キャンドル
保坂 美沙緒
今年のイブは雪だった。カーテンの明けられた窓から白い模様が見える。彼女は、部屋の真ん中に置いた小さなテーブルに、深みのある緑のテーブルクロスを掛け、キャンドルに火を灯した。それから彼女は手際よく赤い布製のランチョンマットを敷き、横にフォークとナイフ、スプーンを並べ、小さなキッチンから湯気のたっている料理を二人分運ぶ。最後にグラスにワインを注いでから照明を消した。小さな灯はぼおっと、狭い部屋を照らしていく。
今年、彼女は一人だった。一月前、高校の時からつき合っていた彼と別れてから、ずっと一人だった。この一月もの間、彼女はずっと泣いていた。泣いて泣いていつも目を赤くしていた。今日だって彼は来ないとわかっているのに、あきらめが悪いのか、彼のことがまだ忘れられないからか、さんざん悩んだ末、クリスマスの料理は二人分用意した。
「乾杯」
誰もいない空間に向かって彼女はグラスを差し出した。それから一口だけワインを飲み干す。毎年この日は二人で過ごしていたのにと声にならない声で彼女はそっとつぶやく。去年はどんなクリスマスだったかしら。たしか六本木にある、ちょっと洒落たレストランで乾杯したっけ。お料理もワインも良かったけど、彼と過ごせるひとときがとても幸せだった。帰りにお店で記念にキャンドルを貰った。きれいな緑色をしていた。彼と、来年もこのキャンドルに火をつけて祝おう、と約束した。
力強い風が窓ガラスをかすかに揺らしている。今年のクリスマスは去年と違い、何もする気になれなかった。それでも近くのスーパーでチキンを2本買い、レンジで温めてお皿に盛りつけた。テーブルクロスとランチョンマットは去年と同じだったが、心なしか、少しくすんでみえる。去年より、ほんの少し短くなったキャンドルに火を灯す。
ワインをグラスに注ぎ、それをいっきに飲み干す。いつのまにか彼女はお酒に強くなっていた。この一年、毎晩彼のことを考えながら少しづつお酒を飲んでいた。そうすると、ほんの少しだが幸せな気がして落ち着いた眠りにつけるのだった。
この指輪を貰ったのはいつだったかしら。知らず知らず、彼女の瞳は右手の薬指に向けられていた。そこには道端で気軽に買えるような、小さな石のはまったかわいい指輪があった。これを買ってもらったのは、彼が就職したばかりの、晴れた暖かい日だった。今はまだこんなものしか買えないけど、と照れくさそうにそう言ったっけ。その時の彼の表情を思い出しながら、彼女はふっとため息をもらした。あの時はすごく幸せで、この幸せはずっと続くものだと思っていた。結局、彼に買ってもらった指輪はそれだけだったが。彼女はそっと指輪を外し、それを右手に持ちかえてから左の薬指にはめた。ほんとうはこの指にはめて欲しかったんだよね。そっと指輪につぶやいた。
さらに一年たった。今年はもう彼女の顔に涙のあとはなかった。キャンドルの灯を見ても何も感じていなかった。あれから一年、何も楽しいことはなかったし悲しいこともなかった。彼女の心は今日の天気のようにただ寒々としていた。
テーブルの上には何ものっていなかった。ただぽつんと、ワインの入ったグラスが置いてあるだけだった。彼女はワインを飲みながら灯をみつめた。
もう決して彼のことは考えない、そう決心してしばらくたつ。本当はクリスマスなんて祝う気はさらさらなかった。ひとりぼっちのクリスマスは味気ないものだった。周りは陽気に浮かれていて、今の彼女には縁のないもの達ばかり。しかし食器棚の隅に追いやられたキャンドルを見て気が変わった。ひとりぽつんとしているキャンドルがかわいそうになった。寂しいもの同志、お祝いしようか。彼女はそっとグラスをはじいた。不思議に少しだけ心が軽くなった。
四年め、キャンドルは一段と短くなっていた。彼女の心は暗く沈んだままだった。空を覆う雨雲のように。彼女はこの一年ほとんど笑うことなく過ごした。
五年め、彼女は大きなクリスマスケーキを買ってきた。生クリームのにしようかチョコのにしようかとさんざん迷ったが、飾りのトナカイが気に入ったので生クリームにした。トナカイは変な顔をしてそりを引っ張っていた。テーブルの真ん中にケーキを置き、ほとんど形のなくなったキャンドルをケーキにたてた。橙色の炎に照らされたトナカイはますます変な顔になった。自分に似ていると思った。キャンドルは最後の灯をともした後、すっかり溶けてしまった。
この間彼に会った。何年ぶりだろう。ちょっと太ったけど顔つきは精悍になっていた。スーツ姿もすっかり板についていた。やあ、ひさしぶり。ちょっとしたとまどいはあったが、すぐに何事もなかったような顔をした。淋しかった。
元気? 笑顔がまだ少しまぶしい。まあまあ。ちょっとあいまいに答える。そう、僕の方は仕事がきつくて、あんまり寝てないんだ。ちょっとした仕草が昔と変わらない。まだ、前のところに住んでいるの? そうよ。なんでもない会話にどきどきした。変なの。もう彼のことは忘れようって決めてたのに。あなたがうらやましい。どうして。だって、幸せそうなんだもの。君は幸せじゃないの。驚いたように彼が言う。わからない。だって、考える必要なくなったから。幸せだった頃のこと忘れることにしたから。急に涙がこぼれてきた。わあわあ泣いた。突然泣き出した彼女にとまどった彼は、慌てて近くの公園に連れていった。
全く困るよ。みんな僕たちを見てる。ちょっと恥ずかしいよ。少し怒った口調に彼女はまた少し悲しくなった。他人行儀な口調が気に入らない。いらいらしている彼にも腹が立つ。五分くらい泣きつづけてから言った。じゃ、せめてあの時の理由くらい教えて。理由もわからないまま別れたんだもの、気持ちの整理もつけられない。私のどこがいけなかったのか、おしえてくれない?
ごめん。彼はそう短く答えたまま、黙り込んだ。謝って欲しくない。なんだか惨めな気持ちになる。それより理由をきかせて。
うーん、どういったらいいんだろう。僕たち高校の頃からつきあっていただろう。まだ子供だったころのつきあい、大学に入ってからのつきあい、社会に出てからのつきあい、何年もつき合っているうちにこれからの人生が見えてきたようでそれが嫌だったんだ。
わたしと別れてからどうしたの。そうだな、旅行もしたし、転勤もあった。友達と夜の街で一夜を明かしたこともあったし、ネルトンパーティーみたいなのにも参加した。これ結構おもしろいんだぜ。みんなパートナー選びに必死でさ。側で傍観してるのはよかった。そうしているうちにこの間、雑誌社に勤めてるカメラマンと知り合ってさ、すっかり意気投合しちゃって先週、婚約した。
結婚するの。ああ。結婚しても彼女はたぶん仕事はやめないだろうね。それどころか、突然一年間くらい海外へ行ってきますとか言いそう。仕事に生きがいを感じるタイプだよ。彼女とはすごろくみたいな人生が歩めそうだと思った。
なんて言ったらいいのか。おめでとう、その一言は言えなかった。なんて奴。こんな身勝手な奴とつきあっていたのか。涙がぼろぼろこぼれる。悲しいのか悔しいのかわからない。もうこんな奴の顔なんて見たくない。あの時はそう思った。でも今は無性に会いたい。会ってどうなるわけじゃないけど会いたい。会って顔を見て、昔のようにキスをして、顔をそっとさわって優しくなでて。ああ、この人は今、私の所有物なんだ、て感じていたい。もうすぐ結婚するっていってたけど、そんなの関係ない。だって、彼そのまままるごと愛してたんだもの。彼の顔も、彼の体も、彼の心も、彼の性格も、彼の考え方も、彼の人生までも。
お見合いしてみようかなあ。ケーキのトナカイをつつきながら唐突にそう思った。気が紛れて、少しは彼のことが気にならなくなるだろうし。あんまりいい方法じゃないけど。でも何かしていないといけない気がする。それにもしお見合いがうまくいって結納までいったら、彼は慌てるかしら。うーん、俺は関係ないぞという顔をしそう。それともいっそ結婚なんかしないで、彼の周りをうろついちゃおうかな。背後霊みたいにね。ときどき偶然を装って奥さんと一緒にいるときにばったり会うのもいいよね。今日のわたし、なんかいじわるだなあ。彼の困った顔ばかり想像している。でも彼の方が何倍も意地悪してるよね。
彼の困った顔を想像して笑った。笑ったのは何年ぶりだろう。
おとめごっこクラブ
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