冬の少女

KGG


 その冬にオレが出会った一人の女の子の話をしよう。彼女に起こった奇跡について‥‥‥。


「あの、アルバイトの募集を見て来たんですけど‥‥‥」
 そう言って、ドアの隙間からこちらをのぞいた顔は、まだその見た目に子供っぽさが残る少女だった。
 なんで、中学生が来るんだ?
 だから、それが、オレの、彼女に対する第一印象だった。
「アルバイトって、あの、学校に出した事務手伝いのアルバイトのか?」
 それ以外、このマンションの一室に構えた事務所にやってくるアルバイトの応募というのはいないはずなのだが、呼び鈴に玄関に出たオレは、思わずそう聞いてしまった。
 オレは、友人の浩と二人で、小さなコンピューター・デザインの事務所を開いている。開いているといってもこの春からだ。趣味でCGをやってたオレたちだけど、知り合いに頼まれて、地元のテレビ局のニュース番組のアイキャッチを一度作ったことがあった。それがたまたま受けて、そのあとも何回か依頼がきた。これはいけそうだということで、紹介してくれたその知り合いの薦めもあって、大学をきっぱり辞めて、二人で事務所を開き、本格的に仕事を始めることにしたのだ。
 無謀かもしれないと思ったのは、始めた直後の一瞬の間だけだった。経営がうまくいくかどうかなんてことは心配をする必要はなかった。この街に案外同業者は多くなく、いても、クリエーターとは呼べないような、デザイン事務所がちょっと無理をしてCGに手を出してみた程度の古くさい連中ばかりだったのだ。オレたちのような、本格的なCGやコンピューターアニメーションを作成する事務所は皆無で、競争相手はいなかった。その上、潜在的な需要は、猛烈にあった。そんなこともあって、事務所は順調だった。というより、かなり順調過ぎた。次第に仕事が増えて、半年もすると二人で片づけるには多すぎるほどの仕事が舞い込んでくる有様だった。年末には、それは危機的状態と呼べるようにまでなった。そこで、せめて事務関係の仕事だけでも手伝ってくれる人間がいれば、とりあえず、試しに、アルバイトを雇ってみれば、ということになったのだ。
 アルバイトの求人は、CGを教えている、市内に何校かある専門学校と高等専門学校の事務に出した。できればここの仕事に興味があって、仕事をしながら、将来、例えばそいつの役に立つような、あるいは、オレたちの新しいパートナーになってくれるような、そんな人間が来てくれることを期待していたからだ。
 だけど、実際にやってきた、今、目の前にいるこの娘は、少なくとも、見た目には、どうもオレたちの期待に添うようには見えないのだが。
 短く後ろで切りそろえた髪は、なんの工夫もないので、それだけで、小学生のような髪型に見える。クリーム色のダッフルコートを着ていて、下は、新品のようなジーンズだった。胸元には、コートの下の白いセーターが覗いてる。大きな目と、子供っぽい面立ちのおかげで、とりあえず、顔だけは、かわいいと言えるレベルになっているのが、救いといえば、救いである。
 いずれにしろ、虫歯の治療にやってきた中学生というのがせいぜいで、とても、期待してたような将来コンピューター一本で生きていきますって雰囲気ではない。
 まあ、それでも追い返すわけにはいかない。それに、人は見かけによらないともいうし。なにしろ、共同経営者の浩は、仕事の打ち合わせで上杉まで行っているので、オレ一人では決められない。
「とりあえず、上がってくれ。あ、ここ、土足でいいから」
「あ、はい。失礼します」
 オレは、とりあえず、彼女の持ってきた履歴書を読んだ。それには、彼女の名前、「香山かずさ」と書いてあって‥‥‥。
「18さいーっ!?」
 どうおまけして見ても、15歳くらい以上には見えない。しかし、その香山かずさの持ってきた履歴書には、18歳と書いてあった。
「18歳がどうかしたんですか?」
 仕事場をのぞいてたらしい香山かずさは、その声に、何ごとかと戻ってくると、そばに立って、オレの見ている履歴書をのぞき込もうとした。化粧っけのない、髪の香り。それと、クリーム色のダッフルコートはおろしたてらしい、新品の布地の匂いがする。
「ほんとに18歳だよね?」
 オレの言わんとしていることに気がついたのか、彼女、あきらかにムッとしていた。
「どうせ、わたしは小さいです」
 とりあえず、その件はおいておいて、他の部分をチェックする。
「電話番号がないんだけど」
「あ、家の電話ではあんまり捉まらないかもしれないんで‥‥‥」
 見かけによらず放蕩娘の類か、コイツは? と思ったが、オレは、とりあえず、何も言わなかった。
「うんじゃ、携帯かPHSの番号は?」
「あ、PHSが‥‥‥」
 そう言って、コートのポケットから白い電話機を取り出す。いろいろいじっているようだが、どうやら、自機の番号を表示させようとして、うまくいかないらしい。かなりトロいやつのようだ。オレは、このとき初めて、ちょっとだけだが明確に、イヤな予感を覚えた。
「ちょっと、貸して」
「あっ‥‥‥」
 オレは、そいつの手からPHSをひったくる。
「お、生意気にエッヂ端末じゃないか」
 フリップを上げてオレの携帯の電話番号を叩く。すぐさま、オレの胸ポケットで着信音が鳴る。オレは、その自分の携帯に表示された番号を、履歴書の空白に書き込んだ。
 PHSを返そうと、思ったら、また、その娘は、オレのそばからいなくなって、奥の方をうろうろしてる。
「おい、PHS!」
 オレが声をかけるとひょこひょこと戻ってくる。
「マシンが珍しいのか?」
 ひょっとして、やっぱり見かけによらず、すごいオタクで、コンピューターが三度のゴハンよりも大好きで、夜は一台抱いて寝てるとかいうのかと、ちらっと期待して聞いてみた。でも、ぜんぜん違った。
「あの‥‥‥もう一人いらっしゃいましたよね?」
 オレは、小さなイヤな予感がさらにひどくなるのを感じた。
「ああ、もう一人、いるけど。浩は、外回りだ、今。それが、どうかしたか?」
「いえ、何でもないんです」
 かずさは、ぷるぷるっと首を振って、そう言ったが、そのときの微妙な表情の変化に、オレは、自分の直感を確信した。
 浩が帰ってきて、他に応募の連絡もないことから、とりあえず、使ってみるということになった。
「仕事は、主に簡単な事務関係の書類とデータの整理です。余裕があったら、CGの方もちょっとした手伝いをお願いするかもしれません。期間は、23日までの一週間。それでは、今からでいいですか?」
「はい、お願いします」
 浩の説明に、神妙な顔でうなずく。オレは、このかずさの様子をじっと観察していた。


 とりあえず、こんな感じで、このアルバイターは、オレたちの事務所に雇われたのだが、オレの予感は当たった。コイツはとんでもないやつだ。見た目は、多少かわいいかもしれないが、そんなのは、今の場合、おまけにもならない。とにかく、まったく使えないのだ。
 こいつは、今まで、コンピューターどころか、およそ機械というものに触ったことがあるのか、それさえ疑わしくなる、強烈なメカオンチだった。コンピューターの電源のオン/オフさえとんでもない。PHSの操作で見せた不器用さは本物で、果ては、キッチンのコーヒー・メーカーさえ、正しい操作ができず、キリマンジャロを60グラムほどいきなりゴミにしてくれた。だから、オレが最初にかずさに教えたのは、二台のワークステーションとその周辺機器を指さして、「死んでもこいつには触るな」ということだった。この年末の繁忙を極める時期にこれらに何かトラブルがあったら、それだけで、この事務所の存続の危機だ。
 浩は、だいたい、いつでもフェミニストなので、「まあ、事務の方をきちんとやってくれればいいから」とか言って、かずさをかばうのだが、金を払って雇っているのである。しかも、相手は、こっちの期待とかお構いなしに、あやしげな下心でここにいると見た。だいたい、事務関係のデータを入れてるパソコンさえ、満足に扱えないのである。それでも、せめて、経理関係や仕事の発注のデータの整理ぐらいはできてもらえないと雇ってる意味がない。
 オレは、次の日、浩が外回りに行ってる間、かずさを徹底的に鍛えることにした。浩がいない間にしたのは、あいつがいると、「まあ、いいじゃないか」とか間に入って、この娘をかばってしまうからだ。こっちはストレスがたまるだけだし、おまけに、向こうは、優しい言葉をかけられてうれしがっているかもしれないと思うとよけいむかつく。まあ、それでも、鍛えるといっても、期待はできないから、気休めにはかわらないが。
 かなりなスパルタ式で、とりあえず、ワープロとデータベースのソフトを教え込んだ。かなり、ぶつくさ文句を言ったが、驚いたことに、意外に、かずさには憶えようという気がちゃんとあった。だったら、来る前から、そこら辺はできるようにしといてくれとは思ったが。今更ではあるが、もはや、コンピューター関係の専門学校生でないことは疑いようがない。
「おまえは、バカかっ」
 しかし、生来らしい不器用さとカンの悪さはどうしようもない。オレは、このセリフを何十回言ったか。1、2時間、格闘して、かずさも疲れたかもしれないが、オレも、ヘトヘトになった。
「まあ、それもわずかな間さ。他のやつがきたら、それでオマエともおさらばだ」
「‥‥‥来ませんよ」
 キーボードをぎこちなくたたきながら、かずさは言った。
「来ないって、何が?」
 横で、またイヤな予感を感じながら、オレは聞いた。
「だから、他の応募の人」
「なんで?」
「わたしが、電話したから」
「はぁ?」
「だから、わたしが、バイトの募集を出した全部の専門学校と高専の庶務に、あれは間違いでしたって電話しておいたから、もう誰も来ませんよ」
「ふざけるな」
「わたしは、いつも真剣です」
「なおさら、悪いだろが」
 オレは、思わず、かずさの頭をこづいた。
「痛いです」
「当然だ」
「ところで‥‥‥」
「なんだ?」
「この表、真っ白になっちゃったんですけど、どうしてですか」
「えっ?」
 かずさは、「すべて選択」を選んだ後、うっかりデリート・キーを叩いたようだ。その上、しっかり、その状態でセーブしてあった。
「おまえは、バカかっ」
 オレは、かずさの頭を、再び、今度は結構本気で、叩いた。
 疲れたので、オレたちは、休憩にした。
 オレたちは、応接室、というか、玄関入ってすぐの仕事場の手前のスペースにソファを置いただけだが、そこのソファに座って、淹れたてのコーヒーに一息ついた。
「だいたい、おまえさ、どうせ、浩目当てだろ」
 かずさは、オレの淹れたコーヒーにミルクと砂糖をじゃばじゃば入れてる。そういうところまで、子供っぽいというか。それをスプーンでぐじゅぐじゅとかき回している。
「おまえさぁ、バレバレなんだよ、その態度」
 実際は、それほどバレバレではない。ただ、オレが、特に、こいつの浩がいる時いない時の態度の変化、視線の行方、そういったことに気をつけていたから気づいたのだ。
「そうですけど‥‥‥」
 意外とあっさり白状した。
「でも、あなたには関係ないでしょう」
 乳白色の液体に視線を落としたまま、かずさは答える。
「オレは、迷惑だ」
 でも、オレのはっきりした言葉に、この中学生にしか見えない娘は言った。
「そんなの気にしてるゆとりなんかわたしにはないし。わたしは、古手川さんのために来たんですから。あなたのためじゃありません」
 なるほどと思ったけど、えらくきっぱりはっきり言うやつだ。いや、もともとそういうヤツなんだ、コイツは。
「バカかっ、おまえは。だいたい浩にはな‥‥‥」
「浩さんがなんですか」
 かずさが、上目遣いにオレを見る。
 言いかけて、やめた。まあ、どうせ、浩のヤツが、こんなチンクシャにどうかなったりするとは思えないし、このまま放っておいて、自分で、世の中が甘くないことを少しは学習すべきだろう。
「なんでもないよ。それより、さっさと飲んで、仕事、仕事」
 まったく、どこで浩に目をつけたのか知らないが、まあ、確かに、あいつは見栄えのするヤツだ。おまけに、妙に女の子にやさしいので、勘違いしたのが昔からよくあいつのそばに群がってきた。浩は、そのくせ、そういうことに鈍感なので、だいたいは、相手の空回りに終わるのが常だが。長いつきあいのオレは、そういう出来事をよく見せられ、時たま、巻き込まれてひどい目に遭ったりもしてきた。だから、この手のことの起こりには敏感だったというわけだ。
 まあ、かずさも、そういう手合いの一人というわけだ。そういうヤツには、世間の厳しさというのをしっかりと教え込んでやらないといけない。
 オレは、立ち上がると、かずさを引きずって奥の部屋へ行った。半分以上残ってるコーヒーにかずさは、ちょっとだけ、名残惜しそうな視線を投げたが、かまわない。
 ワークステーションの置いてある仕事場のその奥の部屋は資料置き場になっていた。乱雑に置いてある段ボール箱やファイルの類で足の踏み場もない。
「こっちとこっちとそこの印のついてる段ボールは、浩が整理した4月から10月までの発注伝票のファイルの箱だ。浩のいない間にあいつが整理した資料の箱を全部、その上の納戸にしまい込んでもらえますかいな? 浩が帰ってきたら、きっと大感激するぞ。もしかしたら、デートにさそってもらえたりもするかもな」
「ちょっと。力仕事をかよわい女の子にやらせるんですか?」
「パソコンが使えないなら、せめて、体力で勝負しろよ」
 オレは、そう言って、自分の仕事に戻る。
 ぶつぶつ言いながらも、かずさは、オレの後ろを通り過ぎ、キッチンに置いてあった椅子を持って、奥の部屋に戻る。踏み台をひきずっていったということは、なんとかする気だ。けっこう、けっこう。
「もう、届かないんだから‥‥‥」
「それは、おまえが身長150センチに満たないお子さま体型だからだ」
「ひど~いっ! わたしは、150センチ以上はありますっ! もう、人の気にしてることを‥‥‥」
 小柄なかずさには、この部屋で一番背の高い椅子、ダイニングに置いてあったスツゥールの上に乗っかっても、納戸の取っ手に手をかけるのがやっとだろう。この状態で、小さいとはいえ、重いファイルが詰まった段ボール箱を押し込むのは、なかなか難儀なことかもしれない。ちょっと意地悪だったかもしれない。
 しばらく、あ~、とか、う~とか言う声が背中から聞こえてきた。放っておきながら、オレは、やりかけのアイキャッチの作成の続きにとりかかる。
 バイトの募集をやり直す面倒を思い、少し憂鬱になる。まったく、いらない手間だけかけさせて、むかつくヤツだ。
 そのとき、突然、そのかずさの小さな悲鳴と、段ボール箱からファイルがあふれ落ちる音、そして、かずさも足を踏み外したのだろう、椅子の転がる音とドサッというあいつ自身が床に落っこちたらしい音が聞こえた。
 一連の壮絶な大音響の後、転がったストゥールが壁に当たってたてた堅い音を最後に、奥の部屋が静まりかえる。
「おい、生きてるかぁ?」
 オレは、振り返りもせず、作業の手も止めず、言った。
 返事はなかった。
「お~い、無事ですかぁ~」
 やっぱり返事はなかった。
 いたずらだろうと思い、それでも、ほんのちょっとだけ心配になったので、振り返ってやった。
「おい?」
 冗談だろ、と思った。だけど、かずさは、起きあがる気配がない。それどころか、まったく動く様子がない。倒れた姿勢のまま、ピクリともしないのだ。
「忙しいんだから、つまらん冗談はやめろよな」
 と口では言いながら、オレは少し焦ってたかもしれない。肩を揺すろうとしたオレの右手の小指がかずさのほおに触れた。
「えっ?」
 異常を感じたオレは、そのまま右手のひらをかずさの額にあてる。熱いのだ。それも尋常でない熱さだ。よく見ると、汗がうっすらと浮いている。そういえば、顔もほてっているようだ。息は、浅いが荒い。
「バカかっ、コイツは」
 風邪ひいてんなら、バイト、休めよな、と思った。浩めあてで根性で来てるんだろうが、それでも程度がある。だいたい、病気の身体でバイトされちゃ、こっちだって迷惑だ。そのときは、本当に、そう思った。
 オレは、かずさを抱きかかえる。かずさの身体は、意外に軽かった。そう。小さいやつなんだから、これくらい軽くて当たり前なのかもしれない。こんなに華奢なヤツだったんだと、あらためて感じた。
 とりあえず、応接室のソファに寝かす。
「かずさ、大丈夫か?」
 あいかわらず返事はない。
 病院に連れて行った方がいいかもしれない。
 なにげなくスカートのポケットからはみ出している財布に気が付いた。もしかしてと思い、オレは、そいつをつまみ出す。黄色い革製のかわいい財布だ。広げてみると、やっぱりあった。プラスチックの診察券。かかりつけの病院くらいあるかもしれないくらいに思ってけど、当たったようだ。KKRという青い文字の下には、病院の名前。公済病院。ここから遠くない、めずらしくも街中にある大きな総合病院だ。
「まったく、手間をかけさせるよなぁ、コイツは」
 オレは、かずさを、彼女のクリーム色のダッフルコートにくるんで、もう一度抱きかかえると、マンションを出て、タクシーを拾った。
 いったいどこに連れてけばいいのかと、着いた病院の広いホールで一瞬悩んだが、それは、一瞬だった。
「まあっ! 香坂さん!」
 看護婦の一人がかずさを抱えるオレの方を見て、そう叫んだ。中年の看護婦だ。
「やっぱり、香坂さんね」
 看護婦は、オレのところへ、すたすたとやってくると、オレの腕の中でぐったりしてるかずさを確かめて言った。
「すぐ高田先生を呼んできます。あなたは、和美ちゃんを部屋の方へ」
 香坂? 和美?
 オレは、なんだか全くワケがわからなかった。そのまま行ってしまおうとする看護婦さんをオレは慌てて呼び止める。
「あ、ちょっと待ってください」
 怪訝そうな顔で看護婦は振り返った。とにかく、急いでその高田とかいう先生を呼びに行きたいようだ。だが、オレの方は、まったく事情がわからない。
「あの、部屋って‥‥‥」
 ここで、看護婦さんの方でも、何となく思考がつながってくれたらしい。オレが、この状況にとまどっていることにやっと気づいてくれた。
「あら、そういえば、あなたは初めてお会いする方ね。和美ちゃんの親戚やお友達の方というわけではないのね?」
「いや、まあ、そうですけど‥‥‥」
「すいません。その子は、うちの病院の患者なんです。わたしは、その子の先生を呼んできますから、申し訳ありませんが、そこのエレベーターで一般病室のある5階まであがって、その513号室がその子の部屋です。よろしいですか?」


「あれ、わたし、倒れちゃったんだ‥‥‥」
 かずさが気づいたのは、それから、二時間ほどした後だった。
 かずさは、白いシーツのなかで、ゆっくりとこっちへ顔を向けた。顔色はだいぶよくなっている。一時期付けられた酸素吸入のマスクの方は取り外されてだいぶ経つが、彼女の腕にまだのびる点滴のチューブがちょっと痛々しい。
「‥‥‥有印私文書偽造だ」
 オレは、ぼそっと、それだけ言った。はじめ、何のことかわからなかったようだが、彼女もすぐに、それが履歴書に自分が書き込んだでたらめのことだと気づいたらしい。
「あれ、バレちゃった? 病院にいるってことは、そうよね」
「おまえは、バカかっ。名前を偽り、住所を偽り、しかも、アルバイトなんて問題外の重病人じゃないか。なにを考えてるんだよ」
「ははははは‥‥‥」
「ははは、じゃない」
 オレは、かずさのおでこを叩いた。
「どうして偽名を使ったんだ」
「なんとなくかなぁ。体の弱い後輩がいたってことひょっとしたら、浩先輩がおぼえているかもしれないし、それで、思い出しちゃうかもしれないし‥‥‥」
 言うことが、わけがわからない。思い出したらどうだというんだ。かえって手っ取り早くていいじゃないか。
「わたしの病気のことも聞いたんだよね」
「ああ‥‥‥」
 オレは、あの高田というかずさ、つまり、香坂和美の主治医がオレに語った言葉を思い出した。そして、同時に、その時受けた少なからぬ動揺も、オレの中に蘇った。
 だから、ちょっとした沈黙が下りた。
「で?」
 オレは、その言葉で、その沈黙を破る。
「『で』って?」
「だから、あと、どれくらい‥‥‥」
 このかずさの前でカッコつけてる自分が、おかしかった。声が震えているような気がして、先を言えない自分が少し情けなかった。
「どれくらい生きられるかってこと?」
 オレの言えなかった言葉の先をかずさはあっさりと口にした。
「まじめに先生の言うこと聞いてれば、来年くらいまでは持ったはずなんだけど、だいぶ不良患者してたしなぁ。今日のは相当ヤバかったみたいだし、10日くらいは持つかなぁ。最低、一週間は持って欲しいよね。だって、クリスマスじゃない」
 オレは後悔した。そんなこと聞くんじゃなかった。かずさは、いつものかずさの調子で、明るく答える。しかし、こんなこと、心の底から明るく答えられることじゃない。相当無理してるはずだ。そうだ。コイツはずっと無理してたんだ。
「あ、せめてバイトの残りの4日間は持たせないと、有印私文書偽造の上に契約不履行だよね」
「バカかっ、おまえは。なに考えてんだよ」
「考えたんだよ。わたしは、バカかもしれないけど、いっしょうけんめい考えたんだよ」
 そう言うかずさに、オレは、答える言葉がなかった。
「とりあえず、事務所を開けっぱなしだ。浩に電話してくる」
 そろそろ日も傾きかけてる。戻らないとまずいだろう。帰った浩が心配してるはずだ。
「弘之さん。このこと、浩さんには言わないでね」
 立ち上がったオレに、かずさが言った。
「おまえはバカかっ? だいたい、浩、浩って‥‥‥」
 オレは、このとき、本当に怒っていた。このときにはよく理由はわからなかったけど、怒っていた。だけど、そこまで言って、オレは、言葉を止めた。かずさは、真剣だった。真剣な顔だったのだ。これまで見たことのない真剣な顔だった。
「だめ! あの人に絶対言わないで! 言ったら、言ったら、あなたのこと、絶対に許さない、絶対に許さないから!」
 ベッドから起きあがり、オレに向かって、オレをにらんでそう言った。はっきり言って、小さいかずさがにらんでも、ぜんぜんすごみなんかないんだが、でも、オレは、なにも言い返せなかった。
 急に起きあがったせいか、興奮したせいか、かずさが、突然顔を伏せる。顔色も、ひどく青ざめていた。オレは、かずさの肩にそっと手をかけ、ベッドの中に寝かせると、シーツを引き上げてやった。
 ここまで自分の病気のことを浩に隠そうとするのは、かずさが言わなくても、なんとなく、理解できた。だから、どうして偽名をつかったのかも、納得した。そして、かずさの浩への想いが、オレが考えてたような、浮ついたものでもないのだろう。
「言わない。おまえがそう言うなら、言わない」
「約束だよ」
「ああ。約束する」


 その後で、かずさは、浩を好きになった理由をオレに話してくれた。予想したとおり、おもいっきり下らない、つまらない理由だった。
 かずさは、オレたちと同じ高校に通ってた。といっても、たった一年ちょっというわずかな間だけ、それも、休みがちだったというが。いずれにしろ、一年間、オレたちは、同じ、あの山の上の高校に通っていたのだ。
 文化祭、オレたちの高校では陵山祭と言った。陵山祭の初日は、高校内だけの行事で、学年ごとの集会がある。実際には、文化部が講堂で披露する出し物を見たり、校内の出展を見学したりという、つまり、陵山祭の様子を強制的に全校生徒に把握させる行事なわけだが。あまり、学校に顔を出していなかったかずさは、トイレに行ってる間に、クラスからはぐれたらしい。まったく、その頃から、こいつは小学生のようだったわけだ。
「わたし、その頃だと、ほとんど学校休んでたから、でも、文化祭だけは参加したくて、行ったんだよね。でも、あんまり行ってない学校でクラスメートに親しい友だちとかもいなかったし。一人になっちゃって、心細かったというより、悲しかったって感じかな」
 そのとき、浩が、講堂の隅でぽつんと一人いるかずさ、香坂和美を見つけたというわけだ。浩は、たしか、三年のときは、クラスの委員長をやっていた関係で、陵山祭の実行委員の一人だったはずだ。たぶん、そのせいで、かずさを見つけたのだろう。浩は、クラスにかずさを送り届けただけでなく、その前に、かずさがクラスからはぐれている間に見学し損ねた校内の出展物を案内してやっといいうのだ。
 浩なら、誰にでもそうするだろう。それに、ある程度親切で、しかも、文化祭の実行委員なら、誰でもそうするんじゃないのか。そんなつまらないことだ。
「だけど、その浩さんのちっちゃな優しさが、そのときのわたしにとってもうれしかった。だから。だから、この人を好きになったの。この人を好きになって、そして、この人もわたしを好きになってくれたら、そしたら、わたしでも、生まれてきてよかったなって思えるかもしれない。そう思ったから‥‥‥」
 他愛もない夢。それでも、かずさには、かけがえのない、夢だ。
「憧れてたんだよね。好きな人とクリスマスの街を歩くの。腕を組んで。クリスマスの街はきれいでしょ。二人で雰囲気のいいレストランで、キャンドルの灯りで食事して。プレゼントを交換して。二人でクリスマスの夜を過ごすの」
「今どき、そこまでクラシカルな夢を持った女の子なんか、なかなか普通いないぞ」
「ほっといてよ」
 かずさは、拗ねたように、オレをにらむ。
「それで、高校のときの浩を今になって思い出したのか?」
「うんとね、わたし、病院の窓から、浩さんを見つけたの。この間。びっくりしたよ」
 そうだ。浩は、時々、バスで来る。この街のバス路線は、昔からあまり住民の便利なようにはなっていないから、浩がバスで来るときは、この近くのバス停で降りて、事務所までわずかでもない距離を歩くのだ。
「調子のいいときだったから、わたし、ちょっと、ストーカーしちゃった。それで、事務所の場所も知ったし、それから、アルバイトの募集のことも知ったの」
「おまえ、まさか、事務所の外かなんかで立ち聞きとかしてたんじゃないだろうな」
「はははは‥‥‥」
「はははじゃない!」
 オレは、思わず、かずさのおでこをこづいた。
「親や先生には、このこと、言ったのかよ」
「言えるわけないよ。ただ、最後に好きなことをしたいからちょっとむちゃしても大目に見てねって言っただけだよ。そしたら、お父さんとお母さんは、PHSとコートを買ってくれたよ。PHSなんて、ふつうの女の子みたいでうれしかったなぁ」
「バカかっ、おまえは。だいたい、自分の身体のことを考えろよ。それに、たった一週間かそこらで浩がおまえのこと好きになって、それで恋人同士になれるなんて本気で思ってんのか? それこそ奇跡だ。小説や、映画じゃないんだぞ」
「大丈夫。なんとかなるなる。だって、もうすぐクリスマスじゃない」
「クリスマスだからなんなんだよ」
「クリスマスには、奇跡が起こるって、昔から決まってるじゃない」
「誰が決めたんだよ、そんなこと」
「もう。弘之さんには彼女とかいたことがないでしょ? どうしてだか、一度、真剣に考えた方がいいと思うよ」
「大きなお世話だ」
 クリスマスを恋人と過ごす。
 ありがちで、あたりまえで、他愛もなくて、でも、かずさにとっては、奇跡を頼りにしなくてはかなわない、そういう夢なのだ。
「おまえは、ほんとにバカだな」
「悪かったわね!」
 そう言って、かずさはベッドの上から、また、拗ねてみせる。


 それからの数日間は、オレもさすがに、下手なつっこみはしなくなった。
 土日を休んで、かずさも若干体調が回復したように見えた。でも、あの高田という医者の話を聞いているから、回復なんてあり得ないことも知っていた。
 こうやってよく見てみれば、かずさも、一生懸命なのがわかってきた。いや、たぶん最初の日からこうだったんだとは思う。オレも、最初は、警戒して、かなりひねくれた見方をしてたから、見方が変わるだけで、印象もずいぶん変わるのだろう。ただ、やっぱり、何をするにも致命的に不器用なのだが。
 そんなこんなで、かずさのアルバイトもあっという間に最終日になった。
 最後の日も、かずさの様子を見ていると、残念ながら進展があったようには見えなかった。もっとも、もともとありようもないのだけど、それでも、あいつらしい不器用さで、少ない可能性をさらに小さくしているんではないかと、他人事ながら、やきもきさせられた。
 まあ、オレには、どうだっていいことのはずなんだが。
 浩が、給料の入った茶封筒を渡す。それを受け取るかずさは、どこか神妙だった。
「ご苦労様でした。また、機会があったらお願いしますね」
 少しだけ、浩が憎くなった。こいつにまたの機会なんてないんだ。でも、そんなこと、何も知らない浩に言ってもしょうがない。それに、浩に何も言わなかったのは、かずさから口止めされているからだし。
「どうも、いろいろご迷惑をかけました」
 とてもアルバイトの最後に言うセリフとは思えない、しかし、いかにもらしい言葉で、かずさは、ぴょこりと浩に頭をさげて見せた。
 オレが、机の上から自分のコートをつかんだのは、そうやって玄関に向かうかずさの背中が、何となくしょんぼりしているようにも見えたからだった。
「おおう、オレちょっと、そこまで送っていってやるわ」
 そう、浩に言うと、オレは、玄関を出ていったかずさの後を追いかけた。
 すっかり暗くなった路地に、街の明かりにうかぶかずさの背中は、小さくて、もともと、コイツが小さいということもあるが、それでも、なんか、あまりに小さくて、そのまま消えてしまうんではと思った。
 オレは、小走りに追いつく。
「あれ、弘之さん」
 横に立ったオレに気づくと、こいつは、少しだけうれしそうな顔をする。オレにうれしくなってもしょうがないだろうとも思うが。
「おい、大丈夫か? 少し、顔色悪いぞ」
「うん。少しね。でも、平気だよ。それより、あれなにかな‥‥‥」
 かずさが通りの左端を指さす。向こうの方には、一本太い通りを挟んで、勾当台公園の噴水があるはずだ。遠くからだったが、そちらの方向で、何かがきらきら光っていた。
「ああ。あれは、公園のなかをデコレーションしてるんだ。クリスマスが近いからな。青葉通りや、定禅寺通りほどじゃないけど、まわりの木なんか電球で飾っているからあの光だな」
「ふうん、クリスマス・ツリーだね。見に行こうか」
 うれしそうに、かずさはそう言った。
「大丈夫か? おまえ、少し、顔色悪いぞ」
「うん。少しね。でも、平気だよ」
 オレは、さらに言おうとしたが、やめた。こいつがいいというなら、いい。どうせ、こいつの場合、具合が悪いのは、どうしようもないのだ。
 公園は、思ったよりも賑やかだった。近くでライトアップしている定禅字通りを散歩した奴らがそのまま流れてきているのかもしれない。飾り付けも、なかなか本格的で、金もかかっているようだった。相当の数の電球を使っているので、電気代もバカにならないはずだが、おかげで、普段の公園とはまったく違う、なかなかきれいな見物だった。そういえば、この公園のクリスマスのデコレーションは、話にはよく聞いていたが、見に来るのは初めてだ。
「弘之さん、デートしてあげるよ」
 とつぜん、かずさが言い出した。
「はあ? デート?」
「そっ。弘之さんには、いろいろお世話になったから、お礼に、ね。このかわいいわたしが、これからこの公園を一周分だけ」
「はあ? なにが悲しくて、おまえなんかとこのくそ寒い公園をうろつかなきゃいけないんだよ」
「でも、ほら、ごらんよ。ここは、カップルだらけだよ。こんなとこ、ヤローが一人でうろうろしてたら、さみしいよ。それに、見た目にもアブないよ」
「だから、こんなところはさっさとおさらばだ」
「無理しないでよ。クリスマスの飾り付けした公園、きれいじゃない。わたしが一緒についててあげるから、ゆっくり見物しなよ」
「おまえが見たいだけじゃないのか‥‥‥っておい!」
 そのとき、かずさが、オレの左腕に自分の腕をからめてきたからだ。かずさの体温がオレの腕に伝わる。こいつは、なに考えてんだ。
「あ~あ。これが浩さんだったらなぁ」
「そのうえ文句かよ。これは、おまえのオレに対するお礼なんだろ、一応」
「なんか身売りした気分~」
「バカかっ、お前は」
 オレは、すかさず、かずさの頭をこづいてやった。
「いたいな~。もう~」
 まわりから、オレたちはどう見えただろう。何も知らないやつがみたら、なかのいい恋人同士とか思うかもしれない。クリスマスのデートで仲良くじゃれ合う。でも、事実は、ぜんぜん違うというわけだ。
 オレたちは、アベックだらけの公園を、ぶらぶらと一周半した。
 かずさは、まるで子供のようだった。プラスチックの星やトナカイや赤い長靴、色の付いたたくさんの電球、そんな光を返す噴水の雫。そういったものをまるで初めて見るかのように、はしゃいでいた。
 それでも、かずさは疲れた様子をみせたので、オレたちは、噴水の縁に腰を下ろした。
「それで、浩はどうなったんだ?」
 おれは、缶コーヒーのプルタブを開けて、かずさに聞いた。
「うん。ふられたよ。イブの日は予定があるんだって」
 缶紅茶に口を付けながら、かずさは答えた。
「‥‥‥そうか。だめだったか」
 オレは、そう答えながら、胸がちょっとだけ痛くなった。このときになって、オレは、ほんの少し後悔していた。本当のことをかずさに言わなかったことを。24日の夜に、浩が予定が空いているなんてこと、最初からあり得なかった。
「うん。でもね、あきらめないよ。24日も事務所に行ってみるよ。お仕事の残りがあるとか言ってさ。浩さん、適当に話、合わせてね」
「おおう。まかせろ」
 今までになく、素直な返事をした自分にびっくりした。きっと、左腕にまだ残っているような気がするかずさの温もりのせいかもしれない。
「だってさ、わたし、プレゼント作ったんだよ。初めてだよ。やっぱり、好きな人に手編みをプレゼントするって定番だよね」
「定番というよりも、ありがちすぎるくらいだな」
 皮肉るつもりで言ったオレだったけど、かずさは言った。
「ありがちがいいんだよ」
 寂しそうな声だった。
 そう、コイツは、ずっと夢見ていたのだ。
 世の中で、何千、何万と繰り広げられる恋人たちのたわいもない、そして、おきまりのシーン。だけど、コイツには‥‥‥。
「応援するからよ、最後までがんばれよ」
「うん」
 そうさ、奇跡は起こるかもしれないじゃないか。クリスマスなんだから。
 オレは、気がつくと、一度はバカにしたかずさの言葉を、自分で自分に言い聞かせていた。


 12月24日。クリスマス・イブの日。オレたちは、年内仕上げの仕事の残りを黙々と片づけていた。もちろん、23日の祝日も休んではいなかった。だから、かずさのいなくなったみょうに静かな仕事場の違和感も、もともといなかったかずさなのだから、その日には慣れていた。
 そう。もともといなかったのだ。あの日、アルバイトの応募に現れ、この仕事場にしてるマンションの玄関のドアから顔のぞかせた、あの日までは。
 かずさは、おとといの夜、24日に来ると言っていた。だから、オレは、どことなくそわそわした気分で、仕事にもいまいち集中できなかった。昼が過ぎた。午後の短い日差しはあっという間に傾いた。そして、夕方になった。
 かずさは、現れなかった。
 時計が5時を示し、浩が、自分のモニターの上のウインドウをおもむろに次々と閉じた。
「わるいけど、弘之。これで上がるよ」
「ああ」
 理由を知っているオレは、曖昧に返事しただけだった。
 何をやっているんだ、かずさは。
 引き止めようかとも思ったが、浩が納得するような適当な理由が思いつかない。そうこうしているうちに、浩は、ジャンパーを羽織ると、玄関へ消えた。
「それじゃ」
 ドアの開く音、そして、閉まる音。
 オレは、半分上の空で握っていたマウスから手を離すと、椅子にもたれかかり、クリーム色の天井を見上げた。
 あきらめたのか?
 気が抜けていた。そして、どこか、寂しい気持ちがあるのも否定できなかった。
 あきらめるのは、当然かもしれない。でも、かずさは、それでいいのか?
 しばらくぼんやりとして、オレは、ワークステーションの前に戻った。その後も、なんとなくという状態で仕事を続けた。仕事を続けたといっても、機械的にできる仕事だけを、ぼんやりとした意識の中で、反射的にやっていただけだった。
 浩が帰ってからしばらくして、胸のポケットに入れてた携帯が鳴った。
 取り出して、ディスプレイに表示された番号を見た。どこかで見覚えのある番号だった。
 いや、これは‥‥‥。
 オレは、はっとなって通話ボタンを押した。
「もしもし‥‥‥」
『もしもし、かずさです』
「おい、どうしたんだ? 今どこだ?」
『今、病院』
「今日、来るんじゃなかったのか? 浩は、もう帰っちゃったぞ」
『うん、そうだね。そうだよね。少し寝坊しちゃったみたい』
 携帯の音が悪くてよくわからないが、かずさの声には元気がないようだった。
「もしかして、起きられなかったのか?」
『そんなところかな』
 それだけで、オレには、わかった。もう起きあがることもできない状態なのだ。おとといの帰り、ひどく疲れた様子のかずさを思い出した。あの時、既に、相当無理していたに違いない。
「だいたい、電話するなら、オレじゃなくて浩の方にかけろよ」
『今夜は、弘之さんにしてみました。不本意ながら』
「なにが、不本意ながらだよ」
『あのさ、弘之さん。いろいろありがとうね』
「バカか、おまえは。らしくないこと言うなよ」
 こんなふうに素直に言われると調子が狂ってしまう。ついつい、こっちも素直になってしまう。
「おまえは、一生懸命やってるよ。だいたい、おまえは、少々おっちょこちょいかもしれないけど、いいやつだし、外見は、それなりに、おまえ、かわいいんだから、望みはあるよ。オレは、ずっと見てておまえのいいところはわかるよ」
 我ながら、白々いいこと言っているかもしれないとも思った。だが、言ってることは、オレ自身気がつかなかった本音かもしれない。
『かわいいなんて、弘之さんが言うとヘンだよ。あ、もしかして、あたしに惚れちゃった? ダメだよ。わたしは浩さんが好きなんだから。弘之さんのことは、絶対好きになんかならないよ』
「おまえは、バカかっ。くだらない話はいいから、動けるようなったら、また来い。それまで、ちゃんと休んでろ」
『うん。ちょっと疲れちゃったから、もう切るね。さようなら』
「さようなら」。かずさが口にした、日常生活なら何気ないはずのその挨拶の言葉がオレの胸にチクリとささった。全部、オレはわかっていた。でも、それを認めたくないオレがいて、わざとわからないフリをした。オレの声は、震えていたかもしれない。
「なにが、さよならだ。おとなしくしてろよ。明日、特別に見舞いに行ってやるからな」
 電話は切れていた。
 かずさは、「うん、それじゃ待っている」とも、「ええっ、来なくていいよ」とも言わなかった。何も言わなかった。その理由を、オレは、きっと気づいている。だけど‥‥‥。
 オレは、もう何の音も発さない携帯電話を右の耳におし当てたまま、21インチのモニターを見つめ続けていた。もちろん、そこに映っているものは、まったく目に入っていなかった。
 オレは、自分が何を考えているのかもわからずに、立ち上がった。机の横に置いた自分のコートをつかむと、事務所を出た。
 あいつらの行きそうなところは、ある程度、見当がつく。だが、今夜の街は、きっと人手も多い。探して簡単に見つかるとは思えない。
 街を南に向かいながら、携帯をダイヤルした。思った通り、留守番電話サービスにつながった。仕事関係にも番号を教えているので、プライベートな時間には、浩は携帯を切ってしまう。
 オレは、思い切って、もう一つの番号にかけた。それは、すぐつながった。
「あ、弘之です。こんばんわ」
『あら、弘之さん、どうしました?』
 若干雑音とまわりの人の喧噪で聞きづらいが、女性の声が、耳元に届く。
「あの、もう、浩のヤツそっちにいますか? ちょっと用があって。あいつは携帯切ってるから」
『いえ。まだ見てないです。今、駅の前で待ち合わせをしてるんですけど、来たら電話をするように伝えましょうか』
「いや、それならいいんです。どうもすいませんでした」
 オレは、携帯を切った。やっぱり、いつもの場所だ。あいつらは、ほんとに毎年変わりなく同じ場所で待ち合わせをしている。浩は、一旦家に帰ったのだろう。うまくすれば、待ち合わせ場所に着く前に、あいつに会えるかもしれない。
 しかし、オレが駅のペデストリアン・デッキにたどり着いたとき、浩は、既に、そこに着いていた。二人でオレを待っていた。
「弘之さん。お久しぶりです」
 浩の横に立っていた女性が、にっこりと笑って、挨拶をする。首をかすかに傾げると、柔らかい長い髪が、彼女の肩で、背中で、さらりと流れる。普段より明るいクリスマスの夜の街の灯りに照らされて、そこに立つ女性の美しさがはっきりとわかる。
 栞さん。高校時代からつきあっている浩の恋人だ。
「浩、お仕事の話? わたし、別なところで待ってましょうか?」
「ああ、いやいいんだ。栞さん」
 オレは、あわてて言った。栞さんと一緒に立っている浩を見て、自分が何をしたかったのか分からなくなった。いや、はじめから、できることなんてなかった。
「考えてみたら、浩、月曜も事務所来るよな。そんときでいいんだ。ぜんぜん急ぎじゃないんだ。すまない。電話したときは、ちょっと慌ててたから」
「でも、弘之。わざわざそのためにここに来たんじゃないのか?」
 浩が、不思議そうな顔で言う。
「いや、オレは、たまたまだ。ここまで来たから、二人がいるかな、と思って‥‥‥」
「それならいいけど‥‥‥」
「すまん。じゃまして悪かったな。うんじゃ月曜な」
 浩がヘンに思うのも仕方ないと思いながら、オレは、とにかく、話を打ち切ってここを離れたかった。
「弘之さん、また今度ご一緒に三人でお食事でもしましょうね」
 栞さんが、再び、にっこりと微笑んで、言う。とてもたおやかな笑顔だ。
「おおう、栞さん。うん、また今度な」
 オレも、笑顔を作って、二人に手を振り、その場を離れた。作った笑顔で、駆け足で、その場を去った。
 かずさ、おまえは本当にバカだ。おまえの命の最後の瞬間をかけておまえが恋した男には、あんなにきれいな恋人がいるんだぞ。おまえなんかの300倍は美人だぞ。おまえなんかの3000倍は性格もいいんだ。おまえの出番なんか最初からなかったんだ。
 オレは、そのまま、来た道を引き返した。
 クリスマス・イブの夜を楽しむ人の群の中にもまれ、喧噪と、人の吐く息と、車のヘッドライトとあちこちにで輝くイルミネーションがあふれる街を事務所の方へ歩く。しかし、気がつくと、事務所のあるマンションの前を通り過ぎていた。マンションの近くの暗い路地までは、さすがに賑やかな雰囲気は伝わってこない。暗い道を、オレは、最初ゆっくりと、そして、気がつくと急ぎ足に歩き続けていた。
 人の賑わう大通りを再び二つほど横切った時には、小走りになっていて、そして、いつの間にか、そこは、病院の前だった。
 正門の前に立って、あらためて、オレは何をしているんだろうと思った。
 とっくに面会時間も過ぎた夜の病院の正門は明かりも落ちて、しっかりとガラスの扉も閉まっている。試しに押してみたが、やっぱり鍵がかかっていた。守衛室に通じますと書かれたインターホンが目に入ったが、これをかけてなんて言えばいいのだろう。
 オレは、コートの奥、胸のポケットから携帯電話を引っ張り出すと、かずさの番号をリダイヤルした。
 かずさは出なかった。
 眠っているのかもしれない。
 10回目のコールが聞こえたところで、オレは、電話を切った。
 さようならという言葉に引っかかっているだけだ。かずさは、きっとあまり意味もなく使った言葉に違いない。今日は、ひどく体調が悪かったんだろうけど、だからってすぐにどうこうってことはないに違いない。明日。そう、明日見舞いに行こう。花束と、そうだな、ケーキを買って。きっと、かずさのことだから、25日のケーキなんてと文句を言うかもしれない。
 明日だ。明日出直そう。
 オレは、コートのポケットに両手を突っ込んで、暗い玄関を見上げながら、自分に言い聞かせた。
 それでも‥‥‥。
「くそっ!」
 それでも、オレは、納得できなかった。今じゃなきゃ。今、会いたい。会って、かずさの姿を確かめたい。
 オレは、病院の裏手に回った。裏の通用門の入り口には守衛が詰めている窓口があった。他に入れそうなところもあったかもしれない。けれど、オレは、そのまま、その通用口を突っ切った。
 後ろから、オレを呼び止める守衛の鋭い声が聞こえた。でも、オレは、それを無視して、暗い病院の廊下を走った。事情を話して頼めば、何とか入れてもらえないこともなかったはずだった。でも、そのときのオレは、そんなことさえ思いつかなかった。
 暗い廊下に、リノリウムの床を叩くオレの足音が響く。一気に階段を駆け上がり、五階に出る。
 513号室。
「あれ?」
 部屋は、暗く、空っぽだった。
 オレは、もう一度、入り口の部屋番号を確かめた。間違ってなかった。
 そのとき、若い看護婦が一人、部屋の入り口でうろうろしているオレに近づいてきた。
「もしかして、香坂和美さんのお知り合いの方ですか?」
「ええ‥‥‥」
 オレは、嫌な予感を感じた。
「大変残念ですが、和美さんは、さきほど‥‥‥」
 後は聞いていなかった。聞こえてこなかった。
 そんな、うそだろ。だって、ついさっき、話したばかりじゃないか。
 いや、オレは気づいていた。知っていたからここへ来たのだ。
 気がつくと、看護婦は、言葉を止めて、心配そうにじっとこちらの様子を見ていた。
「‥‥‥あ、そうですか」
 まぬけな言い方だと自分でも思った。でも、他に言葉はなかった。
「あの、ご家族の方が、今、一階の‥‥‥」
「いや、いいんです」
 オレは、そう言って、看護婦の言葉を遮った。少し大声で、乱暴な言い方だったかもしれない。背中から、看護婦がその場をそっと離れる足音が聞こえた。
 オレは、もう一度、部屋の中に入った。つい数時間前までかずさのいたこの部屋を。
 そのとき、暗い部屋のなかで、かずさが寝ていたベッドの床がぼんやりと青く光っているのに気がついた。かすかな明かりだった。
 オレは、ベッドに近づいて覗いてみた。
 それは、PHSだった。マットレスの端に押し込んであった。引っ張り出す。かずさの白いPHS。
 そう言えば、病院は、PHSや携帯電話は御法度だと聞いたことがある。いろいろな機械に影響を与えるから。かずさは、電源を入れたPHSをこっそりとベッドの下に押し込んでいたのだろう。きっと浩からの電話でも期待していたのかもしれない。
 PHSは、青い液晶のバックライトに着信があったことを表示していた。オレがさっきかけたやつだ。フリップを開けて、それをオフにする。そして、何気なく、電話帳を開いた。それから、さらに、着信、発信を調べた。
「あいつは、バカか‥‥‥」
 オレは、持ち主のいなくなったPHSを、ベッドの上に落とすと、その部屋を出た。
 気がつくと、オレは、また、街の中にいた。人混みは、減る気配がなかった。その中で、行くあてもなく、人の流れにまかせて歩いていた。
 かずさの真新しい白いPHS。娘の最後のわがままにかずさの両親が、カーキ色のダッフルコートと一緒に買い与えた新しいPHS。たった一週間しか使われることのなかったそのPHSの電話帳には、一件の番号も登録されていなかった。そして、発信には、たった二件。オレの携帯の番号。オレが、かずさが最初に来たときにかずさのPHSからかけたときと、かずさが最後にかけたとき。かずさが最後に電話したときには、オレがかけてリダイヤルで残ってたオレの携帯の番号だけがPHSにあった。それだけ。
 オレは、『不本意ながらね』と言った、かずさの言葉を思い出した。最後、動けなくなったベッドの上でかけることのできたのは、オレの携帯だけだったのだ。
 街は、人は、夜中なのに、賑やかな雰囲気に包まれていた。
「今日は、クリスマスだろ。クリスマスっていえば、奇跡が起こるんじゃなかったのか?」
 オレは、そうつぶやいた。


 それから、十日が過ぎた。年末は、逃避するように仕事に集中した。と言っても、けっしていい仕事をしてたとも自分では思えなかったが。
 浩は、オレの様子のおかしいのに気づいていただろう。でも、何も言わなかった。ただ、大晦日の前の日、浩が実家のある盛岡へ帰省するとき、あいかわらずモニターに張り付いているオレに一言、あんまり無理するなよ、と言ったきりだった。
 オレはと言えば、実家には帰らなかった。もともと学生時代からまめには実家に顔を出す方ではなかったので、親もあまり期待していない。留守電に入っていた母親からのメッセージも、帰ってこないことを確認するような内容だった。
 大晦日は、仕事をしてから、自分の部屋へ帰った。そのままベッドに横になり、目が覚めたら、昼をだいぶ過ぎていた。新しい年がいつの間にか始まっていた。
 新しい年。かずさが迎えることのなかった年だった。
 でも、そんな人は大勢いるのだ。去年いて、今年いない人。きっときっと、大勢。
 かずさという少女は、去年のあの日までオレの前にはいなかった。そして、今も、またいない。それだけのことだ。
 突然現れて、さんざん自分のまわりを騒がせ、迷惑をかけ、たしかにちょっとかわいかったかもしれないけど、そんな女の子が一人、自分のそばを通り過ぎていった。それだけのことだ。
 それだけの‥‥‥。
 年を明けてからは、暮とは逆に、仕事を忘れて過ごした。ゆっくり眠り、ゆっくり起き。近くのスーパーで買い物をして、滅多にしない料理をし。あまり知らない昼間の自分の住む町をぼんやり散歩して。
 いつの間にか、かずさのことも忘れていた。それに気づくと、まあ当たり前のことだとも思うようになった。
 事務所に出たのは、かなり遅い、5日になってからだった。
「おう、明けましておめでとう。ゆっくりしてたみたいだけど、帰省してたのか?」
 浩は、きっと三日の月曜から働いていたに違いない。確かに、いくつか〆切の近い仕事があるのだ。
「ああ‥‥‥。まあ、そんなとこかな」
 曖昧に返事をして、オレは、自分のマシンに向かった。机の上に年賀状が何通か乗っていた。事務所にオレ宛にきたものだった。浩が整理してくれたのだろう。事務所に宛ててくるのは、仕事関係のものかダイレクトメールと変わらない企業やお店から送られてくるようなものばかりだが。
 何気なくそれらをめくっていたオレの手が、一通の年賀状に止まった。身体が凍り付いた。
 ヘタクソな絵だった。カラーの蛍光ペンを使って彩色してあるその緑色のヘビみたいなのは、きっと今年の干支の龍のつもりに違いない。住所はなく、ただ送り主の名前だけが細いサインペンで書かれていた。
 香坂和美。
 不思議な気持ちだった。心のどこかであたたかなものがわき上がってくる。でも、同時に、冷たい氷のようなものが身体の芯を貫くような気がした。
「バカかっ、おまえは‥‥‥」
 それでも、オレは、送り主がいなくなって、忘れた頃にふらりと届いたこのハガキが、脳天気な年賀状が、ひどく間抜けに見えて、それがとてもかずさらしくて、思わず、小声でそうつぶやいていた。
「弘之が女の子から年賀状なんて、さすがに今年は世紀末だな」
 仕事の手を止めずに向こうから浩が言う。そう。浩は、この送り主を知らない。
「うん、ああ。あれだ、誰だか心当たりないんだけどな。たぶん、東通の事務の子か何かな、ここに送ってくるってことは」
 オレは、適当に答えながら、そのハガキをコートのポケットに押し込んだ。
「さて。今日中に、KHBの方はメド付けないと‥‥‥」
 浩に、心の動揺を悟られないように、そうその話を打ち切ると、コートを脱いで、オレは、自分の椅子に座った。
「おい、弘之‥‥‥」
 二人、無言で仕事を続けていたとき、浩が言った。
「また、アルバイト雇おうか? かずさちゃんみたいな元気な子がいいよな。そう言えば、かずさちゃん、あいてるみたいなら、またお願いしようか?」
 オレは、答えた。
「うん、それもいいけどな。でも、今度は、ちゃんと仕事のできるヤツにしたいな。やっぱり、男がいいよ」
 それきり、浩は、バイトのことを言い出すことはなかった。
 日も暮れ、浩と二人で近くの中華料理屋からの出前で夕食を摂り、納期の迫った仕事を片づけてだいぶ時間も過ぎた。時計を見ると、9時を回っていた。
「ああ、なんか疲れたなぁ。ちょっと、外の空気吸ってくるよ」
 オレは、そう言って、立ち上がった。
 マンションの入り口にある自動販売機で、缶コーヒーを買った。熱い缶をポケットに入れ、ぼんやりと歩き出す。
 勾当台公園は、すっかりもとの姿に戻っていた。真冬の、夜中の公園は、寒々として、人の姿はない。クリスマスのデコレーションはとっくにはずされている。きらびやかだった色とりどりのイルミネーションも既になく、ぽつりぽつりとある白々した街灯だけが、そこをわびしくてらしている。凍結防止のために動き続けている噴水の水音がかえって寂しくあたりに響く。
 オレは、街灯の下にあるベンチの一つに座った。氷点下の外気に凍り付いたプラスチックのベンチは、コートの上からでも冷たさをオレの身体に伝える。
 オレは、コートの中から、朝に押し込んだ年賀状をとりだした。年賀状は、ポケットの中で少ししわになっていた。
 ヘビだか龍だかわからない絵の脇に、その絵の出来のわりには意外にきれいな字で、謹賀新年と書いてあった。
 小さな字で、さらに文章は続いていた。
『もしかして、ちょっとだけがっかりしちゃってるかもしれないから、教えてあげるけど、奇跡は起きたよ。だから、わたしは、満足。ありがとうね、弘之さん(ちなみに、この感謝の言葉は特別サービスだからね)』
「おまえは、バカかっ」
 何が奇跡だ。なんの奇跡が起きたんだよ。おまえは死んでしまっただろ。浩は、おまえの気持ちに気づきさえしなかった。おまえは、ただ、最後に残されたほんのちょっとの命を無駄に削っただけだ。
 オレは、そのまま、冷たい公園のベンチにすわり続けていた。
 いつしか、そばの通りを走る車の音もまばらになっていた。身体は冷え切っていた。ポケットの中の缶もすっかり熱を失い、冷たい金属になっていた。
 乾いた空気に、夜空は、冴え冴えと凍えるような星々の光を映す。オレは、ぼんやりと、それを眺めていた。そして、冬のこの街で自分の中を通り過ぎた少女の言葉を思い出した。
『もしかして、あたしに惚れちゃった? ダメだよ。わたしは浩さんが好きなんだから。弘之さんのことは、絶対好きになんかならないよ』
 でも‥‥‥。
「でもさ、かずさ。オレが勝手におまえのこと、好きになるぶんにはかまわないよな。だって、オレが勝手に好きになっているだけなんだから‥‥‥」

おとめごっこクラブ
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