ジェームズ・クレノフの最初の著作『キャビネットメーカーズ・ノートブック』を日本語訳され、「木の家具制作おぼえがき」として出版された三ツ橋さんが、クレノフ氏への興味深いインタビュー記事を日本語に訳され、興味をもたれている皆さんにぜひ公開したいということで、クレノフの教え子の一人である小山亨さんのホームページで公開されました。小山さんのインターネット環境ではPDFファイルを置くことができなかったということで、私のページではPDFファイルとして公開のお手伝いをすることになりました。まずは以下の三ツ橋さんの紹介文をお読みいただき、最後のリンクをクリックしていただければ、2.6MBほどのPDFファイルを開くことができます。 このPDFファイルはパソコンに詳しい方の協力によって作成されました。

2009年12月3日
宮本良平

(追伸)
・12月12日、小山さんのホームページにも同様のPDFファイルがアップされていることを確認しました。
・2010年3月 三ツ橋さんから送っていただいた改訂版PDFファイルに入れ替えました。
・2012年11月 三ツ橋さんより送っていただいた2012年改訂版PDFファイルに入れ替えました。


ジェームズ・クレノフ
スミソニアン・インタビュー(200481213日)
日本語版(全60ページ)の紹介文

20091119
三ッ橋 修平

872-0521 大分県宇佐市安心院町下828-1

拝啓
 このインタビュー記録をお読みになる方へ、事前に一言ご説明申し上げておきたく存じます。読み様によっては、これは一種「危険な」文書でもありますので。

 私は今年初め、ジェームズ・クレノフ著『木の家具 制作おぼえがき』(中井書店)を自費出版しました。クレノフの著書は五冊ありますが、第一作目の『キャビネットメーカーズ・ノートブック』の日本語訳です。
 クレノフ(200999日逝去)は、自らの創作活動だけではなく、アメリカ各地でのワークショップ活動や出版を通じての言論・教育活動を積極的に行ったことに特色のある木工家です。活動のピークは1970年代にあり、この十年が黄金期でした。活動場所がアメリカだったせいもあり、この時期のクレノフをリアルタイムに知っている人は、私自身を含め、日本にはほとんどいないと思われます。80年代以後の、私たちにも比較的知られているクレノフは、カリフォルニアに定住後の、活動の安定期にあったと言えます。単に木工による家具作りを行っただけではなく、彼の言動は、大きく変わりつつあったアメリカ社会の時代思潮としっかりと歯車が噛み合いました。そこに彼の活動の意義がありました。そのため、訴えかけてくるものは、家具作りという工芸領域の枠を超えているところがあります。
 二十年ほど前に一度来日しましたが、その後の日本語での紹介が極めて乏しく、十分認知されるには至りませんでした。生涯を通じてこれほどしゃべりまくり、しかもそれが文書として残っている木工家は他に前例がないにもかかわらず。私は改めて、彼が何を言い、何を伝えようとしていたのかを検証しておく必要を感じました。それが『おぼえがき』自費出版の意図です。

 今回のスミソニアン・インタビュー日本語版の翻訳も、同様の意図からです。もともと日本語訳にした文書を、友人に郵送し、内輪で読んでいた一種の私的な「回覧板」に過ぎませんでした。しかし、かなり充実した文書であり、せっかく翻訳したものを内輪だけで独占するのもかえって問題かと思えました。元の英語の文書は、公開資料だからです。英語圏・準英語圏の人々なら、労せずして読めるのです。ところが、英文情報だけでは、読もうとしても私たちには限界があります。とくにクレノフの場合は。もう一年早くこの文書を読んでいれば、『おぼえがき』の読者の皆さんにも、もう少し正確なことがお伝えできたかもしれません。インタビュアーのフィッツジェラルドさんにも断りの手紙を出しておきました。
 あいにく私はインターネットをやっておりません。ネット上のことに関してはまったく無能です。元の英文資料は、ある方がプリントアウトして送って下さいました。感謝申し上げます。今回、公開の段取りは、ともにクレノフの下で学んだ小山亨さんにお願することにしました。

 また、私の翻訳は素人仕事です。さらに、もともと私的で拙速な文書でもあります。そのため、不備もあろうかと存じます。どうかお許し下さい。完全に会話調の英語なので、クレノフの著書と同等に、あるいはそれ以上に厄介でした。誤訳や認識違いなどのご指摘をいただけるなら、むしろ幸甚です。後学にさせていただきます。『おぼえがき』にも住所は記載したので、ここでも同様にいたします。

 お読みいただくに当たって、事前の予備知識としての注意点を申し述べておきます。
 2002年の引退前後から、クレノフは自分の学校の周辺スタッフスタッフ(アシスタント教員)への批判を行うようになりました。もともと批判精神には富んでいる人でしたが、かなり過激とも思えるような発言をするようになりました。そして、その心理状態は亡くなるまで続きました。途中失明したりもしましたが。没後、娘さんがある新聞の取材に応じ、「反抗的(rebellious)な人だった」と答えるほどでした。なぜなのかは定かではありません。しかしこのインタビューを読むと、原因が少し垣間見えるような気もします。
 そのため、どうかクレノフがそういう心理状態にあったことを念頭に置いてお読み下さい。多くの人々に、批判の矛先を向けています。そもそも、初めからスミソニアンによるインタビュー自体を快く思っていないことが歴然としています。途中から打ち解けていった様子です。
 二十年経ってようやくクレノフが分かり始めてきたということもあり、私にとってはたいへん興味深く読める文書でした。まるで過激な漫才でも聞いているかのように。やはりこの人は、心の底に鬱屈したものを抱えて生きてきたのだという印象を受けますし、時に爆発するような、訳の分からぬ、ロシア的(?)な血みたいなものも感じてしまいます。

 全部で52ページに亘る長編です。端末の画面でお読みいただくのは苦痛かもしれません。お読みになるのはクレノフに興味をお持ちの方だけであろうとは拝察いたしますが、お疲れにならないようにご配慮下さい。

敬具


「追記

 2012年改訂版です。

 その後、インターネットから得られる情報がたくさんあることを知り、インタビュー文書中の周辺情報を強化しておきました。リンク機能が上手く作動してくれない場合は、どうかお許し下さい。私のパソコンのOSはセブンで、私が作成したPDFではリンクが上手く作動してくれます。」


ジェームズ・クレノフ、スミソニアンインタビューPDFファイル