トップに戻る  インデックスに戻る


手塚治虫の着陸

〜吉田秋生『ラヴァーズ・キス』の持つ意味〜


 吉田秋生『ラヴァーズ・キス』(フラワーC、小学館、全2巻)は、ニューヨークを舞台にした傑作アクション巨編として名高い『BANANA FISH』の後に描かれた、現代の鎌倉を舞台としたラブ・ストーリーである。そして、マンガの表現方法の新たな道を切り開いた、素晴らしい作品である。残念ながら、未だかつて、誰もこのことについて述べていないようではあるが。

 藤井朋章はある産婦人病院の一人息子であり、今は一人暮らしをしていたが、数多くのオンナと遊び、妊娠させて父親の病院で子供をおろさせこともあるといった悪い噂がつきまとっていた。藤井と同じ高校に通う川奈里伽子も、過去の事件から男性に対してある種のトラウマを抱えながら、男友達と遊び歩いている女性であった。そんな里伽子は「ロクデナシ」とあだ名される藤井に、なぜか惹かれていく…。
 そんな藤井と里伽子の関係は、周りの人間にも影響を及ぼしていく。中学時代からの藤井の後輩である鷺沢高尾は、密かに藤井へ恋心に近い憧れを抱いていたが、幼少時には一緒にピアノを習っていた仲でもある里伽子に対して、嫉妬している自分に気付く。そんな鷺沢もまた、高校の後輩である緒方“オオサカ”篤志に「好きや」と告白される…。
 里伽子の妹である依里子にもまた、好きな「ひと」がいた。それは、里伽子の親友である尾崎美樹であった。だが、美樹の好きな「ひと」は、依里子が大嫌いである姉の里伽子であった…。

 このような、人間関係の中で物語は進んでいく。これだけを見れば、少女マンガによく見られる、異性愛もあり同性愛もある恋愛ものと何ら変わるところのない作品のように思える。それどころではなく、人によっては、これは退屈な作品に映るかも知れない。実際、私の周りにも「面白い」と言う人間はあまりいなかったし、吉田秋生の他の作品をあらかた読んでいるある知人の女性は「一巻の途中まで読んで、読むのをやめた」と言っていた。
 私自身も、始めは「面白くないな」と感じた一人である。私は単行本化されてから読んだのであるが、藤井と里伽子の話だけで終わってしまう一話と二話を見た時点では、何の盛り上がりもない作品だなと思ったのである。
 さらには、雑誌の連載でこれを読んでいた人は、もっとつまらなく感じていたかも知れない。『ラヴァーズ・キス』は、月刊誌である『別冊少女コミック』に、1995年4月から1996年2月まで連載されていたのであるが、隔月連載であった。単行本化されて続けて読んでも、始めのうちはあまり面白くなかったのであるから、一話ごとに二ヶ月も間をおいて読めば、さらにつまらなく感じたであろうことは、想像に難くない。
 それでも、この『ラヴァーズ・キス』は、そこそこの評価を得ているようだ。例えば、『このマンガがえらい!』(宝島社)で行われている、1000人アンケートによる1996年に出版されたマンガの人気投票では、総合順位で50位、少女マンガ部門で7位にランクされている。

 もちろん、最後まで読めば、『ラヴァーズ・キス』はたしかに面白い恋愛マンガであることが分かる。しかしながら、『ラヴァーズ・キス』の最大の特徴は、その物語に面白さにあるのではない。そうではなく、物語を紡ぎだしていく構成に、より注目しなければならない。この点において、この作品は単なる恋愛ものと明らかに一線を画すのであり、そこにこそ、この作品の真価がある。そして、このことには、少なくとも第三話を読み始めるまでは、気づくことが出来ない。
 『ラヴァーズ・キス』は全六話から構成されており、一話と二話は藤井と里伽子が、三話と四話は鷺沢と緒方が、五話と六話は依里子と美樹が、それぞれ中心人物となっている。そして、最大の特徴は、それぞれのペアの物語は、他のペアの物語と同じ時間に進められていっていることである。つまり、まず始めに、まず第1話と第2話で、藤井と里伽子の物語が進行していき、彼らの恋愛が進行していく様が描かれる。そして、その同じ時間に、それぞれのペアがどのように思い、悩み、そして行動したのかが、第三話以降で描かれているのである。さらに、最後まで通して読むことによって、藤井と里伽子の章では謎とされていた、ある事件の真相が明らかになる。
 つまり、『ラヴァーズ・キス』は、登場人物の別々の視点から見たストーリーを描くことによって、より大きな物語を構成させる手法をとっているのである。このような多重構造の構成を持つストーリーからなる恋愛ものは、私の知る限り、これ以前には存在していない。もちろん、いかなる恋愛マンガにも主人公だけではなく、脇役の行動は描かれている。しかしながら、たいていの場合、主人公が中心となった1つの大きな物語の中に、その他の登場人物が組み込まれているにすぎない。たとえ脇役が魅力的な人物であったとしても、この構造は決して変わらないことがほとんどである。いわば、一枚の絵の中に、中心となる事物が描かれ、それを引き立てるものがいくつも描かれている状態に近い。これに対して、『ラヴァーズ・キス』は、それぞれ微妙に違う魅力的な3枚の絵があるが、3枚すべてを1つに重ね合わせると、まったく違った一枚の素晴らしい絵が完成するのに近い、と言えようか。つまり、3本ともバラバラなストーリー展開を持ちながらも、それらすべてを読んだとき、1つの大きなストーリーが完成する、鮮やかな構成になっているのである。

 ところで、私は先に「このような構成をもった恋愛マンガを知らない」と書いた。つまり、恋愛マンガ以外ではこうした構成を持つマンガが存在していたのである。その草分け的存在が手塚治虫であることは言うまでもないだろう。手塚治虫はこうした構成を持つマンガをいくつも描いてきた。初期作品である『罪と罰』から、『火の鳥』・『アドルフに告ぐ』・『きりひと讃歌』などに到るまで、数多くの作品がある。こうした作品は、複数の登場人物のストーリーを同時進行的に展開させながら、1つの大きな物語を作り上げる構成をとっている。
 これは、手塚治虫が新たに作り出したマンガの表現方法と、深い関係がある。これに関しては、呉智英氏の評論が参考になる。呉氏は、「ある戦後精神の偉業−手塚治虫の意味」(『サルの正義』(双葉社)所収)において、手塚治虫は1シーン=複数コマの形式を作り出したと論じる。手塚治虫以前のマンガは、油絵や日本画の原則である1シーン=1コマの原則にとらわれていた。つまり、1つのコマの中で、すべての動きを完結させてしまい、次のコマでは新しい動きを始める、という紙芝居のような形式で描かれていた。ところが、手塚治虫は1つのシーンを複数のコマにわたって描き始めた。1つのシーンを複数のコマに分解することによって、ある1つの現象を濃密なシーンとして描き得たし、逆に、複数の動きを1つのコマに描くことによって、複数の現象を集中させることも可能になった。
 現在のマンガでは当たり前のようなことであるが、これは革命的な転換であった。そして、この転換によってこそ、マンガは物語の表現メディアとして大きく羽ばたくことができた。物語を表現するメディアには、映画やテレビドラマや演劇、そして小説などがある。しかしながら、映画・テレビドラマ・演劇では、場面が動き続けているために、1つの場面に複数の現象を同時に描くことは極めて難しい。できたとしても視聴者が理解できなくなる恐れがある。小説では、読者の判断によって、頭の中で場面を自由自在に動かしたり止めたりできるが、文字表現であるために、ある1つの現象をそれ以外の現象とは区別して濃密に描くことが難しい。もしやったとすれば、文字の数が増えてしまい、冗長な感じになってしまう。このように、他のメディアでは不可能な、マンガ独自の物語の表現方法を手塚治虫は生み出したのであった。
 そして、こうした表現方法は、マンガにおける物語の構成方法にも、新たな手法を与えることになった。つまり、物語の展開に応じて、1つの現象を濃密に描くことも、複数の現象を同時に集中させることも、可能になった。すなわち、複数のストーリーを微妙に絡め合わせて物語を構成する、立体的な表現方法をも可能にしてしまったのである。こうした表現方法によって、マンガは他のメディアには不可能であった、物語の時間と空間を自在に操ることができるようになった。そして、これによって、先に述べたような、複数のストーリーを同時に進行させつつ、1つの大きな物語を描いたマンガを、手塚治虫は次々と創り出すことに成功していくことになる。

 それでは、その死に至るまで、精力的にマンガを描き続けていた手塚治虫は、こうした構成を持つ恋愛マンガを書いたのであろうか? 残念ながら答えは否である。すでに夏目房之助氏が『手塚治虫の冒険』で指摘しているように、手塚治虫は、現在で言うところの恋愛マンガとスポーツマンガを書かなかった。というよりもむしろ、書けなかった。それは、手塚治虫が俯瞰的な視点から物語を構成する手法を取っていたためである。こうした俯瞰的な視点=上から世界全体を見下ろす視点から物語を紡ぎだしているために、行為者のプライヴェートな視点から作品を描くことが欠かせない、恋愛マンガやスポーツマンガは、手塚治虫には決して描き得ないものであった、とする夏目氏の指摘は正鵠を射ている。
 そして、誰よりも、手塚治虫自身がこうした俯瞰的視点から描く自分自身を認識していたことは、すでに呉氏が「神の視点を目指した男」(『サルの正義』(双葉社)所収)で指摘していることである。呉氏が言及している、死後に出版された『ガラスの地球を救え』(光文社)では、手塚治虫は次のように述べている。「ぼくはマンガを描くとき、主人公はもちろんのこと、登場人物からうんと距離をおいて見ることにしています。そうするとぼくは一種の造物主みたいな気持ちになる。つまり造物主として、逆に自分でも悪を登場人物に吹き込めるみたいな感じで描いていけるわけです。彼らを自由に操って、自分は眺めながら指示できる立場だと思うと、ものすごく創造の特権、意識を感じる。つまり、色々な人生を手玉に取り、法則をとりしきったり運命のプログラムを好きにできるという、いわば創造主としての悪事を非常に感じます」(151頁)。
 このように、天空の高みから造物主のように作品を作り上げているために、手塚治虫は壮大な歴史物語を描けても、極めて平凡な生活の中に生まれる日常的なストーリー、つまり俯瞰的な視点からではなく、登場人物と同じ高さの視点から描き出される物語を、紡ぎ出すことはできなかった。もちろん、手塚治虫が作品の中で恋愛やスポーツを描かなかったわけではない。そうではなく、俯瞰的な視点を持つ高みへと飛翔し続けた手塚治虫の描く恋愛は、その制作者の位置ゆえに、登場人物の外面の動きをなぞったものではあっても、内面の微妙な心理を描いたものとはなり得なかったのである。

 これとは逆に、手塚治虫のような俯瞰的視点からではなく、登場人物の視点から描かれた恋愛マンガは、その対象とする読者層がどこにあるのかを問わずに、男女間の微妙な心理を、様々な形で鮮やかに表現することに成功している。これは改めて具体例を挙げる必要もないことであろう。実際に、恋愛マンガは、その他のジャンルの恋愛ものを、圧倒するようにすらなっていく。TVドラマの原作として恋愛もののマンガが使われることは、もはや珍しいことではない。1995年には、某ドラマの内容や台詞が、紡木たく『ホットロード』(マーガレットC、集英社)に酷似しているために、TV局側が謝罪するという事件すら起きている。
 また、1987年には、ある出版社の新人賞の小説が、とあるマンガの盗作だ、という騒ぎが起こった。男子高校生を主人公としたそのマンガこそ、実は他ならぬ吉田秋生の『河よりも長くゆるやかに』(フラワーC、小学館)であった。そもそも、恋愛もののマンガと、恋愛ものの小説の出版部数を比べてみれば、恐らく前者の方が圧倒的に勝ってしまうのではなかろうか。
 マンガは、TVドラマや小説といった他ジャンルに肩を並べ、場合によっては圧倒するまでになったのである。そして、それは手塚治虫が描き得なかった、恋愛マンガにおいても同じである。
 しかしながら、恋愛マンガは、マンガだけが持ちうる表現方法を利用することによって、他のジャンルを圧倒したのであろうか。恐らく、そうではない。現在に到るまで、恋愛マンガはあくまでも物語の面白さとして優れていた、と言えるのではなかろうか。登場人物の視点から描かれた恋愛マンガは、物語としての面白さはあっても、手塚治虫のマンガが創り出した、マンガだけが持ちうる表現方法を、完全には駆使してこなかったのである。
 もちろん、絵とコマと吹き出しがあれば、それはマンガだ、と言えることも事実である。そして、マンガによって、素晴らしい物語を生み出すことは、間違ったことではない。けれども、それは、マンガだけにしか成し得ない表現技術を、捨ててしまった態度ではなかろうか。マンガには、TVや小説、さらには現実の世界で味わう物語や出来事とは、違った表現方法で描く技術が備わっている。これを放棄してしまえば、他のジャンルとどこが違うのか、ということになってしまい、さらには、マンガそのものの衰退にもつながるであろう。
 現に、携帯電話で新たな出会いを作り、素晴らしい「物語」を経験したい、という願望が若い世代に強くなってきた今、マンガの出版状況は今までになく落ち込み始めていると言われる。ただ、「物語」が優れているだけでは、小説がマンガに圧倒されたように、所詮は虚構の物語を描くにすぎないマンガは、現実世界で自分だけの素晴らしい「物語」を容易に生み出してくれる(ように見える)携帯電話に、取って代わられていくであろう。もっとも、相手の顔も見ずにつながっているという点では、携帯電話も所詮は見せかけだけの関係になってしまい、マンガのような虚構の物語と変わらなくなってしまう可能性は、十分にあるのだけど。それでも、自分が物語の主体となっていると感じさせてくれる点で、同じ物語でも、その感情移入の度合いがマンガよりも強いことは間違いない。だからこそ、マンガはマンガ独自の表現方法で、物語を生み出す必要があるのだ。

 『ラヴァーズ・キス』は新たな道を切り開いたマンガである、と最初に述べた理由はもはや明らかであろう。恋愛という日常的なテーマであっても、手塚治虫が生み出した、マンガだけの表現方法を用いた物語を作り出すことが可能であることを、このマンガは証明したのである。
 そして、このマンガの中では、手塚治虫の生み出した表現方法を、恋愛というテーマの中で生かしきるために、十分な注意が払われている。このマンガにも、普通のマンガのように、登場人物のモノローグが随所に挿入されている。よく観察してみると、各々のペアの物語の内で、モノローグを行う人物はそれぞれのペアの内の片方、つまり里伽子、鷺沢、依里子に限られている。もし、それぞれの物語の中で、複数の人間のモノローグがあれば、物語は手塚治虫のような俯瞰的な視点から描かれたものになってしまい、妙に説明くさいマンガになったであろう。そうではなく、モノローグを行う人物が1人に限定されることによって、それぞれのストーリーは、登場人物の視点からそれぞれの微妙な心理を描き出し、なおかつ「複数のストーリーから構成される1つの大きな物語」という、手塚治虫の手法を用いることに成功している。
 つまり、『ラヴァーズ・キス』は、「創造主として天空に存在し続けた手塚治虫」から、地上へと着陸することを成し遂げた、画期的なマンガと言えるであろう。この着陸の前段階である、地上への降下作業にあたるのが、同じく吉田秋生が描いた『桜の園』であることは間違いない。女子校生を主人公にしたこの『桜の園』では、1つの大きいなストーリーを4つに区切って、それぞれのストーリーを別々な4人の人物の視点から描いている。これは手塚治虫の物語の構成方法に近いが、まだ4つのオムニバスストーリーの寄せ集めの感が強い。しかしながら『桜の園』という降下作業があったからこそ、吉田秋生は『ラヴァーズ・キス』において、地上への見事な着陸を成し遂げたのである。
 はたして、この吉田秋生の「着陸」に続くのは誰であろうか…。

〔本文中で言及した主な文献〕
吉田秋生『ラヴァーズ・キス』(フラワーC、小学館、全2巻、現在は文庫版で全1巻)
吉田秋生『河よりも長くゆるやかに』(小学館文庫)
吉田秋生『桜の園』(白泉社文庫)

『このマンガがえらい』(宝島社、1996年)
呉智英『サルの正義』(双葉社、1993年、現在は双葉文庫)
手塚治虫『ガラスの地球を救え』(光文社新書、1989年、現在は光文社知恵の森文庫)
夏目房之助『手塚治虫の冒険』(筑摩書房、1995年、現在は小学館文庫)

トップに戻る  インデックスに戻る