Brahms:交響曲第1番ハ短調op.68 (1) O.クレンペラー/ベルリン国立歌劇場o. 28.2.3 (Parlophon) Mono (2) O.クレンペラー/ケルンRso. 55.10.17L Grosser Sendesaal, Köln Mono (3) O.クレンペラー/PO. 56.10.29,31,11.1,57.3.28 Kingsway Hall, London (EMI) Stereo ![]() |
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(1) Koch 3-7053-2 HI Archiphon ARC-121/25
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![]() 第2楽章は後年の録音と驚くほど似たテンポの演奏。晩年の演奏でもクレンペラーは緩徐楽章を遅くは振らなかったものの、Archiphon盤の時間表示によるとEMI盤より遅い。 終楽章は出だしのAdagioこそゆったりしているものの後半のAllegroは速い。Allegro以降は盛り上がりながらも何カ所か息を継げるところがあって、そこで一旦テンポを落としたりして高揚感を維持していく演奏が多いのですが、この演奏の場合、そのままインテンポで最後まで突っ走ってしまいます。後年のクレンペラーの演奏からは想像できないほどの速さです。これはPolydorへのBeethovenあたりで聴かれるおっとりとした、特にこれと言った個性が感じられない演奏ともかなり違う表情を持っています。録音の雰囲気も違いますし一概に断定できないでしょうけれども、どうも、クレンペラーのSP録音の中でも初期の(25,6年頃までの)演奏とそれ以降の間には大きな演奏様式上の変化があったのではないでしょうか。クレンペラーがクロル・オペラの音楽監督になったのは1927年のことで、このあたりからかなり急激に個性的な表現主義的演奏に傾いていったように感じられます。 ![]()
この演奏は、クレンペラーがEMIのスタジオ録音前年にケルンへ客演したときのもので、記録によればG.ロンドンとのMahler「亡き児をしのぶ歌」と同日の演奏です。残念ながらBella Musica盤は録音状態があまり良くありませんが、ライヴらしい熱気のある演奏で、スタジオ録音とはかなり違った印象です。全体の演奏時間は上記のベルリン国立歌劇場o.との録音より短い。面白いのは、速い楽章が遅くなり、遅い楽章が速くなるといった傾向が演奏時間からもはっきり見えることです。戦前の演奏は、表現主義的な激しさを持っているものの、極端な緩急の差をつけた当時の演奏様式感をもっています。恐らくこうした様式はクレンペラーに限らず、フルトヴェングラーやワルターなどでも同様で、それぞれの個性というより、時代的な要請だったと思います。劇場は現代の芸術的志向より遙かに物見せ的であったでしょうし、聴衆も今より遙かに楽しむことを求めていたことでしょう。演奏家はまず聴衆を興奮させ、熱狂させることが必要でした。クレンペラーの場合、聴衆に安易に媚びることのない非常にドラスティックなやり方だっただけで、基本的には当時の演奏様式に沿ったものだったと思います。それが、戦後になり興奮と熱狂のための衣がはがれてきたとき、次第に見せるためのドラマツルギーは後退し、ただひたすら曲の再現に精力を傾けることとなります。 ![]() 第2楽章の美しい木管、後半のヴァイオリン・ソロとホルンのやりとりの美しさにみられるオーケストラの音色とともに、クレンペラーのしっかりとした造形の確かさが、Brahmsのこの曲を必要以上に重くしていません。端正な表現と言ってもよいでしょう。両翼のヴァイオリンも効果的です。 尚、ハイドン変奏曲(54年Mono録音)を除くBrahmsのオーケストラ曲は、56年から57年にかけて集中的に録音されていますが、途中に中断があります。この曲の録音日を見るとわかるように、56年末、正確に言うと56年11月2日以降セッションは中断し、翌年3月になって再開されます。これはクレンペラーの妻、ヨハンナが亡くなったことによるものです。ヨハンナについて「クレンペラーとの対話」で自身が話している部分を引きます。 それからわたしはケルンに行きました。ケルンはストラスブールよりずっとカトリックの強いところです。そこでわたしは生涯のよき伴侶になると思われる人をみつけ、一九一九年に結婚しました。彼女の名前はヨハンナ・ガイスラーといい、歌劇場の主役ソプラノ歌手でした。彼女はミニヨンや、『魔弾の射手』のエンヒェンのようなおてんば娘の役を演じていました。そのコロラトゥーラは非常になめらかで、『魔笛』の夜の女王まで歌いました。ところで、カトリック教徒にとって結婚はひとつの秘蹟です。つまり、名前を登記するだけのものではないのです。それでわたしは毎晩イエズス会の神父のもとにかよって教えをうけました。 ヨハンナ・ガイスラー(Johanna Geissler)は当時ケルン歌劇場のソプラノ歌手でした。生まれてすぐ預けられた里親はあまり感心できる人間ではなかったらしく、生活環境もかなり劣悪であったようです。しかしこの環境から彼女を救ったのは生来の声の良さで、僅か14歳の時にハノーヴァー歌劇場に入り端役を演じ始めます。その後デッサウ、ヴィスバーデン、マインツと移り、1916年ケルンへやってきます。上記「クレンペラーとの対話」の引用中「おてんば娘」はスーブレット(soubrette)の訳語ですが、当地ではこうした役柄で評判になったそうです。 クレンペラーがケルン歌劇場へ移ったのは1917年のことで、ヨハンナと結婚したのは1919年、クレンペラー35歳。 周知の通りクレンペラーの女性関係は若い頃からかなり問題がありました。自身の言を借りればその「インモラル」な性格により、しばしば大きな事件を起こしています。それはこの結婚以前はもちろん(エリザベート・シューマンの件等々)、この後の生涯の中でもいくつものエピソードを生んでいます。自分のことを「インモラル」と言って憚らないのは、何も口の悪さだけではなく、引き起こしたスキャンダルの数々を十分自分の性格によるものとして認識していたからでしょう。これは現代でいうとセクハラ親父、その行動からすると思いこんだら止まらないエロ親父といったところ。女性問題で職を棒にしたことさえあったのですから、晩年までこの職業でいられたのは不思議なくらいです。マスコミの発展した現代ではまず生きながらえることはできなかったでしょうね。 結婚するときにヨハンナの耳にも当然クレンペラーの醜聞が入っていました。同じ歌劇場にいたことはなかったものの、狭い地域の同業者です。しかし、役柄同様、陽気で細かいことに気をかけないおおらかな性格がこの結婚に結びついたようです。そしてクレンペラーのその後の人生でいくつもの転換期に陰の力を発揮することとなります。ヨハンナはユダヤ系の血筋ではなかったようなので、クレンペラーと一緒にならなければもう少し平穏な人生だったかもしれません。 でも、この妻ありて初めてクレンペラーの芸術を今日私たちが耳にすることができるんですね。ただ感謝・・・。 さて、以前から体調を崩していたヨハンナの病状が悪化したという知らせがクレンペラーの元に届いたのは11月1日。次の日クレンペラーはヨハンナの入院しているミュンヘンに戻りますが、翌日の夕方にヨハンナは帰らぬ人となりました。68歳。葬儀はカトリック式により11月6日同地で行われました。参列したのはクレンペラーと2人の子供の他はE.ヨッフム夫妻だけだったといいます。次の日にはロンドンでのリハーサルに戻っています。 クレンペラーはレコーディングとコンサートを平行して行っていましたから、この時も3日間のBrahmsチクルスが予定されていました。L&Tによるとそれは11月2日、9日、16日。日にちが空いているのはく録音の日程にあわせて、コンサートの日程を調整していたためでしょう。上記のリハーサルは多分9日の分で、11月2日の分は当然中止か延期された筈です。
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(2) Bella Musica BM-CD31.6005 ![]() |
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(3) EMI CDM7 69651 2 EMI SXLP 30217(英LP)
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