サンタさんが転んだ   Pere Noel est tombe...

松堂明友


 いつもと何一つ変わらぬように思える冬の朝。私は髪をとかす手をふと止めて、鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。昨日の私と今日の私。鏡の中の私は少しも変わっていないように見える。しかし私の心の中で、確かに何かが変わっていた。
 制服のリボンをていねいに結び直し、背筋をすっと伸ばす。不思議だけれど、たったそれだけのことで自分が少し大人になったような、何とも説明のできない不思議な感覚に包まれた。
 今日は私の十八歳の誕生日である。
 私は朝の身支度を整えながら、昨夜かかってきた電話のことを思い出していた。その電話での話題は、前から私が聴きたいと思っていたショパンのレコードのことだった。
「室町さんからお聞きしたのですが」電話のお相手はいつもの穏やかな声で言葉を継いだ。
「村岡さんはリパッティのレコードを探しているそうですね」
「ええ、そうなんです」私は電話口でこっくりうなずいた。
 ディヌ・リパッティは夭折の天才ピアニストとして名高い。彼の演奏するショパンのヴァルス集のレコードのことを本で読んで以来、私はその名盤を聴いてみたいと思っていたのである。もちろんCDならば、比較的簡単に手に入ることだろう。しかし、私はぜひともアナログのレコードで聴きたかった。
 もはやレコード店と呼ぶのがおかしなくらい、街でレコードを見かける機会はほとんどなくなってしまった。私が持っているのも、そのほとんどがCDである。ところが今年の夏休み、旅先でのできごとをきっかけに、私はレコードのやわらかい音質にも心惹かれるようになった。それ以来、母親から受け継いだ何枚かのレコードを、私はときおりラックからとり出しては聴くようになっていた。そういうわけで、私はぜひリパッティのピアノもレコードで聴こうと心に決めていたのだ。
 数日前のお昼休み、親友である室町香澄と大和沙貴ちゃんに私がそんな話をしたのが彼にも伝わったらしい。
「それで、お探しのレコードは見つかりましたか」
「いいえ、だめです。いろいろお店を回ってみたのですけれど、すでにレコード自体がどこにもありません。芸大の図書館にレコードライブラリがあると聞いたので、今度、時間を見つけて上野の森へ行ってみようと思っています」
「上野の森というのもいいアイデアだとは思いますけれど」
「はあ」私が何げなく相づちをうつと、電話のお相手はいたずらっぽい調子でこう続けた。
「実は、僕はそのリパッティのレコードを持っているのですが」
「え、本当ですか」私は思わず椅子から立ち上がっていた。がたんと椅子が鳴った音が聞こえたのだろう、電話の向こうでくすっと笑う声がこぼれた。私は思わず顔を赤らめながら、つつましく椅子にすわり直した。何ごとかと居間から顔をのぞかせた父から受話器を隠すようにして、私は声をひそめて訊ねる。
「あの、そのレコードを貸していただけますでしょうか」
「もちろんです。そのためにお電話を差し上げたのですから」お相手からは快い返事が返ってきた。
「よかった」思わず笑顔がこぼれる。
「いずれ近いうちにお会いすることがあるでしょう。そのときにでもお渡ししましょう」
「ありがとうございます。今から楽しみにしていますね」長い間探し求めていた宝物に出会える期待に胸をはずませながら、私はそっと受話器を置いたのだった。

 ここで簡単に自己紹介をさせていただこう。私の名前は村岡玲子。都内の高校に通う高校三年生である。二学期も残り少なくなり、あと少しで高校生活とも別れを告げることになる。そんな私の高校生活には大いなる一つの出会いがあった。高校二年に進級したばかりのときのことである。ある事件をきっかけに、私は四歳上の大学生と知り合った。お名前を岩岸正さんという。実は昨夜の電話のお相手が、その岩岸さんである。
 岩岸さんは不思議な力を持っていた。私たちの身の回りに起こる、ささやかだけれど不思議な謎を、私たちの話を聴くだけで解き明かしてしまうという千里眼の力である。岩岸さんはこれまでにもいくつもの謎を解いてきた、われらが名探偵なのである。
 いったい私にとって岩岸さんはどういう存在なのだろうと、ときおり考えることがある。もちろん単なる名探偵ではない。かといって、恋人のような恋愛感情の対象とも少し違う。兄のいない私にしてみると、頼りになるお兄さんというような存在かもしれない。いずれにしても、答えは簡単には出そうになかった。十八歳になっても、わからないことは多いものだ。
 ふと我に返って壁時計を見れば、そろそろ登校する時刻である。私は机の上の鞄をとり上げると自分の部屋を出た。
 暖かい朝である。とはいえ、冬は確実に街を包んでいる。通学途中に見上げる街路樹の銀杏並木もすっかり葉が散ってしまい、とっくに冬支度を済ませている。
「おはよう」私がいつものように朝の挨拶をしながら教室に入っていくと、大和沙貴ちゃんがスケートを滑るときのように後ろで手を組んだ格好で私の席に近づいてきた。
「玲子ちゃん、おはよう」沙貴ちゃんは両手を後ろで組んだ格好のまま、私の机の前で立ち止まった。すっかり沙貴ちゃんのトレード・マークになっているポニーテールが楽しそうに揺れている。沙貴ちゃんはそのまま背中の方にあった両手をすっと身体の前に回した。ふわふわふくらんだ紙製の袋を下げている。沙貴ちゃんはその紙袋を私に向けて差し出した。
「玲子ちゃん、お誕生日おめでとう。これは私からのささやかなプレゼント」
「ありがとうございます」私は椅子から立ち上がると、恭しく両手を差し出して沙貴ちゃんのプレゼントを受けとった。
「開けてみてもいい?」私が訊ねると、沙貴ちゃんは小さくうなずいた。
 紙袋の口を慎重にはがし、そっと中をのぞく。とたんに袋の中から私を見上げているつぶらな瞳と目が合った。
「わあ、かわいい」思わず私の口許がほころぶ。
 沙貴ちゃんからのプレゼントはテディベア。ドイツの有名なメーカーのもので、愛らしい表情をしたクマさんのぬいぐるみである。私は顔を上げ、目の前でにこにこしている沙貴ちゃんにぺこりと頭を下げた。
「沙貴ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」沙貴ちゃんはちょっと照れたように肩をすくめてみせた。
「おっはよう」少し遅れて香澄も教室に入ってきた。香澄は幸せそうな私の顔をちらりと横目で見ながら鞄を机の上に置いた。
「あら、玲子は朝からずいぶんご機嫌じゃない」
「うん。香澄、これ見て。沙貴ちゃんから誕生日のプレゼントもらっちゃった」テディベアを胸元で左右に揺らしてみる。
「おお、そうでしたそうでした。今日は玲子が一つ齢をとった記念日でしたわね」
「香澄、その言い方はやめてよ。『一つ大人になった』と言ってほしいわ」
「はいはい、玲子は立派な大人です」私の抗議を軽く受け流しつつ、香澄は鞄の中から何かをとり出した。香澄はこちらにふり返ると、それまでとは違う真剣なまなざしで私を見つめた。
「はい、玲子。十八歳の誕生日おめでとう」香澄は小さな包みを私に差し出した。
 ブルーのリボンをほどき、包み紙をていねいにはがす。クリーム色の小ぶりな箱の蓋をそっと持ち上げ、中を見た私は思わず息を呑んだ。そこには銀色の針が静かに時を刻んでいた。香澄からの誕生日の贈り物は銀製の懐中時計だった。
「素敵な時計。香澄、ありがとう」贈り物への私の反応を心配そうに見ていた香澄は、ほっとしたように微笑んだ。
「喜んでもらえてよかった。ほらこの前、不思議の国のお茶会のお話があったでしょ」香澄の言葉に私はこっくりうなずいた。
 この夏に知り合った女の子が、東京に遊びに来たことがあった。彼女を私の家にお招きし、ささやかなお茶会を開いたのであるが、そこで『不思議の国のアリス』にでも出てきそうな奇妙なお茶会の話が出てきたのだ。先月のことである。
「そのときから、玲子の誕生日のプレゼントはこれにしようって決めてたんだ」
「沙貴ちゃんも香澄も、本当にありがとう。どちらも大切にするね」私は二人からの心のこもったプレゼントを大切に鞄にしまった。
「あ、香澄」自分の席へ戻ろうとする香澄を私は呼び止める。
「ん、なあに?」
「昨日の夜ね、岩岸さんから電話があったよ」
「ふうん。それで岩岸さんは何て」答えを知っているくせに、香澄はそ知らぬ顔をして訊ねる。心の中で《こいつめ》と言いながら、私も澄ました顔で答える。
「私がずっと探し求めていたレコードを持っているから貸してくれるって。でも、私がリパッティのレコードを探していること、どうして岩岸さんが知ってたのかしら。ねえ、香澄」問われた香澄は、わざと天井など見上げながらとぼけた調子で言う。
「さあ、どうしてかしら。何しろ岩岸さんは千里眼だからね」
「そうすると、私たちがこんな話をしていることもお見通しなのかもしれないわね」私が言うと、香澄もうなずいた。私たちはそのまま顔を見合わせてくすくす笑い出していた。
 どうやらこの勝負は引き分けのようである。

 その日のお昼休み、お弁当を食べ終えた沙貴ちゃんと私が陽当たりのよい窓際でおしゃべりしているところに、売店横の自動販売機で食後のココアを買ってきた香澄が戻ってきた。香澄は私たちの隣に腰を下ろすと、笑顔で一つの企画を提案した。
「ねえ、高校の帰りに私の家の近所にあるケーキのおいしいお店で玲子のお誕生パーティーを催そうと思うんだけど、主賓の今日の都合はどうかしら」
「あ、私はだいじょうぶ」
「沙貴ちゃんも一緒に行くでしょ」
「うん、行く行く」顔をぱっと輝かせた沙貴ちゃんは、楽しそうに身体を揺らした。
 帰りのホームルームが終わるやいなや、私たちは先を競って昇降口へと急ぐ。すでに気持ちは私の誕生日を祝ってこれから開催されるお茶会へと飛んでいるのだ。
 高校の最寄りのバス停からバスに乗って二十分ほど行き、香澄の家のご近所に降り立つ。香澄にとってはすでに勝手知ったる自分の庭のようなものなのだろう。私たちの先に立ってすたすたと歩いていく。やがて香澄は腕時計をちらりと見ると、私たちの方へふり返り、
「遅い、遅い。二人とも置いてっちゃうぞ」そう言うと、はやる心を抑えきれないというようにかけ出した。
「あ、待ってよ、香澄」沙貴ちゃんと私は、あわてて香澄の後を追いかけた。
 香澄に案内されて、沙貴ちゃんと私は一軒の喫茶店の前にたどり着いた。小さい木製のドアが瀟洒なお店である。まだ真新しい焦げ茶色の看板には、白いモダーンな字体で《ヴェール》と書いてある。お店の名前である。香澄が喫茶店のドアを押した。ドアベルが、かららんと可憐な音を立てた。
「いらっしゃいませ」カウンターの向こうから、当店のマスターが私たち三人を笑顔で迎えてくれた。
「お待ちしておりました。どうぞこちらのお席へ」すでに香澄が席を予約してくれていたようで、私たちはかわいい中庭に面した四人がけのテーブルに案内された。
「いらっしゃいませ」お冷やを運んできたのはマスターの奥様である。楽しげに語らう私たちの様子を見てにっこり微笑むと、
「あら、またずいぶんにぎやかね」
「はい。今日は彼女のお誕生日のお祝いの会なんです」
「それはそれは。おめでとうございます」奥様からもお祝いの言葉が贈られた。それぞれの祝福はそれぞれに嬉しいものだ。
 今日は香澄と沙貴ちゃんが、とびきりおいしいと評判のケーキと本格的な英国紅茶のセットを誕生日のプレゼントにごちそうしてくれるという。やはり持つべきものは友である。
 香澄はショートケーキにセイロンウバ、沙貴ちゃんはミルフィーユにアッサム、そして本日主賓の私はモンブランにダージリンというセットを注文した。
 私は落ち着いた雰囲気のただようお店の中を見回した。店内にはルロイ・アンダーソンの曲が流れている。冬の午後ということで、一つ奥のブースに学生らしき男性が一人いる以外には、私たちの他にお客様もいないようである。
 ショートケーキに対抗するロングケーキというものがはたして存在するのか、あるいは真のモンブランは栗色ではなく何色をしているか、といったケーキにまつわる話題で私たちが盛り上がっているところに、注文していたケーキ・セットが運ばれてきた。さっそく、香澄ご推薦のケーキを一口頬ばる。
「おいしい」沙貴ちゃんがほっぺたを押さえながら思わず歓声を上げた。女の子にとって、至福のひとときである。

 十二月上旬ともなると、街はすっかりクリスマス一色となる。私たちがお茶会を開いている喫茶店の中にも、金銀のモールを身にまとったミニチュアのクリスマス・ツリーが飾られていた。小さいながらもすぐ横にクリスマス・ツリーがあると、どうしてもそちらに目を奪われる。
「かわいいクリスマス・ツリーだよね」沙貴ちゃんに言われて、香澄と私もそのツリーをしばし見つめた。色とりどりの豆電球が点滅し、その度に赤や青や黄色のかわいい光が、雪に見立てた真綿の上にそれぞれの色を映しては消えていく。
「ねえ、玲子」香澄がティーカップをスプーンでくるくるとかき回しながら、上目遣いに私の顔を見上げて続けた。
「中学二年のときのクリスマスのこと、まだ憶えてる?」
「中学二年?」私は香澄に問い返す。
「うん、そう」含み笑いして小さくうなずく香澄の目を見つめながら、私の記憶は四年の歳月を遡る。私はすぐに香澄の言うクリスマスの日のできごとへたどり着いた。
「忘れるわけないわ。あのお話でしょ」
「そう」香澄と視線をからめて二人、思わず軽やかな笑みを浮かべる。四年前のクリスマスの日の物語が二人の間に降誕していた。どちらからともなく歌うように言葉がこぼれた。
「サ、ン、タ、さ、ん、が、こ、ろ、ん、だ」節をつけるように謎の言葉を口にした香澄と私は、しばしお互いの顔を見つめ合い、そしてたまらず吹き出してしまった。そうやって一度はじけてしまった笑いは簡単には止まらない。箸が転がってもおかしいお年頃なのだ。沙貴ちゃん一人だけが、ティーカップを持つ手を止めたまま、きょとんとした顔をしている。
「香澄ちゃん、その《サンタさんが転んだ》ってなあに?」私たちの笑いの潮が引くのを待って、さっそく沙貴ちゃんが香澄に質問してきた。大きな瞳はすでに好奇心に充ちあふれている。
「あ、ごめん、沙貴ちゃん。私たちがまだ中学生だった頃のクリスマスのお話なんだけどね、サンタ・クロースが転んで動けなくなったことがあってね」
「香澄、その言い方だと正確じゃないわ。だってサンタ・クロースは転ばなくても最初から動けなかったんだもの」
「確かに。動かないはずのサンタさんが転んだから面白いんだったよね」香澄はくすくす笑っている。
「ねえ、その《サンタさんが転んだ》お話、私にも聞かせて聞かせて」沙貴ちゃんにせがまれた香澄はおもむろに口を開く。
「ええ、これは私と玲子が、まだかわいらしい美少女だった頃のお話でございます」
「香澄、それだと今はもう私たちがかわいらしい美少女じゃないみたいに聞こえるじゃない」さっそく私が異議を唱えると、香澄は長い髪をかき上げて笑った。
「いいえ、これでいいんです。だって、もう今の私たちはかわいらしい《美少女》を卒業して、大人の《美女》に成長したんですもの」香澄の声が聞こえたのか、お隣のブースから忍び笑いの声がもれた。
「香澄ったら、声が少し大きいよ。羞ずかしいじゃない」私にたしなめられた香澄は舌をぺろっと出した。
「ごめんごめん。それじゃもう少しだけ小さな声で」そう言うと、香澄は紅茶を一口飲んでのどをうるおしてから、いよいよ本格的に《サンタさんが転んだ》事件の顛末を語り始めた。

 香澄と私は中学生の三年間、ずっと同じクラスだった。文字どおりの意味で私たち二人は同窓生なのである。そんな私たちが中学二年のクリスマスの日に、これからお話しするできごとは起きた。
 もう今では店じまいしてしまったのだけれど、その当時、香澄の家からほど近い商店街に、若い女性がたった一人で切り盛りしている小さなケーキ屋さんがあった。オーナーの女性は酒井碧さんといった。
 あれは中学一年の秋のことだったと思う。私を初めて自宅に招待してくれたその日、香澄は真っ先に私を碧さんのケーキ屋さんに連れてきてくれた。
「碧さん、ご紹介します。私の親友で村岡玲子さん」その頃には、もう香澄と私はお互いの名を呼び捨てで呼び合う仲になっていた。それゆえ、香澄から改めて《さん》付けで紹介されたりして、何だかくすぐったい気持ちのしたことが、昨日のことのように思い出される。
「初めまして、村岡玲子です」私は碧さんにぺこりと頭を下げた。彼女は目を細めてやさしく微笑むと、
「まあ。しっかりしていて賢そうな女の子。少し寂しがり屋さんの香澄ちゃんには、ぴったりのお友だちね。素敵な親友ができてよかったわね、香澄ちゃん」
「はい」香澄は素直にうなずいている。私はそんな香澄の横顔を見つめながら、碧さんと香澄の言葉を少し複雑な気持ちで受け止めていた。
 それまで香澄は、私に寂しそうな顔を見せたことなどなかった。香澄がこの人の前では私の知らない寂しげな表情を見せているのかと思うと、私は碧さんに軽い嫉妬すら覚えていた。今思えば、その頃すでに私は香澄のことを友人として心から大切に思っていたからなのだろう。
 出会った当時、碧さんは二十五、六歳だっただろうか。まだまだ子供だった私たちから見ると、碧さんのことがずいぶんと大人に思えたものである。姉がいない香澄と私にとって、碧さんは何でも相談できる素敵なお姉さんのような存在だった。香澄の家に遊びにいった際には、私たちは必ず碧さんのお店を訪れておしゃべりを楽しんだ。中学校でのできごと、好きな男の子のこと、流行の音楽のこと、そういうとりとめのない私たちの話を、碧さんは熱心に聴いてくれた。香澄も私も、すっかり碧さんのファンになっていた。
 肩より少しだけ長く伸びた碧さんの黒髪に私は憧れた。それまで私は髪をショートカットにしていたのだけれど、碧さんに出会ってからは彼女の真似をして、少し短めのボブに髪型を変えたりした。背伸びしたい年頃だったのである。
 出会ったばかりの頃の碧さんは、なかなか自分のことについて語りたがらなかった。私たちはそこにミステリアスな雰囲気すら感じたりしていたのだが、親しくなるにつれて少しずつ、碧さんも問わず語りに自分の生い立ちについてお話ししてくれるようになった。
 碧さんは、まだ幼い頃にご両親を事故で亡くされてから、ずっとお祖父様の許で育てられたのだそうだ。たった一人の身寄りだったそのお祖父様も一昨年の冬に亡くなられ、碧さんは本当に独りきりになってしまった。
 若い女性がたった一人で生きていくには、いろいろな苦労があったに違いない。両親の庇護の下で不自由なく育ってきた私などには想像もできないことである。
「碧さんは独りで寂しいと思ったことはないですか」ある日、私は思わず碧さんに訊ねてしまったことがあった。私の質問を受けて、碧さんはふっと哀しげな表情を見せた。しかし、そんな表情が色白の顔をよぎったのも、ほんの一瞬のことだった。
「もちろん寂しいと思ったこともあったわよ。でも、もう独りには慣れたかな。こういうのを天涯孤独っていうんだっけ」そう言って碧さんは屈託なく笑った。しかし私は一緒になって微笑むことができなかった。今でこそ、こんなに素敵な笑顔を見せているけれど、それまでに彼女がどれだけつらい涙を流したか、何となくわかるような気がしたからである。そんな堅い私の表情に気づいたのだろう、碧さんは私の目をのぞき込みながら、静かに諭すような口調で言った。
「でもね玲子ちゃん、私は決して孤独じゃないのよ。ご近所の方はとてもよくしてくださるし、それにこんなにかわいい妹みたいな女の子たちが遊びに来てくれるんですもの。私は今はとても幸せよ。大好きなケーキ作りも続けていけたし」
 碧さんの言うとおりだ。碧さんにはお祖父様が遺してくださった素敵なお店と、そして何にも増してケーキ作りにかける情熱があった。そのことが彼女の救いになっているであろうことは私にもわかっていた。
「ああ、暇で困っちゃうわ」碧さんは口ぐせのようにそう言いながら、忙しそうに働いているのが常だった。しかし碧さんの口ぐせとはうらはらに、お店は常連のお客様でいつでもにぎわっていた。
 特に十二月後半のクリスマス・シーズンともなれば、お店の中はそれこそ目の回るような忙しさとなる。それでも碧さんはアルバイトを雇うこともしないで、相変わらずお店を一人で切り盛りしていた。そのことを知った香澄と私は相談して、クリスマスの日にお店のお手伝いをしようということになった。クリスマスの数日前にお店を訪ね、碧さんにそのことを申し出ると、彼女は心から嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「あら、嬉しいわ。お店を手伝ってもらえるのなら、あなたたちにきちんとアルバイト料を支払わないといけないわね」
「あ、いえ、お金はけっこうです。だって私たち、まだ中学生だし、校則でアルバイトをしてはいけないことになっていますし」私があわてて両手をふってお断りすると、碧さんは困惑した表情で私の顔をのぞき込んだ。
「でも、それじゃ申し訳ないから」
「いいえ、私たちはアルバイト料が欲しくて碧さんのお店をお手伝いするのではありません。いつもやさしくしてくれる碧さんのため、ほんの少しでもお役に立てたら嬉しいんです。だからぜひお手伝いさせてください」香澄が真剣なまなざしで碧さんに願い出た。私も香澄と同じ気持ちだった。
「お願いします」私たちは碧さんにぺこりと頭を下げた。
 私たちの決意が固いのを見て、碧さんは小さくうなずいた。
「あなたたち二人の気持ちはよくわかりました。それなら、アルバイト料の代わりにこういうのはどうかしら」碧さんはいたずらっぽい表情で私たちの顔を見比べながら続けた。
「クリスマスの日にお店を手伝ってくれたら、私からのお礼にあなたたち二人の好きなケーキをプレゼントしましょう。ね、これで契約成立」
「わあ、ありがとうございます」願ったりかなったりとは、こういうことをいうのだろう。こうして私たちはクリスマスの日に、碧さんのお店のお手伝いをすることになったのだった。

 十二月二十五日の朝八時半、香澄と私は碧さんのお店へ集合した。碧さんからお借りした淡いクリーム色をしたお揃いのエプロンを着けて、かわいい臨時店員さんの出来上がりである。
 お店は午前十時の開店である。さっそく私たちは碧さんのお手伝いにとりかかった。
 店内の掃除を簡単に済ませると、碧さんは香澄と私を案内するところがあると言って、裏手の通用口から外へ連れ出した。
 裏通りはにぎやかな表通りと比べると行き交う人も少なく、妙にひっそりとしている。
 碧さんの後をついて最初に案内されたのは、控え室のような小さな部屋だった。タイルカーペットの敷いてある六畳ほどの広さの室内には、木製の小さなテーブルと若草色のソファーが置かれていた。テーブルの上にはクリスタルの花瓶があり、深紅のバラがいけてある。お店に飾られる季節ごとの絵画が数点、額に入ったまま壁に立てかけてあった。そして何にも増して私たちの目を引くものが、ソファーの横に立っていた。実物大のサンタ・クロース像である。もっとも、私は残念ながら本当のサンタ・クロースには会ったことがないので、実物大という部分はあくまで想像である。白いふわふわした縁どりのついたあざやかな赤のコートに、同じく真っ赤なズボン。三角帽子に白く豊かな鬚、そして世界中の子供たちに向けられるやさしい笑顔。すぐ横には全世界の子供たちのために用意されたプレゼントで丸く大きくふくらんだ白い袋。北欧の絵本からそのまま抜け出してきたような、典型的なサンタ・クロースのいでたちである。
「これ、中身はご近所の洋品店からお借りしたマネキン人形なの。衣裳と付け鬚を私がこしらえてみたのだけど、なかなか立派なサンタ・クロースでしょ。昨日まで、ずっと店頭に飾ってあったのよ」碧さんが自慢のサンタ氏を私たちに紹介した。
「このサンタさん、今日はお店に飾らないんですか」香澄が不思議そうな顔をして碧さんに訊ねる。すると碧さんは逆に香澄に質問した。
「本当はサンタ・クロースがいないんだって、香澄ちゃんが知ったのはいつ頃のこと?」
「え、私がですか」香澄はしばらく考え込んでいたが、
「小学校三年くらいのときかな。でも何かの事件をきっかけにサンタ・クロースがいないと知って衝撃を受けたとか、そういうわけでもないですよ。お友だちから何となくそういう話を聞いているうちに、少しずつ真実に気づいたという感じです」
「私はね、ちょうどあなたたちくらいの年齢までサンタ・クロースの存在を信じていたの」
「本当ですか」ちょっとびっくりしている私たちの顔を見て、碧さんは微笑すると、
「いいえ、もしかしたら私はまだ信じているのかもしれないわ。二人はジェームズ・バリーという劇作家を知ってる?」碧さんの質問に、香澄は小首を傾げている。私がどこかで聞いたことのある名前だなと思っているところに、碧さんが続けて言った。
「二人には『ピーター・パン』を書いた人と言った方がわかりやすいかしら」
「あ、それなら知ってます」今度は香澄も私も声を上げた。
「そのバリーの言葉に、こういうのがあるの。『妖精なんて信じないと子供が言う度に、小さな妖精がどこかで倒れ死んでいく』。バリーの言う妖精を、サンタ・クロースと言い換えることもできるんじゃないかと私は思うの」
「はい」香澄も私もこっくりうなずいた。碧さんはサンタ・クロース像の肩にいとおしげに触れながら言った。
「このサンタ・クロースだって、クリスマス・イブに世界中の子供たちに夢を配って廻ってくれたと思うの。だから、今日はこんなところでもゆっくり休ませてあげたいのよ。子供っぽい考え方なのかもしれないけど」
「そんなことありません」私が首を左右にふると、香澄もそのとおりというようにうなずいた。碧さんの言いたいことは私たちにの心にも十分に伝わった。サンタ・クロースにもやさしいいたわりの気持ちを向けるなんて、いかにも碧さんらしいと私は思った。
「さあ、この部屋はこんな感じでいいわ。次に雑貨屋さんに案内します。うちのお店が開いた後、いろいろなものをとりに行ってもらうから、場所を教えておくわね」
 私たちはいったんサンタ・クロース氏に別れを告げ、控え室から二分ほど歩いたところにある雑貨屋さんへ向かった。
 いかにも商店街のお店という店構えである。こちらもまだシャッターが降りていて開店していなかったが、後でケーキの材料などをとりに行くことになるそうだ。雑貨屋さんの場所も確認できたところで、私たちはお店へ戻ることにした。その途中で先ほどの控え室の前を通ったときのこと、
「あ、碧さん、さっきの部屋のドアが開いてる」香澄が目ざとくドアを指差した。確かにドアがわずかに開いていた。
「いけない。ドアをきちんと閉めなかったみたい」碧さんは開いていたドアを閉めると、エプロンのポケットから金色の鍵をとり出してドアの鍵をかけた。ドアは室内からノブの中央についているボタンを押し込んで施錠し、室外からは鍵を使って施錠する仕組になっている。外からはキーを使わないと開けられないが、室内からはノブをひねればロックが自動的に解除される作りである。
 ドアから離れる前に、私は何げなくドアのガラス越しに部屋の中をのぞき込んだ。サンタ・クロースは先ほどと同じ場所で、のんびりくつろいでいるように見えた。しばらく部屋の中を見てみたが、室内には他に特別変わったところは見られない。私はもう一度ドアの戸締まりを確認して、先を行く碧さんと香澄の後を追いかけた。

 そろそろ開店の時刻も近づいてきた。私たち三人が通りに面した大きなガラス窓を掃除していると、通りかかった背の高い男の人がお店の前で足を止めた。軽く会釈する碧さんに、
「おや、酒井さん、かわいらしいアルバイトを雇ったね」そう声をかけてきた三十歳くらいの男性は、香澄に気づいたとたん、その端整な顔にいたずらっ子のような表情を浮かべていた。
「と思ったら、何だ、一人はわが町の不良少女じゃないか」
「もう、すぐに私のことを不良少女って呼ぶんだから。葛城さんなんて知らない」香澄はつんとした顔で横を向いた。そんな香澄の仕草に、葛城さんと呼ばれた男の人は頭をかいた。
「ごめんごめん。香澄ちゃん、お願いだからご機嫌を直して、そちらのかわいいお友だちを僕に紹介してくれよ」
「ふんだ。私の方がずっとずっとかわいいんですからね」
「はいはい。香澄ちゃんの方がずっとずっとかわいいです」
「よろしい。それじゃ紹介してあげる」ようやくご機嫌を直した香澄の様子に、男の人はくすっと笑うと、私だけにウインクしてみせた。面白い人である。
 香澄はまず私の方に右手を傾けた。
「私と同じクラスの村岡玲子さんです。玲子、こちらはこの商店街で輸入食料品を扱うお店を営んでいる葛城さん。名前の方は、えっと葛城三太さんでいいんでしたよね」
「ひどいなあ、サンタ・クロースじゃないんだぞ。健太だよ。葛城健太といいます。どうぞよろしく」葛城さんは真面目な顔で私に恭しく頭を下げた。しかしすぐに葛城さんは最初に見せた人なつこい笑顔に戻ると私に小声で、
「村岡さん、わが町の不良少女をよろしく頼むね」
「また言う」香澄のふくれる様子を見て、葛城さんは声を上げて笑った。もちろん葛城さんが香澄のことを不良少女だなどと少しも思っていないことくらいすぐにわかる。「不良少女」と呼ばれたときの香澄の反応を葛城さんは楽しんでいるだけなのだ。要するに、香澄のことがかわいくて仕方がないのだろう。
 やがて時計の針が午前十時を回った。碧さんが入口のドアにかかっていた「クローズド」のタグをひっくり返し、「オープン」の面の方を外側へ向けた。
 いよいよ開店である。
 十二月二十五日ともなれば、いくぶんお客様の数も減るのかと思っていたが、さすがに人気のあるケーキ屋さんは違う。開店と同時に若い女性客が詰めかけて、なかなかの繁盛ぶりである。碧さんも今日はいくぶんケーキを少な目に用意していたのだが、急遽追加でケーキを焼いておこうということになった。
 碧さんに頼まれて、香澄と私はケーキを焼くオーブンにくべる薪や、お砂糖に小麦といったケーキの材料を雑貨屋さんへとりに行くことになった。
 段ボール箱いっぱいの薪やケーキの材料を雑貨店で受けとり、ケーキ店へ帰る途中で、控え室の中の異常に最初に気づいたのは香澄の方だった。
 ふと気がつくと、並んで一緒に荷物を運んでいたはずの香澄がいない。後ろをふり返ってみると、ドアに張りついたみたいな格好で香澄が部屋の中をのぞき込んでいた。
「何よ、香澄。早く行かないとケーキを焼くのが遅くなるって私のことをせかしておいて、自分が道草?」私はずっしり重い段ボール箱を抱えたまま香澄の方を恨めしそうな顔で見つめた。
 ところが香澄はそんな私のことなどお構いなしに、何だか笑い出したいのを堪えているみたいに左手で口許を押さえている。そのまま香澄は招き猫みたいな手つきで私を手招きした。
「ねえねえ、玲子、ちょっと来て」
「もう、何なのよ」香澄への抗議半分、好奇心半分で私は仕方なく香澄のいる位置まで戻ることにした。
「玲子、見て、サンタさんが転んだ」ガラス越しに香澄が指差す方向に視線を向けた瞬間、私は思わず小さな声を上げた。
 部屋の中でサンタ・クロースがうつぶせに倒れていた。

 サンタ・クロースは、まるで校内持久走大会に参加したはいいものの、張り切りすぎて全速力で走った結果、ゴールしたままぱったり倒れてしまったような姿勢で倒れていた。赤いコートの裾が奇妙な形に広がっている。わずかに部屋の奥を向いた格好で倒れているので、ここからは三角帽の陰から白い鬚がのぞいているのが見えるだけである。
「ほらね、サンタさんが転んだ」香澄が私の後ろから笑いを堪えた声でささやく。私は香澄の方へふり返った。
「冗談言ってる場合じゃないでしょ。さっき碧さんと来たときにはサンタ・クロース像は倒れてなんかいなかったよ。誰かがいたずらしたのかもしれないわ。うつぶせになってるから、顔に傷でもついていたら大変」
「あ、そうか」さすがに香澄も真剣な表情に返って、床に倒れたままのサンタ・クロースを見下ろしている。
「起こしておこうよ」私が言うと、香澄もこっくりうなずいた。さっそく部屋に入ろうとしてノブをひねってみたが、ドアには鍵がかかっていた。先ほど碧さんが施錠したばかりなのだから当然である。
「ドアのキーはさっき鍵をかけた碧さんが持ったままだよね。サンタ・クロースを倒した人はどうやって部屋に入ったのかしら」香澄は首をひねっている。
 部屋に一つだけある東向きの窓にはアルミの格子がついている。このままでは部屋に入ることはできない。
「とにかくお店に戻ったら、碧さんからこの部屋の鍵を借りて、もう一度来よう。サンタ・クロースを起こさなくちゃ」
 私たちはサンタ・クロースの倒れている部屋の前を離れ、お店に戻ることにした。
 酒屋さんの角を曲がって表通りに出たところで、私たちは別のサンタさんに出会った。といっても、今度のサンタ・クロースは白いお鬚のお爺さんではない。本物のサンタさんのような白い縁どりのついた赤いコートを着た二、三歳の女の子である。お母さんがお買い物をしている間、お店の外でお行儀よく待っているところ、といった様子である。
「あら、あいちゃん、こんにちは」香澄が腰を沈めて女の子に目線の高さを合わせた。あいちゃんと呼ばれた女の子は、口の中で「こんにちは」とつぶやきながら、香澄にぺこりと頭を下げる。その仕草が何ともかわいらしい。香澄は私を見上げて、
「この子ね、私の家のご近所の子。かわいいでしょ」
「うん」私はうなずいた。女の子は、ちょうどよいところに来たというように香澄のエプロンを軽く引っぱりながら、
「あのね、さっきサンタさんがいたの」と、少々興奮した面持ちで香澄に報告する。
「そう、よかったね」香澄は女の子に相づちをうちながら、その小さな頭を軽く撫でた。
「それでね、サンタさんのプレレントはふうせんなんだよ」幼い舌は完全にはプレゼントと発音できずに、《ぷれれんと》と聞こえるところがまたかわいらしい。
「へえ、そうなんだ」香澄は笑いを噛みころしながら、女の子に相づちをうつ。女の子は自分だけの秘密をそっと打ち明けましょうという風に、さらに声をひそめて私たちに語りかける。
「プレレントがいっぱい、いっぱいあるの」
「いいなあ、お姉さんもプレゼント欲しいな」香澄は楽しそうな表情で天を見上げた。
「この子の言ってる《プレレント》って、きっとあれのことだよ」香澄の指差す方向を見て、思わず私も表情がほころんだ。
 なるほど、商店街にはサンタさんがたくさん浮いている。サンタ・クロース型の風船がそれぞれの店先に飾りつけられているのだ。ここから道路に沿って商店街を通して見ると、サンタさんがふわふわ浮かびながら、行列しているかのようだ。
 やがて酒屋さんから女の子のお母さんらしき女性が出てきた。あいちゃんは嬉しそうにお母さんにとことこかけ寄る。
「あら、今度はちゃんと言いつけを守って、おとなしく待っていたのね。いい子」お母さんは女の子の手をとると、香澄に軽く会釈しながら女の子に話しかけた。
「まあ、香澄お姉ちゃんと遊んでもらっていたの、よかったわね。香澄ちゃん、本当にどうもすみませんね」
「いいえ、こちらこそ。それじゃあいちゃん、ばいばい」
「ばいばい」女の子は小さな手を無邪気にふりながら、お母さんと商店街の雑踏の中に消えていった。
「いけない、お店に戻って部屋の鍵を借りてくるんだった」香澄と私は荷物を抱えて走り出した。何とも忙しい年の瀬である。
 お店の中はすでにたくさんのお客様で混雑していた。香澄と私がカウンターの中に入ると、碧さんは孤軍奮闘、てきぱきとお客様のお相手をしている真っ最中だった。
「あの、碧さん」カウンターの中からおそるおそる声をかけると、碧さんは笑顔のまま少しだけ小首を傾げた。
「なあに?」きれいな瞳でまっすぐに見つめられた香澄と私はしばらくもじもじしていたが、やがて香澄が意を決したように報告する。
「あの、サンタ・クロースが倒れちゃってるんです」
「まあ、それは大変」そう言いながら、碧さんは全然大変そうな様子には見えない。手だけは休まずにケーキを箱に詰めてはお客様に渡している。仕方ないので、もう少し詳しくサンタ・クロース像の状況を説明すると、碧さんはエプロンのポケットから先ほどの金色の鍵をとり出した。
「それじゃ、この鍵をあなたたちに預けますから、そのかわいそうなサンタさんを助け起こしてきてあげてちょうだいね」
「はい」私たちはお砂糖や小麦を食品庫にしまい、薪の束をオーブンの横に置くと、転んだサンタ・クロースを救い出すべく、お店を飛び出した。
 急いで控え室へ行ってみると、サンタ・クロースが倒れている部屋の前には、もの珍しそうにドアから室内をのぞき込んでいる背の高い男性の姿があった。葛城さんである。
 葛城さんは私たちの足音にふり返ると、人なつこい笑顔を浮かべて香澄に声をかけた。
「お、どうしたんだ、不良少女」
「もう、また不良少女って言う」香澄が右の眉を上げて葛城さんに文句を言う。不満そうな顔をすると、形のよい右の眉が上がる香澄のくせは、中学生の頃から変わらない。
「ごめんごめん」葛城さんは苦笑いしながら頭をかいた。しかしすぐに真顔に戻ると、部屋の中を指差して、
「だけど、サンタ・クロースをあんな風にしたのは君たちなんだろ」と、これはとんだ濡れ衣である。
「違います。さっき部屋の横を通りかかって、サンタさんが倒れてることに気づいたんです。起こそうと思って碧さんから鍵をお借りてしてきたところです」
「お、不良少女にしてはなかなか気が利くぞ。中に入りたくてもドアに鍵がかかっていて困っていたところだ。ほい」そう言って葛城さんは両手を差し出した。鍵の催促である。
「落っことしたら許さないから」香澄が鍵を思いきり葛城さんに投げる。葛城さんは難なく香澄の剛速球をキャッチした。
 葛城さんは香澄から受けとった鍵を鍵穴に差し入れ、軽く左にひねると部屋のドアを開けた。
「さあどうぞ、お嬢様方」葛城さんは右手を少し気どった形にして室内を指し示し、私たちの入室を促した。
 部屋に入ると、サンタ・クロース氏は相変わらず変な格好のまま床にうつぶせで倒れていた。とりあえず、香澄と私で助け起こそうと肩に手をかけて何度も持ち上げようとしてみたが、サンタ・クロースは意外に重く、なかなか起こせない。
「どれ、女の子だけじゃ無理のようだ。手伝うよ」危なっかしい私たちの救出劇を見かねて、葛城さんが手を貸してくれた。
 男の人の手を借りて、ようやくサンタ・クロースは再び立ち姿に戻った。当のサンタ氏はといえば、
「何、わしが今まで転んでおったじゃと? 何のことやら、さっぱりわからんのう」とでもいうような顔で微笑んでいる。しかし転んだ証拠に、鬚にはしっかりと埃がついていた。幸い、どこも壊れている箇所はないようだ。私たちはほっとした。

 「ふうん、それでどうしたの」それまで私たちの話に聴き入っていた沙貴ちゃんが、小さく首を傾げながら訊いた。香澄が沙貴ちゃんの疑問に答える。
「どうって、それからも私たちはその日、夕方まで無事に碧さんのお手伝いをして、お礼にケーキをいただいて帰りました。めでたしめでたし」
「え、どうしてサンタさんが転んだのか、私には教えてくれないの?」沙貴ちゃんはつまらなそうに口をすぼめ、それから寂しげな表情になった。沙貴ちゃんは上目遣いに私たちの顔を見ながら一言。
「私だけ仲間外れね」その言葉を聞いて、ようやく私にも沙貴ちゃんが何を言いたいのかわかった。私はくすっと笑うと、
「沙貴ちゃん、別に仲間外れにしているわけじゃないよ。私たちだって、どうしてサンタ・クロースが倒れたのか、結局わからなかったんだもの」
「え、サンタさんがどうして転んだのか、玲子ちゃんたちにもわからなかったの?」沙貴ちゃんは香澄と私がサンタ・クロースの転んだ謎を自分にだけ秘密にしていると思い違いしていたらしい。
「うん。だって、サンタさんは誰も入れない部屋の中で転んでいたんだもの。どうして転んだのかなんてわからないよ」
「なあんだ。私はてっきりサンタさんが転んだ謎もちゃんと解決されていて、これから玲子ちゃんたちの名推理が聞けるのかと期待してたのに」
「残念ながら。そういう沙貴ちゃんの方こそ、私たちの話を聞いていて何か気がついたことはないかしら」
「そうねえ」沙貴ちゃんは天を仰いでしばし考え込む。
「そのとき地震が起きたのかな」
「ないない。もしあのサンタさんが倒れるくらい大きな地震があったとしたら、お店のツリーも倒れたはずだし、棚のケーキが床に落ちても不思議じゃないもの。でも、全然そんなことはなかったし。第一、あのお部屋にもいろんなものがあったけど、サンタ・クロース以外は何も動いてなかったよ」
「サンタさんだけに、実はその部屋には煙突があって、そこから出入りできるようになっていたとか」
「おお、メルヘンですね」香澄は最後まで大事にとってあったショートケーキの上に乗っている大きな苺を頬ばった。
「でも沙貴ちゃん、残念ながらその部屋に煙突はなかったよ。ドアと格子のはまった東向きの窓以外には、部屋への出入り口はなかったの」
「それだったらねえ」沙貴ちゃんは小さく首を傾げ頬に手を当てていたが、
「あ、わかった」沙貴ちゃんは制服の胸元に揺れるリボンの前でぽんと手を合わせると、自信ありげな口調で一言。
「魔法だわ」
 香澄と私、思わず脱力である。しかし当の沙貴ちゃんは瞳を輝かせながら私の方に向き直ると、
「実は玲子ちゃんが魔法使いで、ドアの外から魔法を使ってサンタさんを転ばしたんでしょ。あ、とうとう私に知られちゃった。玲子ちゃん、魔法使いだって人間に知られちゃったら魔法の国へ帰らなくてはいけないんだよね。ああ、今日で玲子ちゃんともお別れね。私、寂しいなあ」もはや魔法にまつわる沙貴ちゃんの空想の翼はとどまるところを知らない。
「あ、あの、沙貴ちゃん、今回の話はそういうんじゃなくて」沙貴ちゃんの《魔法飛行》を止めようと私が口をはさむと、沙貴ちゃんは私の顔を見てくすっと笑った。
「わかってます。魔法使い玲子ちゃんというのは冗談、冗談。だから玲子ちゃん、今夜私に内緒で魔法の国へ帰ったりしないでね。約束だよ」いったいどこまで本気でどこから冗談なのか、ふわふわとわかりづらいところがいかにも沙貴ちゃんらしい。どう返事をしたものかしらと私が思案しているうちに、沙貴ちゃんはいつの間にか真顔に戻って次の推理に移っていた。
「サンタさんに紐を結んでおいて、ドアや窓の隙間からその端っこを引っぱってサンタさんを倒しちゃった、なんていうのはどうかしら」
「ないと思う。だって、碧さんが部屋の鍵を閉めたとき、香澄と私もそばにいたけど、そんな紐なんてなかったし」
「もちろん合い鍵とかはないんだよね」
「うん。後で碧さんに訊いてみたけれど、合い鍵なんて作ってないって。別に貴重品やお金がしまってあるわけではないから、合い鍵を作るほどお金をかけてないわって、碧さんに笑われちゃった」
「お部屋の鍵をかけた後、碧さんはずっとお店にいたのかしら」
「どういうこと?」
「つまりね、玲子ちゃんたちが雑貨屋さんにお砂糖なんかをとりに行っている間に、お店を抜け出した碧さんがこっそり控え室の鍵を開けて中に入って、サンタさんを倒した後で急いでお店に戻った、なんて考えられるんじゃないかしら」
「でも香澄と私がお店を出るとき、ちょうどお客様がお店に入ってきたところだったし、碧さんがお客様を置いたままお店を空けるなんて考えにくいと思うな」
「それじゃ、碧さんが誰かに鍵を貸したのかもしれない」
「もちろん私たちもそのことは考えたわ。だから碧さんに鍵のことを訊いてみたの。でも碧さんは部屋の鍵をかけた後は、私たちに渡すまで、誰にも鍵を渡したりしていないって言ってた。碧さんに嘘をつく理由もないし、信じていいと思う」
 沙貴ちゃんは小さくため息をこぼすと、ロイヤルコペンハーゲンのティーカップを手にとった。
「残念だなあ。結局、《サンタさんが転んだ》事件の謎は解けないままね」とうとう沙貴ちゃんのアイデアも底をついてしまったようである。私も小さく肩をすくめてみせた。
「もう四年も前のお話だし、今となっては迷宮入りだよ」
「そうかしら」聞こえてきた思わせぶりな台詞に、沙貴ちゃんと私は思わず香澄の顔を見ていた。香澄は何やら意味ありげな含み笑いを浮かべている。私は香澄の制服の袖を軽くつついた。
「香澄、何か企んでいるでしょ」
「あれ、わかっちゃった?」
「わかるわよ。香澄とは長いつき合いなんだもの」
「仕方がない。それじゃさっそく」香澄は席を立った。そうしてそのままずんずんと奥隣のブースに入っていく。沙貴ちゃんと私が呆気にとられていると、香澄はブースの陰から顔をのぞかせた。けげんそうな私たちの顔を見てくすっと笑うと、
「それではこれよりお二人に、本日のスペシャル・ゲストをご紹介いたしましょう。われらが名探偵の登場であります」
 香澄の言葉を合図に、奥のブースにいた男性が私たちの目の前に姿を現した。その瞬間、沙貴ちゃんと私は同時に驚きの声を上げていた。
「岩岸さん」私たちの目の前に現れた男の人こそ、昨日電話で私がお話しした岩岸正さん、その人だったのである。

 何ということだ。私は岩岸さんがお隣の席にいたことに、今まで全然気がつかなかったのだ。不覚である。岩岸さんはそれまでいた席からティーカップを持って、私たちのテーブルに移ってきた。妙に楽しそうである。
「ようやくお二人にご挨拶ができます。こんにちは」岩岸さんは沙貴ちゃんと私に軽く会釈する。
「あ、こ、こんにちは」沙貴ちゃんも私もあわてて頭を下げた。
「村岡さん」岩岸さんは私の名前を呼ぶと、手に提げていた大きな袋と小さな袋を私に差し出した。
「こちらは昨夜お話しした、村岡さんがお探しのレコードです。そしてこちらは、村岡さんの誕生日のプレゼント。ビスケットの詰め合わせです」
「あ、あの、ありがとうございます」私は岩岸さんから二つの贈り物をおずおずと受けとった。
「どう、玲子。びっくりした?」香澄は私の顔を見ながら得意満面である。私は香澄を横目で見ながら、
「まったく、香澄ったら。岩岸さんも岩岸さんです。いったいいつから奥の席にいらっしゃったんですか」
「村岡さんたちがこのお店に入るほんの五分ほど前です。昨日の夜、室町さんから突然お電話をいただきまして、今日の夕方四時半にこのお店に来るよう依頼されました。席は予約してあるので、マスターに案内される席に着いたら、合図をするまではお行儀よく席に控えているようにと厳しく命令されまして」岩岸さんは楽しそうに笑った。香澄はぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。だけどせっかくのお誕生日だし、玲子の憧れの人をお招きした方がパーティーも楽しいだろうと思って、岩岸さんにもこのお店に来てもらったんです。タイミングを見て岩岸さんにお声をかけようと思っていたんですけど、《サンタさんが転んだ》の話で盛り上がってしまったので、岩岸さんをお呼びするのがこんなに遅くなってしまいました」
「もう今日は室町さんからお声をかけてもらえないものと、半分諦めていたところです」岩岸さんは香澄の顔を見て、いたずらっぽい笑顔を浮かべた。香澄は小さな子が言い訳するときのような顔をして、
「だって岩岸さんが一緒だと、サンタさんの謎もすぐに解かれてしまいそうでつまらないと思ったんですもの」
「それじゃ、岩岸さんにも《サンタさんが転んだ》のお話を聴いていただきましょうよ。私、名探偵の推理を聞きたいな」沙貴ちゃんが嬉しそうに身体を左右に揺らしながら言う。岩岸さんは静かに微笑むと、
「いえ、もう一度お話しいただかなくてもけっこうです。先ほどから隣の席で室町さんのお話は全て聴かせていただきました」
「なるほど。沙貴ちゃんに《サンタさんが転んだ》話をする香澄の声がちょっと大きめだと思っていたら、つまりはそういうわけだったのね」
「そういうわけだったのです」香澄は首をすくめて笑っている。
 沙貴ちゃんが興味津々という顔で岩岸さんに訊ねる。
「それで岩岸さん、香澄ちゃんの話をお聞きになって、いかがでした。《サンタさんが転んだ》の謎は解けました?」
「ええ」名探偵はあっさりと答える。
「サンタ・クロースは二度、着替えたのだと思います」

 どうやらわれらが名探偵にとって、《サンタさんが転んだ》事件の謎は全て明らかなようである。しかしサンタ・クロースが二度着替えたとは、いったいどういう意味なのだろう。その言葉の意味がわかればサンタ・クロースが転んだ謎も解けるのだろうか。私たちは息をひそめて岩岸さんの言葉を待った。
 岩岸さんは静かに推理を語り始めた。
「サンタ・クロースは鍵のかかった部屋の中で倒れていました。道具や魔法を使って部屋の外からサンタ像を倒すのが不可能であるとすれば、サンタ・クロースを転ばすためには誰かが室内に入らなくてはなりません」
「でも、碧さんは部屋のドアの鍵をかけた後、私たちが鍵をお借りするまで誰にも鍵を渡していないそうです。碧さんご本人はその間ずっとお店にいましたし、やっぱり誰も部屋に入ることはできないと思いますけれど」
「それは外からキーを使って鍵を開ける場合です。誰かが室内から鍵を解錠すれば、サンタ・クロースを転ばした人物も部屋に入ることができるでしょう。つまり、サンタ・クロース像を倒した何者かが部屋のドアの前に立ったとき、ドアの鍵が開いていた場合です」
 私たち三人は困惑した表情でお互いの顔を見つめていた。岩岸さんの言うとおりならば、サンタ・クロースを転ばした人物が部屋に入る前に、別の人物が中から部屋の鍵を開けたことになる。しかしその鍵を開けた人物はどうやって部屋に入ったというのだろう。堂々巡りになってしまうではないか。
 岩岸さんは私たちの抱いている疑問を見抜いているように微笑した。
「さて、そのことを考える前に一つ、思い出していただきたいことがあります。室町さんたちが酒井さんから鍵を受けとるために戻る途中で出会った女の子のことです」
「あいちゃんのことですか」香澄が訊ねると、岩岸さんは軽くうなずいた。
「そうです。その女の子は室町さんに何と言いましたか」
「ええと、まず最初は香澄に『こんにちは』の挨拶をして、次に『さっきサンタさんがいたの』と言いました」
「その後はいかがですか」
「次の台詞は、舌足らずなところまで正確に再現すると『サンタさんのプレレントはふうせんなんだよ』です」
「それはどういう意味だったのでしょうか」
「ですからそれは、商店街にたくさん飾りつけられていたサンタ・クロース型の風船のことを指して」
「それは妙ではありませんか」岩岸さんの静かな言葉が、私の説明をさえぎった。首を傾げる私に、名探偵は言う。
「それならば、『サンタさんは風船なんだよ』という言い方になると思いますが」
「でも、その子はまだずいぶん小さい子でしたから」少し不満そうな私の様子を見て、岩岸さんはやさしく微笑んだ。
「小さい子供だからこそ、複雑な言い回しができないので、かえって表現はシンプルになるのではありませんか。女の子がわざわざ『サンタさんのプレゼントは風船』だと言ったのだとしたら、考えられる答えは一つしかありません」そう言うと、岩岸さんは私たちの顔を見渡した。しかし、私たちはお互い顔を見合わせるばかりである。名探偵にとっては自明のことなのかもしれないが、残念ながら私たちには皆目見当がつかない。
 岩岸さんは顔の前で両手の指を合わせると、私たちに訊ねた。
「サンタ・クロースからのプレゼントがある場所といえば、皆さんはどこを思い起こしますか」
「ベッドにつり下げた靴下の中だとか」香澄の意見を聞いて、岩岸さんは残念ですがという風に首を左右にふった。
「いいえ、女の子は『プレゼントはいっぱいある』と言っていたことをお忘れですか。靴下の中のプレゼントは一つだけです。子供たちに配られる前のプレゼントがたくさんあるところといえば」
「あ、わかった」私たちは同時に声を上げていた。
「サンタ・クロースの袋の中ですね。そういえば、小部屋の中のサンタ・クロースも白い大きな袋を提げていました」
「そうですね。しかもサンタ・クロースの袋は大きく膨らんでいる必要があります」
「はい」確かにサンタ・クロースの袋がしょんぼりとしぼんでいては景気が悪い。部屋の袋も大きく丸くふくらんでいた。
「当然、そのときのサンタ・クロースの袋には何かかさばるものが入っていたはずです。しかしあまり重いものが入っていては、今度は持ち運ぶ際に不都合です。軽くて容積があるものを詰めることが必要になります」
「サンタさんの風船ですね」沙貴ちゃんが楽しそうに答えた。
「そのとおりです。おそらくサンタ・クロース像の横にあった袋にはサンタ・クロース型の風船がいくつも詰まっていたのです。そのことを、村岡さんたちが出会った女の子は知っていました。おそらく女の子は室町さんたちが雑貨屋さんに向かった間に、開いていたドアから部屋に迷い込み、そこで見つけたサンタ・クロースの袋に大喜びでもぐり込んだのでしょう。しばらく袋の中で大はしゃぎしているところに、ドアの外から話し声が聞こえてきたとしたらいかがです。ご本人たちの話によると、その声はかわいらしい美少女のものだったようですが」岩岸さんは私たち《美少女》の顔を見てくすくす笑う。
「え、それじゃ碧さんが部屋の鍵をかけたとき、サンタ・クロースの袋の中にはあいちゃんが隠れていたんですか」
「おそらく。女の子は叱られると思い、じっと息をひそめて動かないでいたのでしょう、女の子が室内にいることに気づかないで酒井さんは鍵を閉めてしまったのです。部屋の中には幼い女の子一人が残されることになります」
「それでわかりました。部屋の中にいたあいちゃんがサンタ・クロースを倒しちゃって、その後でまた袋の中に隠れたところに、私と玲子が通りかかったわけですね、あれれ」自分で説明しておきながら、香澄は自分の説明の中の矛盾に気づいて、思わず天を仰いでしまった。香澄は照れたように微笑みながら、
「違いました。あの後、お店に戻る途中であいちゃんに出会ったんだから、私たちがのぞいたときに部屋の中にあの子がいたはずないですよね」
「それなら、こういうことになるのでしょうか」代わりに私が助け船を出す。
「ドアのノブは中からひねるだけで鍵は開きますから、小さな女の子でも外に出ることができます。私たちが帰った後に女の子が部屋から出ていったのと入れ違うように、誰か別の人物が部屋の中に入った。そしてその人物がサンタ・クロース像を倒して逃げた」私の推理を聞いた名探偵は微笑すると、
「それも少し違っています。村岡さんたちが転んだサンタ・クロースを発見したとき、ドアの鍵はかかっていたのでしたね」
「はい」思わず声が小さくなる。
「サンタ・クロース像を倒した人物がその部屋から出ていってしまったとしたら、ドアの鍵はどうやってかけるのですか」
「それは」思わず私は口ごもった。すると岩岸さんが私の台詞の後を継いだ。
「部屋の鍵は酒井さんがずっと持っていたのでしたね。もちろん合い鍵もありません。外から鍵をかけることができないとなれば、方法は一つです。室内から鍵をかけ、そのまま部屋にいる以外にありません」
「でも、私たちが見たときには部屋の中には誰もいませんでしたよ」香澄の反論に、岩岸さんは首を左右にふった。
「いいえ、一人だけいたはずです。床にうつぶせになっていたので、ドア越しでは顔は見えなかったかもしれませんが」
「まさか」あまりに意外な展開に、私たちはぽかんと口を開いたまま岩岸さんの顔を見つめていた。小さくせき払いをしてから、ようやく香澄が言葉を継いだ。
「あのとき床に倒れていたサンタ・クロースって、人形じゃなかったんですか」
「はい。《人形》ではなく《人間》だったのです。その人物は人形からサンタ・クロースの衣裳と付け鬚をとり、人形本体はいったん部屋の外へ持ち出してどこかに隠します。部屋に戻り、サンタ・クロースの衣裳を身に着け、付け鬚をつけて床に倒れてしまえば、ドアのガラスから室内をのぞいただけでは人形と区別がつかなくなります」
「それでもやっぱりおかしいです」私は眉をひそめた。
「私たちが碧さんから鍵を受けとって戻ってくるまでには、その人はサンタ・クロース像を元のとおりに部屋へ戻しておかなければなりませんよね」
「そのとおりです」
「でもその後、葛城さんが部屋の前に来るまでに、サンタ・クロースに扮した人はドアの鍵をかけなければいけないんですよ。今度は室内に隠れる場所はありません。外からどうやってドアの鍵を閉めたというんですか」私の理詰めを聞いた岩岸さんは、やわらかい表情で頭の後ろで両手を組んだ。
「確かに葛城さんは室町さんから部屋の鍵を受けとり、ドアを開けました。しかしそのとき、村岡さんたちは本当にドアの鍵がかかっていたかどうか確認しましたか」
 香澄と私が息を呑んだのはほぼ同時だった。ようやく岩岸さんの推理の指し示す方向が見通せたのだ。
「待ってください。それじゃ、私たちが見たとき部屋の中で倒れていたサンタ・クロースって、葛城さんだったんですか」驚く香澄と私に、岩岸さんは澄ました顔で紅茶を飲みながら言う。
「そうです。それ以外には考えられません。葛城さんはドアの鍵がかかっていたので部屋に入れなかったのではありません。するべきことを終えて部屋から出てきたところだったので、再び部屋に入る必要がなかったのです。お疑いでしたら、ご本人にお訊ねになってみてはいかがです」
 香澄と私は顔を見合わせた。そのまま二人、ほとんど同時に後ろのカウンターの方へふり返っていた。
 カウンターの中ではマスターがシュガーポットにお砂糖を入れているところだった。マスターは私たちがふり向くとスプーンを運ぶ手を休め、静かに顔を上げた。香澄と目が合うと、マスターはいたずらっぽい表情を浮かべながら言った。
「サンタ・クロースが転んだ謎を解くのに、四年は時間がかかりすぎだぞ、不良少女」
「もう、まだ私のことを不良少女って呼ぶんだから。マスターなんて知らない」香澄が四年前とそっくりに、つんとした表情で横を向いた。
「ごめんごめん」マスターは四年前と同じように頭をかく。それを見て、香澄と私は思わず吹き出してしまった。
 沙貴ちゃん一人がきょとんとした顔をしている。
「ねえ、玲子ちゃん、これってどういうことなの?」沙貴ちゃんに訊かれた私は、片目を閉じた顔の前で両手を合わせた。
「沙貴ちゃん、今まで内緒にしていてごめん。実はですね、こちらのお店のマスターこそが、今までのお話に出てきた葛城健太さんなのです」
「葛城健太といいます。サンタ、じゃないですよ」マスターは茶目っ気たっぷりに沙貴ちゃんへ向けて自己紹介した。
「わ、びっくりした。そうだったんだ」沙貴ちゃんは、絵本の中の登場人物がページの中から飛び出して目の前で踊り始めたのを見たような顔をしている。
 そこに奥様が大きな陶製のティーポットをトレイに乗せて運んできた。
「当店のマスターからお誕生日のお祝いとして、紅茶のサービスでございます」奥様は空になっていた私たち四人のティーカップに紅茶を注いだ。
「わあい。マスター、ごちそうになります」さっそく香澄がティーカップに手を伸ばした。香澄はそこで不思議そうな顔をして、
「でも、どうして岩岸さんはマスターが葛城さんだってわかったんですか」わずかに首を傾げながら訊ねた。岩岸さんもふわりと湯気の立つカップを手にとると、
「マスターが葛城さんだとわかったというよりも、こちらの奥様が酒井さんだと気づいた方が先でした」
「え、え、それじゃ」またまた沙貴ちゃんは目を丸くして驚いている。奥様は静かに微笑むと、沙貴ちゃんに自己紹介した。
「初めまして、酒井碧です。もっとも、今は葛城碧ですけれど。今まで黙っていてごめんなさいね」碧さんは四年前と少しも変わらぬやさしい微笑みを浮かべていた。ただ一つ、四年前と違っていることがある。碧さんはもう独りではなかったのだ。
「香澄ちゃんから、今日はすごい名探偵をご紹介しますからって予告されていたので、いつ私たちはその名探偵さんにご紹介してもらえるのか楽しみにしていたの。さすがは香澄ちゃんが名探偵さんだと言うだけあって、お見事な推理でしたわ」碧さんは岩岸さんに軽く頭を下げた。
「室町さんが四年前のクリスマスの日のできごとを思い出したのにも、何かきっかけがあったはずです。クリスマスはお店の中のツリーで説明がつくとしても、特に四年前のことを思い起こしたのはどうしてでしょう。そのできごとに関係した方が近くにいらっしゃるからではないか、僕はそう考えました。お話ししている室町さんの楽しそうな表情から、こちらの奥様が酒井さんであると確信したのです」
「残念。演劇の幕が下りた後のカーテンコールみたいに、全ての話が終わった後で、葛城さんと碧さんを沙貴ちゃんと岩岸さんにご紹介しようと思っていたのにな」香澄は拗ねた子供のように口をとがらせた。岩岸さんに先を越されたことがよほど悔しいようである。
 岩岸さんはティーカップを軽く揺らしながら言う。
「常連客もいたという近所でも評判のケーキ屋さんが、ただ単に店じまいしてしまったというのは不自然だとまず思いました。酒井さんのケーキ店が店じまいした理由について、室町さんからも村岡さんからも詳しい説明はありません。そして登場するのが、とびきりおいしいケーキで評判のこちらの喫茶店です。酒井さんのケーキ店がこの喫茶店に変わったと考えた方が説明も簡単です」
 岩岸さんの推理はさらに続く。
「もう一つヒントになったのが、この喫茶店の名前の《ヴェール》です」岩岸さんはティーカップを静かにテーブルの上に置くと、碧さんに問いかけた。
「一つお訊きしてもよろしいですか。こちらのお店の名前はフランス語ですね」岩岸さんが確認すると、碧さんは何とも言えない嬉しそうな表情になった。
「どうやらあなたには全ておわかりのようですね。おっしゃるとおり、当店の名前はフランス語です」
「やはりそうですか」碧さんの答えを聞いて、岩岸さんは満足そうにうなずいている。
「ああ、岩岸さんと碧さんだけわかっているなんてずるいです。私たちにもお店の名前の秘密について教えてください」私たち三人を代表して香澄が岩岸さんに抗議した。
「これは失礼しました」岩岸さんは苦笑いしながらナプキンを一枚、テーブルの上に置いた。次に胸ポケットからペンをとり出す。好奇心いっぱいの私たちがのぞき込む目の前で、名探偵はナプキンに一つの言葉を綴った。
「この喫茶店の名前となっている《ヴェール》は、フランス語で綴ると《vert》になります」
「あ、そうなんだ。私、今までこのお店の名前って、貴婦人がかぶったりするヴェールのことだと思ってました。英語じゃなかったんですね」香澄がナプキンを見つめながら言った。
「この言葉、どういう意味なんですか」私がナプキンから顔を上げて訊ねると、岩岸さんは静かに微笑みながら答えた。
「フランス語で《緑》という意味なのです」
「あ」私たちは同時に声を上げていた。
 《緑》とは即ち《碧》である。葛城さんは一番大切な人の名前を自分のお店に冠したのだ。
「マスターもなかなか素敵なことをするんですね」私たちの注目を浴びて、葛城さんはしきりに照れている。エプロン姿の碧さんがそんな葛城さんの横に仲良く寄り添った。見ていて気持ちのよい二人だった。
「クリスマスまでの毎日、サンタ・クロース像が店の前に飾られていたことを私は知っていたんですよ」葛城さんは静かに語り始めた。
「私は碧にクリスマス・プレゼントを贈ろうと思っていました。ふとその部屋の前を通りかかったところ、そちらの名探偵の言われたとおり、ちょうど小さな女の子がドアからとことこ出ていくところだったんですよ。何げなく部屋の中を見ると、まだサンタ・クロース像があり、そしてドアの鍵が開いていました。そこで私はいたずら心を起こしたのです。部屋の鍵を室内からかけておいて、サンタ・クロースの衣裳を着て床に倒れ、サンタ・クロース像が倒れているように装う。当然、サンタ・クロース像をとりに来る碧がそれを見つけるでしょう。彼女は鍵を持っているのだから、室内に入るのも簡単です。彼女が入ってきたところで、私はサンタ・クロースに扮したまますっくと起き上がり、『メリー・クリスマス』と言いながらクリスマス・プレゼントを彼女に手渡す計画だったのです」
「ところが、ちゃんと神様はご覧になっていて、そんないたずらを計画どおりにお進めにはならなかったのよ」葛城さんの横から碧さんが楽しそうに茶々を入れる。
「そう。後で聞いたら、クリスマスの日にはサンタ・クロースもゆっくり休ませてあげたいということで、店頭にサンタ・クロース像を飾る予定はなかったんだそうですね。当然、碧が部屋の前に来ることもない。大いに当てがはずれてしまったというわけです。そんなことは全然知らない私がおかしいと思いながらも床に寝転がっていると」
「香澄ちゃんたちに見つかってしまったんですね」沙貴ちゃんがふんわり幸せそうな笑顔で言う。
「そうなんです。ドアの外から香澄ちゃんたちの声が聞こえてきたのです。正直言いますとね、こりゃまずいって思いましたよ。外から女の子に見られているかと思うと、急に自分のしていることが恥ずかしくなってきたものです。冷や汗ものでした。もういいかなと思ってみても、まだドアの外では香澄ちゃんたちがこちらを見つめているので動くに動けない。息をひそめてじっとしていたら、ようやく香澄ちゃんたちが碧から鍵を受けとるためにその場を離れてくれました。さあ今がチャンスとばかりに起き上がり、裏に隠しておいたサンタ・クロース像を部屋に戻し、衣裳も着せ替えました。後はそのままドアの前に待機して、香澄ちゃんから鍵を受けとり、その鍵でドアを開けたように見せかけたわけです」
 それまで転んで床に倒れていたサンタさんがぴょこんと起き上がり、あわててコートを脱いでいる微笑ましい情景が目に浮かんできて、私の心は何とも言えない幸せな気分に充たされた。
 マスターは横につつましく控えている碧さんをやさしく見つめながら言った。
「これは神様が、サンタ・クロースの真似などせず、自分自身ありのままの姿で相手にきちんと向かい合えと諭してくださっているような気がしました。それでクリスマスの夜に碧の家を訪ねて、プレゼントを渡して自分の正直な気持ちを打ち明けました。もしその時間がなかったとしたら、今の私たちもこうしてこの場にいなかったかもしれません」
「そうでしょう。香澄ちゃんと玲子ちゃんは、あなたと私の間を結んでくれた天使のような女の子なのよ。不良少女なんて呼んだら、神様の罰が当たるわ」碧さんにたしなめられて、葛城さんはこれは参ったという顔をして頭をかいた。香澄と私は顔を見合わせて大いに笑った。
 私たちがお手伝いを終えて帰った夜に、葛城さんと碧さんの間にそんな時間が流れていたことを、今日まで私たちは知らなかった。私たちも携わった小さな種子は、やがて芽吹き、そして美しい花を咲かせたのだ。

 私たちがお店を失礼する際、葛城さんと碧さんは喫茶店の外まで見送りに出てくれた。
「ありがとうございました」二人の声を背中に受けながら、私の方こそ二人にお礼を言いたい気持ちになっていた。こんなにも素敵な物語の贈り物が誕生日に届けられるなんて、私は何と幸福なのだろう。
 これから家に帰ったらショパンのレコードをかけて、私が生まれた日の話を父と母から聞こう。そして私をこの世に授けてくれた両親に感謝を捧げよう。少女からほんの少しだけ大人になった私の、心からの感謝を。

おとめごっこクラブ
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