氷葬

卒川いくの


 白い光が、目に切り裂くような痛みを与えながら、飛びこんできました。
 早季子は思わず目をつむりました。周囲があまりに真っ白で不安になったのです。早季子の顔に、光が氷の粒のようにいくつもあたっては砕けていきました。そしてそれは、早季子に警告を与えているようでした。
 早季子は、口を小さく開けて、その白い光を吸いこみました。乾燥した喉の奥に、湿った雪の香りが広がります。懐かしい感覚でした。
「雪を食べてはいけません」
 早季子の耳に、生前の祖母の声が蘇りました。物心ついたときから、早季子は雪を食べるのが大好きでした。真夜中にこっそり部屋を抜け出しては庭に行き、手袋をした両手で、ゆっくりと雪をすくいあげるのです。積もりたての雪は、秋祭の屋台の綿菓子のようにふわふわとしていて、ガラスのビーズ玉のようにキラキラと輝いていました。おそるおそる顔を近づけると、冬の空の匂いがしました。そっと舐めると、舌先に小さな氷の塊がくっついては融けていくのを感じました。そして、自分の口の中で融けていく雪が、とてもいとおしいと思いました。その雪が自分の中で冬の星のようにキラキラと輝くのを感じました。ほんの一瞬ですが、身体の奥が燃えるように熱くなりました。
 早季子の雪は、その時その時でいろんな味になりました。夜中の星の味、明け方の桃色の味、ゆらゆらと白くのぼるかげろうの味、夕暮れの日の燃えるような味。雪を食べながら目を閉じると、光の結晶が見えることもありました。それは赤や紫や青や緑やいろんな色に変化しながら、小さなひし形をいくつも重ねていったり、固く閉じた蕾から美しい花を咲かせたり、たくさんの輪っかが回転木馬のようにくるくる回ったりしました。早季子はそれを見るのが大好きでした。でも、大きくなるにしたがって、そういうものは見えなくなりました。
 それでも早季子は、雪を食べ続けました。雪を食べれば食べるほど、自分が白く透き通っていくような気がしました。そして、いつの日か、自分の身体が完全に透き通って、白い光の中で融けていくのを夢見ていました。それはとても気持ちのいい空想でした。だから、早季子は誰にも見つからないように、こっそり雪を食べ続けていたのです。
「起きろーっ」
 突然肩を叩かれた早季子は、はっとして目を覚ましました。おそるおそる目を開けると、あの白い光は、もうどこにもありませんでした。窓越しに、真っ青な空とその下で輝く白銀のゲレンデが見えました。ゲレンデでは、雪降らしの機械が地上からオイル混じりの雪を盛んに吹き上げていました。その雪は、少し灰色っぽく見えました。食べたら苦い味がしそうでした。
「せっかく朝一番から滑ろうとして、夜行バスにしたのに、ここでもたもたしていたら、意味ないじゃん」
 何事も一番乗りでないと気が済まない真由美は、寝起きてまだ意識がぼうっとしている早季子を置いて、さっさとタラップから下りてしまいました。早季子の窓の下では、スキーをしたくてうずうずしているバスの乗客が、身体を左右に動かしながら、自分の荷物を今か今かと待っていました。寝不足で目の下を真っ黒にしている男性、雪景色にはしゃいで黄色い声を上げる女子高生達、白い息を吐きながらぴったりとくっついているカップル。多くの人が自分の荷物を掴むと、積もりたての雪面を踏み固めながら、転びそうな勢いで走っていきました。
 その中の一人の男の子が、雪面に足を滑らせました。そして、慌てて近くの杭に捕まりました。早季子は、その男の子の雪に不慣れな歩き方を見て、思わず苦笑してしまいました。早季子に見られているとも知らず、その男の子は、杭からおそるおそる手を離して、おっかなびっくり歩きはじめました。その歩き方が、初めて氷の上に立った河童のように見えて、早季子はまた小さく笑いました。すると、その河童はふとこちらを見ました。早季子は目が合いそうになって、慌てて視線を反らしました。
 すると、早季子の目にスキー場の看板が飛びこんできました。そして、その看板の中に、早季子の興味をひく文字がありました。
「ここも半日村っていうんだ」
 それは、早季子が生まれてからしばらくの間、暮らしていた村の名前でした。早季子の村の場合は、東側と西側を高い山で囲まれ、一日の半分は日が山に隠れてしまうので、その名前がついている、と聞かされていました。もっとも早季子の村は、その後、ダムか何かによって、地図上から姿を消していました。それなので、早季子は『半日村』の文字を見て、少し懐かしい気持ちになりました。目を閉じると、在りし日の村の景色が浮んでくるような気がしました。
「早季子ーっ。寝るなーっ。今ここで寝たら、ここに来た意味がないぞーっ」
 バスの窓の下で、真由美が大きく手を振って叫んでいます。早季子は恥ずかしくなりました。そして、真由美の抗議のパフォーマンスをやめさせようと、急いで席を立ちました。転がるようにしてバスを下りると、早季子はふと立ち止まりました。早季子はそこで珍しいものを見つけたのです。
 それは、樹氷の木についた小さな赤い実でした。その実は、冬から逃げ遅れてしまったかのように、透き通った小さな氷の中に閉じ込められていました。早季子は、その赤い実が氷の中で苦しがっているように見えました。手袋を外し、氷を取ってやろうと、赤い実に手を伸ばしました。すると、その赤い実は、早季子の手の上に氷ごと落ちてきました。まるで早季子が手を差し伸べるのを待っていたかのように。早季子は少し気持ち悪くなりました。手に落ちた赤い実を、できるだけ遠くに放り投げました。赤い実は、空中で一瞬白い光を放つと、樹氷の木々の間に落ちて、見えなくなりました。
 そういうわけで、高く澄んだ冬の青空と、頬を冷たく刺す透き通った風と、足元で勢い良く飛び散る白い雪のカケラを見ても、早季子はあまり良い気分になれませんでした。まして、早季子はそれほどスキーが好きというわけでもありませんでした。雪らしい雪を見るのは久しぶりでしたが、かつて味わったような感激は、もうどこにもありませんでした。
「ほらほら、ぼんやりしないで早季子。私達には今日一日しかないのよ」
 真由美に、夜行バスでの疲れは一切見えませんでした。真由美は、仕事している時の倍以上のパワーで、休み無く滑っていました。まるで、リフトに乗っている時間ですら惜しんでいるようでした。この冬新調したレモンイエローのスキーウェアが、真由美の派手な顔立ちに良く似合いました。真由美は、白いゲレンデに幾つもの美しい道筋を刻んでいきました。スキー板と足が一つになっているように、右に左に軽やかにターンを切りながら、樹氷の森を風のように駆け下りていきます。真由美は、ゲレンデを自由に走りまわるヒョウのように精悍で、かつ優美でした。
 早季子は、あらゆる意味で真由美と対照的でした。学生時代からのブラウンのスキーウェアに身を包んだ早季子は、真由美のエッジをなぞるように、慎重に下りていきました。子供の頃、スキーで学校に通っていたことがあるとはいえ、それも十年以上も前のことでした。都会に出てからは年に三、四回程度で、この冬は初めてでした。
 早季子は、傾斜が緩やかになったところで一旦止まって呼吸を整えました。汗をかいた背中が、少し冷たくなったように感じました。早季子は空を見上げました。朝方、あれほど青く澄んでいた空が、今は少し白んでいるように見えました。日が高くなったにも関わらず、空気が徐々に冷たくなってきました。
「大丈夫かな」
 早季子は、冷たくなった風を吸いこんで、そう呟きました。ゲレンデのはるか下の方では、レモンイエローのスキーウェアを着た真由美が、ストックを空中に振り回しながら『こっちだよ』と合図していました。その姿は、雪の上に立てられた黄色い風車のようでした。
「真由美ってどこにいても本当に目立つ。会社にいるときと同じだ」
 早季子は、黄色い風車に向かって軽く手を振ると、ゆっくりと滑りはじめました。そのゲレンデは年々新しいコースを開発していたため、下り方が幾通りにもわかれていました。真由美はその時その時の気分で下りていくので、うっかりすると離れ離れになる心配がありました。しかも、赤い旗やロープを見落とすと、閉鎖中のコースに下りてしまう危険性もありました。
 早季子は、真由美が下りていったコースを確認すると、後方を振り返って慎重に滑り出しました。淡い太陽の光が、雪面に刻まれたエッジに反射して様々な光模様を描いていました。早季子の両側に立ち並ぶ樹氷は、まるで光の衣を着ているように静かに輝いて見えました。早季子はそれらを肌で感じながら、今は光の季節だと思いました。それでも、この季節が長く続かないことを、心の奥底で感じていました。
「これでラストだな」
 早季子の小さな呟きは、冷たくなった風によって遠くに運ばれていきました。

「ねえ、お願い、早季子様。後1回だけでいいから」
 真由美が両手を合わせて、早季子の顔をのぞきこみました。その大きな瞳には諦めきれないという気持ちが込められていました。
「やめたほうがいいと思うよ。空もあんなに白くなっているし」
 早季子はリフトの先を指差しました。空は白く、山はぼんやりとして遠くなったように見えました。それまで無風だったゲレンデに、少しずつ風が吹きはじめていました。ゲレンデのあちこちで、小さな雪けむりがあがっていました。
「でも、リフトが動いている間は滑りたいの」
 真由美は、形の良い眉をぴくりと動かして『それに、リフトが動いている間は大丈夫ってことでしょ』と早季子の説得に取りかかりました。そして、すっかりガラ空きになったリフトを指差して、早季子を誘います。
「しかも今は空いている。チャンスだよ。最高記録が出せる」
 早季子は、いかにも真由美らしい発想だな、と思わず苦笑いしました。空いているゲレンデは、都会育ちの真由美にとって、あまり縁のないものだったのです。
「でもね。やっぱり危ないって気がするの。リフトが途中で止まったら、それこそ悲劇だよ」
「じゃ、早季子は下で待っていていいよ。私だけ行ってくる」
 真由美はそう言うと、さっさとリフト乗り場の方へ歩いていきました。それまでたくさん並んでいたリフト待ちの行列も、昼食時ということもあって、今は誰もいませんでした。
「ちょっと真由美ってば・・・」
 早季子は心配そうに真由美を見上げます。
「じゃあね」
 真由美はリフトの上で、早季子にバイバイと手を振りました。レモンイエローのスキーウェアの背中が、ゆっくりと白い山頂を目指して上がっていきます。真由美の目指す山頂の空は、白色から薄い灰色に変わっていました。山全体が雪けむりに包まれているようでした。
 それを見て早季子は急に不安になりました。なぜか突然、真由美とこのまま会えなくなるような気がしたのです。早季子は『真由美のスキーウェアが見えるうちに』と急いでリフトに飛び乗りました。リフトは鈍い金属音を立てながら、早季子をゆっくりと空中に押し上げます。早季子のスキー板が雪面から離れる瞬間、ある嫌な予感が脳裏をかすめました。早季子は頭を振りました。そして、意識的に笑顔を作りました。それでも自分の笑顔がどこかひきつっているのを感じていました。
 リフトに乗って、鉄柱を5、6本過ぎたあたりでした。リフトに機械の振動と違う揺れが始まりました。足元を見下ろすと、木々の間を幾筋もの雪けむりが走っていきました。まるで山の神が白いマントを翻して大地を駆けめぐっているようでした。その姿は美しく、また少し恐ろしく感じられました。早季子は心臓が激しく波打つのを感じました。ここでリフトが止まらないでほしい、と心の中で強く念じていました。とても飛び下りられるような高さではありませんでした。リフトの支柱と手摺りを掴む手に、力がこもりました。鉄柱がリフトのレールを噛むガクンという振動が、一層強く感じられました。早季子は難破船に取り残された船員のように、孤独で不安な気持ちを感じていました。
 しかし、そこはたまたま風の通り道だったらしく、鉄柱をもう2本ばかり過ぎると、その揺れも風もおさまりました。空の灰色は少しずつ濃くなり、山もややぼんやりしていましたが、普段と変わらない穏やかな景色でした。前方にリフトの山頂駅も見えてきました。早季子はそれを見てやっと安堵の息を洩らしました。リフトを握る手から、力がすーっと抜けていきました。早季子は、リフトの上から樹氷を見下ろすのも、今日はこれが最後かなと思いました。そこで、空からの景色を堪能することにしました。足元の木々が、もうだいぶ小ぶりになっていました。丈も低く枝も少なく、それでいて気品があって気高い姿に見えました。それは、この高山地域独特の樹氷でした。それらは、幾分弱くなった白い日の光を受けながら、小さく輝いて見えました。朝見た時よりは、弱々しい輝きになっていましたが、それでも早季子は美しいと思いました。足元に近づいてきたゲレンデでは、僅かに残った人が、時間を惜しむように滑走していました。それぞれの鮮やかな色のスキーウェアが、ピンボールのように、右に左に軽やかなターンを繰り返しながら、さっそうと滑り下りていきます。
 早季子のシートが最後の鉄柱を越えました。早季子より5つほど前に座っていた真由美は、リフトから下りたようでした。早季子もストックを揃え、下りる準備に入りました。その時でした。早季子は不思議なものを見ました。
 それは小さな女の子でした。赤いかすりの着物を着て、髪をおかっぱにしていました。その女の子は、雪けむりの中にただ一人でぽつんと立っていました。白いゲレンデの中で、その女の子の着物がまるで小さな赤い花のように見えました。その女の子は、早季子を見て、一瞬ニコリと笑いました。まるで、早季子が来るのを待っていたかのように。早季子は少し気分が悪くなりました。
 突然、冷たい風が吹きました。その白い風の中で、女の子赤いかすりの着物の裾が、一瞬大きく広がりました。
「わたしは綺麗なたからもの 雪をかけられて埋められた
 めじるしの赤いてぶくろは 犬がくわえて持っていった」
 女の子の歌うような声が、風に乗って、早季子の耳に届きました。早季子は、心の奥底にしまいこんだ何かを思い出してしまうような気がして、思わず耳を塞ぎました。女の子はそんな早季子の様子を見て、嬉しそうに笑いました。そして、樹氷の森へ駆けていくと、雪けむりの中で見えなくなりました。
 そういうわけで、山頂駅についた時、早季子はだいぶ不機嫌になっていました。蹴るようにしてリフトから滑り下りると、真由美のレモンイエローのスキーウェアを探しました。山頂では、白い風が雪面を走るように吹いていました。重苦しい灰色の空は、山の稜線すれすれまで迫っていました。空から白いものが舞い始めていました。それを見て、早季子は思いました。『これで今日はこれでお終いにしよう』と。山頂の天候は確実に悪化していました。それも駆け足で。
 それを知ってか知らずか、レモンイエローのスキーウェアは、風の力を借りるように、一気に下の方に滑り出していきました。
「まったく。いつだって無茶するんだから、真由美は」
 早季子はそう呟くと、レモンイエローのスキーウェアを追いかけるようにして滑りはじめました。この時、早季子は少し焦っていました。それで、後方を確認するのを怠りました。後ろを滑っていたスキーヤーが、早季子に驚いて慌ててターンを切りました。早季子は、自分のすぐ横を、猛スピードで滑走していくスキーヤーにびっくりしました。そして、久しぶりに尻餅をつきました。早季子は顔に雪を被りました。それは灰色の空から降ったばかりの乾いた雪でした。顔の雪を払いのけながら、早季子はゴーグルを外しました。そして、空を見上げました。灰色が一層濃くなったように見えました。早季子は、たまらない気持ちになりました。慌てて身体を起こすと、レモンイエローのスキーウェアを探しました。でも、そのわずかな時間が、早季子を更に悪い状況に追い込んでいました。レモンイエローのスキーウェアが、既にゲレンデから見えなくなっていたのです。
「どこ?」
 その動揺を待っていたかのように、口笛のような高い音と共に激しい突風が起こりました。そして、早季子のすぐ隣で大きな雪けむりがあがりました。早季子は目の前が真っ白になりました。恐ろしさのあまり、早季子はその場から動けなくなりました。そして、雪面に立てたストックを握り締めました。雪けむりが自分をあらぬ方向へ運ぼうとしているのを感じたからです。そして、雪けむりがおさまるのをじっと待ちました。早季子の心臓は、狂ったように激しく鼓動していました。恐ろしくて、息がとまりそうになりました。歯の根は合わず、口から奇妙な不協和音を発していました。限界を越える心臓の音に震えながら、早季子は『すぐに終わるから、すぐに終わるから』と呪文のように言い続けました。ほんの数秒だった雪けむりが、ものすごく長い時間に感じられました。
 雪けむりが終わり、再び視界が開けました。早季子は『もう二度と雪けむりにつかまりたくない』と、強く思いました。その数秒間の体験が、早季子から普段の冷静さを奪いました。早季子が前方に目を凝らすと、同じようにこの突風で立ち止まったと思われる人の大きな赤いスキーウェアが見えました。それはゆっくりと小さくなっていきました。早季子は『この天候だから真由美もきっと同じように誰かについて下りていっているに違いない』と考えました。そして『あの赤いスキーウェアの人の何人か前の人が、真由美の後について下りていっている可能性さえある』と思いました。というより、その時の視界の状況では、その可能性に賭けるしかなかったのです。突然始まった突風は、間断なく早季子の背中を襲いました。早季子の脇で、突風にあおられた幾つもの小さな雪つぶてが、山を這うように駆け下りていきました。どこまでがゲレンデで、どこまでが空なのか、それすら判別するのが難しくなってきました。それほど、視界が急速に白くぼんやりとしてきたのです。今の早季子には、赤いスキーウェア以外に、現在位置を確認する目標物は何もなかったのです。
「大丈夫、大丈夫だから」
 早季子は自分に強く言い聞かせました。そして、力強くストックをついて、滑り出しました。早季子は『あの赤いスキーウェアは、あんなにゆっくり滑っている。焦っては駄目、焦っては駄目』と、胸の中で何度も呟きました。しかし、そう思えば思うほど、スキー板はせかせか動き、ストックは不必要に何度も雪面を刺しました。早季子は、ぎこちなくターンを繰り返しました。うっかりスキー板の先端が交差して何度となく転びそうになりました。それでも、早季子はスキー板を見る余裕を失っていました。赤いスキーウェアを見失うまいと、全神経を前方に集中させていたのです。
 灰色の空から、はっきりと見える形で、雪が降りはじめました。早季子のスキー板の上にも、その雪が積もりはじめていました。それどころか、早季子自身もだんだん白くなっていきました。毛糸の帽子、緊張で強ばった両肩、ストックを握る両腕、それぞれに知らず知らず雪が積もっていきました。帽子からのぞいた髪の毛は、既にいくつもの小さな雪の塊がついて、凍りはじめていました。白い風はますます強く冷たく鋭くなり、気まぐれに向きを変えて早季子にぶつかりました。皮膚が一番露出している顔の部分は、特に悲惨でした。いろんな角度から乾いた雪がぶつかりました。その雪は、早季子から体温を奪って、頬の上で融けていきました。早季子の頬は濡れて真っ赤になりました。
 早季子は滑りながら、必死にその雪を払おうとしました。早季子は、目印の赤いスキーウェアを見失わないようにと、それだけを考えていました。だから、早季子は一時も休みませんでした。今、自分の滑っているところが、ゲレンデのどの辺りかもよく判別できませんでした。普段気になる傾斜の緩急や数々のコブも、この時の早季子の意識にはありませんでした。
 とうとう吹きだまりに足を取られ、早季子は転んでしまいました。早季子は何度も足を取られながら、必死に立ちあがりました。赤いスキーウェアはそれほど小さくなっていませんでした。早季子は泣きそうな顔をして、必死に赤いスキーウェアに追いつこうとしました。早季子の濡れた頬は、融けた雪のせいなのか、それとも涙のせいなのか、もう自分でもわからなくなっていました。風で鞭打たれる頬は、冷たい痛みに悲鳴をあげはじめていました。
 早季子を苛める白い風が、突然下からも吹いてきました。それは、早季子の目の前で、何度も雪けむりを上げました。そのたびに早季子は、視界を失う恐怖で震えあがりました。周囲は夜のように暗くなっていました。今が昼間だとはとても信じられない暗さでした。気まぐれに吹く白い風は、何度となく早季子を雪面に叩き付けようとしました。そのたびに、早季子は腰をかがめ、必死に目を凝らしました。赤いスキーウェアを見失わないために。それでも、突然吹きつけてくる雪混じりの風をうっかり吸い込んでしまって、激しく咳き込んだりもしました。しかし、早季子は立ち止まろうとしませんでした。赤いスキーウェアを見失わない限り、安全な麓に帰れるはず。早季子はそれを固く信じていました。
 突然、赤いスキーウェアが目の前から消えました。
 早季子は必死になって前方を凝らしました。しばらく何が起こったのか、考える余裕もありませんでした。大きさからして近くにいるのは間違いないはずでした。早季子は、大声で叫びました。
「おーい」
 声は、白い風にたちまち吸い込まれていきました。
「おーい」
 赤いスキーウェアの人は、たまたま転んで起きられないのかもしれない、そう思った早季子は、その人を助けようと必死に叫びました。
「おーい」
 返事のないことが不安になって、早季子は何度も何度も叫びました。ところが必死に叫ぼうとすればするほど、思ったように声がでません。まるで悪夢の中で叫んでいるようでした。意地悪な白い風が、早季子の周りで、我が物顔に咆えていました。早季子の叫び声は、その風の音に負けて、自分でもよく聞き取れないほどでした。それでも早季子は必死に叫び続けました。
「おーい」
 早季子は、突然吹き上げた白い風をまともに食らって、激しくむせて膝を突きました。早季子の身体は、雪に沈んでいきました。早季子は、雪から身体を起こそうと必死にもがきました。もがけばもがくほど、白い雪の中に沈んでいくようでした。まるで雪の蟻地獄のようでした。あまりの恐怖に悲鳴をあげそうになりました。その時でした。突然、早季子の脳裏に恐ろしい考えが走りました。
 この先が崖だとしたら、と。
 周囲はかなり暗くなっていました。自分がゲレンデの中央にいるという自信が持てませんでした。いつの間にかコースを外れ、知らず知らず崖の方に近づいている可能性もありました。そして、自分の目の前を滑っていた赤いスキーウェアの人がそれに気づくこともなく、この先の崖から落ちていったのだとしたら。
 早季子は本当の悲鳴をあげました。
 そして、狂ったように叫び続けました。早季子は、赤いスキーウェアの人の返事が欲しくて欲しくてたまりませんでした。自分の目の前で、まるで自分の身代わりのようにして崖から落ちて死んでしまった人がいる、という想像に耐えられなかったのです。早季子は、どうしてもその人が生きているという証しが欲しかったのです。
 しかし、赤いスキーウェアの人の返事は、最後までありませんでした。
 早季子は、初めて後ろを振り返りました。誰か、自分の背中を頼りに下りてきている人がいるかもしれない、と思ったのです。ところが、後ろには誰もついていませんでした。早季子は絶望的な気持ちになりました。しかし、それはまだ序の口でした。
「ここ、森なの」
 それまで荒れ狂っていた白い雪けむりが、何の前触れもなく突然おさまりました。一瞬、視界が開け、周囲の様子がはっきりと見えました。自分の周りにあるのは、巨大な急斜面と森でした。白銀の穏やかなゲレンデはどこにも見当たりませんでした。そして、低い潅木だと思っていた樹氷が、自分のすぐ側に高々とそびえていたのです。
「間違ったんだ」
 風がおさまり、視界が開けたことで、早季子は初めて自分の状況を理解しました。戻らなければ、と慌てて身体を起こそうとしました。そこで早季子は、自分の滑ってきた跡が僅かに残っているのを確認しました。その時早季子は、もう一つの恐ろしい事実に直面しました。滑った跡は一人分でした。そう、早季子の分しかなかったのです。
 早季子は狂ったように笑いだしました。
 自分でも何がおかしくて笑っているのかさえ、わからない状態でした。自分が赤いスキーウェアの幻覚を見ていたかと思うと、恐ろしくて恐ろしくて、早季子はただもう大声で笑いつづけました。そうしないと、自分が本当に狂ってしまいそうな気がしたのです。
「早季子」
 雪に埋まりながら、早季子は懐かしい人の声を聞きました。早季子はやっと笑うのをやめ、声の方を振り帰りました。暗い森の中で、そこだけが薄ぼんやりと明るくなってるように見えました。
「早季子」
 その声はもう一回聞こえました。声の場所も同じでした。早季子は、身体を起こしました。それはとても簡単にできました。それまで、もがけばもがくほど深みにはまっていった雪だまりが、嘘のようでした。雪が自ら進んで、早季子をそこから解放してくれたかのようでした。
「早季子」
 その声は、再び吹き始めた風にのまれて、だんだん小さくなっていきました。そして、あの薄ぼんやりした光も、再び襲った白い雪けむりの中で、だんだん弱々しくなっていきました。早季子はたまらなく不安になりました。そして、これが最後のチャンスかもしれないと思いました。今の早季子には、他に目指すものがありませんでした。赤いスキーウェアの人は、もうどこにも存在しないのです。
「早季子」
 その声に勇気を得た早季子は、再びスキーのストックを手にすると、立ちあがりました。そして、力強く滑り出しました。薄ぼんやりした光を目指して、自分の意志でゆっくりと歩みはじめました。
 早季子は白い森に入りました。周囲には、銀の衣をまとった裸木が高くそびえていました。リフトで見下ろしたときからは想像もできない高さでした。早季子は、それを美しいと思いました。そして、少しほっとしました。でも、その時間は長く続きませんでした。
 しばらくやんでいた白い風が突然、狂ったように吹きはじめました。そして、空から容赦なく重たい雪が降り注ぎました。まるで、早季子を雪の中に埋めてしまおうとしているかのように。早季子は、再び泣きそうな顔になりました。それでも、早季子はこの白い風に立ち向かいました。スキーの先端には目に見えてたくさんの雪が積もってきました。早季子は必死にそれを払いのけました。前に進みながら、早季子は何度も転びそうになりました。そして実際、何度も転びました。それでも早季子は必死に立ちあがりました。白い風は、早季子を何度も樹氷に叩き付けようとしました。そのたびに、早季子は身体を丸め、歯を食いしばってその風に耐えました。
 早季子は見る間に真っ白になっていきました。僅かな隙間から、スキーウェアにも雪が入りこんで、そのまま凍りついていきました。白いマフラーの隙間から入った雪が、早季子の首筋に刺すような痛みを与えていました。スキーブーツはすっかり雪に覆われて重くなっていました。つま先もかかとも、それぞれ痺れるように痛みました。袖口から入りこんだ雪のせいで、手首もちぎれるように痛みました。指先はもう感覚を失いかけていました。雪まみれになった早季子は、降り積もった雪で身体がずっしりと重たくなっていました。そして、その重みは確実に早季子の体力を奪っていきました。
 それでも早季子は諦めませんでした。あの薄ぼんやりとしたところまで行けば、きっとこの狂ったように吹き荒れる白い風も、どしゃぶりの雨のように降り注ぐ雪も、みんなおさまると、そう信じていました。薄ぼんやりした光は、きっと森の外れにあるに違いない、そして、そこはたくさんの人が待っているゲレンデがあるに違いない、早季子はそう考えました。それに全ての希望を託して、自分を奮い立たせていたのです。
 早季子はだんだん雪に埋もれていきました。早季子の身体をささえていたスキー板も、雨のように降り注ぐ雪に、耐えられなくなっていきました。スキー板ごと身体を前進させるのが困難になりました。早季子はスキーを脱ぐことにしました。そして、ガチガチに凍ったスキー板から、必死に靴を外そうとしました。ところが、スキー板とスキー靴を繋ぐバネは、融けた雪で完全に凍っていました。何度外そうと足で蹴って叩いてもビクともしませんでした。手を使って氷を砕こうにも、指先の感覚はとうになく、もどかしげに氷の塊にぶつかるばかりでした。
 それどころか、早季子がスキー板と格闘している間に、状況は急速に悪化していきました。その間、一歩も動かなかった早季子は、降り注いだ雪で、太腿のあたりまで埋まってしまいました。早季子はやっとスキー板を外すことを諦めました。しかし、スキー板を履いたままでは、大腿まで埋もれた雪をかきわけないことには、もう前に進むことも後ろに退くこともできません。早季子は両手で自分の周りの雪をかきました。自分で自分を掘り起こそうと必死にかきました。しかし、雪をかく動作はだんだん緩慢になってきました。かけばかくほど自分の周りに雪が集ってくるようでした。そして、もがけばもがくほど自分が雪の中に沈んでいきました。雪を必死にかきながら、まるで自分で自分を埋めているような気分でした。その頃、早季子の意識はかなりもうろうとしていたのです。
 とうとう早季子の手が止まりました。
「もう、疲れたよ」
 すぐ近くに一本の樹氷の木がありました。早季子は樹氷の木に身体を預けるようにして、身体を雪に寄りかからせました。その早季子に、容赦なく雪が降り注ぎました。早季子は目を閉じました。後もう少しで、あの薄ぼんやりしたところに辿りつけることは知っていました。しかし、早季子には、その後一歩の体力が残っていませんでした。たった数メートルがとても遠く感じられました。その僅かな距離が、この世とあの世を隔てた境界線のようでした。
 目を閉じながら、早季子は静かに自分が死んでいくのを感じていました。すると、仕事で初めて褒められて、上司に食事をおごってもらったこととか、真由美と一緒に初めて泊りがけに行った温泉とか、まだ祖母が生きていた頃、一緒にお祝いした大晦日の夜などが次々と思い出されてきました。それと一緒に、温かな家族の顔も次々と浮かんできました。そして、とても切ない気持ちになりました。
「そういえば、今朝おにぎりを食べたっきり、何も食べてなかったなあ」
 早季子は最後に変なことを思い出しました。そして、うっすらと目を開きました。それまで憎くて憎くてたまらなかった白い雪が、急にいとおしく感じられました。早季子は、目の前の雪を軽く手に取りました。そして、そっと口に入れました。雪は早季子の口の中で、すーっと融けていきました。その雪が、早季子の中できらきらと輝くように感じられました。目を閉じるといろんな形の雪の結晶が浮んできました。そして、それはたくさんの綺麗な光を放ちました。
「久しぶりに、見れた」
 早季子は嬉しくなって、もう一口、雪を食べました。すると今度は、自分の身体が雪の中で融けていくのを感じました。そして、自分が白い光になっていくような気がしました。夢を見ているような気分でした。それはとても気持ちのいいことでした。
 早季子の手から、食べ残した雪のカケラが、最後の光を放って零れ落ちました。


     *


 青い光が、目に切り裂くような痛みを与えながら、飛びこんできました。
 おそるおそる目を開けると、それは真っ青に晴れた空の色でした。真夏の空のように明るい色をしていました。そして、白くギラギラした太陽が樹氷にたくさんの光の粒を送っていました。
 早季子はゆっくりと身体を起こしました。まるで夢を見ているようでした。どうやら、早季子は固くなった雪面の上に仰向けで寝ていたようでした。手袋も、スキー靴も、帽子も、マフラーも、スキーウェアも、みんなカラカラに乾いていました。スキー靴とスキー板を結ぶバネの氷も完全に融けていました。そして、スキー板を簡単に脱ぐことができました。
 雪あらしはとっくにやんで、雪あらしで積もったはずの重たい雪もほとんどなくなっていて、すっかり平和な景色に戻っていました。雪面はスキーにベストな状態の固さを保っていました。風は全くなく、日はぽかぽかと照っていて、全然寒くないのです。そして、とても静かでした。
 早季子は、雪あらしの中で見つけた白くぼんやりしたところまで歩いてみました。そこは樹氷の森の集会場のように、丸い広場になっていました。そこで、早季子は見覚えのあるものを見つけました。バスから下りた時、早季子が見つけて放り投げた、あの赤い実でした。驚いた早季子は慌てて目を凝らすと、見覚えのあるパステル調の屋根と壁が見えました。それは、バスから下りて最初に入った麓のロッジでした。
「やったーっ」
 早季子は嬉しさのあまり、大声で叫びました。早季子の声は、遠くまで響いて、あちこちにコダマしました。早季子は自分の声のコダマに少し驚きました。それでも早季子は『樹氷の森の中だから、声がよく反射するのだろう』と思って、気にしないことにしました。
 早季子は急いでロッジに向かいました。ロッジに向かう早季子の足取りは軽く、スキーがなければスキップでもしそうな勢いでした。明るい日の光を受けて、早季子の顔は輝いて見えました。嬉しさのあまり、早季子は、林檎のように頬を紅潮させていました。スキーウェアも帽子も靴も、みんな信じられないくらい軽く感じられました。
 早季子は、ロッジでたくさんのことをしようと思っていました。自分のことを話し、真由美のことを聞いて、それから真由美を探さなくてはいけない、と。それに、あの雪あらしがどうなったのか、そもそも今はいつなのか、それを確かめなくては、と。早季子の脳裏に、するべきことが次から次へと浮んできました。嬉しさのあまり、喉の乾きも空腹も全て忘れていました。周りの樹氷の木も何一つ見ていませんでした。ただひたすらロッジを目指し、一直線で進んでいきました。
 ところが、ロッジの入り口で、早季子は思わず足をとめました。
 ロッジの中が、恐ろしく静かだったのです。自分のスキー靴の床を叩く音が、壁や天井に響いて、とても大きく聞こえました。それでも早季子は『たまたま通路に人がいないだけだろう』と思いました。
 続いて、早季子は更衣室の方に行ってみました。更衣室の扉はガランと開いていました。まるで『この部屋には誰もいませんよ』と教えるかのように。そして、どの更衣室にも人はいませんでした。それで早季子は『この天気だからみんな滑るのに夢中になっているのかな』と思いました。
 続いて、早季子はトイレの方に行ってみました。食事時は大混雑するトイレも、この時は誰もいませんでした。そして、室内はとても乾いていました。早季子は首を傾げました。ここまで誰一人とすれ違っていないことが、少し気にかかりました。それで早季子は『あの雪あらしにびっくりして、スキーを切り上げて先に帰った人が多いんだろう』と思って、気にすることをやめにしました。
 続いて、早季子は売店に行ってみました。売店には、色とりどりのぬいぐるみや、巨大なお菓子の箱や、スキー場のロゴマーク入りの旗など、たくさんのおみやげ物が所狭しと並べられていました。そして、そこにビニールのカバーや立ち入り禁止の柵は何もありませんでした。それを見て、早季子は少しほっとしました。おみやげ物が並べられているということは、このロッジは営業中なのです。ということは、スタッフが必ずいるはずです。早季子は『その人になぜ今日はこんなに静かなのか聞いてみよう』と思いました。そこで、早季子は一つ小さなチョコレートの詰め合わせを取りました。
「誰かいませんか?」
 ところが、何度呼んでも、店員がやってきません。レジの方に行ってみると、レジにカバーもかけられてなく、すぐにでも店員が来そうな気配でした。そこで、早季子はしばらく待ってみることにしました。何度か声をかけてみました。それでも店員はやってきません。それで早季子は『食堂とか他の用事で忙しいのかな。季節物だからスタッフの数が足りないのかもしれない』と思いました。
 そこで、早季子は食堂に行ってみることにしました。食堂の入り口が見えてきました。早季子の歩調は目に見えて遅くなりました。近づけば近づくほど、食堂が静かに感じられるのです。あまりの静けさに早季子は胸がいっぱいになりました。早季子の脳裏に自分の期待と違う嫌な予感が浮びました。そして、その予感は一歩一歩食堂に近づくにつれ、現実度を増していきました。
 とうとう、早季子は食堂の入り口の扉に手をかけました。早季子はそこで、長い間ためらっていました。中から誰かが出てきてくれることを期待していたのです。しかし、その気配は全くありませんでした。
 早季子はこれまでの様子から覚悟を決めました。食堂には誰もいない、と。そして、その理由を早季子は『あの雪あらしでこの山は危険と判断され、突然、営業停止になったのだろう』と解釈しました。だから早季子は『食堂に人がいなくてもショックを受けてはいけない』と自分に言い聞かせました。そして、早季子は近くの公衆電話を見てゆっくりと頷きました。『大丈夫、電話があるんだから』と。
 そういうわけで、早季子は食堂の扉を開けるとき、絶対驚かない覚悟を持って臨みました。にも、関わらず・・・。
 早季子は驚きのあまり息を呑んで立ち尽くしました。
 食堂では、早季子が想定していたものとは違う意味で、ショッキングな光景が展開されていたのです。
 食堂のテーブルにはたくさんのご飯が並んでいました。カレーライスやハンバーグや定食ものなど。そして、作りたてのラーメンやうどんからは湯気まであがっていました。食堂のイスは乱雑を極めていました。下膳口には、食べ終わった食器が積み重ねられていました。それは混雑時の食堂の光景と何ら変わらない普通の景色でした。ただ一つ、中に人間がいないことを除いては。
 早季子は慌てて、湯気の出ているラーメンの器に両手を当ててみました。そして、その温度を確かめました。それは作りたての温度でした。早季子はおそるおそる口を近づけてみました。しかし、あることを気づいて、早季子はラーメンを食べることをやめにしました。それは、歯型のついた食べかけのチャーシューでした。早季子は急に気分が悪くなりました。まるで直前まで、誰かがこのラーメンを食べていたかのようでした。
 早季子は食堂から厨房へ足を伸ばしました。そこは食堂以上に異常な光景でした。途中まで刻まれたネギやチャーシュー、サラダしか盛りつけられていない定食のプレート、フライパンに置かれたままの生焼けのハンバーグ、芯が残ったまま鍋に沈んでいるスパゲッティー。全てがやりかけのまま放置されているのです。違和感はそこに人がいない、というだけではありません。包丁のトントンという小気味良い音とか、ハンバーグの焼ける美味しそうなジュージューという音とか、スパゲッティを茹でる時のグツグツという音、それらの音が一切ないことでした。まるで、昔のサイレンス映画の一シーンの世界に迷いこんでしまったかのような気分でした。そして、早季子はそこでもう一つ、いつもの世界と違うことに気づきました。それは匂いでした。その厨房は、調理中の美味しそうな匂いが一切しなかったのです。
 早季子は気味が悪くなりました。慌てて厨房を飛び出すと、食堂を抜け、公衆電話に飛びつきました。早くここから抜け出したい一心で、受話器を取りました。震える手でテレフォンカードを探しました。早季子の脳裏に『電話が不通だったらどうしよう』という不安がかすめました。幸いなことに、その懸念は無用でした。テレフォンカードをいれるとツーという音が響きました。早季子はやっと安心しました。これで助けを呼んでもらって、ここから抜け出すことができる、と。
 早季子は実家に電話しました。ところが、呼び出し音が虚しく響くばかりで、誰も電話を取ってくれないのです。諦めた早季子は、会社に電話してみました。ところが、代表番号にかけても職場への直通番号にかけても、誰も電話を取ってくれません。
 それから早季子はあらゆる知り合いの電話番号を押しました。どこも不在でした。早季子は意を決して110番や119番に電話してみましたが、結果は全て同じでした。
 早季子の目に、知らず知らず涙が溢れてきました。自分が生きているのか死んでいるのか、わからなくなりました。そして、そのどちらにしても、この孤独な時間がいつまで続くのか、その時間の長さを考えて早季子は心の底から震えあがりました。早季子の脳裏に、家族や友達の顔が次々と浮んでは消えていきました。その人達の自分を呼ぶ声が蘇ってきました。そして、そのたびに泣きました。早季子は誰かに会いたくて会いたくてたまりませんでした。そして、誰にも会えないまま、この静かな真昼の世界で途方も無い時間を過ごさなくてはならないとしたら、それはあんまりだと思いました。そんな悪いことを自分はしただろうか、と胸の中で呟きました。そして、こんなひどい仕打ちを受ける自分をとても気の毒に思いました。
 それでも、早季子はひとしきり泣いた後、小さく笑いました。
「こういう時でも、お腹は空くのね」
 そういうわけで、早季子は気を取り直して、食堂のご飯を頂くことにしました。厨房から運ばれる直前の、誰も手をつけてなさそうなものを選んで。温度はありましたが、匂いがあまりありませんでした。そのせいか、いつもより美味しく感じられませんでした。それでも、早季子はかなりお腹が空いていたので、スープまで残さず平らげました。身体が急に温まってびっくりしたのか、汗をかきました。その時です。
 ギシリ。
 全く無音だったこの世界に、突然、大きな音と震動が響き渡りました。それは遥か遠くで、大きな物が裂けて崩れ落ちていくような音でした。早季子は、その音に驚いて、食堂からテラスに飛び出しました。外の世界は特に変わっていませんでした。青く澄んだ空、風のない世界、明るく強い日差し、それを受けて反射する眩しい白銀のゲレンデ。その光景は、早季子がロッジに入る前と寸分違わぬように見えました。
 早季子は小首を傾げながら、食堂に戻ってきました。その時、背中に冷たい雫があたりました。上を見上げると、氷がありました。氷の中から、おぼろげに時計の文字盤が見えました。
「氷が、時間を閉じこめているんだ」
 早季子の肩に、融けた雫がまた一つ、落ちてきました。

「私だけじゃなかったんだ。動いているものって」
 ロッジを出た早季子は、そこで初めて一つの事実に気づいて歓声をあげました。それはロッジに入る前までは、逆に当たり前過ぎて気づかなかったことでした。
 リフトが動いていたのです。
 早季子は、しばらくリフトに乗ったものかどうか迷いました。そのリフトは、早季子を山頂駅に手招きしているように見えました。それが、良い招待なのか悪い招待なのか、早季子には見当もつきません。しばらく考えた末、早季子は山頂方向の空を見上げました。空は明るく澄んで、雪あらしの様相はまったく感じられませんでした。早季子は何度もそれを確認すると『大丈夫』と自分に言い聞かせました。
 早季子はリフトのすぐ近くまで行きました。そして、動いているものにこの世界を抜け出るヒントがある、と信じることにしました。静寂な白銀の世界に、リフトを動かす機械の唸るような音が大きく響きました。その音だけが周囲の樹氷にコダマしていました。まるでこの世界で生きているのはこのリフトだけだぞ、と宣言しているようでした。
 今までの早季子だったら、青空も眩しい日の光も固い雪面も全て大好きでした。こういう日のスキーは最高だろうな、と思っていました。風なんてない方が寒くなくていい、人なんていない方が思いきり滑れて気持ちいい、と思っていました。でも、今はその冷たい風やゲレンデで邪魔な人間が、とても懐かしく思い出されるのです。そして、それが早季子を切なくさせました。
 リフトは止まることなく、山頂を目指して空っぽの席を運んでいきます。
 早季子はそれを見て『自分も前に進もう。今までのことを考えてくよくよして後ろばかり見るのはやめよう』と自分に言いました。そして、視線を上げて、唇を固く結びました。それは決意の表情でした。早季子は、自分を落ちつかせるように深呼吸してからリフトに座りました。リフトは鈍い金属音を立てながら、早季子をゆっくりと空中に押し上げます。スキー板が雪面から離れる瞬間、早季子はあることを思い出しました。そして、一瞬、顔を曇らせたのでした。
 ギシリ。
 早季子の身体がちょうど空中に持ちあがるのを待っていたかのように、またあの音が響きました。早季子はリフトに腰掛けたまま、目を凝らして、前方の様子を見ました。音が前の方から聞こえてくるような気がしたからです。このままリフトに乗っていて大丈夫だろうか、と不安になりました。今なら、スキーを外して飛び下りることができそうな距離でした。それでも、天気は上々で風もなくリフトの音も普段とほとんど変わらないように感じました。リフトから飛び下りた経験がない早季子は、そういう理由で『山頂の天候は絶対大丈夫』と自分に言い聞かせました。そして『最後まで乗ってこの世界を上から見渡したら、案外あの音の正体も、そしてここから脱出するヒントも、見つかるかもしれない』と前向きに考えることにしました。そのうち、あの音のことは気にならなくなりました。
 リフトから見下ろす景色はとても静かでした。それは、まばゆい光が支配する穏やかな景色でした。白いゲレンデと真っ青な空が鮮やかなコントラストを描いています。それはまるで地上に描いた一枚の巨大な写真でした。リフトと自分を除いては何一つ動かず、音も匂いもほとんどなく、そして寒さも暑さもないのです。変化があるとすれば樹氷や雪が日の光を受けてキラキラ反射して、光模様を作っていることぐらいでした。
 早季子が最初の変化に気づいたのは、鉄柱を5、6本過ぎたあたりでした。それまでほとんど静寂だった世界に、雪融けのせせらぎの音が聞こえてきました。それは透き通った音でした。早季子が山の麓で暮らしていた頃に聞いていた春の訪れの音に似ていました。早季子はリフトの上から雪を見下ろし、食べたい、と心の中で呟きました。その雪は、レンガのように重くて食べごたえがあって、少し食べるだけでお腹がいっぱいになりそうでした。きっと、冬の終わりと春の初めが交差する切ない味がするんだろうな、と早季子は思いました。その雪の上に立つ樹氷の木は、表面が濡れ、日の光を受けて艶やかに反射していました。樹氷の銀の衣が、いくぶん透明になってきているように見えました。まるでそのまま青空に向かって融けていくかのようでした。眼下に広がる全ての音や色や形が、早季子を雪融けの世界にいる気分にさせました。実際、それまで凍った時間の中で全てが死んでいるように見えていた世界が、急に生き生きとして、生命の輝きを取り戻しはじめたかのように見えました。それは生き物が生まれる直前の世界のようでした。清らかなせせらぎが、早季子の孤独感を少しずつ洗い流していきました。早季子の表情は目に見えて明るくなっていきました。早季子はこの変化を喜ばしいこととして前向きに受けとめました。早季子は、リフトの山頂駅で誰かが待っているかもしれない、と密かに期待しはじめていました。
 ギシリ。
 それまで遠かったあの音がすぐ近くで聞こえました。そして、リフトにもその震動がはっきり伝わってきました。早季子は思わずリフトの支柱と手摺りを強く握り締めました。早季子は再び心臓の鼓動が早くなっていくのを感じました。それでも空は相変わらず真っ青で雲一つありません。そして白銀のゲレンデ上にも、風に転がった雪つぶてや雪けむりは一つも見えません。早季子は、ごくりと唾を呑み込みました。そして『後2つ鉄柱を越えれば山を越える。そうすれば音の原因がささいなものだとわかって安心できる』と自分に言い聞かせました。
 次の鉄柱を越えた時、早季子は奇妙なことに気づきました。反対側のリフトの座席がなくなっているのです。それで早季子は『山頂で誰かが座席を回収しているのかな』と思いました。そう思うと、早季子はますます山頂で誰かに会えるような気がしてきました。その期待で、早季子は胸がドキドキしました。
 もう一つの鉄柱を越えました。
 そこで早季子を待っていた光景は、早季子の期待を地獄のどん底まで叩き落とすようなものでした。
 山頂駅がなくなっていのです。
 リフトの先は、巨大な黒い闇に向かって突き進んでいました。山頂駅のあったあたりは、既に星一つ見えない巨大な暗黒に覆われていました。その黒い闇は違う次元からやってきたもののように感じられました。まるでこの世界とこの時間を破壊し、全て呑み尽くしているようでした。早季子は自分の時間が壊されていくような恐怖を感じていました。あの闇に呑まれたら、自分の身体だけでなく、自分の意識や自分の思い出全てが消し去られ、無くなってしまうような気がしました。そして、その考えは早季子を心から震えあがらせました。
 黒い闇と青空の境界線では、稲妻が走り、雷鳴がとどろきました。そして、黒い闇と白銀の大地の境界線では、氷河が割れるような大きな音を立てて、大地が少しずつえぐりとられていきました。その光景は、巨大な暗黒が鋭い牙をもって、この世界を食べていくようでした。早季子は気づきました。戻りのリフトから座席が消えていた理由、それが、その暗闇が座席を食べていたからなのだと。
 ギシリ。
 その音と共に、早季子の直前のリフトが無くなりました。その光景に、早季子は心臓がとまりそうになりました。それまで遠くにあったはずの暗闇が、リフトの先端が、早季子のすぐ目の前まで迫っていました。もし一つ前の席に乗っていたら、と思うと早季子は震えがとまらなくなりました。早季子の上空は既に暗黒の闇に覆われていました。早季子のすぐ上で、暗褐色の炎のようなものがチロチロと動いていました。それは、この世界を食べる暗闇の化け物の舌のように、伸びたり縮んだりしていました。
 早季子は思わず目をつむって、リフトにしがみつきました。しかし、このままリフトにしがみついている訳にはいきません。このままでは、直前の座席と同じ運命をたどることになるのです。
 早季子は祈るような気持ちでリフトの下を見ました。白銀の雪面が遥か彼方に感じられました。樹氷の先端が本当に小さく見えました。通常の精神状態ではとても飛び下りられない高さでした。早季子は目の前が真っ暗になりました。選択するまでほんの数秒しかありません。それも、このままリフトに乗って暗闇の化け物の中に突っ込むか、それともリフトを飛び下りて雪面に身体を叩きつけるか、早季子にはこの二つの選択肢しかないのです。早季子はこのリフトに乗ってしまった自分の運命を呪いたくなりました。しかし、その時間すら、早季子には許されていないのです。
 リフトの先端が食べられていく音と震動が、早季子の座席に伝わってきました。その時、早季子は決断しました。
 早季子は目をつむりました。そして、リフトから手を離しました。
 その直後、早季子の乗っていたリフトが闇に突っ込み、音を立てて壊れていきました。
 早季子はしばらく目を開けられませんでした。身体が一瞬宙に投げ出された時、自分のすぐ目の前で、いろんなものが壊されていく、きしむような音を聞きました。空気が電気を帯びバチバチと音を立てて燃えているようでした。早季子はどこかに向かって急速に落ちていくのを感じました。恐怖のあまり、そのまま気を失ってしまいそうでした。
 早季子の身体が何かにぶつかって、大きくバウンドしました。早季子は目を開きました。樹氷の枝か何かに引っかかったようでした。そして、ゆっくりと雪の中に落ちました。かなり厚く積もっていた雪は予想以上に柔らかく、早季子はそのまま雪に深く埋もれました。奇跡的に無傷でした。
 雪に埋もれた早季子は『助かった』とわかった瞬間、激しく心臓が動悸しました。それまでの恐怖が一気に蘇ってきたのです。しかし、早季子が見上げた空は、既に闇に覆われていました。雪の上に落ちた早季子に一刻の猶予もありませんでした。早季子は必死に雪から這いあがりました。そして、ショックで外れたスキー板を急いで履くと、闇の中の赤い炎から逃れるように、一気にスキーで滑り出しました。
 早季子の後ろで何度となく、雷鳴がとどろきました。そして、大地が氷河となって崩れていく音と震動が響きました。そしてそのたびごとに震動が雪面を走り、早季子を雪面から空中へ投げ出そうとしました。早季子は、後ろを振り返ることができませんでした。また、振り返る余裕もありませんでした。必死に前方を凝らして、持てる力をすべて出し切って、まだ安全な下のゲレンデを目指しました。樹氷が行く手を遮るように何度となく早季子の身体を掠めました。避け切れなかった樹氷の先端が、何度も早季子にぶつかりました。樹氷の枝で傷ついた早季子の頬から、血がにじんでいました。早季子は頬が焼けるように熱くなるのを感じました。それでも早季子はスピードを緩めませんでした。
 早季子は樹氷の森を抜け、無人のゲレンデに出ました。早季子は一気に加速しました。腰を極力屈め、ストックで助走をつけると、直滑降で一気に滑り下りていきました。あまりのスピードで早季子はコブを見逃しました。そして、コブにつまづいて激しく空中に投げ出されました。両手を必死について頭を雪面の激突から守りました。すると、身体を守ろうとして無理な姿勢でついた両手首に激痛が走りました。そのまま早季子は半回転すると、背中を雪面につけたまま、急斜面を滑り落ちていきました。早季子の目に迫り来る黒い闇が大きく見えました。あまりの近さに早季子は両目をつむりました。早季子の背中は雪面の上で燃えるように熱くなりました。傾斜のゆるくなったところで、早季子はやっと止まりました。早季子は慌てて身体を起こすと、前を向いて必死に滑りだしました。初心者用のゲレンデまで戻ってきたらしく、早季子はストックで加速しながら一気に滑り下りてきました。何度となく背後の震動で転びそうになりながらも、必死で体勢をたて直しました。麓のロッジがとても遠くに見えました。自分の滑りがとても遅く、もどかしく感じられました。なかなかロッジとの距離が縮まらないような気がして、早季子は焦りました。そして、何度もストックをついて加速しました。ロッジに辿りつくまでの1分足らずの時間が、途方もなく長く感じられました。
 やっとの思いで、早季子はロッジの入り口まで来ました。しかし、ロッジの入り口で早季子を待っていたのは、もう一つの地獄でした。
 早季子の目指す前方にも、あの黒い闇が迫っていたのです。早季子は慌てて両側を見ました。すると、早季子の右側からも左側からも、既に黒い闇が迫っていました。元の世界はロッジを中心とした校庭くらいの空間にまで狭まっていました。そして、それは暗闇に浮いた白く平らな円盤のように不安定で心もとないものになっていました。早季子の足元で亀裂が走りました。早季子は思わず下の闇にひきこまれそうになりました。慌てて避けた早季子の手から、ストックが零れ落ちました。そのストックは黒い亀裂に吸いこまれ、ギシリという音を立てて壊されて見えなくなりました。
 早季子は祈るような気持ちでロッジに逃げ込みました。歩きながら必死にスキー板を外すと、食堂めがけて、早季子はわき目も振らず走りました。
 食堂には、氷に覆われた時計があるはずでした。しかし、その時計を覆っていた氷はほとんど融けていました。氷の支えを失った時計は、柱から落ちて、床の上に倒れていました。それは柱時計のようでした。ところが、時計は壊れていませんでした。時計の下半分では、振り子がゆっくりと時を刻んでいました。しかし、それは普通の時計ではありませんでした。文字盤はカウントダウンのように逆順に並んでいました。その下には、ハンマーのような形をした鉛が、残酷な光を放ちながら、時計の両側の壁を壊して振れていました。そしてそのハンマーが左右の壁を往復するたびに、文字盤の上の針が、0に向かって少しずつ振れていきました。その針が突然大きく振れました。その時、外の世界がえぐれていく音がぴったり重なりあいました。
 早季子は確信しました。そして、急いで調理場の製氷皿を探しました。しかし、その氷はあらかた融けて使い物になりません。早季子は製氷皿の扉を開けたまま、外に飛び出していきました。そして、外に残っている雪を必死に取ろうとしました。外の雪は融けかかっていました。亀裂の入った大きな塊を探して早季子は必死にその雪を削り取りました。それは黒い闇と早季子の競争でした。黒い闇に取られる前に早季子は必死にその雪を奪うと、早季子は転がるような勢いで食堂に戻りました。そして、その雪の塊を、時計の中のハンマーにぶちこみました。ハンマーの動きが鈍くなり、中の雪をもどかしげに叩きながらだんだん止まっていきました。早季子はそれを見て、まだまだ雪が足りないと思いました。そして、また外に飛び出しました。外では、黒い闇が足止めを食って苛立たしいのか、熱風を早季子に浴びせかけました。早季子は両腕を顔に被せて必死にそれに耐えました。そして、また黒い闇の隙間から雪の塊を取り出しました。暗闇から発する熱風で両腕が焼けるように痛くなりました。早季子はその雪が融けないうちに、必死に食堂に戻りました。そして、その雪を時計のハンマーにぶちこみました。外の闇が大人しくなったような気がしました。早季子は今がチャンスだと思いました。そして、大人しくなった闇から必死に雪を奪うと、何度も何度も時計のハンマーや文字盤や針の上にぶちこみました。
 早季子の努力はあらかた成功したように見えました。外の闇は急速に熱を失っていきました。それでも早季子は安心できませんでした。時計の針だけでなく時計を全て覆ってしまうほどの雪が必要だと考えました。早季子は何度も外に出ては、時計に雪をくっつけました。早季子は汗だくになっていました。それでもスキーウェアを脱ぐ時間を惜しんで、早季子は雪を運びました。時計が完全に雪に覆われるまで、早季子は重たい雪を抱えて何度も外とロッジを往復しました。
 再び、時計が完全に雪に覆われて、文字盤も見えない状態になりました。そこで早季子はやっと安心して、食堂の床に座りこみました。汗と融けた雪で全身はびしょぬれになっていました。全身は燃えるように熱くなっていました。頬は火照って真っ赤になっていました。この時、早季子は初めて喉の乾きを感じました。自覚し始めると、その乾きは耐えがたいものになっていきました。時計の雪を見ていると、たまらなく雪が食べたくなりました。それでも、雪は時計を覆う貴重なものとなっていました。そこで早季子は、食堂の水を飲むことにしました。ところが、水道から出てきたものは、煮えたぎるように熱いお湯でした。早季子は慌てて蛇口を閉じました。ところが、熱湯が止まらないのです。その熱湯はものすごい勢いであの時計に迫っていきました。早季子は、泣きそうになりながら、必死に蛇口を閉めようとしました。すると熱湯は、早季子の全身を焼き尽くすような勢いで、早季子に襲いかかりました。早季子はあまりの熱さと痛さに悲鳴をあげました。そして、とうとうどうにもならない距離まで熱湯が時計に近づくのを見ると、蛇口を諦めました。そして、急いで時計の元に走りました。時計を熱湯から守るために。しかし、その判断は遅過ぎました。
 ついに、熱湯が氷の時計をとらえました。
 その時でした。それまで静かで大人しく冷たくなっていた外の暗闇が、突然、熱を持ちはじめたように再び熱くなってきました。それは、早季子に反撃を開始したかのようにギシリと咆哮をあげて、再び外の世界を融かしはじめました。
 外の熱さは、ロッジの中の早季子を苦しめました。早季子は熱さのあまり意識がもうろうとしてきました。早季子は、スキーウェアを始め、脱げるものを全て脱ぎました。それでも身体の火照りがおさまりません。そして、喉だけでなく早季子の全身が、水を求めて悲鳴をあげていました。早季子は、どうしても雪が食べたくなりました。とうとう我慢できなくなった早季子は、ロッジの外に飛び出しました。
 早季子は雪の上に立ったまま、しばらく動けなくなりました。
 闇があと5メートルの距離まで迫っていました。雪がもっと残っていると思っていた早季子はあまりに少なくなった雪に呆然としました。そして、雪が融けた裂け目からは、あの熱風が吹き荒れ、早季子の頬をぞっとするほど熱い空気で焼きはじめました。
 早季子の頬に涙が零れました。それは熱い涙でした。この先自分がどうあがいでも、この世界と一緒に自分の存在がこの闇の中で壊されていくような気がしました。自分が無くなる思い出に無性に雪が食べたくなりました。足元の雪を両手に大事そうにすくいあげて、一口、食べました。その冷たさが、火照った早季子の全身を、心地よく駆け巡りました。早季子は、たまらず、もう一口食べたくなりました。そして、更に雪をすくいあげました。その時でした。
「わたしは綺麗なたからもの 雪をかけられて埋められた
 めじるしの赤いてぶくろは 犬がくわえて持っていった」
 突然、歌うような声が響きました。それは、早季子がすくいあげた雪の下から聞こえてきました。驚いた早季子は、すくいあげた雪の下を見つめました。すると、そこに赤い布切れが見えました。それは、赤いかすりの着物の裾のようでした。早季子は、それに見覚えがありました。
 あの時の女の子のものでした。

 それは、早季子がまだ山の麓で暮らしていた時のことでした。雪を食べはじめて間もない頃、早季子は夜中にこっそり家を抜け出し、月明かりの中、少しお散歩しました。そして、森の近くに行きました。雪がやんだばかりの静かな夜でした。早季子の足元に、積もりたての雪が白い毛布を敷いたように広がっていました。それはとても柔らかそうに見えました。そして、その雪は月明かりを受けて青白く輝いていました。あまりに綺麗な雪に見惚れた早季子は、思わずその雪を手にとって、こっそりと食べはじめました。それは、月の味がしました。早季子は、嬉しくなってたくさん食べました。その時、早季子の小さな手がすくった雪の下に、赤い布の切れ端が見えました。
「なんだろう」
 早季子は、不思議に思って、その雪を掘ってみることにしました。小さな手は、見る間に濡れて真っ赤になりました。それでも、早季子は一生懸命掘りました。そのうち、早季子は喉が乾きました。そこで、掘った雪を口に入れて、喉を潤しました。その雪は早季子の中ですーっと融けていきました。早季子は、その雪をとても美味しいと思いました。
 ところが、掘り進めていた早季子の手が、突然止まりました。早季子は、そこで思いがけないものを見つけたのです。
 雪の中からあらわれたのは、赤いかすりの着物を着た小さな女の子でした。早季子はその女の子に見覚えがありました。先の年のお正月の晩に突然行方不明になって、結局見つからなかった、村一番可愛いと評判のあの女の子でした。
 その女の子は、雪の中で、目を閉じて静かに眠っていました。雪のように白い肌。小さな氷のカケラをたくさんくっつけて輝く黒い髪。そして、透き通ったまま凍っている小さな唇。その小さな口元は、静かに微笑んでいるようでした。
 早季子は、その女の子を前にして、声をあげることもできず、ただただ震えていました。その早季子に、雪の中で凍った女の子が、氷のような言葉で、突然話しかけてきました。
「美味しかったでしょう」
 早季子は思わず、雪を吐き出したくなりました。それでも、その雪は早季子の中でしっかりと融けていて、とても吐き出すことはできませんでした。
「もう無駄よ。あなたはこれから雪が食べたくて食べたくてたまらなくなる。そう、あなたの中の私のために、あなたは雪を食べ続けるの」
 雪の中の女の子の表情は固く凍っていました。早季子は、その時初めて気づきました。女の子の声は、自分の身体の内側から聞こえていたのです。
「私、ひどいことをされた。ここに埋められた。ずっと一人ぼっちだった。冷たかった。辛かった。苦しかった。寂しかった」
 早季子は身体の奥が激しく痛みました。胸が重たくなりました。喉の奥がヒリヒリと痛みました。そして、息をするのがだんだん苦しくなってきました。苦しくて、早季子の目に涙が浮んできました。そして、早季子は自分の身体が冷えて固まっていくのを感じました。このまま全身が氷になってしまいそうでした。早季子は声にならない言葉で『助けて』と言いました。すると、身体の内側からまた声が響きました。それは歌うような声でした。
「しばらく待ってあげる。あなたが綺麗だから」
「私のお友達にしてあげる。あなたが綺麗だから」
「いつまでも一緒にいてあげる。あなたが綺麗だから」
 それまで、早季子を内側から苦しめていた冷たい塊が、急に嬉しそうにキラキラ光るのを感じました。それは、突然の変化でした。早季子が目を閉じると、いろんな光の結晶が見えました。それはとても綺麗で、いろんな形になっていろんな色の光を発しました。早季子は、夢の世界の中で、自分が融けていくかのような心地よさを感じました。
「綺麗でしょう。気持ちいいでしょう」
 早季子の感激を待っていたかのように、女の子の氷の声が響きました。早季子は、自分の身体の内側に入ってしまった冷たい女の子の声に震えあがりました。そして、雪から顔をのぞかせた女の子を、もう一度埋めてしまおうと思いました。両手で雪をすくって、女の子の上にかけました。すると、早季子の身体の内側から、女の子の歌う声が響きました。
「わたしは綺麗なたからもの 雪をかけられて埋められた
 めじるしの赤いてぶくろは 犬がくわえて持っていった」
 早季子は必死に耳を塞ぎました。そして、何度も何度も凍った女の子に雪をかけました。周囲の雪をかき集めては、女の子の上に雪の雨を降らすかのように、たくさんの雪をかけました。その間も、女の子の歌はずっと早季子の内側から聞こえていました。女の子の赤い着物がすっかり見えなくなるまで、必死に雪をかけました。そして、女の子が完全に雪の中に隠れたのを確認すると、転びそうな勢いで、家に逃げ帰りました。
 それからしばらく、早季子は病気で寝こみました。それはものすごい高熱を伴いました。そして、病気から回復した後、早季子はその高熱のせいで、それまでのことを一切思い出せなくなりました。

 早季子は、自分の身体の内側が融けていくのを感じました。そして、それだからこそ、自分の中で凍っていたはずの記憶が、こうして蘇ってしまったんだと思いました。
 その時、早季子の耳に祖母の声が蘇りました。
「だから言ったでしょう。雪を食べてはいけませんって」
 早季子は力なく笑いました。そして胸の中で呟きました。『どうして今更、この言葉を思い出すんだろう』と。
 その時、ロッジの中で、氷の時計が音楽を鳴らしはじめました。それは時計の針が0に達したことを告げるファンファーレのようでした。
 早季子の目の前で、雪が次々と闇に消えていきました。背後にあったはずのロッジも、音を立てて壊れていきました。早季子は何も見えなくなりました。早季子の世界から、確かなものが全て無くなっていきました。ただ一つ、最後に手にした雪の冷たさを除いては。
 早季子は薄れゆく意識と記憶の中で、最後の雪をそっと口に入れました。その時、早季子の中で何かが冷たく変化していくのを感じました。その変化は、大きな流れに逆らおうとする早季子のささやかな抵抗でした。そして、それが早季子の精一杯でした。
 その雪の冷たさが、その世界での早季子の唯一の記憶となりました。

 早季子と入れ替わるように、暗闇の中からそれまでこの世界に無かったものがやってきました。それは一時に、乱雑に、大量に、混沌の熱いエネルギーを持っていました。そして、洪水のように今までの世界を押し流しました。
『風が冷たーい。心臓が凍るかと思った』
『ラーメンでも食べて温まらなくっちゃ。食券、買ってくるね』
『すごい行列。席も全然あいてないし・・・まったく、食堂が狭すぎるのか、人が多すぎるのか』
『トップシーズンだからしょうがないよ。この時期空いていたら、このスキー場、とっくにつぶれているよ』
『そうそう。最近、儲からなくって本当にスキー場がつぶれているんだってさ』
『ねえねえ、館内放送、なんだって?』
『誰か、ゲレンデから消えちゃったんだってさ』
『ふうん。迷子ってやつね』
 それは、もう一つの世界の来訪を告げる音でした。


     *


 一年後。
 同じスキー場に、一人の女性が立っていました。彼女は、バスから下りると、誰かを待つようにじっとバスを見上げていました。彼女を除く全てのスキー客はそれぞれロッジへと荷物を抱えてあがりこんでいきました。バスはエンジンを唸らせて、白けむりを上げて坂を下っていきました。
「綺麗でしょう」
 何時の間にか、背後に女の子が立っていました。その女の子は赤いかすりの着物を着て、髪をおかっぱにしていました。頬は雪のように白く、小さな唇は赤い実のように小さく、とても古風な顔立ちをしていました。
 女の子に声をかけられた女性は、女の子の視線に合わせてしゃがみました。そして、安心させるような笑顔で、彼女の顔を真っ直ぐ見つめて、答えました。
「綺麗よ。雪に咲いた赤いお花みたいね」
 その女の子は、彼女の返事を気に入ったようでした。女の子は肩を揺らして喜びました。おかっぱの髪についた氷のカケラが、嬉しそうに小さく輝きました。素敵な返事のお礼に、その女の子は、女性の手を取ってあるものを指差しました。
 それは一本の樹氷の木でした。膝下くらいの背丈で、まだ一年足らずの若い木のようでした。その木は、透き通った氷の衣に、冬の白い日の光をいっぱい閉じこめていました。 女の子は、その樹氷に手を添え、まるで自分の秘密を打ち明けるように小さな声で言いました。
「これは、私の新しいお友達」
 女性は、その言葉を、その頃の子供にありがちな『自分だけが決めた小さなお約束』と解釈しました。だから、その言葉に同意を示すようにゆっくりと頷きました。そして、その樹氷の木に、そっと手を触れようとしました。すると、女の子は急に険しい顔をして、その手をはたきました。
「触らないで」
 その女の子の目は、本気で怒っていることを告げていました。その子の目に、一瞬、白い炎が見えました。それは、自分の物を汚される、と抗議しているようでした。
 女性はびっくりして手を引っ込めました。その理由は、女の子の目や言葉だけではありませんでした。女の子に叩かれた女性の手に、切れるような痛みが走っていたのです。そして、それはとても冷たかったのです。その女性は、女の子が少し怖くなってきました。
 その動揺を待っていたかのように、突然、冷たい風が吹きました。その透き通った風の中で、女の子の赤いかすりの着物の裾が、一瞬大きく広がりました。
「知ってる? この樹氷が綺麗に見えるわけ」
 風の中で女の子の声が、震えるように響きました。
「桜の木と、同じよ」
 その女性の背筋に、冷たいものが走りました。そして、慌てて樹氷の木から離れました。
 風はすぐにやみました。あの女の子の姿はもうどこにもありませんでした。樹氷の木は、そのまま穏やかに輝いていました。それを見つめているうちに、その女性は、あの女の子との小さな出来事が、何かの夢のように感じられてきました。
「どうかされました?」
 バスの降車場にじっと立っている女性の様子を心配したのか、一人の男性が声をかけました。女性は突然の声に驚いて、小さく息を呑みました。男性はスキーウェアでなく、黒いヤッケを着ていました。スキー場で働く人のようでした。女性は、その男性の生気に満ちた明るい表情を見て、安心したように息を洩らしました。その息は、一瞬白くなって、それからガラスのように光ると、空気中に融けるように消えていきました。女性は樹氷を遠くに見つめながら、言いました。
「綺麗な景色ですね。ちょっと怖い気もするけれど」
 男性は、その女性の言葉を好意的に解釈したようでした。そして、ロッジを指差すと、白い歯を見せてニコリと笑いました。
「宜しかったら、ロッジへどうぞ。今、写真展をやってるんです。今年、下の方に新ゲレンデをオープンさせたでしょ。だから、その呼び物として。この地方の美しい景色をたくさんおさめたお勧めの写真ばかりですよ。ええ、無料ですから。是非どうぞ」
 女性は興味を示したようでした。目で軽く頷くと、再び小さく笑いました。
 二人の背後で、仕事仲間の声が響きました。
「おーい。何をさぼっている」
 男性は頭をかきました。『うわ。いけね』と呟くと、慣れた足取りで雪面を走りながら、ロッジへ向かいます。
 女性は、その男性を見送ると、樹氷から少し離れたまま、まるで誰かを待つように、じっと立っていました。

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