが今ひとつ、という印象です。これはオーケストラの技量というよりクレンペラーの意志が十分伝わっていないからのように思えます。指揮と演奏の間に若干の齟齬が見られます。
 音は全体に近くて雰囲気というものがありませんがそれほど悪くありません。Monoではあるものの十分鑑賞に堪えるものです。

(4) 上記と同年の録音。クレンペラーの演奏は一般に曲の入りが無造作なものが多く、この演奏でも入りが弱い、というか素っ気ない感じです。鈴は遠くから響いてくるような印象。これは録音の状態にもよると思います。でもサンタのそりが空を通り過ぎていくというような感覚とは違います。
 オーケストラはバイエルンRso.で流石に上記2つのオーケストラより上手です。アンサンブルの良さと統一された音楽の表情が、クレンペラーの即物的指揮に随分潤いを与えているように思われます。特に、2、3楽章の弦の歌い方は、(同オーケストラとの他の演奏でも言えることですが)クレンペラーにしては意外なほど滑らかです。彼の後年のスタジオ録音でも意外なところでレガートがかかったりすることがありますが、ここでも50年前後の力で押す演奏とは違い、旋律的な部分ではレガートがかかる部分が見られます。クレンペラーはこういう演奏もできたんだ、と声高に言うつもりはありませんが、これは指揮者の特質とオーケストラの特質が互いを補完して成された結果でしょう。また、ヘラクレス・ザールの音響の良さも手伝っているのでしょうか、非常にシンフォニックに響きます。
 ソリストのリンデルマイヤーはトレッシェルより安定した歌唱に聞こえます。流れるような柔らかいチャーミングな声質で私には好みの歌です。高低の声質が変わらないのも素晴らしい。
 音質ですが、物理的な音だけをいうとこの盤はあまり良いとは言えません。音そのものは極端に悪いわけではないのですが、Dレンジは狭く、若干こもったような音質で、ちょっと遠めで楽器の分離はあまりよくありません。しかし、この演奏は、EMIでリリースされた2番のようにもう少し良い音で聴ければ、非常に高く評価されるのではないでしょうか。全体の構造上も全く不自然なところがありませんし、スタジオ録音とは別の表情を見ることが出来て貴重だと思います。

(5) クレンペラーの唯一のスタジオ録音。2番と同時期、恐らくクレンペラーの表現的、即物的傾向と年齢的成熟が一番バランスのとれていた頃の演奏で、スケールの大きい構築感がこのやや編成の縮小されたMahlerの曲に古典的な佇まいをもたらしています。この曲の一種の軽さや浮揚感、宗教的お伽話感覚を演奏に求めようとはしていないのでしょう。この録音に限らず、残されているライヴを聴いてもクレンペラーの演奏には感覚的な嗜好は全くありません。
 冒頭の鈴の音はゆったり落ち着いた雰囲気。この冒頭のテンポはでもこれほどうきうきさせない鈴の音もあまりないと思います。鈴の音は1楽章でも数度、終楽章でも回帰して、かなり象徴的に使われていますが、クレンペラーの場合それをまるで意識しないかのように淡々と演奏しています。
 第2楽章はレントラー風のスケルツォでしょうが、ここでもクレンペラーはそういったことをほとんど感じさせません。ここでMahlerは死神ハインが演奏する、として全音上げて調律したヴァイオリン・ソロを使っています。ヴァイオリン・ソロは特徴的なそして戯けた音型で度々顔を出します。Mahlerの意図は、違う世界の異質なものが、現世界に出入りしている、というちょっとオカルト的でもありメルヘン的でもあるような効果を狙ったものだと思いますが、この演奏では、単にひとつの楽器のソロにしか過ぎません。
 第3楽章もどちらかというとインテンポの演奏で、楽章の性格からかいくらか旋律的な扱いですけれども全く感傷的にならないところがクレンペラーらしいところでしょう。この楽章前半は5番のアダージェットを思わせますが、この楽章を好まなかったクレンペラーとしては、当然のことかも知れません。感傷に寄ることを極力避けているかのようです。
 終楽章のソプラノ・ソロはシュヴァルツコップです。2番での歌唱とは随分表現が違います。合唱も含めた大編成の中では、強い声が必要ですが、ここでは純粋に管弦楽伴奏付きの歌曲の歌い方と言っていいでしょう。彼女の全盛期は、恐らく「ばらの騎士」やMozartの歌曲集、オペレッタあたりのMono期であったと思われますが、そうした歌い方と声がここからも聞き取れます。旋律を歌うというより歌詞を歌う、というところでしょうか。テンポが遅くて若干歌いづらそうな気がしますが、オペレッタを歌っているような歌い方です。歌唱について良いとか悪いとかより、実に味わい深い音楽になっています。

 この曲にスケールの大きい構成的な演奏を求めるとすればMahlerの意図とは少し違うかも知れません。他のMahlerの交響曲に比べても旋律的な部分が多く、ほんのちょっと弾力的に演奏すればメロディアスになるフレーズもクレンペラーは意識して平板に演奏しているかのようです。特にフレーズにつけられたクレッシェンド、デクレッシェンド、スフォルツァンド等は極めて控えめで、陰影が乏しくフレーズが浮き上がることがあまりありません。弱音記号pもあまり音量を抑えませんし、ffもfffもそれほど強調されていません。この曲に限らないことですが、クレンペラーの演奏様式はおよそ強調とかデフォルメから遠いところに位置しています。

I II III IV Total 増減
1. ケルンRso. E.トレッシェル(S)(54.2.21L) 15:50 8:51 17:10 8:15 50:06 -4:53
2. ACO. M.シュターダー(S)(55.11.10L) 16:26 9:06 19:06 8:33 53:11 -1:48
3. ベルリンRIASso. E.トレッシェル(S)(56.2.18L) 16:42 9:27 18:19 8:55 53:23 -1:36
4. バイエルンRso. E.リンデルマイヤー(S)(56.10.19L) 16:45 9:28 19:10 9:17 54:40 -0:19
5. PO. E.シュヴァルツコップ(S)(61.4) 17:59 9:59 18:08 8:53 54:59 0

 以上の5つの演奏時間を見てみますと、ケルンRso.との54年盤が若干早めのテンポをとっているものの、56年以降はさほどの違いはありません。ベルリンRso.以降は演奏様式の点でもそう変わってはいないようです。ただ、一貫して言えることはクレンペラーの演奏には、この曲の明るさ、天上の生活の明るさをほとんど感じさせないということです。終楽章の演奏についても、バイエルンRso.盤ではリンデルマイアーの声質とオーケストラの色彩感がわずかに明るさを感じさせるものの同様の感触です。これは言ってみれば、歌詞の内容はどうであれ、ほとんど「大地の歌」と同じアプローチです。
 演奏を聴く限りでは、クレンペラーにとって3楽章は重要な楽章であったように思えます。曲としては当然4楽章もあるのですが、クレンペラーの演奏で聴くと一度ここで区切りというか、一旦完結してしまっている印象があります。これは私自身、他の演奏ではあまり感じないことです。続く終楽章は回想か何かのように聞こえます。決してつながりが悪いとか、統一感がないとか、ということではありません。ただ、一般の演奏では、終楽章の天上の歌を含め、或いは効果的にこれを取り込むことで曲の一体感を作り上げようとしますが、クレンペラーの場合、突き放したようなところがあって、それ故、実に微妙なバランスを保っているように感じられます。

 この朗らかな作品の根底を見出すのは明らかに難しい。これについては多くの本が書かれてきたが、的はずれの憶測がほとんどだった。マーラーがほかでもなく伝えたかったのは−−この「ほかでもなく」は非常に重要なのだが−−平明な調生音楽であり、これは完全に成功しているのである。(1969.10 「指揮者の本懐」)

 クレンペラーが言うところの「平明な調生音楽」を再現しているだけ、という言葉は演奏を聴くと確かに頷けるますが、これはロマンティックな演奏に対しての彼特有の揶揄であったようにもとれます。「余計な解釈は不要。Mahlerはこう書いた」と。
(2) Audiophile
  APL 101.553

(3) Hunt
  CD 563


(4) Arkadia
  2CDHP590


(5) EMI
  5 67035 2
  A
  EAA-93091B(国LP)

  

M-7

Mahler:交響曲第7番ホ短調「夜の歌」

O.クレンペラー/NPO.
68.9
.19-21,24-28 Kingsway Hall, London (EMI) Stereo
EMI
CMS 7 64147 2


クレンペラー晩年の録音で、テンポはかなり遅い。60年代初めに録音された2番と4番は他の演奏と比べても特に遅いとは思いませんが、晩年の9番とこの7番は例を見ないくらい遅い。第3楽章はともかく、他のどの楽章も常軌を逸するほどのスローテンポ。恐らく一番遅い演奏かも知れません。ですから他の演奏を聞き慣れた耳には全く初めて聴くような印象を与えると思います。
 しかし、驚くことにこの演奏はMahler好きな方には結構高い評価を得ているようです。いくらクレンペラーがMahler直系の指揮者だったとしても、昔は考えられなかったことでしょう。この全く異質と言ってもいいような演奏のどこが今受け入れられる要因なのでしょうか。世紀末懐古趣味のせい?確かに最近、過去の巨匠と言われる演奏家の思いもかけなかった録音が随分手に入るようになりました。大量生産型の瑕疵なき製品に対しての反動でしょうか。

 Mahlerの交響曲の中でもクレンペラーはこの曲をそう頻繁に演奏しているわけではありません。1908年にプラハでMahler自身のリハーサルに立ち会い、初演も聴いていた(初演は1908.9.19)のですが、1968年のシーズンにこの曲を演奏するまでは遠く戦前の1922年ケルンでの演奏まで遡ります(「指揮者の本懐」にこの時の自身の解説が載っている)。その間一度も演奏していなかったようです。これは中間の3つの楽章はともかく両端の楽章はあまりに長くレトリカルだと感じていたからだったようです。確かにこの曲の両端楽章は他とは違った一種の遊びの要素が見られます。第1楽章のテノールホルンの音にも、5楽章の一見脈絡のないような連綿とした響きも。クレンペラーが6番に抱いていた感覚とは若干違うのでしょうが、この曲に関しては最後まで完全に納得していなかったのかもしれません。
 L&Tによるとロンドンでの初めての演奏はこの録音のすぐ後、68.10.1のフェスティヴァル・ホールでのものでしたが、そのあまりにも四角四面のテンポに評価は散々だったといいます。それもあって、後に発売されたこの録音も良い評価を受けてはいませんでした。

 1楽章からクレンペラーらしく、ただそこに音がある、といったザッハリヒな音楽です。テンポが遅さは、他の演奏で聴ける旋律線を全く分解してしまったようで、ただ恐ろしい音の行列と聞こえるかも知れません。
 2、4楽章もおよそセレナードという雰囲気を持ちません。Mahlerの書いたセレナードもそれらしくないのですが、クレンペラーの演奏はMahlerの意図した方向ではないでしょう。スケルツォも同様、演奏効果を無視したような、無愛想な演奏。
 終楽章の音楽は随分無骨にはしゃいでいます。Mahler的な旋律である限り私には純粋に明るい音楽だとは思えませんが、ロンドの形式をとっているので何度も同じ雰囲気が回帰してくると、どこかの宴会で酔っぱらいの法螺吹き話に付き合わされているような印象です。クレンペラーの演奏がまた大まじめにやるものだから、随分可笑しい。もうこれ以上ないくらい立派な様です。

 7番の演奏としてクレンペラーの演奏はスタンダードとはなり得ないでしょう。一般的に言えばこれはかなり特殊な演奏です。この曲に親しみを持つ、或いは曲の作りを聴くのであれば全く適さない演奏だと思います。全体にいえることなんでしょうが特に1楽章と2楽章では全く別の音楽を聴いているようです。Mahlerが考えていた対称構造の効果もほとんど感じられません。演奏上、中間3楽章の対比が希薄だからです。終楽章は音楽内容を別としても2番と似たアプローチが感じられます。クレンペラーにとってこの曲の解決法は大まじめにこの楽章を演奏することによって得られるものだったのでしょうか。
 私はこの演奏を好んで聴きますけれど、クレンペラーを代表する演奏か、と聴かれればちょっと躊躇します。ここに聴かれるクレンペラーの演奏様式はおどろおどろしいばかりに音楽の骨格を暴いてしまいます。全くクレンペラー的であり、誰も真似の出来ない(誰も真似をしないですね)演奏でもありますが、もう5年くらい早く録音していれば表情はかなり変わっていたと思います。これはこれで、聞き慣れてしまうと他の演奏が随分ひ弱に聞こえてしまうのは確かなのです(でも恐ろしいことです)。

 この曲の構成に関してはどの本にも第3楽章スケルツォを中心とした対称構成について書かれています。そしてこれは第3楽章を挟む部分がセレナードと名付けられていることから来ています。
 この中央に置かれたスケルツォはMahlerのスケルツォでもかなり変わった構成でしょう。曲としては聴いていて面白いのですが、この楽章は何か捕まえどころのない印象を与えます。この曲は偶数楽章(つまりセレナードの部分)が先に出来てあとから奇数楽章に差し込んでいます。短絡的に想像すると、このスケルツォは2つのセレナードを繋ぐために作られたのでしょうか。スケルツォを入れるとしたら構成上ここしかありません。必然的にこの3つの楽章を1,5楽章でサンドイッチする形が生まれます。
 この曲に限らず、こうした対称構造はMahlerの他の交響曲でもよく言われることですが、これは演奏効果と楽章の構成バランスの問題であって、内的な問題ではないと思います。Mahlerは楽章の配列や構成にはこだわっているように見えるのは、どうも彼のストーリー指向も絡んでいるように思えます。これは後の、例えばBartokあたりに見られる対称構造の考え方とは全く違うといっていいでしょう。Bartokの場合はそれが聴衆に意識されようとされまいと、かなり意識的に音楽の内的構造に関わっています。Bach的、とも言えるでしょうか。Mahlerの場合も古典的構成ではありませんが、これはどうも演奏効果とバランス感覚のためだったように思います。