鬼の羽衣
卒川 いくの
その日、一人の女が井戸に落ちて死にました。
滑らかな岩に水が滴り落ちていきます。その静かな洞窟の中で、蝋燭の火が一つ、落ちた雫に震えました。雫の溜まったその先で、奥の扉が滑るようにして緩々と開きます。
大きな台帳を手にした小鬼を従えながら、その館の主人が姿を現しました。節くれだった指が豊かな顎鬚を軽く撫でつけています。その大きな目には瞳がなくただ銀の空洞が広がっていました。その感情を持たぬ視線で促された時、女は思わず息を呑みました。そして、精一杯の努力で冷静さを保ち、その場で頭を垂れてうずくまったのでした。
「お前の裁きのときが来た」
脇に控えた小鬼が、何千年もの時代を記録したであろう台帳をぺらぺらとめくります。その湿った黴臭い紙から発せられた微風が蝋燭の焔を揺らします。その焔が揺らぐたびに、辺りに鼻につく嫌な香りがたちこめました。
その女は押し黙ったままでした。自分がここにいる理由は理解していました。そして、ここで下される審判について、予め自分から伝えるべき言葉も持ち合わせてはいませんでした。
小鬼が何かを見つけたようです。意味ありげな視線を上げると、開いたままの台帳をそのまま主人に捧げ持ちました。
「ふむ。特に問題はない。このまま極楽浄土へ向かって行くがいい」
極楽浄土という言葉を聞いたとき、その女は初めて一つの恐怖を感じました。
「それは、もう現世には戻れないということでしょうか」
この言葉を聞いた主人は壇上から一歩身を乗り出してその女を探るように見つめました。女が極楽浄土を喜ばないことに関心を示したのです。
「現世に戻りたいというのが、お前の望みか」
女は自分に向けられた冷ややかな声、そして身を切り裂くような鋭い銀の視線に慄きながら、一言一言を噛み締めるように答えました。
「現世の我が子に一目会いたいのです。幼子のまま母親なしで生きて行かねばならない我が子が不憫なのです。その子が元気で幸せに暮らしているところを一目なりとも確かめたいのです。それなしでは」
「安心して極楽浄土には行けぬ、ということなのだな」
その主人はその女の全身を探るような視線でもう一度舐めまわします。冷たい井戸の水に着衣も髪もその身をも濡らしたその女の中に、熱く静かな涙がありました。その涙には強い意志が感じられました。それを見た主人はある決心をしたようでした。
「現世にもう一度戻りたいというお前の望みを叶えてやろう。但し、お前は既に死に人だ。そして死に人のままでは、現世に戻してやることも出来ない」
ここで主人は小鬼を目で合図を送り、ある羽衣を用意させました。牛の角と虎の皮が織りこまれ、獣の生臭い臭気が漂う羽衣でした。その羽衣を小鬼は手際よくその女に着せました。
「お前は鬼となって、現世に戻るがよい。そして子供の元気な姿を見て安心したら、この場所に戻ってくるがいい」
主人は、生前の世界とこの館の行き来の仕方を手早く指示しました。そしてその許可証をその女に渡しました。女は我が子に会える嬉しさに我を忘れるかと思うほどの喜びようです。主人は全ての段取りに手落ちがないことを確認すると、最後に女を冷ややかに見下ろしながら、大切な掟について話しました。
「お前が注意しなければならないことが二つある。一つは、もはや生前の姿はない。鬼の姿をしているのだ。村人には鬼として見られていることを忘れてはならない。極力、人目に触れぬよう工夫することだ」
女はちょっと複雑な顔をしました。子供に会って話すことも抱くことも許されないのは、やはり残念だったようです。その様子を一瞥した主人は、女の気持ちが落ち着くのを待ってから、話を続けました。
「もう一つ大事なことは、その羽衣には鬼の心が住みついているということだ」
その主人の言葉に反応したかのように羽衣の裾が一瞬波打つように大きく揺れました。
女はほの暗い顔を持ち上げました。微かに震える唇に言葉にならない呻きが洩れました。
主人は念を押すようにもう一度、力を込めて繰り返しました。
「鬼の心にお前自身を喰われないように充分に用心することだ」
*
女は懐かしい生前の場所に戻ってきました。その場所は、普段使っている井戸の裏手で、そこには小さな祠がありました。女は現世に戻れたことを感謝し、小さな祈りを捧げました。その祈りの中で女はあることを思い出しました。遠い昔に聞いた話では、祠の奥に小さな鏡が御神体として収められているということです。女は、一瞬、その鏡を手にしてわが身の姿を映してみたいという欲求に駆られました。しかし、鏡を見た時の衝撃と驚愕に耐えられる自信がありませんでした。女はその祠を後にすると、村の子供達が遊ぶ鎮守の広場へ向かいました。あたかも人以外の力が働いているかのような軽やかな身のこなしで、足音一つ立てず、ひたひたと滑るように森の道を進んでいきました。
森の木陰から赤い夕焼けの光が射し込んできました。あの夕焼けが完全に落ちてしまうと、子供達はそれぞれの家路に帰ってしまいます。女は鎮守の森へ急ぎました。母親のいない我が子が、村の子供達に苛められていないだろうか、泣かされていないだろうか、それがとても気がかりだったのです。幼い子供を残したまま早くに逝ってしまったという自分自身への責め苦を、村の他の子供達と元気で遊んでいる様子を見ることによって、少しでも鎮めたかったのです。
鎮守の森が近づいてきました。遠くから笑い声とわらべ歌が聞こえます。その中に懐かしい我が子の声が聞こえてきました。それは曇りのない朗らかな笑い声でした。それを聞いて女は本当に幸せな気持ちになりました。
「つぎの鬼はだーれ?」
「えっと、次は」
「あ・・・でも、もう日が落ちている」
「わたし、おうちに帰らなくっちゃ」
「じゃあ、またあした」
「うん、またあしたね」
大きく手を振って家路に急ぐ我が子の姿が目に飛び込んできました。その元気な姿を見た女は、思わず口に手を当てて嗚咽を堪えました。母親に早くに死なれた子供が誰にも涙を見せることなく、努めて明るく振舞いながら村の子供達と一緒に遊んでいる姿が、とても健気でいじらしかったのです。その姿を思うと不憫で不憫でどうしても涙を堪えることができなかったのです。その子供は、唇をぎゅっと噛み締めたまま無言で家路に急いでいました。その表情は、母親のいない家に帰る寂しさにじっと耐えているように見えました。その耐える意志を秘めた強く哀しい瞳が、また女の涙を誘いました。
「一目だけでも、生前の私の姿を見せることができたら、それがもしできるのなら、私は喜んで全てを捨てるのに」
女は、わが身の鬼の姿を呪いました。
鎮守の森を抜けると、それ以上我が子を追いかけることができなくなりました。村へ続く道は開けた畑の中に続いており、もう鬼となった自分の姿を隠すことができません。とうとう女は諦めました。そして、元気で遊んでいる姿を見ることができたのだ、もう子供に自分がしてあげられることは何もないのだと自分に言い聞かせました。せめて子供の背中が見えなくなるまでこの鎮守の森で見送ろう、そう思った女は鎮守の森の陰からそっと顔を覗かせました。
*
その時、女の耳に一つの声が飛び込んできました。
「おかあちゃーん」
女は驚きました。子供が自分のことを呼んでいる、そう思うと女はもう我慢ができませんでした。もう既に現世にいない母親を呼ぶその哀しい子供の叫びを聞いたとき、女に新たな思いが芽生えました。それは、我が子なら自分の姿が生前と違っていようが、現世の者でない異形の者となっていようが気づいてくれるはずだという思いでした。死んで現世と来世に隔てられたとはいえ、血を分けた親子なのだ、きっと分かってくれるに違いないという勝手な思いでした。しかし、女はそれを確信しました。
森を駆け出すや否や子供を抱きすくめました。柔らかな頬、小さな手足、愛らしい唇、女は感動のあまりめまいがしました。そして心地よい陶酔感がありました。このまま子供を抱いたまま村人に追われても構わないと思うほど、強く強く子供を抱きしめていました。
しかし、その感動は長くは続きませんでした。子供が突然泣き出したのです。我が子なら自分がどんな姿をしていても分かってくれるはずだと思い込んでいた女は、激しく動揺しました。何かの間違いだと思った女は、母の温もりが伝わるようにもう一度強く強く抱きしめました。自分が母親だと分かるように何度も何度も繰り返し抱きしめました。しかし、子供は一向に泣きやみません。とうとう、女は子供に向かって「どうして、私が母親だと分かってくれないの」と叫び始めました。
このままでは子供が自分を母親だとわかってくれないまま、村人に村を追い出されてしまうと思い、女は焦りました。そして、一目散に鎮守の森へ駆け込み、更に村の祠の井戸を目指しました。その祠と井戸は、子供と自分の一番の思い出の場所でした。女はその場所に行けば、いくら鬼の姿をしていても母親だと気がついてくれるはずだと信じたのです。
しかし、井戸にたどり着いても子供の態度は変わりませんでした。「うちに帰りたい、うちに帰りたい」と言ってどうしても泣きやんでくれません。女は、祠の周りを巡って遊んだことを思いだし、一緒にその遊びをしようとしました。しかし、隙を見て子供は逃げ出そうとする始末です。
いつまでも泣き続けて逃げ出そうとする子供を見ているうちに、女はある想像を巡らしました。それは里親を実の母親と思いこんで育つ我が子の姿でした。そして、その想像上の我が子を憎悪し、里親を嫉妬し、子供から完全に忘れ去られる自分自身を絶望しました。そして、その想像はこの上ない恐怖と戦慄を女に与えました。
女は子供の心を里親に盗られないうちに、誰にも渡さない方法を取ることを思いつきました。子供を殺すことにしたのです。そして、子供を放り込もうと井戸に覗いた時、月明かりが映し出した自分自身の姿を見つめました。
そこには、鬼の姿ではなく、生前の自分自身の姿が映っていました。
この時、女は初めて本当の鬼になりました。
子供を誰にも渡さないために、子供を喰べることを思いつきました。
そして、その通りになりました。
*
その夜、子供の帰りを待つ一人の母親の姿がありました。一晩探しても見つからず、明け方早く、祠のある井戸の近くまで探し歩いて行きました。そこでその母親は、血まみれになったお守りと人形を見つけました。そして、そのすぐ近くに獣に喰われたような自分の子の無残な肉塊を見つけました。
その母親は言葉にならない悲鳴をあげて、その場に立ちつくしました。そして強張った表情のままかつて我が子であったその肉塊を、いつまでも見つめました。やっと動けるようになったその母親は引き寄せられるように井戸の底に目を向けました。その瞳には絶望の色が浮かんでいました。
*
その日、一人の女が井戸に落ちて死にました。
裁きの館で極楽行きを伝えられた時、その女は言いました。
「私は、現世に残してきた我が子に一目会いたいのです」
-終-
おとめごっこクラブ
E-mail:otome@ann.hi-ho.ne.jp