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部屋は散らかるものである



 自慢にもならないが、私の部屋は汚い。床には、本やらメモ帳やら様々なものが散らばっているし、掃除機もここ何ヶ月かほどかけた覚えがない。この前、我が家に知人を招いて遊んだのであるが、持ち運びできるCDラジカセの裏にでっかいホコリが落ちており、知人たちは驚いていた。「こんな凄まじいのは見たことはない」みたいなことを言ってたような気がする。
 しかし、である。非常に勝手な物言いに受け取られるかもしれないが、私の部屋は汚くて当然だ、と思っている。なぜならば、これは、私の部屋においてエネルギーが作り出されている証拠なのだからだ。
 確かに、床には、本やCD,メモ帳・ノート・ルーズリーフ・文献のコピーなどが、乱雑に散らばっている。けれども、よく見てもらえば分かるのだが、そのほとんどはホコリをかぶっていない。これは、私がこの部屋において、それらのものを常に活動させているためだ。他人から見ると雑然と、というよりは汚く散らかっているように見えるこの部屋も、私にとってはきちんと利用できるように分類されている。ちなみに、私の部屋には机がない。狭くて置けないのだ。そのためにコタツを使って、雑用やら仕事やら勉強やらをしているのだが、コタツの座椅子に座って、右側の床に研究に関するものを、左側の床に趣味や遊びに関する物を置くようにしている(布団を敷くときは、このコタツを窓際に動かさねば敷けないのではあるが)。他人から見ればさっぱりわからなくても、私にとっては、そのような棲み分けがきちんとなされている。つまり、私の場合は、床が机の役割を果たしているとも言える。
 さらに言えば、私の部屋にはゴミ箱もあるし、廃品回収に出すためのいらないプリントなどを入れておくためのボックスも置いてある。私が部屋の中で何らかの活動を行えば、何か新しいものが生み出されると同時に、そのために使われて用済みになったゴミも出る。こうした無駄な老廃物が私の部屋にたまれば、生産に害を及ぼしかねない。それゆえに、ゴミ箱や廃品回収ボックスを置いて老廃物を別の場所に保管することによって、私の部屋での活動の妨げにならないようにもしてあるのだ。
 これは、きちんと使われている台所が雑然としているのに似ている。台所はその家ごとに味の好みの違いなどから、同じような間取りで、同じような食材や調味料があったとしても置き場所はそれぞれに違うのが普通だろう。それが他人からは乱雑に見えても、使っている本人からすれば、その人やその人の家のための実用性を重んじた結果として、雑然としているにすぎない。
 ただし、勘違いしてはならないのは、汚ければよい、というわけではないことである。例えば、台所の流しに黒い正体不明のものがこびりついていたり、何日前だか、何週間前だかに使った食器がほったらかしにされたままだったり、冷蔵庫の中にいつ作ったのかすら覚えていないカレーの残りが放置されていたり、ということがいいわけではない。
 これは、仕事をしていないことであり、分類能力がゼロであることを現しているにすぎない。つまり、そこにおいて自らの活動する環境が、自分では作り上げられないことを、身をもって証明しているようなものだ。そういう場所の汚さは、生気に満ちた雑然さではなく、ドロドロとした病的な汚さとなってしまう。

 もちろん私の部屋にもホコリをかぶっているものもある。それは、さっきも言ったCDラジカセの裏だとか、本棚の上やパソコンラックなのであるが、これは動かす必要性がないからホコリをかぶっても当然だと思っている。それが怠慢であり、掃除をきちんとしろ、という反論があるかもしれない。また、ゴミ箱や回収ボックスを置いて老廃物を溜めるならば、さっさと捨ててしまえばいいじゃないか、と言われるかもしれない。そして、同じ部屋ならば、汚いよりも綺麗な方がいいに決まってるではないか、という意見は、恐らく一番強く主張されるだろう。しかしながら、こうした意見は、綺麗に保つことがいかにエネルギーを必要とするか、ということを残念ながら失念している。
 年末に「大掃除」と称して、家中の掃除をすることが、年中行事となっている家は多い。これは家族全員で行われるのが常である。うまいこと逃げ出すヤツもいっぱいいるとは思うけど。それはともかくとして、大掃除と呼ばれているように、これには膨大な時間がかかる。膨大な時間がかかるということは、そのために使わねばならないエネルギーもまた膨大であることを意味する。日常的にきちんと掃除をしようとすれば、膨大なエネルギーがいるからこそ、年末にまとめて大掃除をするのだ、と言える。つまるところ、ある場所を常に綺麗に保つためには、とんでもなく手間暇をかける必要があるのだ。だからこそ、掃除のオバサンやオジサンは偉いのであり、主婦は大変なのだ。これらの人々はそれが自分の仕事なのであり、プロとしてしっかりと働けばよい。問題なのは、それが自分の本職ではない人たちだ。
 掃除というのがエネルギーを使うものであることは、逆に言えば、掃除をせねば気が済まない人は、掃除をしないとエネルギーを持て余している人なのかもしれないのだ。つまり、自分自身のエネルギーの使い道が分からない人間は、やることないから掃除でもしようかな、ということになってしまう。そして、ただ綺麗なだけで、そこで何らかの仕事が行われているような熱気が感じられない、寒々とした部屋になってしまう。
 綺麗なだけの台所では、ちっとも生活感が感じられない。そこで本当に料理が作られているようにも思われない。台所は雑然としていてこそなんぼのものだ。何を料理するべきか分からない人の台所は、いつまでたっても綺麗なままである。
 これと同じで、自分がそこで何をすべきか分かっていない人の部屋は、ただ綺麗に整頓されているだけでしかない。綺麗に整理することにしか、エネルギーを使えないのであるから当然であろう。そして、綺麗にして自己満足しているにすぎない。
 これとは逆に、病的に部屋が荒れている場合がある。これは、エネルギーの使い道がまったく分からない証拠であり、ただ感情のおもむくままに暮らしているようなものだ。自分が何をしたいかも分からず、ただそこで生きているだけでは、部屋は汚れて行くだけであろう。
 「別に自分の部屋で何かを作り出す気はない」と言う人もいるだろう。それはそれで構わないと思う。でも、その場合には、自分の部屋は、エネルギーを蓄えるための休憩場所となるべきだろう。他の場所に行って、エネルギーを費やして仕事をして、自分の部屋で休息とリフレッシュを図る。それはそれで、そのための環境を整える必要がある。そのためには、いちいち綺麗に掃除をしている暇などないはずだ。そんなことにエネルギーを使えるほど元気なようでは、やっぱりいけないのだ。結局は自分のやるべきこと・やりたいことに、力を注ぎ切れていないことを、自分で証明してしまっているのだから。ダラダラと過ごしていれば、仕事の場であろうが休息の場であろうが、自分の部屋を自分のための環境として整えることはできない。ただむやみに整頓されているだけの部屋か、病的に散らかっているだけの部屋になってしまう。
 人間はやりたいことを見つけて初めて、エネルギーの使い道が分かる。そして、やりたいことにエネルギーを使い始めれば、自然とそのための環境づくりを行い始め、雑然としたように見えながらも、生気に満ちた生活の場を作り出すのだ。
 部屋は綺麗であればいいわけでも、汚ければいいわけでもない。そこで何を行い、そのための環境が作り上げられているか、ということこそが大事なのである。部屋を掃除する前に、自分がきちんとその部屋を活用しているか、ということをまず考えるべきだろう。


    

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