目次
序論 研究の目的と方法
 建築と生涯
 1 序
 2 生い立ち(1891〜1912)
 3 思想形成期(1913〜1917)
 4 修業時代(1918〜1929)
 5 独立から戦前まで(1930〜1941)
  1 独立
  2 泉岡宗助
 6 戦争期(1942〜1948)
 
7 戦後から日
生劇場(1949〜1963)
 8 晩年(1964〜1984)
 9 結
2 建築と手法
 1 序
 2 アプローチ
3 内部空間
  1 床
  2 壁
  3 天井と照明器具
  4 階段と手摺り
  5 空間構成
 4 庭・中庭
 5 ファサード
  1 開口
  2 壁
 6 屋根・屋上
 7 足元
 8 装飾
 9 家具
 10 数寄屋
 11 抽象
  1 陰翳
  2 色彩
  3 テクスチュア
  4 造形
3 人・建築・周辺
 1 序
 2 設計方法
  1 イメージと発想
  2 図面・模型
  3 施工
3 人柄・家庭
4 自邸
5 結
4 建築と思想
 1 序
 2 理想主義
  1 理想主義思想とは
  2 安部磯雄
  3 今和次郎
  4 ウイリアム・モリス
 3 様式建築・スカイスクレーパー
  1 様式建築とは
  2 様式建築の否定・肯定
  3 スカイスクレーパーとは
  4 スカイスクレーパーの否定
 4 現在主義
  1 中世と近世
  2 ベルグソンの思想
  3 ベルグソンの日本思想への影響と村野
  4 資本主義社会とマルクス
  5 商品と芸術
  6 現在主義の現在と未来の建築に対する価値、意味、示唆するもの
  7 結
 5 結論

1.建築と生涯

 

1.1 序


 かつて村野藤吾は自らの名を改名したという。彼の「藤吾」という名は、どこなくその語音から「悟り」の境地へ到達しようと何事も揺るがせにせず追求していく村野の理想を示唆しているように思える。
 村野の生きた時代はまさに日本の近代社会の誕生から発展、そして過渡期を示している。100年はつまり1世紀という“時”のサイクルを1つの時代の区切りと捉えるならば、1891(明治24)24年に生まれ、1983(昭和58)年93歳でその生涯を閉じた村野は一世紀の始まりと終末の間、つまり20世紀の中に生きた存在である。20世紀は18席中庸の産業革命から徐々に育ってきた近代科学の黎明期から急激な進歩発展を遂げる時期に当たる。現代の特徴は例えば明治初期、つまり20世紀末のそれに比べれば他のどの時代の変化とも比べものにならぬほど急激な、異常とも思えるほどの進歩、発展ぶりということである。恐らく、古代、中世、近世の又他のどの時代にもこれほどの進歩は見られないのである。又今ひとつ注目して良いことは村野が世紀末的状況を経験していない事である。このことは村野建築を正統的建築と仮に見た場合、世紀末を通過していないことが1つの秩序ある正統的建築を生んだ要因として指摘できるのではないのか。今日のポストモダン、世紀末的、分裂的建築を見るときそれがあながち的をはずれていないことを知ることが出来る。しかし村野は1891年生まれであるから、19世紀の世紀末を経験しているといえるかもしれない、しかしこの時期はまだ村野は幼年であり建築の世界に足を踏み入れているわけでもなく、社会に積極的に参加しているというのものでもない。その意味において村野は世紀末を経験しているとはいえないのである。ここでは以上のような時代の中に生きた村野の生涯を年代順に追って考察する。それは次の7つに分けて考察される。1生い立ち。2思想形成期。3修業時代。4独立。5戦争期。6戦後。7晩年。である。1.生い立ちでは生まれから両親、八幡での生活、製鉄所での仕事について等、大学へはいるまでを扱っている。2.思想形成期では電気科から建築科への転入、安部磯雄、今和次郎、佐藤功一といった人々との出会いなど大学時代を扱っている。4.修業時代では渡辺節建築事務所での様式建築の修練、チーフデザイナーとして担当した作品などについて扱っている。5.独立では初期作品について、6.戦争期では大戦中の仕事のない時代の生活について扱っている。7.8.戦後と晩年はちょうどその中間に位置する日本生命ビルの設計を境として分けられており、主に作品を追って村野の活動の変化、発展を考察する。

 


1.2 生い立ち(1891〜1912)


 村野は明治25(1891)年5月15日佐賀県唐津市に長男として生まれた。この年に大津事件、足尾鉱毒事件があった。
 両親は父が福岡県の出身で、母は山口県の出身であった。村野の幼年時代の両親は商売をしたり他にもいろいろな仕事をして生計を立てていた。生活は必ずしも裕福ではなく苦労が多かったようだ。村野はこの唐津で12歳まで過ごした。
 唐津というところは日本海の玄界灘と壱岐詑水道に面した非常に美しい海岸線を擁したところである。朝夕の晴天時のその姿は、北側の陰翳の落ち着いて思想的な特色と相まって美しい。
 「村野は母の胎内いる頃からこのような美しい情景を見ていたのです。そして芸術家としての素養を育んでいた」という村野の亡くなった後、彼の妻が語った言葉がそれほど大袈裟ではないと思わせるに十分である。
 建築家になる資質について村野は少年時代の思い出を回想して次のような興味ある話をしている。「八幡にいた頃のことであるが私の育ったところは田舎ですから学校に行く前に水を打つわけです。母はただ『水を打ちなさい』という訳なのですが、自分の家の前に打っただけでは何となく打った感じがしない。それで両隣へも向かいにも水を打つわけです。これで何となく美しく感じる。自分の家の前へ水を打って廻りにも打ってそれで自分の家が美しく見える。」そのようなことが建築家になった資質ではなかったかと語っている。又村野は生活にも、仕事にも誠実さというものをモットーにしていたようだが、そんな性格を形成した要因の一つして母の影響があるようである。「私の母親は非常に正直であった。人と相容れないことがあるくらい正直な人であった。私はそういう影響を非常に強く受けている」と晩年語っている。明治36(1903)年八幡に移った。1989年に八幡製鉄所が設立され1901年に操業を開始している。八幡に移ったのは主に仕事の便宜のためであったのだろう。1904年には日露戦争が起こり1909年に伊藤博文が暗殺された。この時期は明治末であり、大正時代に入っての第一次世界大戦による好況、民主主義思想運動への大きなエネルギーが発現する前の序曲といえる。
 明治39(1906)年15歳で村野は父の意向に従って小倉工業学校の機械科に入学した。父は日本最初の製鉄所である八幡製鉄所(現在の新日鐵)に入れることを望んでいた。それで村野を月給取りにして両親は今までの苦労から解放されて隠居をしようと考えていた。
 明治42(1909)年18歳で村野はそうした両親の意向に従い学校卒業後製鉄所に勤めた。そこでは地金、材料試験に興味を持ちながら鉄道の枕木用のスパイキを作ったり、レールや建築用鉄骨等の圧延の現場監督のような仕事をした。当時の勤務時間は12時間交代で元々浦柳であった村野には容易ではなかった。
 明治44(1911)年20歳で1年志願兵として対馬要塞に入隊し、ここで2年間空費した。ここで村野は同じ志願兵の中の東大独法をでた27〜8歳の青年からゲーテやショーペンハウエルの話を聞き、学問の大切さを教わった。そこで村野は学問の大切さを痛感し、その後志願兵の中ではかなりの成績を上げるようになった。結局村野は学校に行って勉強をしたいと考えるようになった。当時の状況もあり直ぐにというわけにも行かなかったが、志願兵係の将校が学問に理解があり、その人の計らいで2年目にようやく大学へ行く事が出来た。両親はこの時村野が将来将校になって帰ってきて一緒に暮らしてくれるものと思っていたらしく、村野の大学進学に対しては大変反対した。しかし母の理解があってようやく行くことになった。

 


1.3 思想形成期(1913〜1917)


 大正2(1913)年22歳で早稲田の電気科へ入学した。このころは身体のこともあり将来山にはいって電気の仕事しようと考えていた。しかし次第に高等数学をやるようになってとても自分の数学的能力ではだめだと思い始めると同時に、田舎から東京に上京してきて都会の風物に触れていくうちに都会の新しい建物に特にその形に興味を引かれるようになった。そして或いは自分は建築に向いているのではないかと思い始めた。しかし電気から建築への転科も容易ではなかった。既に一度機械から電気に転向しており、そして再び今度建築へ転科しようとしているわけであるから不安で一杯であった。そこで当時早稲田の建築家で助教授だった徳永庸という先生に建築を志す資質の条件のようなものを手紙で尋ねた。面識等はなかったが同郷ということが契機であったようだ。
 その資質とは「文学に興味があること、数学が出来ること」であった。村野は十分ではないにしても、全くだめだとは思わなかった。これで建築科への転科を決心した。それで当時社会主義者であった学科の予科長であった安部磯雄に転科を頼みにいった。再三頼んだ結果、漸く許可がでた。但しデッサンを一年やってその結果が良かったら転科しても宜しいということであった。村野はこれにパスして漸く建築科へ転科することが出来た。
 当時の早稲田の雰囲気について少し触れると芸大と工業大学を合わせたような教え方をしていて、気風としては芸術的な色の方が強かったようだ。村野は建築へ転科する前、早大の高等科で2年を過ごす。高等予科とは現在の一般教養と似たもので、ここで思想的精神的基礎が形成された。高等予科では理数科の他、法文科系を習った。当時社会的に見て、大隈内閣の前後で先生達も知名の人達ばかりであった。そのような背景もあり、先生達にもそれなりの気概があり、学園内は在野精神に富んだものだった。講義も非常に自由で、先生が自分の興味を持っている問題について話すという具合で学生にもその方が人気があった。
 この時期が村野の多感な青春時代に貴重なものであったことは想像に難くない。またこの高等予科時代の貴重な体験として、村野は生涯鑑となった人に安部磯雄を挙げている。
 安部磯雄という人は英国仕込みの謹厳そのものの風貌で英国紳士の風で有名な社会主義者であった。その行動は時代的背景にあって当局から監視され、後ろから刑事がついてまわるほどであった。安部磯雄の講義は英語の代わりにミル等の経済学を原書で教えていた。そして村野の人生観に決定的な印象を与えた出来事に次のような話がある。村野が入学して間もない頃のある暑い日、教室はうだるような暑さであった。安部先生は教室に入るなり「諸君、暑いから上着を取り賜え。そして扇を使っても宜しい。しかしみんなのじゃまになるようなことはしないように」。それで淡々と講義を始めた。自分は厚い洋服をきちんと着て、三ボタンをきちんとして。村野はこれを見て非常に感動した。この今非常に恐れられている、社会主義者である人がこれほど、厳とした考えを持って我々に接している。本当の自由とはこういうものなんだとつくづく感心して思った。そしてその厳とした態度が村野にとって生涯の手本となった。これは直接、建築作品には現れてこないが、そういう体験、影響力、自由に対する考え方がその後の村野の人生を支配した。
 このような予科時代を経た大正4(1915)年24歳で建築科へ転科した。本科では今和次郎、佐藤功一、内藤多仲ら諸先生に影響を受けた。特に佐藤功一のルネサッスンスの講義は独特の解釈による佐藤の人生観を通しての熱のこもった講義で、村野の印象に強く残った。この体験が学窓を出てから苦しんだ時、悲しい時、或いは失意の時など村野に建築家として生きる力を与えた。講義はレザビーの原書であった。又、今和次郎も村野の思想形成に大きな影響力を持っていた。当時としては大学といっても今日のようにゼミがなかったので毎晩のように今の自宅に数人の学生で集まってウイリアム・モリス、ラスキン、ハワードなどに関する本など輪読会をしたりした。思想的にも激動する大正前期の時代の建築美を純粋に形而上学的に考える初期の考え方や、そこから次第に建築が機能することや、社会に対して目を向けることなどを中心に研究した。又、当時の白樺派の思想、ヒューマニズムの問題を絡め合わせながら、スプロール現象や、その間に取り残された底辺の人々の生活などに興味を持ち、田園都市の勉強、市街地における罪悪の起きない空間構想、芸術の興味などについて研究した。そして建築の美の究極は社会悪を取り除き労働問題や貧民窟さえも解決出来るものだと考えるほどであった。又村野は白樺派にも関係の深かった有島武郎の文学にも興味を持ちほとんど全てを読んだ。(1)思想的にも有島文学の影響を受けた。初期の村野の論文を見ると、有島の文学の影響を感じることが出来る。村野はある対談で有島のことを「意志の弱かった人ではないか」また「非常に知的な文章を書く人だ」と述べていることは興味深い。
 このような思想的に不安定な時期に非常に優れた人達に接しながら、人間性に富んだ青春時代を過ごし、理想を胸一杯にして大学を卒業していった。
(1) 建築と社会5701アンケート戦前・戦中・戦後と世代を豊かにする建築家は学窓を出たとき何を考えていたのか

 

 

1・4 修業時代(1918〜1929)


 大正7(1918)年27歳、早稲田大学卒業と同時に渡辺節建築設計事務所へはいる。渡辺節の事務所が設立2年目の時であった。
 村野は佐藤功一が紹介した大林組の東京支店の設計部に就職が既に内定していたのだが、渡辺節が早稲田へ来て村野のデザインを見て「お前うちの事務所へ来なさい。大林組には私が直接電話をするから」といってスカウトしていった。
 村野は学生時代、設計の課題が出題されても様式的なスタイリッシュなものは全然やらずセゼッション一辺倒であった。授業中など佐藤功一は、いつも村野の横を通り過ぎるだけで、ただの一度もエスキースを見てもらうことがなかったほどだった。しかし渡辺節の事務所へに入ってからは「様式建築以外絶対まかりならん」という渡辺節の絶対命令により様式建築をやらざるを得なかった。しかも仕事には全く厳しかった渡辺に、実務の出来ない村野はいきなり原寸図を描かされるなどコテンコテンにやられた。渡辺は大卒者がいきなり原寸図が描けると思っていたようである。入ってから3年間ほどはここにいてはだめになってしまう。いつ事務所を辞めようかと思い悩むほどであった。入所したとき16貫あった体重が13貫800になるほどであった。しかしやがて事務所にも若い人達が入ってきて次第に近代の空気というものが流れるようになった。そういう空気が渡辺節に影響し始めた。丁度そんな時、神戸気象台のコンペがあり村野の案が当選した。これで渡辺節も村野の見方が変わり入ったばかりの人間に原寸図を描かせるのは無理だとわかり「村野にはデザインをやらせろ」という具合に認められ漸く運が向いてきた。
 大正8(1920)年村野は渡辺節の命により日本興業銀行設計のためのアメリカ建築様式研究のため、アメリカに出張した。この当時の事は毎日新聞の「建築家十話」の中に詳しく出ているので以下にその旅行中のエピソードを幾つか記したいと思う。「表向きの要件は当時、設計中のK銀行の金庫扉と外装用のテラッコッタの制作図を検討することであった。それはあくまでも表向きだけの事で、目的はアメリカ建築見学と研究にあった。しかし渡辺先生はそれには一言も触れられず、遊んだり食べたりする事だけを予定され、それに必要な費用も十分見込んでもらった。
中略、さて私は予定の通りカナディアン・ラインのエンプレス・オブ・ロシアの1等船客となって乗船した。毎日毎日、昼はデッキゴルフ、夜はダンスと賭博で賑わうのみだけで、9日間の船旅は人が想像を絶するほど楽しいものではなかった。予定された通り散髪、マッサージ。マネキュアもやったがあまり気持ちの良いものではなかった。中略、美しいロッキー山脈や沿線の森に隠見する教会の塔は印象的であった。
クレモント・インで食事をすることも予定の中にあった。そこの牡蛎(ぼれい)料理は有名だから是非行くこと、大きな皿に盛られた氷の厚さに注意したまえ。−先生からの注意はざっとこんな調子であったと思う。それにしても一体、皿の氷が何を意味しているのか、先生は私に、何かを通じて感触の度合いを測っておられたのではないかと思う。
このようにして仕事の余暇を食い、かつ遊ぶことに費やした。友人達は、一見、遊興三昧と見える私の日課を羨望したが、私はそれどころではなかった。重労働にも等しいような体験はやがて血肉となり心の奥深く染みわたって、知識や目で学び取るのとは違ったものがあった。この教訓が後年の私にどれほど役に立ったか、今もって先生の意図を有り難いと思っている。」この頃は村野が渡辺の事務所で仕事をすることに迷いを持っていたときでもあり、又初めての海外旅行でもあり、この旅行が村野に与えた影響には興味深いものがある。
村野が渡辺事務所で担当したものには、神戸海洋気象台、大正9年竣工。大阪ビル、大正5年竣工。綿業会館、昭和6年竣工など多数である。
渡辺節の事務所ではチーフ・デザイナーとして大正7(1918)年から昭和5(1930)年までの12年間修行した。資料によると13年、或いは15年という記述もあるが、実質的には12年と半年である。
この半年というのは次のような理由による。渡辺節事務所での最後の担当作品が、現在も大阪の東区に戦争の戦火を免れて建っている綿業会館で、この建物竣工が昭和6(1931)年12月で、実施設計までは村野がチーフ・デザイナーとして担当した。しかし現場監督は須藤という人が担当している。そして実質上仕事から退き、昭和5年1930年の早春にヨーロッパ・アメリカへ建築研修旅行に行っている。そして同年7月末に帰国し、正式に8月末に渡辺節事務所を退所した。
大正5年1930年の早春から同年8月末までの間は、まだ渡辺節の事務所に席を置いていたということは、渡辺節の性格から考えて、長年、自分の元で活躍した村野に対して渡辺の親心ではなかったかと思われる。 退職金のようなものの代わりにこの間の給料を支払うというような形をとったのではないかと思われる。あるいは村野の独立への餞別であったかもしれない。
渡辺節とはそういう人であった。
また村野はこの修行時代の初期(大正10年1921年、村野30歳の頃)に結婚している。結婚は見合いで相手は福岡県出身の24歳の人であった。当時はまだ男尊女卑の風潮が強く、村野は相手の顔もろくに見ずに「お前うちでもらってやる」といって結婚したそうである。結婚によって、よき伴侶を得たことは村野にとって大きな心の拠り所なったに違いない。また村野が渡辺節事務所に在籍中、退社直前にむらの自身の匿名で設計した作品に大阪南教会(昭和3年竣工)がある。これは村野が独立する3年前であった。これは阿倍野に建っておりオーギュストペレの影響が感じられる。近年老朽化により鐘楼部分を除き改装された。他にもこの頃からいくつか村野自身の仕事があり、昼間は渡辺節事務所の仕事、夜は自宅で自分の仕事というような立場にあったようだ。この頃は渡辺節に独立したい旨を伝えていたらしく、渡辺も時期が来れば独立してもよいという考えだったようだ。近江帆布、宇和島工場(1931年竣工)、大軌電鉄の遊園地施設、大丸神戸店の独身寮、同店の舎監住宅(1931年)昭和4年の夏から秋にかけては大阪そごう百貨店(1935年竣工)の指名コンペにも参加していた。そごう百貨店は独立後、東京日本橋に現在も建つ森五商店ビルを並んで、この時期の村野の代表的作品である。

 


1.5 独立から戦前まで(1930年〜1941年)
 

1.独立
 

前述したように村野は昭和5年(1930年)早春からアメリカ、ヨーロッパへ建築研究のため外遊した。この外遊は論文「動きつつ見る」にあるように、ソビエトの近代建築を見学することを第一義としてロンドン、パリ、イタリアとつぶさに見て周り、最後にニューヨークのマンハッタンで最近のいたなども見て回っている。こうした近代建築の最先端を日本建築に先んじて村野なりに取得しようという様子がわかる。これもやはり、周到な今後のために準備を見ることができる。そして同7月末に帰国し、8月末に渡辺節建築事務所を正式に退所した。このとき渡辺事務所の石原季夫も村野と共に渡辺の下を去った。渡辺が「君は村野君の事務所でしっかり勉強するように」と申し渡されたのもだった。
この時期、既に森五商店ビルの実施設計は完了し工事は始まっていた。旅行先から夜は村野の仕事を手伝っていた石原に1階ホールの天井モザイクのサンプルなどを送って指示している。そして昭和6年(1931年)森五商店ビルと共に竣工する大阪パッションの、この両作品によって村野の名は独立直後一躍建築界へ響き渡った。村野のこうした周到さは38歳という老練さによっており、決して偶然のものではなく計算されたものということが出来る。独立に際し、村野は事務所を構える場所を大阪にした。これは先入観で物事を判断する東京に比較して、努力すれば認められるというような自由な空気に溢れていた大阪に惹かれたからであった。場所は現在の阿倍野の事務所途中にあった、泉岡宗介からの借家の台所に増築し改造して事務所にしていた。渡辺節は独立に際して、「お前たちは事務所を持つなら自分の家でやれ」といったような経営哲学を持っていて村野はそれに従ったといえる。その頃は1年食べていける金(当時で千円位)があれば、あせって仕事を取りにいくような破廉恥なことはしなくてもやっていける。そしてじっくりとよい仕事をしてゆくということだった。
1931年に竣工した森五商店ビルは東京日本橋室町の江戸通りに面して現在も建っている。このビルは鉄筋コンクリート造で、元は7階建てで戦後1956年に増改築して8階となり、ビル名も近三ビルに改称された。当初建築界ではあまり評価されなかったが一般教養人の間でその特異な存在が評判となり、建築界で漸くその真価が注目されたという話が残っている。また大阪パッションは大阪の南部南海電鉄沿線の商店や住宅が建て込んだ狭い通りの一角にある。現在では住友化学工業の寮となっているが、当時は当時はアパートメントハウスだった。この時代ヨーロッパ近代建築運動の華やかな時期で、特にドイツのシュツッツガルト市、ワイゼンホーフの住宅団地のコルビジェ、ミース、グロピウスなどの合理主義的作風が国際的注目を集めていて大阪パッションにもその影響が強く見られる。水平な連続窓、薄くフラットな、ほとんど白に近いベージュ色の壁面、そして、その壁面の屈折しながら連続する鋭く軽快な造形効果等。こうしたデザインはまた、施主側の工費の制約にもよっている。コンクリートを必要以上に打たない壁やサッシの単純化。
またそのことが当時の先端的な美意識とも合致し、一層強調される結果となった。しかしそれだけではなく村野の独特な感覚でさらにそれらの細部は洗練されてゆき、そこらにある近代建築とは一味も二味も違った味付けがなされる。
また同年(1931年)神戸大丸舎監の家が竣工する。この舎監の家は大丸百貨店がまだ大丸呉服店と呼ばれていた昭和6年に同店の男子店員寄宿舎、舎監のために、寄宿舎と同一敷地内に建てられたものである。場所は神戸市の山の手、籠池通りという異人館などエキゾチックなところで摩耶山を背にして、南には神戸港を望見する絶好の位置にあった。
この舎監の家の独特なスタイルはヴァン・デ・ヴェルデらのヨーロッパのアールヌーボーの建築家が好んだ急勾配のスレート屋根にタイルを裏張りした外装の民家風スタイルを用いている。村野の初期の作品にもかかわらず老練した作風を見せていることは驚嘆に値する。残念ながら近年(1987年頃)取り壊され現存しない。
昭和10年(1935年)ドイツ文化研究所が京都市一条に、当時第二次世界大戦前、日本と政治的に深い関係を持っていたナチスドイツが日独文化交流を目的に寄贈して建ったものであった。
当時ドイツ側の担当者の要請で「ドイツ的意匠ではなく出来るだけ日本的にまとめてほしい」というものがあって、村野はそうした要請にこたえた。
当時軍国主義的風潮が建築界にも波及しいわゆる帝冠様式の建築が主流の時代であった。帝冠様式が社寺建築の屋根をその主なモチーフとして、モニュメンタルな、やや威圧的な表現となりがちだったのに対して、村野のこの一見「数寄屋風」の質素さ、無抵抗さは、一種のこの時代風潮に対する抵抗であったかも知れない。或いは日本的伝統に対する問題意識であったかも知れない。数寄屋作りとは元来支配権力に対する一つの抵抗精神が生んだ造形である。内部においても和風のモチーフを積極的に取り入れたものであった。なお村野はこの設計で1935年ドイツ政府から赤十字名誉賞を贈られた。戦後長く京都大学人文科学研究所として使われていたが、現在は取り壊されて現存しない。
同年(1935年)コンペによって指名されたそごう百貨店が竣工する。この作品は大阪心斎橋筋1の大通りに面する、今でこそ大通りではあるが竣工当時は現在の半分程度あった。
この建物の最大の特徴は何と云ってもその縦筋状のルーバーのファサードにある。現在このルーバーは戦後の混乱期に修復され少々見劣りのするモザイクに貼り替えられてはいるが、元は凡てイタリア産のトラバーチン大理石が張られ、淡い黄褐色の、トラバーチンと独特の色調がルーバーの凹凸に幻想的な陰影を与えていた。
「そごう」は当時多くのデパートと同じように初め呉服店として明治11年、現在の地に創業された。大正から昭和にかけてこうした大きな呉服店は次々に多角経営に乗り出して近代的な百貨店に変わり、それぞれのビルを建てていった。今日ある戦前からの百貨店はほとんど関東大震災から昭和10年頃までにそのビルを建てている。そうした中で「そごう」の出発はかなり出遅れた。特にその東隣には大丸百貨店がヴォーリス建築事務所の設計により、地上7階、地下3階の堂々たる姿で竣工していた。そういう状況下でクライアントは村野に次のように云って設計を依頼した。「今度の事業は我が社の命運を賭けるものであり、その命運の6割は君の設計如何にかかっている。」これを聞いた村野はもう、この設計とともに討ち死にするというぐらいの覚悟でやるより他に建築家生命はないと思った。とにかくこれに凡てを賭けようと。その設計にあたって村野の打ち出した方針はとにかく隣の大丸に負けない建物で世間に話題を提供し人々の関心を引きつけようと云うことだった。御堂筋の大通りの見通しを利用して遠望も人目を強く引きつけることがデザイン上の第一の狙いとなった。その為のアイデアがトラバーチンルーバーによる細い縦筋の壁面構成である。このアイデアのもとがラジオの横筋のデザインを見て発想したというのがなかなか興味深い。そして村野はそれを徹底的に造形的表現にまで追求していったわけである。しかし又1930年のアメリカ外遊の時特に印象に残った建物の中にそごうと同じ縦縞のデザインを持ったニュースビルディングをあげ、特にそのデザイン性を非常に近代的であると賞賛してることも興味深い。
昭和11年(1937年)神戸に大丸百貨店が竣工する。設計の依頼された時期が大阪そごう百貨店と同時期であった。このことについて村野は「同時に違うデパートの施主から同じ仕事を受けることは建築家にとっては不幸なことである。」としながらも「建つ場所が大阪と神戸と離れているので、この仕事を受けることにした。」といっている。この大丸百貨店のオーナーはそごう百貨店のオーナーとは営業方針が異なっており、村野に次のように言って設計を依頼した。
「村野君、営業は我々でやるから君は箱を作ってくれればいい。中身は我々がやるから」と。村野はこれを聞いて次のようにこれを解釈したという。「外側だけ作ればよい。しかし唯箱を作っただけでは、他の建物と何ら変わらない。そこで窓を狙えです!」村野に課せられた課題は、この箱を如何にデザインするか、それだけに絞られたのである。この外側だけ設計すればよいなどと、なんてつまらない仕事とは絶対思わなかった。そして特に窓にそのエネルギーを投入し村野はこの作品を一つの価値ある作品にした。この大丸百店には様々なエレメントを持った屋上広場が作られていることはあまり知られていない。同年(1937年)もう一つ決して忘れられないモニュメントが完成する。宇治市民館(渡辺翁記念館)である。
宇部市は山口県の西南部、瀬戸内海沿岸にあり、明治30年に渡辺素行翁を中心とした人達の努力によって宇部新川の一寒村から勃興してきた石炭の町である。宇部市民館はそうした翁の遺産を記念して宇部市開発40周年にあたる昭和12年にその主な沖の山炭坑など6者が中心となって建築し、市に寄贈したものである。
既に第二次世界大戦前夜の暗い影が差し始めていた(満州事変や日中戦争)とはいえ、未だ日本の産業が若々しい力を保っていた健康な時代のモニュメントであったといえる。そして現在はこの建物の建設を支えていたような力強い基盤が社会に存在しない。恐らく再びこのような純粋な高揚は望み得ないであろう。その意味でも日本の近代建築のモニュメントとして最高傑作と言える作品であろう。最も、当時の建築界の状況から言えば、この建築はむしろ孤立した特異な存在あった。いわゆる帝冠様式の軍事会館や帝室博物館のようなものが代表的作品とされる時代であった。同年京都の比叡山に比叡山ホテルが竣工した。その屋根形態は和風そのものである。プランは曲線の弓形プランである。残念ながら現存しない。資料も詳細にはわからない。

参考資料:村野藤吾 建築を作るものの心 なにわ塾叢書 1981 10 P81
               明石信道 昭和建築小史 新建築 1965 10 P102
 

 

2.泉岡宗助

 

村野が独立する前の間もない頃、(1929年竣工の大阪南教会がその縁であるらしい)泉岡宗助との決定的な出会いがあった。村野にとって泉岡宗助は和風建築の精神や手法のある意味で師とも呼べる存在であった。またそれらは和風建築のみならず、村野の他の作品への影響も多大であったと言える。そうした意味では村野の持つある一つの独特なすさびはこの人に負うところが大きいといえる。ある時村野が泉岡宗助の茶室に招待され、床の間を背にして座ったら「床の間を背にして座るのはお茶の方式になっていない」と注意を受け、それ以来村野は泉岡からいろいろ茶の作法を習ったようである。又、和風建築についてもその以前取り立てて村野は習っていなかった。泉岡の情緒豊かな西西風な人柄は村野に大きな影響を与えたようだ。泉岡も又村野の作風や人柄に共感を持っていてお互いに尊敬し合う仲だったようだ。泉岡宗助という人は大変な資産家で、昔日本一大きい村が天王寺村であったときそこの村長を泉岡家代々の人がやっていたという家柄で宗助は子供の頃から英国人の家庭教師について勉強をしていたとかで英国の土地は踏まないが、ロンドンの街は手に取るようにわかるほどだったという。宗助自身はとてもハイカラで日本文化の粋を身につけたような人だった。和風建築にも造詣が深く、道楽の極地から普請道楽をしていたという人だった。普請道楽で造った数寄屋庭園の建物がある。「百楽荘」という。大阪は近鉄富雄から少し登り坂で、学園前からは下り坂の程良いところにあって、小高い丘の雑木の生い茂った中に、離れ座敷が点在している。その中で特に姫ゆりの棟に、昔の泉岡宗助の思い入れが当時(昭和17年竣工)のままに現存している。これは数寄者の自邸として建てられた建物で数寄の手法、材料、装飾の多用さ、すべては好き放題にやり抜かれて、すべてに目を見張る新鮮さがあり、何人にも心の内まで侵されない数寄者や独自の世界が繰り広げられてる大らかさが漂っている。村野が和風建築についての道を模索する糸口となった泉岡語録に次のようなものがある。
1) 玄関を大きくするな、門戸を張るな。
2) 外からは小さく、内にはいるほど広く、高くすること
3) 天井の高さは7尺5寸(2272.5)を限度と思え、それ以上は料理屋か功成り名を遂げた人の表現になるので普通ではない。
4) 柱の太さは3寸角(90.9)それ以上になると面取りで加減したり、こひら(長方形)にする。
5) 窓の高さは2尺4寸(727.2)風炉先屏風の高さが標準。
6) 縁側の柱は一間間に建て、桁に無理をさせぬ事。これで十分日本風になるはずである。
7) 人の目に付かぬ処、人に気付かれぬ処ほど仕事を大切にして金をかけること。
8) 腕の良さを見せようとするな、技を殺せ。
これらの他にもあるが、ざっとこんなものである。この手法の内和風建築以外の設計においても活用されているものがあり興味深い。例えば1)2)3)7)8)などである。更にこれらの泉岡語録の精神について村野は次のように語っている。「伝統的で関西風な薄味のする考え方ではあるが、控えめなところがあり、何でも表そう、訴えようとするのとは味が違う、しかし日本建築の真髄に触れた言葉ではないかと思う。
泉岡流の手法は真似られても、作の品格にいたっては生活の良さと趣味の高い人だけが持っているので如何ともし難い。」と。



1.6 戦争期(1942年〜1948年)
 

昭和12年(1937)に日華事変が起こり、軍事国家主義としての気運が高まる中、1941年ついに太平洋戦争(第二次世界大戦)が始まった。村野の作品譜を見るとこの期間(1941〜1949)は2,3の戦時下用の建物の他、全く仕事がないことがわかる。そんな中で1942年の自邸の建設がある。村野51歳の時である。村野はこの歳になるまで自邸を持たず、泉岡宗助からの借家住まいであった。このことについては建築家が自分の家を設計することに躊躇いがあったことや、経済的事情が赦さなかった。それでも戦争が激しくなり、娘の婚期も近づいたという事もあり、物質統制などで住宅のようなものは建てられなくなってきていたが、当時は田舎の家を買って建てるのが流行のようになっていて村野もそれに習った。その内友人から河内の国分によい古家があるから見ないかと知らせが来てそれを見た。「それは建ってから凡そ100年位という古いものであった。それはともかく手頃の広さで、第一何よりもどこか気品があったので買うことにした。」(当時500円)更に村野の言葉をのまま引用すると「私は座敷から土間に下りてみた。どこの民家にもあるような大きな梁が、かすかな『反り』を打って広い台所の天井を二分している形で、その空間は素晴らしい構成となっていた。私は家内に『僕はこの梁が欲しさに、この家を買ったようなものだねと』いって笑った。」河内の国分に100年云々の間風雪に耐えて建ち続けていた古家は解体され、宝塚の清荒神に新しい生命を吹き込まれるべく移築、改築された。この自邸はその後村野が生涯手を加え品を買え様々な手法の試みを行う。村野の亡くなったあと評論家の藤森照信のインタビュウーに村野の妻が答えている。「村野のおもちゃみないなもんですよ」と。自邸は村野にとって自由な発想の根源であったのかも知れない。
昭和57年(1982)12月、村野90歳の時に開かれた「村野藤吾−建築のイメージ展」の会場において戦時中に読みふけった自分の資本論の本の展示コーナーにやって来た時、村野は少しウエーブのかかった白髪を揺らしながら、低い小さなうめき声を漏らした。そして「あの頃の自分が可愛そうで・・・」と呟いたという。その当時を想い出して「仕事のないというのは辛いことでございます」軍の仕事を貰いに行って「お前のような芸術的なやつにはやる仕事がない。」と言われたこと、仕事がなくて所員が自分の廻りから去っていくことの寂しさを想い出してのことだった。この仕事のない10年近くの間、村野はそのフラストレーションをマルクスの「資本論」の研究のためのエネルギーに変えていった。その当時の生活ぶりは次のようであった。「晴れた昼間には清荒神の自宅の裏に畑を借りて野菜を作り、少し離れたところには田んぼを作って農作業をした。そして資本論の研究は夜や、雨の日された。事務所のほうは少しばかりの蓄えと事務所の一階を軍事関係の会社に貸し、その家賃などで2〜3人残っていた所員の月給をカスカスで払っていた。又、この期間に読んだマルクスの「資本論」は村野に於ける芸術性の意味の決定的な教示を与えた。それは建築を芸術として捉えるのではなく凡そ芸術という名で呼べるような甘い性格のものでない。資本主義という社会の中ですべて数で割り切れるような、現実に実存しているという厳然たる事実があるという事だった。そして更に建築の芸術性とはその大前提の上に成り立っていくものであり、それを乗り越えて芸術化していく使命が建築家にはあると云うことだった。それは建築家自身の日々の努力と建築自身の倫理に委ねられるべきところのもであるという理念である。村野は渡辺節のもので経済のことに少し足を踏み入れていたが本格的に研究したのはこの頃からであった。土地問題、経済問題のことなど晩年の建築とイメージ展で展示された夥しい量のメモやノート類によって初めてその研究ぶりが並大抵のものでないことが一般にも知られているのである。一日資本論の本を読んだ時などは妻に「実にいい勉強をしたよ」と話していた。又、この時期村野の作風に影響を与えたことの一つとして次のようなことがあったと回想している。「その頃疎開に買い出しにと田舎に行くことが多くなった。長い戦争で手入れが出来ないのか、屋根は傾き壁土は落ち崩れて土に還っていくような農家の姿が、大量破壊とはあまりにも対照的な印象で、それが又一層私の心をとらえた。崩れて大地に落ちた土壁は無抵抗で、例えば安んじて天命を生えた人間の一生にも例えられそうに思った。大地から生えたものが大地に返っていくようで、この姿は戦後に於ける私の作風に影響を与えたように思う。」
戦前は論客者であった村野は、この戦争時代を終えて何故か、自ら戒めるかのように寡黙な作家となっていったのだった。それは、新時代が村野にとって又いつ設計が出来なくなるか分からない世にあって、言論の如何に空しいかを知ったからという風に解釈できるし又、モダニズム全盛の時代に対して、彼の処世術とも云うべき方法であったかも知れない。村野の作品はもやは近代建築の動きにはそぐわないものと悟ってのことか?

参考資料
村野藤吾 建築家十話 毎日新聞 19640324
村野藤吾 あとがき 村野藤吾和風建築集 1978P215 
藤森照信 昭和住宅物語9 新建築住宅特集 197801 この中で藤森は自邸の中に村野の素人と玄人の両面を見、特に素人としての村野の創る事への喜びをその中に持ち続けていたのではないか。そして、実はそこに村野の創造の秘密があるのではないかと分析している。P111
 

 

1.7 戦後から日生劇場まで(1949〜1963)
 

昭和20年(1945)8月15日、長く辛い戦争が終わる。しかし戦後も大分長い間仕事がなく、その頃実現しなかった湯浅伸銅の仕事の設計料を銅版で貰って商売を企てたこともあった。事務所の一階に模型の鉄道レールを敷いて、貰った銅版で電車模型を作ってそれを村野が売って歩いた。結局値が高く尽きすぎて採算が合わずダメになり、電車やめてバケツを作って売ったこともあった。またGHQが軍用の建物をすべて設計事務所に発注することになり、村野の事務所に関西地方の半分の依頼があったが、村野はしばし逡巡の後「断ろう。一度事務所の肌理が荒れたら、村野ではなくてはと言う客に返答が出来ない」であったという。
1949年には、「村野建築事務所」と言う社名を「村野・森建築事務所」に改称する。これはその頃村野は死に対する脅迫観念があり「いつ自分が死んでも事務所に残った所員が生活にも困らぬように代表者をもう一人立てた」と云うことらしい。
戦後から4年後、漸く仕事らしい仕事が村野に訪れはじめる。
昭和25年(1950)に京都に公楽会館が竣工する。この建物は戦後村野が手掛けた、ほぼ最初のもであった。この建物は高島屋京都支店が建築中、戦争にあって鉄鋼工作物の規定によって地下2階だけを作って中止しいたが、戦後そのままになっていたのを利用しして建てたものである。戦後この建物を計画した当時はまだ統制の枠が外れず、鉄鋼材の使用制限、建物の用途制限などが極めて厳重であった。許可を得るのに1年。それからやっと工事を始めて次第に統制が緩和されて材料の変化、建築規制の変化によって計画当初より大分変わったものになった。
昭和26年(1951)ピカデリー小劇場とそれに付属するロビーが竣工する。
同年4月に大阪阿倍野に近畿映画アポロ劇場が竣工した。同年、志摩半島は志摩国立公園中の景勝の地、かの真珠養殖で名高い美しい海にささやかに陸地とつながった島として望んでいる賢島に、志摩観光ホテルが建設された。当初は鉄筋コンクリート2階建て一部木造の建築物であったが以降1969年に増築され6階建てとなった。1983年には宴会場が増築された。1951年関西大学大学院、大学ホールが竣工し、以降法文学舎1951年、経済学舎1952年、第3学舎1957年、法文学舎研究室1958年、工学部実験場機械実習室1959縁、第一学舎・図書館1959年、第5学舎特別講堂1960年、専門図書館1963年、体育館1964年、第5学舎1964年、経済学部商学部研究所1965年、法文研究室1966年、社会学部研究室1968年、工学部研究棟1969年、大学院新学舎1974年と次々と建設され現在のようなキャンパスを形成してきた。この間工学部実験室については設計料を払うことが出来ないほど予算が厳しかったので施工会社に簡易なものを建てさせることにほぼ決まりかけていたものを、村野が「大学建築というものが如何に青少年の人間形成の場として重要であるか、又実験室、工場だからと言って建築家にわざわざ設計するのを回避して安易な建築を創ってしまう傾向があるのは残念である。更に予算に乏しくローコストであればあるほど優れたデザインが必要なのではないか」と力説し、又これまで継続してきた以上、設計料なんぞ貰わなくても自ら設計したいと申し出たので村野がデザイン出来たという。また1953年には関西大学付属第一高等学校が竣工する。1951年東京銀行宝塚クラブハウスが竣工する。1952年高島屋東京支店増築、これも1954年1965年1972年と増築を繰り返していく。もとは昭和の初めの東洋風をモチーフとしたコンペで高橋貞太郎が一等となり彼の設計である。竣工は昭和8年、船肘木や大瓶束などの東洋的モチーフを扱った柱頭やモールディングが見られる。戦前の百貨店建築としての典型的な折衷様式である。その増築設計が村野に依頼された。その時村野は「前の設計者の気持ちを考えると身につまされるような気がし、どうかして前の延長で行こうと思った」と云うしかし、結果として7,8階の連続窓を旧館と同じように連続させて後は主にガラスブロックを使用して無理なく解決した。元の設計はこれを見て非常に満足したという。
1952年に中川氏邸が竣工する。1953年広島に世界平和記念聖堂が竣工する。それは当初公開コンペであった。審査委員の中には村野が入っていた。入選者の中には前川、丹下、井上、菊田などがいたが一等該当作品無しと云うことで実施コンペであったにも関わらず1等はとうとう選出されなかった。また最終的に審査委員の一人であった村野が設計することになり何か割り切れないものが残った。しかし出来上がった作品は申し分のないものであった。
1953年建築研究のためアメリカ・ヨーロッパ外遊。

同年日本芸術院受賞、大阪府芸術賞受賞。

1954年、1953年度に本建築学会賞受賞(名古屋丸栄百貨店)

1955年日本芸術院会員。

1956年、1955年日本建築学会賞受賞(世界平和記念聖堂)

1957年建築研究のためアメリカ・南アメリカ外遊。

1958年建築行政に対し大阪府知事表彰、建設大臣表彰、藍綬褒賞受賞。

1959年には唯一、役員的な仕事として日本建築か協会関西支部長を務める。

1960年建築研究のためアメリカ外遊。主に日生劇場設計のための外遊であった。

1962年日本建築家協会会長を勤める。これを最後にこのような役職には就いていない。これは主に設計活動に専念するという理由によっている。

同年第3回BCS賞受賞(輸出繊維会館)

1963年王立イギリス建築家協会名誉会員、中央建築士審議会会員、1963年度建築年間賞受賞(早稲田大学文学部校舎)。
戦後村野が光明燦然と輝く時代である。それは日々の鍛錬と熟練と成熟の成せる技であり、現在という「今」(現在主義)に生きる村野の真骨頂でもある。

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