事務長

6月22日、曇り。
寒い日だが、予報ではなんとか雨に当たらずに済みそうな天気。
集合場所へはほぼ定時に全員が集合。
新人のI 淵・O池弟・usagi・ナイスガイ・ポストマン・ごんたの各氏と事務局の7名。
I 淵氏の愛車はBAJA。
デュアルヘッドライトがフレームに固定されていて、ハンドルを切ってもライトは動かないっていうやつ。
午前中仕事のペンギン氏は、午後から宿へ直行とのこと。
9時前には旭川へ向けて高速へ入り、砂川でゆっくり休んで集合時間の11時には鷹栖インターに到着し、セローY崎・たくらんけの両氏と合流。
去年も食べた「まるとみ(?)」で旭川のKFFR(K村農場フラワーレーシング)のK村会長・N島氏も合流。ラーメンで昼食。
セローY崎氏は、地図やタイムスケジュール(分単位)の入った綿密な計画書を持参。
宿には6時頃到着の予定とのこと。
事前にルートも確認済みだと言うし、旭川組の気遣いには頭の下がる思い。
その後総勢11名で林道に入る。

セローY崎氏が先導、最後尾をK村会長・N島氏にフォローしてもらい、ペースはまあまあだし大きなトラブルもなく、快調なツーリング。
ただし、場所は忘れたが早い時間に下り坂で急ブレーキに失敗して転倒。
以後、少し日和り気味。
午後3時過ぎ頃、日帰り参加のI 淵氏は給油に寄ったスタンドでメンバーに別れを告げ、札幌方面へ返って行った。
思えば彼とペンギン氏だけが、ノーダメージで札幌へ帰ったメンバーだったのではないだろうか。
その後も当麻エンデューロで使われたコースを走り回り、そろそろ宿へ向かおうかということになったのは午後4時頃。
この時一つの提案が出された。
このままオンロードに戻れば、約2時間の行程。
抜け道の林道を通れば30分か1時間の短縮になる。
「ただし、すげーコースですよ」とY崎氏。
どこがどのようにすげーのか、尋ねる者もあったが、何故かY崎氏は多くを語らない。
おりしもまるで5月上旬のような異常に気温の低い日で、寒くて退屈なオンロードを走るより楽しくて近道のオンロードを選ぶことに反対する者はいなかった。
「1時間の短縮のつもりで2時間のロスだったりして」と誰かが冗談を言ったが、当然誰しも冗談としてしか受け止めなかった。

それでは、と向かった林道に入った途端のことだった。
「合羽を着た方が良いですよ。なるべく体を露出しない方が良いと思います。藪が深くてダニに食われたことがありますから」と再びY崎氏。
この場では、メンバーはY崎氏の言わんとすることの意味を半分も理解していなかった。
とりあえず合羽を着込み林道を進んだが、現れたのは湿ってヌルヌルの赤土の上り。
ローギアでは尻が滑って真っ直ぐ走れず、サードではエンストしそうで、ギアをセコンドにキープしたままアクセルワークで調整しながら進む。
路面は時々グリップが良くなるが長くは続かず、油断してしてアクセルを開けると思わぬ滑り方をする。
それでクラッチを握ってしまうとたちまち泥にパワーを食われる。
モトクロタイヤを履いていれば良かったなどと考える余裕もなく、少しでもグリップの良さそうなルートを選ぶので精一杯だ。
この坂を越えればいつか路面も良くなるだろうと思いながら苦労して走るが、坂はいつまでも続き路面はいつまでも良くならない。
天狗山サーキットのエンデューロよりはましかなどと考えながら走っていたが、やっとヌタ場が終わるというあたりでとうとう転倒。

ヌタ場の上りが終わり、ほっとして間もなく、道幅が急に狭くなり両側は背丈を越える熊笹。
最初は熊笹の藪をハンドルで掻き分けるような道だった。
「そうかこの藪で濡れるから合羽が必要だったのか。でもダニに食われる程ではないな」などと思うことができたのは、ほんの初めのうちだけだった。
道幅は更に狭くなり、笹のトンネルをくぐって走るような状態になり、そのトンネルがどんどん狭くなって、ついには笹を押し倒して走るような状態になっていった。
こうなると前はほとんど見えず、顔を下げヘルメットで笹を掻き分けながら、路面を確認するのがやっと。
前を行くバイクのテールランプが見えていたうちは良かったが、やがてはそれも見えなくなった。
それどころか、路面さえところどころしか見えない。
こうなると、とりあえず勘を頼りに前に進むしかない。
実際、一度は道のつもりで藪の中に突っ込んでしまった。
なんとかバックして道に戻りまた走り続けるが、だんだん下りになり、しかも路面が滑りやすくなってきた。
さっきの上りは深さ5センチか10センチくらいのヌルヌルだったが、今度は固まった粘土の上に薄く泥が乗っている状態。
場所によっては、ブレーキをかけた状態でも4輪とも滑ってしまい、地面についたブーツもまったくグリップせず、文字通り滑り降りるしかなかった。
坂が緩くなっても、もうアクセルは開けられない。
セコンドギアでアイドリングのままで進む。
笹の抵抗がちょうど良いブレーキになって、早足程度のスピードだったと思う。
しかし、いったいいつまで続くのかと思っているうちに突然転倒。
起きあがってから見てみると、路面が斜めになっていた。
スキーで言えば斜滑降の状態で走っていたのだと初めてわかった。
しかもツルツルの路面。
おまけにそれが見えない。
多分この時、左のミラーがちぎれたと思う。
これがY崎氏の言う「すげーコース」の正体だった。

それでもとうとう視界は開け、道らしい道になった。
もう滑らないし、藪もない。
ほんとにすげーコースだったなあ、宴会の話題にするにはちょうど良いなあ、それにしても疲れたなあ、などと考えていた。
しかし、しばらく行くと道の決壊箇所が増えてきた。
先行のバイクが止まっていることが増え、みんなで決壊箇所を避けるルートを探し、どうにかクリアしていく。
何回目かの決壊箇所で、とうとうナイスガイ氏が転落。
バイクが水平状態で落ちたらしいこと、バイクと人間が別々に落ちたらしいこと、下はガレ場だったが尖った石がなかったことなど、いくつかの幸運によって人車とも大きなダメージはないようだった。
ロープを使ってバイクを引き上げて更に進んだ。
そして最後に幅50メートルくらいの河原に辿り着いた。

今まで何度か道が決壊し、川が流れている場所はあった。
それでもなんとか通れるルートを探し出し、とりあえずクリアしてきたのだが、ここは違った。
橋はあったが半分土砂に埋もれ、橋の上には数トンはありそうな巨大な流木が重なり合っていて、橋の機能はまったく失われている。
みんなであちこち歩き回り、渡れそうなルートを探したが、どこにも道はなかった。
雪解け水や雨のせいで鉄砲水が出たのだろう。
川の流れは強く、水の深さもあった。
この時、既に6時前後だったと思う。
1時間の短縮のつもりで2時間のロスという先ほどの冗談が、現実のものとなっており、更にどのくらい時間がかかるのか想像もつかなかった。
夏至を過ぎたばかりとはいえ、7時を過ぎれば日没が始まる。
宿に着いているはずのペンギン氏に連絡をしようにも、携帯は圏外でつながらない。

旭川組を中心に、何人かのメンバーは冷たい川の中に膝上まで入り、バイクの通れそうなルートを探し始めていた。
流れは急で、足をすくわれる場面もあった。
こんな川の中を走れば必ず転倒し、酷い目に会うに決まっている。
その時だった。
「ちょっと行って見て来ますわ」とY崎氏。
河原に降りる背丈ほどの段差を恐れる様子もなく、ジャックナイフ状態で飛び降りて行った。
当然バイクは直立して転倒したが、本人はバイクから飛び退き、バイクを起こすとそのまま跨って走り出した。
膝上から腰近くまである川の中を、もがきながらも中ほどの浅瀬まで強引に進み、その先からは何人かに支えられて押しながら進み、とうとう対岸にたどり着いてしまった。
対岸はゴロタ石の向こうがすぐ藪になっている。
しかしY崎氏はそのまま藪の中に分け入り、やがて見えなくなった。

土地勘のある旭川組のN島氏によると、この橋から林道の出口までは2キロかそこらだという。
でも、この川を越えた先の路面がどうなっているのかは誰もわからない。
もしかしたら同じような川が待ちかまえているかもしれない。
道から河原へ降りる段差は金網の中に石を詰め込んで作ってあり、ブロックのような四角い形をしている。
一度ここから河原へ降りてしまえば、何人かでバイクを引き上げるしか道には戻れない。
道に戻れなければ引き返すこともできなくなる。
だから、偵察に行ったY崎氏がどのような報告を持ってくるか待たなければ、バイクを下に降ろすわけにもいかないし、だいいち転ぶ覚悟がなければ一人でバイクを降ろすことさえ難しい。
その後徐々に黄昏が始まり、バイクのエンジンをかけライトをつけてルート探しを続けたが、やはり川の中を通るしか道はなかった。

Y崎氏は帰って来ない。
2キロくらいの往復であればとうに戻って来ても良いはずの時間が過ぎていた。
引き返した方が良いのではないかとも思うのだが、あの笹藪をまた戻るのも大変なことだ。
しかも今度は登って行かなければならない。
あの路面であの藪でその上夜道、来る時と同じペースで走れたとしても林道の入り口まで2時間かかり、そこから宿までは更に2時間かかる。
今からすぐ引き返しても宿に着くのは11時だ。
途中には決壊箇所もあるし、女性もいる。
(こういうのを遭難というのではないだろうか)
(救助を呼ぶか、でもどうやって)
(野宿するか、でも熊が出るんじゃないか)
ネガティブな考えばかりが頭をよぎる。
正直に言うと疲れ切っていた。
他のメンバーも口数が少なくなって来た頃、たくらんけ氏がバイクに跨った。
「俺もちょっと偵察に行って来ます」と言って段差を降りようとした時、川の向こうにY崎氏のバイクのライトが光った。

「林道の出口まで確認して来ました。距離は4キロぐらい。」
これで進む道は決まった。
とにかくみんなでバイクを押して、川を渡すしかない。
この時何時くらいだったのかはわからないが、全員が水に入り、何カ所かでリレーしながらバイクを押した。
水の中には見えない大きな石があり、バイクは何度もストップする。
一つの石を乗り越えるとすぐにまた別の石が邪魔をする。
コースを変えたりフロントを引っ張ったりしながら、全力で押す。
その繰り返しでようやく1台が川を渡る。
これを10回繰り返してついに全員が川を渡ることができた。
情けない話だが、川を渡った段階で完全に息が上がってしまい、岸から道へ上がる藪は自分でバイクを運転できなかった。

天人峡への分かれ道でK村会長・N島氏と別れ、宿に着いたのは9時30分ころだったと思う。
宿で待っていたペンギン氏も相当心配したらしく、札幌の我が家にも電話を入れたとのこと。
捜索願いを出そうにもどんなコースを走っているのかがわからず、思案に暮れていたのだと言う。
幸い食事は片づけられておらず、濡れた服もボイラー室で乾かせて貰えることになり、まずはひと安心。
風呂場では、ナイスガイ氏の太ももに真っ赤な打撲の跡を発見。
聞けば崖落ちの他に、川渡りの後にも転倒したとのこと、いかにも痛そう。
たくらんけ氏も手首が痛いと言っていた。
普段より早めに風呂を切り上げ、食事の席についたのはかなり遅い時間だったと思う。
ポストマン氏にささやかな結婚祝いを贈呈し、いつもの宴会になったが、染み渡るビールがことの他旨く酔いがどんどん回るのは久々の重労働のせいだろう。
部屋での二次会では、ポストマン氏提供の豊平舘ワイン(もちろん寿マークの)を飲んだのだが、どうやら飲んでいる途中でコップを握ったまま眠ってしまったらしい。

翌朝は全身が鉛のようだった。
首・肩・腕・腿が筋肉痛。
腰と膝が神経痛。
そして自分のだらしなさ、情けなさに心も痛んだ。
対照的に余裕があったのはたくらんけ氏。
朝から半袖で外に出て、整備不良でバカ重くなっていたゴンタ氏のクラッチワイヤに給油し、転倒で割れたアクセルグリップのカラー(というらしい)をなんとペットボトルのキャップでお洒落に応急修理するという、トヨキ仕込みの修理技術を見せてくれた。
もう一人、何事もなかったようにすがすがしかったのはY崎氏。
ああいう修羅場には慣れているらしく、ちょっと頑張ったかなといった程度の様子。
もちろん、何事もなかったペンギン氏は元気。

予定より遅く宿を出発し、予定より早く林道を切り上げて、二日目は軽いツーリングになったが、まともには走れなかった。
腿に力が入らず、体重移動のために腰を浮かすことができない。
気力が沸かず、強気の走りができない。
現状打破の決断力や実行力もなく、身体はすぐに息切れするような、口先だけのだらしないオヤジでしかなかった昨日の自分が情けなく、悲しかった。
その後遺症で満足な走りのできない今日の自分が悔しかった。

まあそんなわけで、多分30'sの歴史に残るであろう旭川ツーリングだったし、個人的には心身ともに打ちのめされるツーリングだった。
でも、どうやら旭川組は、このツーリングに対しては「けっこうハードで面白かった」という感想を持っているらしい。
おまけに翌週にはもっとハードな沢下りを敢行したとのこと。
「被虐的林道愛好家」恐るべし!彼らこそ本物の変態ライダーだ。

トップページ