あの頃のこと          事務長

 30's MOCが正式に発足したのは1988年、この年のメンバーは記録によると15名となっている。
クラブの名前や会費のことなどを決めるために最初のミーティングを行った場所は、当時M野氏が経営していた喫茶店だった。集まったのは5・6名だったように記憶している。
 
 30's MOCの命名者はM田至氏だ。正しくは「
30's Member's Offroad Club」。
設立当時のメンバーがほとんど30代だったため、今後も同世代の仲間と一緒に走っていこうという発想で、この名前を提案したのだろうと思う。
もちろん他にも案はなかったわけではないのだが、センスの問題がいろいろあって、賛同が集まらなかった。
例えば私は「山のおじさん」というネーミングはどうだろうとI 田 某氏に相談した記憶がある。
まだ自分たちがおじさんではないという立場に立ってのことだったのだが、今思えばこんなクラブ名にしなくてほんとうに良かった。

 
ワッペンは I 田氏がデザインした。
クラブ名の決定後、元美術部部長の彼にデザインを依頼したところ、なにやらイメージが湧いたとかでその場で紙の上にペンを走らせ、現在もユニフォームの背中を飾っている由緒あるワッペンの原型を描いてみせた。
このワッペンは当時札幌ではいちばんナウな街だった裏参道の「Three Quarters」という店で作らせたもので、クラブにはまだ在庫が6枚ある。

 
ユニフォームはトヨキ渡辺商会のご厚意によりゴールドウィンのものを割引価格で揃えたが、全員に強制ではなく、ツーリングウェアを持っていなかったメンバーが主に購入したように記憶している。
特別丈夫なものを選んだつもりではないが、ほとんどのメンバーが数々の転倒にもかかわらず今でも着用していることから考えて、結果として長持ちのする良い物を選んだと思う。

 規約や会則については、そのようなものは必要ないということで決めなかったが、30's の名前の通り
30代に限り入会を許すという不文律があった。
ところが、女性の入会者が現れたとたんに、女性の場合は20代であっても昭和30年代生まれなら入会を許すということに変わるなど、当時から女性には弱かった。
今では年齢制限のことなどあまり言われなくなっている。

 事務局を私が担当したのは、それ以前から案内状の発送などをやっていたからだと思われる。
「それ以前から」というのがいつ頃のことで、どんなことをしていたのか。そのあたりのことを思い出しながら、どのようにして30's MOCが発足に至ったのかを振り返ってみよう。
 手元に残っている案内状のうち、年号の入っているものでいちばん古いのは1984年3月のものだが、まだ勤務先にもコンピューターが導入される前で、和文タイプライターで作ったものだ。
 1984年6月の16・17日に**一泊ツーリングをやろうという内容で、自分が買ったDT200Rにはまだナンバーが着いていないこと、DT125がM田至氏に渡ること、T岡氏(後述)が岩見沢から札幌勤務に戻ったこと、I 田氏はKE125に、M田忍氏はXT250に、M野氏はDT250(DT1と同じデザインのタイプ)にそれぞれ乗っていることなどが書かれている。

 ちなみにこの時のツーリングでは、私はDT200R(初期型30馬力)を扱いきれず轍で前方宙返りしてガソリンタンクに穴を開け、I 田氏はチューブが破けて修理不可能となってチューブの代わりにフキの葉をタイヤに詰めて走り、M田至氏はリヤのドラムブレーキの故障でブレーキペダルが戻らなくなってペダルを足で掻き上げながら走ったという後日談がある。
 I 田氏・M田氏のバイクはいずれも私からの中古車で、トラブルの原因はもちろん前の持ち主の整備不良だと思われる。

 なお、M田忍氏が一時的な記憶喪失になったのはこの年9月のS冠ツーリング、M野氏が肋骨を骨折したのはその翌年あたりのことのようだ。
この両氏のアクシデント以来、我々の間ではブレストガードを着用するのが当たり前になった。

 ところで、**ツーリングを語るとき、T岡氏について述べないわけにはいかない。
T岡隆仁氏、愛称「つるさん」。氏は残念ながら数年前にクラブを退会しているが、実は彼こそが、*の沢林道を発見し我々に林道の楽しさを教えてくれた歴史上の重要人物だ。
 T岡氏がいなければ、我々が林道ツーリングの楽しさを知ることもなかったかもしれないし、ひいては30's MOCというクラブが存在することもなかったかもしれない。
当時彼は岩見沢に赴任しており、休みの日にはDT125に乗って一人で近郊の林道を走っていた。
そこで**渡から*張に抜けるルートを発見し、ここをホームグラウンドとするようになった。
特に*の沢林道では、林道を抜けるまでのタイムを計って、より早く走る練習をしていたそうだ。
当時からすでにモトクロスパンツを着用しており、それがFOXというメーカーのものだったので、岩見沢のキツネ男と呼ばれていた。
 そのキツネ男に案内されて私が初めて*の沢林道を走ったのが多分1982年頃、私がM田兄弟をその林道に連れ込んだのが1983年頃という順番になるのではないだろうか。
当時M田至氏がDT50、M田忍氏がXT250、私はDT125だった。
そしてこの3名に、I 田氏・M野氏を加えた5名が参加したのが前述の1984年のツーリングということになりそうだ。

では**ツーリング以前は何をやっていたのか。
ここに、年号の入っていない案内状がある。
千歳・支笏湖経由で洞爺湖まで走り、洞爺湖でキャンプして、翌日はルスツのモトクロスコースで遊んだ後、中山峠経由で札幌に戻るというものだ。
このうちダートは支笏湖から美笛峠を抜けて大滝村に至る20〜30kmだけだった。
 ルスツは当時大和ルスツと呼ばれており、今のような遊園地もなく、現在ゴルフ場になっているところにはモトクロスコースがあって、全日本の大会はたいていここで行われていた。
 案内状によると、30's MOCのメンバーとしては I 田氏(ベスパ125GTR)、T岡氏(ホンダR&P)、M至氏(モンキー)、K藤(カワサキKE125)が参加予定になっているが、I 田氏とT岡氏は4輪での参加だったような気もする。
特筆すべきなのはM田氏で、一泊ツーリングにモンキーで参加というのもすごいことだが、それよりも、モトクロスコースをモンキーで走った人を私は他に知らない。

まだオフロード志向が希薄だった参加者の多くが、多分このツーリングを境にしてオフロードに目覚めていったのではないかと思う。
 その後、1982年のことのようだが、I 田氏・M野氏・M田至氏・M田忍氏・K藤の5人は
中古のYZ125を共同で手に入れている。月々2,000円を集めて、燃料代とメンテナンス費用にあてていた。
やがて中古の
RM125も手に入れたが、YZの方が扱いやすさの面で優れており、RMはあまり可愛がられなかったようだ。
さらにもう1台YZが増え、最盛期には3台のモトクロッサーを所有していた。
 ただ、2台のYZのうち1台についてはどうしても思い出せない。
記憶にある1台は水冷YZで、水冷になったばかりのタイプ。
フロントフェンダーの上の、一般車でいえばライトの部分にラジエーターがあった。
水冷YZが2台目で、それ以前に空冷YZを所有していたのかもしれない。
あるいは2台目も水冷だったのかもしれない。

とにかくこの3台のモトクロッサーを使って、石狩浜近くにあったコースを走り回っていた。
といってもレースをやろうなどという気持ちはなく、その証拠に、しばらくの間はモトクロスブーツさえ持っていないメンバーもいて、軍手に長グツで走っていた時期がある。

 要するに、ただ走ることが面白く、技術的な勉強もせずに遊んでいただけだった。
その後YZ80を個人で購入する人も現れて、かなりの盛り上がりを見せていたのだが、しかしこのグループのモトクロッサー熱は、林道ツーリングという素晴らしい世界を発見するとともに急速に冷めていった。
このあたりの詳細はI 田 某氏の記事をご覧いただきたい。

 こうして見てくると、上記の5人にT岡氏を含めた6人が核となり、ここにトヨキ渡辺商会の社長が加わることによって、30's MOCの母体が形づくられたと言えそうだ。
  また、I 田氏が過去3回のツーリングに都合がつかなかったとの記載があるので、これはどうやら4回目のS冠ツーリングの案内だったようだ。

6月のツーリングの案内を、まだ雪の消えない3月という時期に出しているのだから気が早いにもほどがあるし、「なにしろ、冗談抜きに、ツーリングの夢を3日続けて見てしまった僕のことですから、もう早漏の射精ーがまんができないーなのであります。」などと、馬鹿なことが書いてあるが、クラブ発足の4年前の時点で既にそれほどS冠ツーリングに燃えていたということだけはうかがえる。
トヨキ社長、元国際B級モトクロスライダー。北海道チャンピオンなったこともあると聞いている。
この人と初めて会ったときのことは、まだはっきりと覚えている。
水冷16馬力エンジンとモノクロスサスペンションという、当時モトクロッサーにしか採用されていなかった画期的なメカニズムを持ったDT125が新発売されたのが、1981年12月。
カワサキのKE125を2台乗り継ぎ、13馬力だった旧型が新型では12馬力にダウンしてしまったことに物足りなさを感じていた私が、DT125の現物を見たくて北海道ヤマハを訪ねたのは翌1982年ことだ。
だが北海道ヤマハには展示場がなく、諦めて帰りかけたときに声をかけてきたのがたまたま商談に来ていた渡辺氏だった。
「うちの店にあるから見においで」と案内されたのが、まだ北一条通りにあったトヨキ渡辺商会なのだが、大変失礼ながらその第一印象は「ヤバイ店に来てしまった」というものだった。
この店があるのは以前から知っていたのだが、通りすがりに眺めて見た感じでは、飾りっ気がまったくなく、用品のディスプレイもないし、外の歩道にはモトクロッサーばかり並んでいたり店の壁にはレーシングカートが立てかけられていたりして、レース専門のチューニングショップという雰囲気が漂っていた。
実際、当時のトヨキにはポールスターというモトクロスチームの人達が集まっていて、私にはわからないメカやレースの話題が中心で、強者どものたまり場といった感じもあった。
 第一印象が悪かったのは私だけではなく、渡辺氏も私の格好を見て「変な奴」という印象を持ったらしい。なぜなら、その時私は室内サッカーで足首の靭帯を負傷しており、ギプスに松葉杖。
友人の車に乗せて貰ってバイクを見に行ったからだ。
松葉杖をついてバイクを買いに来る者がいるなどとは普通の人なら思わないだろうから、確かに変な奴と思われても仕方がなかった。
それでも私はトヨキを通してDT125のオーナーになり、前にも増して喜び勇んで浜に通うようになった。
 KE125はI 田氏に引き継がれ、やがてDT125も前述のとおりDT200Rの発売の年にM田至氏に引き継がれることになる。
 オフロードに目覚めたばかりの我々にとって、トヨキ渡辺商会は整備技術に信頼がおけ、サービスもきめ細かく、渡辺氏の年齢が我々とほぼ同じだったこともあり、我々はトヨキに出入りするようになっていった。
 前述のモトクロッサーで遊んだコースも、トヨキ関係者がブルドーザーを入れて作ったものだと記憶している。
トヨキ社長がS冠ツーリングに初めて参加したのは1983年か84年のことだと思う。
少なくとも1984年9月のツーリングに参加しているのは間違いない。
その速さは我々の想像をはるかに越えており、次元の違いは明らかだった。
我々のあまりの遅さに渡辺氏があきれ顔だったことを覚えている。
 そのトヨキ社長が見るに見かねて授けてくれたのが、
スタンディングというテクニックだった。
ステップに立てば体重はステップにかかり、座っているときよりも重心が下がってバイクが安定するし、目の位置が高くなって視野も広がり、体重移動も楽に行え、バイクが滑ったときも体の振られ方が少ないという理屈だった。
誰も経験したことのない走り方で、そんなことができるのかとも思ったが、足を出して必死のコーナリングをしている我々をスタンディングのままアウトから抜いて行くのを見せられては、反論のしようがなかった。
スタンディングはほんの一例で、それ以外のライディング理論もすべて経験に基づいた実戦的なもので、しかもそれを渡辺氏は言葉どおりに実践して見せてくれた。
氏の口癖は「トラクションを使え」、「もっとブレーキを使え」、「頭を使って走れ」)だった。
しかし、残念ながら我々には高度すぎて、頭で理解したことを体が実践できないまま今日に至っていた。


                  分岐点で