ひいらぎ飾りて Decorer avec houx
松堂明友
聖書には《初めに言葉ありき》と記されている。今回の物語も、この上なく素敵な聖誕祭へのお誘いの言葉から始まった。
「教会で晩餐会?」驚いて私が訊ねると、室町香澄は瞳をくるくるさせながら笑顔でうなずいた。帰りのホームルームが始まるほんの少し前の教室でのことである。
「うん。正確に言うと、イヴの日に教会でボランティア活動をして、その後で食事会を開きましょうということらしいの」
「ちょっと待って。らしいということは、その話は香澄の発案じゃないのね」
「もちろん。私のアイデアじゃなくて、お昼休みに藤谷さんが誘ってくれたのよ」
「なるほどね。それで納得できました」
「あら、気になるものの言いようね。いったい何を納得したっていうの?」訝しげに訊ねる香澄に、私は澄ました顔で言ってあげた。
「だって、香澄と教会は縁がなさそうだと思ったから。どう見ても香澄は敬虔なクリスチャンには見えないもの」
「あ、ひどい」それだけ言うと、突然香澄は胸元のリボンの前で両手を組んで目を閉じた。そしてそのまま教室の窓の方に向き直ると、天を仰ぎ祈るように言う。
「ああ、主よ。どうして私にはこのようなひどいことを言う友しかお授けにならないのでしょう」
「あ、嬉しい。友ということは認めてくれるんだ」私が言うと、香澄は片目を開けて私の顔をちらりと見た。
「よろしい。いちおう友ということにはしておいてあげましょう。神のご加護に感謝するのよ」
「はいはい」
「こら。感謝するときには『はい』は一度」
「はい」今度は神妙にうなずいてみせると、香澄がたまりかねたようにくすくす笑い出した。つられて私も笑いながら言った。
「ねえ、私も詳しい話を藤谷さんから聞きたい」
「そうね」香澄と私は教室の前の方に視線を向けた。
藤谷真理さんは私たちと同じ二年B組の生徒である。藤谷さんは私たちとは違って、正真正銘のクリスチャンなのだ。彼女の席は一番前、教壇の真向かいにある。見ると藤谷さんは大和沙貴ちゃんと話をしているところだった。肩先で切りそろえられた黒髪が、制服の襟元でさらさらと揺れている。
「藤谷さん」後ろから私が声をかけると、清楚な色白の顔がふり向いた。軽く会釈する藤谷さんに私は訊ねた。
「教会で晩餐会っていうお話、香澄から聞きました。でもいいのかしら、私たちみたいな信仰薄き子羊が教会へおじゃましたりして」すると藤谷さんは静かに微笑んだ。
「そんな。村岡さんにも手伝ってもらえるのなら助かります。今、大和さんにもお願いしていたところ」
「そう、私もお願いされちゃった。私、一度でいいから十二月二十四日を教会ですごせたらって思ってたの。だから真理ちゃんに誘ってもらえて幸せ」沙貴ちゃんも藤谷さんの横でふんわりした笑顔を浮かべている。
「ところでボランティア活動の方は、いったいどんなことをお手伝いすればいいのかしら」
「この季節、教会では洗礼を受けた信者の方だけでなくて、いわゆる一般の人たちも対象にした礼拝を行います。礼拝と言っても、いろいろな催し物を通して一般の方にも親しんでもらおうという祝会のようなものね。それで今月の二十四日にも近所の方々をお招きする予定になっていて。そのときにいろいろとお世話をしてくれる人が必要なの」
「祝会のお手伝いね」私がうなずいていると、沙貴ちゃんが私のブラウスの袖を軽く引っぱりながら言う。
「ところが今年の祝会について、真理ちゃん、一つ困っていることがあるんだって」沙貴ちゃんの言葉に、藤谷さんも表情を曇らせた。
「困っていることって何? 私たちにできることならお手伝いするよ」香澄が訊ねると、藤谷さんはぽつりと答えた。
「サンタ・クロースがいないの」
さて。私たちは一瞬どう反応していいかわからず絶句した。信心深きクリスチャンとはいえ、藤谷さんが未だにサンタ・クロースの存在を信じているとは思えない。私たちの戸惑ったような表情を見て、藤谷さんも思い違いを否定するようにあわてて手を制服のリボンの前でふった。
「あ、違います違います。私が言ったのは、もちろん本当のサンタ・クロースのことじゃないですよ。実は毎年サンタ・クロースに扮して子供たちにプレゼントを贈る役を引き受けてくれていた人が今年は急に都合が悪くなって」
「ふうん。つまりはサンタさんに欠員ができちゃったというわけね」沙貴ちゃんの風変わりな解説に、藤谷さんは真面目な顔でこっくりうなずく。
「そうなんです。子供たちはサンタ・クロースが来るのを心待ちにしています。だから困ってしまって」
「ふうん、そうなんだ。プレゼントをサンタさんからもらえないと知ったら、皆がっかりするだろうな」沙貴ちゃんが自分のことのように小さく肩を落とす。
「ねえ、それならいい方法があるわ」香澄が楽しいことを思いついたときに見せる魅力的な表情で切り出した。
「新しいサンタ・クロースに来てもらえばいいのよ」
「新しいサンタさん?」沙貴ちゃんがちょこんと首を傾げる。
「そう。あ、ちょうどサンタ・クロース候補のお出ましよ」香澄は教室に入ってきた男子生徒に声をかけた。
「星野君、ちょっと待って」
「ん、何か用?」香澄に呼び止められた男の子は星野淳一君。三年生が引退した後、キャプテンとしてわが校のテニス部をリードしている。笑うと端整な顔に白い歯がこぼれる。
「藤谷さん、星野君にも事情を説明してあげて」
「あ、はい」香澄に促されて、藤谷さんは星野君にも二十四日のことを説明した。その間、星野君はふむふむと藤谷さんの説明に熱心に耳を傾けていた。一通り藤谷さんの話が終わるのを待って、星野君は私たちの顔を見ながら訊ねた。
「なるほど。それで僕は何を手伝えばいいのかな」
「またまた。すぐとぼけるんだから」香澄は星野君の腕をつんつんとつついた。
「星野君はサンタ・クロースの役に決まってるでしょ」
「え、僕がサンタ・クロースになるのかい」
「あの、衣裳とかは全部教会の方で用意しますから」藤谷さんが小さな声で言う。
「いや、そういうことじゃなくて」星野君は困ったような笑顔で私たちの顔を見比べている。
「何あれこれと言ってるの。藤谷さんが困っているんだから助けてあげなさいよ。星野君も男でしょ」香澄が星野君の背中をぽんとたたく。
「そうそう。きっと星野君なら素敵なサンタになれると思うな。それに子供たちのためにもぜひ引き受けてあげて」私も香澄を応援する。
「そうかなあ。まあ、村岡さんまでそう言うなら」星野君は頭をかきながらサンタ・クロース役を承諾してくれた。
「どうもありがとう。これでちょっと安心」心配そうに星野君の様子を見つめていた藤谷さんにもようやく笑顔が戻った。
「何、何。何だか楽しそうな相談しているみたいね」と、そこで私たちの会話の間に入ってきたのは来栖千晶さん。ショートカットの髪に魅力的なすっきりした瞳。クラスの男子生徒にもファンが多い女の子である。
「うん。教会で食事会を開きましょうって話をしていたの。今年は星野君がサンタ・クロースになるんだって」沙貴ちゃんがポニーテールを揺らしながら答えると、千晶さんもぱっと顔を輝かせた。
「わあ、いいなあ。ねえ、私も仲間に入れてもらえない?」千晶さんも楽しい企てに参加したいのだ。とはいえ、決めるのは主宰者たる藤谷さんである。千晶さんはちょこんと首を傾げて、藤谷さんの顔をのぞきこんだ。
「ねえ、お願い。藤谷さん、いいでしょ」
「ええ、どうぞ。お友達が多い方がそれだけ楽しいし、きっと神様もにぎやかなのをお喜びになるわ」藤谷さんは胸元に輝く十字架のペンダントにそっと手を添えながら答えた。もちろん校則ではペンダントをつけたりすることは禁じられているのだが、彼女の十字架のペンダントだけは特別に許可されているのである。
「それじゃ、教会に集うメンバーはこの六人で決定」沙貴ちゃんがリボンの前でぽんと手を合わせた。こうして私たちは思いもかけぬ教会での晩餐会に招かれることになったのである。
木枯らしが校庭の片隅にいる私たちの間を吹き抜ける。香澄と私はマフラーに首を埋めてコートの中で身を縮めた。
「寒いね」香澄が足踏みしながら言う。私はただ黙ってうなずいた。
私たちは週番の仕事がある沙貴ちゃんを待っているところである。その間、香澄と私は校舎の壁に身体を預けながら、しばらく話をした。
「ねえ香澄、教えて。どうして星野君にサンタ・クロース役をお願いしたの?」
「何だ、玲子は知らないんだ」香澄があきれたように私の顔を見ながら続ける。
「藤谷さんはね、星野君のこと好きなんだよ」
「え、そうなんだ」そういうことに関して私は疎いのである。
「うん、だから彼を誘ったの。告白するのに絶好のチャンスでしょ。でもなあ」香澄はとたんに困った表情になった。
「千晶まで入ってきたから、話はちょっと複雑になるかもね」
「複雑って、もしかして千晶さんも星野君のことを」
「そ、二人は小学校から一緒だから。星野君は千晶のことを幼なじみくらいにしか思っていないみたいだけど、千晶の方はね」
「ふうん。そうか、それだとさっきも教室で星野君が藤谷さんと楽しそうにしているのを見ていて、千晶さんも気が気じゃなかったんだ」
「うんうん、そんな感じだったよね。いわゆる恋の鞘当てというわけね」またずいぶんと古風な言葉遣いで香澄は二人の関係を表現する。私は冬の空を見上げながらそっとつぶやいた。
「二人とも想いがかなうのならばいいのにね」
いずれにしても晩餐会の日はもう明後日である。
その日の深夜、私は岩岸さんに電話をかけた。
「遅くにすみません。もうお寝みになっていました?」
「いいえ、昨日から読み始めた本を読んでいたところです」
岩岸正さんは私より四歳年上の大学生である。彼とは今年の春に知り合った。出会ったきっかけというのが、香澄が出したラブレターの文字が消えてしまうという不思議な事件で、その謎を鮮やかに解いてくださったのが岩岸さんだったのである。
それからというもの、岩岸さんは私たちの身の周りで起こるささやかな謎を解き明かしてくださる名探偵なのだ。
しばらく香澄たちのことを話した後、私は声をはずませながら明後日の祝会について岩岸さんに報告した。
「私たち、今年のイヴを教会で迎えることになりました」
「それはそれは。きっとすばらしい夜を迎えられるでしょう」
「あの、これは私からの一方的なお誘いなんですけれど、岩岸さんもご一緒しませんか」何げなく誘ってしまってから、自分の大胆さに自分で驚いていた。息をひそめて返事を待つ。
「そうですね」ほんの少しの間、電話の向こうで考えている気配があった。やがていつもの穏やかな声が聞こえてきた。
「今回はご遠慮しておきましょう。クラスの友人たちとの水入らずの会に僕が混ざってはおじゃまでしょうから」
「先約があるんですか」
「いいえ」
「うそ。それならお誘いを受けてくださってもいいのに。あ、どうせ私みたいな女の子といても楽しくないですものね」
「おやおや、ずいぶんとご機嫌斜めですね」
「そんなことないです」少し拗ねてみせる。電話の向こうでくすっと笑う声がした。
「それでは、せっかく村岡さんからお誘いいただきましたので、会の途中で何か差し入れを持って教会の方へお伺いすることにしましょう。これで許していただけますか」
「わ、ありがとうごさいます」女心と何とやら。岩岸さんの一言で、私のご機嫌もすっかり直ってしまった。
「それでは教会でお待ちしています。おやすみなさい」
十二月二十四日になった。
この日は高校の二学期最後の日である。午前中は体育館で終業式、続いて教室で悲喜こもごもの通知票が配られる。それから今年最後の大掃除をしたり、冬休みの注意事項についての説明が担任の先生からあったりして、ようやく待ちに待った冬休みの幕が開くのである。
香澄が帰りの挨拶もそこそこに私のところにやって来た。
「それじゃ玲子、いつもの場所で午後二時に待ち合わせね」香澄の心はすっかり午後の教会へ飛んでいる様子である。
「わかってる。香澄の方こそ遅刻しないようにね」
「うん。それじゃ遅刻しないために先に行くね」香澄は私と沙貴ちゃんに小さく手をふって教室から出ていった。
午後二時の待ち合わせ場所は、高校から最寄りの駅前にある街路樹の前である。こまごました準備のため高校から直接教会に向かうという藤谷さんを除いた私たち五人は、一旦それぞれの家に帰って準備をしてから待ち合わせ場所に集合ということになっていたのである。
私が時刻どおり午後二時に待ち合わせ場所に着いたときには、すでに香澄も含めた全員が集まっていた。
「玲子、遅い遅い」香澄が長い髪を揺らしながら笑う。
私たちは、さっそく教会に向けて出発した。
駅から電車に一駅揺られたところに、藤谷さんが毎週日曜日に礼拝に出かけるという教会がある。
藤谷さんが書いてくれた地図を頼りにたどり着いた教会は、思ったよりもずっと小さな木造の建物だった。
「かわいい教会だね」沙貴ちゃんが思わず笑顔をこぼした。
さすがにこの季節の教会は晴れやかな装いに包まれている。門を入ったすぐ右手には、金の星、銀のモール、色とりどりの飾りを身にまとった大きな樅の木が華やいだ雰囲気を醸し出していた。焦げ茶色のドアに掛かっている手作りのリースも私たちを歓迎しているように思えてくる。その扉を開けて教会の中へと入った。初めてのことなので少し緊張する。
「ようこそ、聖ベルナデッタ教会へ」私たちを出迎えてくれた藤谷さんの姿を見て、
「わあ。真理ちゃん、よく似合ってる」沙貴ちゃんが歓声を上げてかけ寄った。彼女は修道院の制服姿である。修道女の方が身につけている漆黒の修道服とは色違いだけれど、薄墨の制服も清らかな雰囲気でなかなかよい。
「あの、シスター藤谷とお呼びしてもよろしくて?」香澄がおどけて藤谷さんに向けて十字を切ったので、私たちは声を立てて笑った。
礼拝堂に案内された私たちは、まず神父様にご挨拶。この教会の神父様は、私の父と同じくらいの年配の方だった。穏やかなまなざしで見守られているような、そんな安らぎを与えてくださる人である。
それぞれが今日の晩餐会のために持ち寄った品々をお預けして、さっそく祝会の会場の準備にとりかかる。
会の始まる午後三時の少し前には、招待された近所の人や信者の方で礼拝堂の席はほとんどいっぱいになっていた。
神父様の挨拶で祝会は始まった。司会進行役は修道服姿も麗しい藤谷さんである。
まずは子供たちによるキリストの生誕劇が始まった。幼子イエスがお生まれになったのを天使より告げられた東方の三人の博士、カスパル、バルタザル、メルキオルが祝福のため馬小屋を訪れる場面が聖劇として上演されるのだ。観客は近所の人や子供たちのお母さん方である。
私もかわいい名優たちによる演技をゆっくり観ていたかったけれど、本来の目的であるボランティア活動の方が優先である。観客の皆さんにお茶をお出ししたり、お年寄りを席までご案内したり、私たちはかいがいしくお手伝いをして時をすごした。
御子ご降誕の劇に続いては、私たちも参加して讃美歌の合唱である。『諸人こぞりて』『荒野のはてに』『聖しこの夜』といった、誰でも口ずさめる曲が藤谷さんのオルガン演奏に合わせて歌われる。久しぶりに歌う讃美歌が何とも心地よい。
合唱が終わると、いよいよプレゼントの時間である。子供たちがそわそわざわざわし始める。
演壇に藤谷さんが上がり、子供たちに微笑みかけた。
「さあ、よい子の皆さん」藤谷さんの声に子供たちも一様に静かになった。子供たちをぐるりと見回してから、藤谷さんは笑顔で訊ねた。
「一年間よい子にしていた人のところにだけ、プレゼントを配るためにやって来る人は誰だか知っていますか」
「知ってる」という声があちこちから上がる。すでに嬉しくなって飛び跳ねている子もいて、今や子供たちの期待は最高潮に高まっている。
「それじゃ、皆で声をそろえて呼びましょう。サンタさん」
「サンタさあん」子供たちが大きな声で呼ぶと同時に私たちの後ろのドアがゆっくりと開いた。
藤谷さんのオルガン演奏による『ジングルベル』とともにサンタ・クロースが登場した。言うまでもなく星野君である。真っ赤な衣装に身を包み、顔は真綿のような大きい付け鬚と付け眉毛でほとんど隠れている。私たちでさえ知っていなかったら星野君だとわからないくらいである。背中には定番の大きな白い袋を背負っている。子供たちの歓声がいっそう大きくなる。
星野君のサンタ・クロースはなかなかの名演技だった。大きく身体を左右に揺すってみたり、豊かな白い鬚をしごいてみたり、その度に子供たちの間で楽しそうな笑い声が上がる。
サンタ・クロースは演壇に上がって子供たちをゆっくりと見回した。それからおもむろに口を開いた。
「さて、わしがサンタ・クロースなのじゃが、皆はこの一年間、ちゃんといい子にしておったかな」星野サンタが訊ねると、子供たちが声をそろえて答える。
「してた。いい子にしてたよ」皆、一生懸命になってサンタさんに自分のよい子ぶりをアピールしている様子が微笑ましい。
「よし。それじゃ皆並んで並んで。小さい子から順番じゃよ」
サンタさんの前に子供たちが列を作る。星野君は背中の袋をよっこらしょと言いながら床に置いた。
「よおし、それじゃ一人ずつ順番だ。まず最初になつき君。皆の分もちゃんとあるからあわてるでないぞ。それから次はきょうこちゃん。それからまこと君」星野君は背中に背負っていた大きな袋から次々とプレゼントをとり出して、期待に胸ふくらませている子供たちに配っていく。
「お次はひろし君。はい、それからりなちゃん」子供たちは皆、満ち足りた笑顔になっている。尊敬に満ちたまなざしでサンタさんを見上げている子もいる。
「はい、えみこちゃんにはこれ。そしておしまいはゆういちゃんじゃ」一番大きな子が星野君からプレゼントを受けとった。こうしてサンタ・クロースのプレゼントは無事に子供たち全員に行き渡った。
「はあい。それじゃ皆、サンタさんにお礼を申しましょう」藤谷さんの声に促されて、
「サンタさん、どうもありがとう」子供たちがぺこりと頭を下げる。中にはプレゼントのおもちゃに夢中で、隣の子につつかれてあわててサンタさんに頭を下げている子もいて、うけてしまった。
にぎやかな時間が流れ、会もそろそろお開きの時刻である。
神父様が演壇に上られて、《祝会の締めくくりとして、本日お集まりの皆さんとともに神に祈りを捧げたいと思います。どうぞ両手を組んで、静かに目を閉じてみてください》と穏やかな声でおっしゃった。神父様の言葉に導かれるように、私もそっと目を閉じた。そして両親と私の幸せを祈った。
こうして祝会は無事にお開きとなった。
夜からは信者の方々のためのミサが催されるが、それまでの時間は私たちが晩餐会の会場として教会の食堂を使わせていただけるのである。
私たちは神父様から今日のお手伝いに対してのねぎらいの言葉をいただいた。それから藤谷さんに教会の食堂へ案内してもらうことになった。
「あれ、星野君、どこに行くの?」反対の方へ向かって歩き始めた星野君を沙貴ちゃんが呼び止めた。
「どこって、着替えに行くんだけど」
「ええ、その服のままでいいのに。これからすぐ世界中の子供たちへプレゼントを配りに出発するんでしょ、サンタさん」くすくす笑いながら言う沙貴ちゃんの顔を、星野君は心配そうにのぞき込んだ。
「ねえ、それよりどうしたの? 大和さんの鼻、真っ赤だよ」
「え、うそ」思わず沙貴ちゃんはハンカチで鼻を押さえた。あわてて近くの窓ガラスに映った顔をのぞき込んでいる。そんな沙貴ちゃんの様子を見ていた星野君はにやっと笑うと、
「というわけで、今宵、僕のそりを引くトナカイは大和さんに決定しました」楽しそうに両手を沙貴ちゃんに広げてみせる。
「あ」ようやく沙貴ちゃんも星野君にからかわれていることに気づいたようである。鼻ではなく頬の方を赤く染めて、
「もう、星野君なんて知らない」そう言ってから照れたようにかわいく微笑んだ。
「ごめんごめん。じゃ、僕は着替えてくるからね」星野君はサンタ・クロースの服から着替えるために一度席を外す。
渡り廊下を通って食堂のある建物へと入る。廊下のつきあたりに食堂はあった。それほど広くはないけれど、掃除が行き届いてさっぱりとしている。部屋の中央に木製のテーブルが置かれていて、北側の壁際には小さな暖炉があった。もちろん今は火はくべられていないが、きちんと煙突もついている本格的な暖炉である。部屋の暖房は、暖炉に代わって温風ヒーターがつとめている。お陰で部屋はぽかぽかと暖かい。
奥に続くドアを開けてのぞいて見ると、そこはキッチンになっていた。冷蔵庫と食器用戸棚と流しだけのシンプルな造りである。質素なキッチンテーブルの上には私たちの持ち寄ったものが乗っている。
「それじゃ、私も着替えてきますから、先に準備の方を進めておいてもらえますか」
「了解。お皿とか並べておくね」香澄がさっそく腕まくりをして準備にとりかかる。
藤谷さんと入れ違うように星野君が食堂に入ってきた。先ほどのサンタ・クロースの衣裳から、ベージュのタートルネックにジーンズという教会に入ったときの服装に戻っている。
「皆に言うのを忘れていたんだけど」星野君は言う。
「今日の夜、僕の家でテニス部の会合があるんだ。だから少しだけ早めに教会を失礼しなければならないと思う」
「でも、まだ平気だよね」千晶さんが心配そうに訊ねる。
「もちろん。まだまだだいじょうぶ。さて、何を手伝いますか」
私たちはお皿やフォーク、スプーンといった食器類を棚から出して、食堂のテーブルの上にコーディネートしていった。
「お待たせ」そこに藤谷さんが戻ってきた。先ほどまでのグレーの修道服から、今は栗色のセーターと深緑色のスカート姿に着替えている。星野君が藤谷さんの姿を見て言う。
「何だ、もう着替えちゃったんだ。藤谷さんの修道服姿、なかなか似合っていたのに」
「そんな」藤谷さんは羞ずかしそうにうつむいた。その横で千晶さんがつまらなそうに横を向いているのがおかしい。
「きっと星野君はシスター藤谷に懺悔を聴いていただきたかったのよ。罪深き人だから、さぞや懺悔にも時間がかかることでしょうね」さっそく香澄が楽しそうに茶化す。もちろん星野君も黙ってはいない。
「何をおっしゃます。僕くらい品行方正な人間も珍しいよ。謂われなき罪で女の子たちにいじめられているかわいそうな僕のことを、どうか殉教者と呼んでいただきたい」
ぽんぽんと交わされる二人のやりとりを前にした藤谷さんの困惑した顔を見て、私ははっとした。キリスト教を信仰している藤谷さんの前で《懺悔》や《殉教者》という言葉を安易に使ったりしていいものだろうか。
「ほら二人とも、教会の中でふざけていると藤谷さんにしかられるぞ。第一、信仰している人々に対して失礼よ」私が厳しい表情でたしなめると、香澄と星野君は申し訳なさそうに首をすくめた。
「きっとかわいい女の子に囲まれて、星野君も浮かれているんだよね」沙貴ちゃんがその場をなごますように、のんびりした声で言ってくれたので、少しだけ私も救われた。
「男の子は星野君一人だものね」沙貴ちゃんの言葉に、千晶さんが星野君に寄り添うようにしながら訊いた。
「ねえ、こういうのを何て言うんだろう。女の子の中に男の子が一人。紅一点の反対だから《白一点》かしら」
「ちょっと違うと思うな」香澄が腕組みをして反論する。
「それを言うのなら緑でしょう。ねえ、玲子」
「ええと」私は千晶さんの方を見て少し言いよどんだ。
香澄の言うとおりなのである。もともとは王安石が石榴を詠んだ詩の中で、一面の深緑の葉の中に咲いている一輪の赤い花を「万緑叢中紅一点」としたのが故事だから、今日のような場合には緑一点とでも言うべきだろう。
しかし千晶さんは納得いかない様子である。
「え、でも紅白歌合戦って言うくらいだから、やっぱり男の子には白なんじゃないかなあ。星野君はどう思う?」
「そうだな」突然の裁定を仰がれた星野君は、千晶さんと香澄の顔を交互に見比べてから、横にいた私に思いがけないことを訊ねてきた。
「村岡さん、ニュースで明日の天気はどうなるって言ってたか知ってるかな」
「え、あ、はい。あの、テレビのニュースでは明日の天気も冬の快晴だって言ってました」突然質問された私は、少しどぎまぎしながら答えた。すると星野君は楽しそうに笑うと、
「それじゃ、明日は真っ白な雪が積もるということもなさそうだね。そうすると樅の木やひいらぎの深緑が主役になる。どうだろう、今年は室町さんのグリーン説を採るということで」
なかなかうまい。私が先ほど言いよどんだのも、せっかくのイヴの日に中国の故事では雰囲気が出ないなと思っていたからだったのである。それに星野君の前で千晶さんの間違いを指摘するのに気がひけたというのもある。
「星野君がそう言うなら、私もグリーン派」星野君の言葉で千晶さんもあっさり宗旨替えしてしまった。それほど心配することもなかったようである。
「よし、それじゃさっそく本格的な晩餐会の準備にとりかかろう」緑一点の号令の下、赤鼻ならぬ紅花の天使たち《と自分で名乗るところがかわいいではないか》も会場のセッティングに移った。
それぞれが持ち寄った晩餐会の主役たちが食堂のテーブルに並べられていく。中央には私が買ってきたポインセチアの鉢植え。深紅の葉もあざやかに食卓に彩りを添える。
「お、いいねえ。定番、て感じだよね」千晶さんが鉢植えを見ながら満足そうにうなずく。
「で、やっぱり次にはこれ」香澄がシャンメリーの瓶を紙袋からとり出し、目の高さに持ち上げて小さく揺らした。
「本当は、おしゃれにシャンペンで乾杯できればよかったんだけどな。昨日兄に買ってって頼んでみたんだけど、だめだって言うの。きっと高いからなんだよ」
「こらこら。お兄さんがだめって言ったのは、高いからじゃなくてアルコールだからでしょう」私たちは未成年である。
「やっぱり?」香澄が首をすくめて舌を出してみせたので、食堂は軽やかな笑い声に充たされた。
それからも、まるで魔法の食卓のように食堂のテーブルの上には次々とおいしそうな食べ物が並んだ。
チキンバレルのセット、教会の方で用意してくださったツナのサンドイッチとトマトサラダ、沙貴ちゃんの焼いたビスケットがバスケットにいっぱい、そして私が持ってきたオレンジや林檎といった果物たち。
「それからこれはまだ後のお楽しみなんですけど、来栖さんが作って持ってきてくれたケーキがあります」藤谷さんがにこやかに紹介した。
「わあ、見せて見せて」さっそく沙貴ちゃんがポニーテールを揺らした。藤谷さんは小さくうなずくと、キッチンから紙製の箱を持ってきた。そっとテーブルの上に置いて、蓋をとった。
「おいしそう」沙貴ちゃんが声を上げた。千晶さんお手製のベイクド・チーズケーキである。黄金色した焼き具合が何ともおいしそうである。
「ありがとう。大和さんにほめてもらえるんだから、私の腕もなかなかのものだよね」千晶さんも自画自賛である。と、千晶さんの横でもじもじしてた藤谷さんも少し恥ずかしそうに、
「実は、私も教会のキッチンをお借りしてケーキを焼いてみたんです」そう切り出した。
「あ、ぜひそのケーキの方も見たいな」沙貴ちゃんが幸せそうな笑顔で藤谷さん手作りのケーキの方も所望する。
「ちょっと待っててね」藤谷さんはキッチンに入っていった。
やがて彼女はケーキを携え、ゆっくりした歩調で戻ってきた。慎重な手つきでケーキをそっとテーブルの上に置く。ようやく藤谷さんはほっとしたように微笑んだ。沙貴ちゃんが藤谷さんのケーキの方に視線を移した
「ココアのシフォンケーキね」目でじっくり吟味してから、
「こっちもおいしそう」ケーキ大好きの沙貴ちゃんはにっこり笑顔。どうやら沙貴ちゃんの厳しいケーキ検定も無事にパスしたようである。ケーキをテーブルに置くときに指についたココアクリームをなめながら、藤谷さんは照れ隠しのように小さく首をすくめてみせた。
「ケーキは冷蔵庫にしまっておきましょう。これは晩餐会最後のお楽しみね」そう言いながら私が千晶さんのチーズケーキを、藤谷さんが自分のココアケーキを捧げ持ってキッチンに入った。こうして二つのケーキは冷蔵庫に恭しく納められた。
先に食堂に戻ろうとした藤谷さんは、庭に続くドアを見て立ち止まった。
「いけない。さっき暖炉に薪を運んだときにドアの鍵をかけるのを忘れてた。村岡さん、すみませんけどドアの鍵をかけてもらえますか」
「え、でもドアは鍵が閉まっているみたいですよ」私が見てみると、サムターンのつまみは横向きになっている。
「ううん、そのドアはつまみが縦になると鍵が閉まるの」藤谷さんに言われてドアのノブをひねってみると、確かにドアが開いた。私はつまみを縦にひねって鍵をかけた。
「これでよしと。さ、乾杯だよ」私が食堂へのドアを開けると、藤谷さんがまた立ち止まった。
「あ、コルク抜きを忘れてきちゃった。私とってきますから、村岡さんは先に食堂に戻っていてください」
「あ、はあい」私は先に食堂へ戻った。と、藤谷さんもすぐに食堂に戻ってきた。藤谷さんは恥ずかしそうに笑うと、
「よく考えたら、シャンメリーってコルク抜きがなくても栓を開けられるんですよね」藤谷さんはおっとりしているように見えて、意外とおっちょこちょいなのである。
「そうそう。これから景気よい音を立てて栓を抜くところだよ。では行きます」香澄がコルク栓にキッチンタオルを当てて、えいっとばかりに栓をひねった。《シュポーン》という威勢のよい音を立てて栓が開いた。
グラスにシャンメリーが注がれて、それぞれの手許に配られた。細かい泡がグラスの中で踊るのを見ているだけで心が浮き立ってくる。藤谷さんがグラスをとり上げた。
「それでは皆さん、今日はどうもお疲れさまでした。ささやかな晩餐会ですがどうぞお楽しみください。それでは、乾杯」
「乾杯」皆のグラスがふれ合って快い音を立てる。
私たちの晩餐会はこうして始まった。
お腹もいっぱいになったところで、香澄が持ってきたカードでナポレオンをすることになった。実は今、わがクラスではナポレオンが静かなブームなのである。昼休みにもなると、数人のグループでゲームに興じる姿が教室のあちこちで見られる。
ゲームはナポレオンと副官対それ以外の連合軍に分かれ、それぞれが権謀術数を尽くすというものである。
今日のゲームでは、星野君がナポレオンのときに、なぜか私が必ず副官になった。その度に私が上手にカードを切ったので、星野君は連戦連勝である。
「何か、ずるいぞ玲子」香澄が星野君と私の顔を交互に見ながら悔しそうに言う。
「香澄君、吾輩を優秀な副官と呼ぶことを許可する」私がおどけて言うと、香澄は目をつぶって舌を出した。
「ふんだ、二人ともいい気になってる。後でワーテルローの戦いになったときに泣いても知らないから」香澄はナポレオンが敗北した歴史上の戦いの名を出して雪辱を誓う。私は余裕の笑みを浮かべながら香澄に言う。
「歴史上のナポレオンには優れた副官がいなかったからね」
「実際、村岡さんは優秀な副官で助かるよ。これからもよろしくね」星野君が私にウインクする。それを見た千晶さんが小さく口をとがらせる。藤谷さんも私の横で物憂げな表情でじっと目を伏せている。
いけない、いけない。私は鞘当てに参加するつもりなどなかったのに。ここは少し中休みにしようかしら。
「それではいい気分のおすそ分けということで、私が皆さんにおいしい紅茶を入れてさしあげましょう」
「あ、私も手伝う」沙貴ちゃんも一緒に席を立ってくれた。
キッチンで紅茶用のポットを温めていると、藤谷さんが心配そうに顔をのぞかせた。
「食器とかのある場所、わかりますか」
「だいじょうぶです。ちゃんとわかりますから」と言いながら、さっそくティースプーンのある場所がわからない。結局藤谷さんに手伝ってもらう。
沙貴ちゃんが冷蔵庫からミルクをとり出しながら中のケーキを見て、ほっと幸せそうなため息をこぼした。
「早く食べたいね」
「そうだね」沙貴ちゃんと私はしばらくの間、幸せな気分で二つの宝物を見つめていた。
お茶の時間は、ほんのしばしの休息だった。再びカードゲームは白熱した。気がつけば窓の外はずいぶんと暗くなっていた。
「そういえば私、さっきから気になっていたんだけど、この燭台ってやっぱり銀製なのかしら」千晶さんがカードを切りながら、自分の席の横にあった燭台を見て言った。
「あ、そうだと思います。前に神父様がそうおっしゃっていましたから」
「へえ、すごい」皆の視線がその燭台に集まる。
「銀の燭台なんてふだんお目にかかれないものね。キャンドルに火を灯して飾ったら気分出るんだろうな」千晶さんが藤谷さんの方に視線を向けた。
「ねえ藤谷さん、キャンドルを灯してみてもいい?」
「それじゃ少しの間だけ待っていてください。火を使いますから神父様のご許可をいただいてきます」藤谷さんがトランプをテーブルの上に置いて席を立つ。
神父様の許可をいただきに藤谷さんが席を外している間、私たちは七並べなどしてみたものの、皆キャンドルが気になってゲームに集中できなかった。
やがて藤谷さんが帰ってきた。急いで戻ってきたのだろう、小さく息をはずませている。
「お待たせしました。キャンドルに火を灯しましょう。神父様から許可をいただいてきましたから」
部屋の照明を少し落として、キャンドルに火が灯された。暖かい光が部屋を満たした瞬間、全員が感嘆の声を上げた。
「きれい」沙貴ちゃんが思わず胸の前で手を組んだ。揺れる炎をじっと見つめていると、静謐な祈りを捧げたい気持ちになる。ほのかだけれど暖かな光で照らされている藤谷さんの横顔に、私はそっと声をかけてみた。
「藤谷さん、私、何か聖書に関するお話を聴きたいです」
「さすが玲子、いいこと言いますねえ」香澄が胸の前で小さく拍手をして賛意を示した。皆も黙ってうなずいている。私たちはそれぞれの席に着いた。それから藤谷さんから聖書にまつわるいろいろなエピソードを聴かせてもらった。
聖書の話といっても、高校の世界史で勉強した史実と小説や映画で見知った事柄くらいしか知識のない私たちには、藤谷さんの話してくれる精神世界はどれも大変興味深いものだった。日常の生活からは立ち入ることさえない、清廉で深遠な世界を旅することで、心が豊かになっていくような気がした。
楽しい時間は瞬く間に過ぎ去ってしまう。晩餐会が始まってから二度目の時を食堂の鳩時計が告げた。
星野君が腕時計にちらっと視線を走らせる。そろそろ帰らなければいけない時刻が近づいているのだ。
「さて、それじゃ僕は一足お先に失礼しようかな」
「残念だなあ。もっとゆっくりしていけばいいのに」香澄が名残惜しげに星野君を引き留める。彼はもう一度腕時計を見て、それから残念そうに首をふった。
「それじゃ、星野君が帰る前にケーキを食べましょうよ。ねえ、星野君もケーキを食べていく時間はあるでしょ」私が訊ねると、星野君も頭に手をやった。
「いけない、それを忘れるところだった。ぜひケーキだけはいただいて帰ろう」
「それじゃ、星野君はテーブルにすわって待っていて。とびきりおいしい紅茶を入れてきてあげる」千晶さんが張りきって席を立った。私たちも千晶さんの後を追ってキッチンに入る。
沙貴ちゃんと私は、ケーキ用のお皿とフォークを食器棚からとり出してトレイの上に乗せる。
「それでは主役たちの登場です」声をはずませながら香澄がおもむろに冷蔵庫のドアを開く。
「どういうこと」香澄の声の調子が突然厳しいものになったので、私と沙貴ちゃんはお皿を並べる手を止めて香澄の顔を見た。
香澄は形のよい眉をひそめながら、冷蔵庫の中をじっと見つめていた。
「どうしたの、香澄」そう言って中をのぞきこんだ私も思わず息を呑んだ。
冷蔵庫の中にはチーズケーキしか残っていなかった。藤谷さん手作りのシフォンケーキが消えていたのである。そして先ほどまで藤谷さんのケーキがあった場所には、赤い小さな実とあざやかな緑の葉をつけた西洋ひいらぎの枝が置いてあった。まるで教会の部屋を飾り忘れたかのようにひっそりと。
香澄は冷蔵庫のドアを閉めてから、憮然とした表情で私たちの方にふり向いた。
「誰が藤谷さんのケーキを隠したの」
「私じゃないわよ」千晶さんが首を左右にふった。沙貴ちゃんも私も、ただ立ちすくんだままお互いの顔を見合わせるばかりである。
「どうしました」藤谷さんがキッチンに入ってきた。私たちが遅いので気になって見にきたのだろう。
「ねえ藤谷さん、シフォンケーキをどこか別の場所に移したりした?」千晶さんが訊ねると、藤谷さんは眉をひそめた。
「いいえ。先ほど冷蔵庫の中に入れたままです。シフォンケーキがどうかしたんですか」
「それが消えちゃったの」沙貴ちゃんがべそをかく子供のような顔で告げた。
「消えたって、どういうことですか」藤谷さんが沙貴ちゃんの言っている意味がよくわからないという表情で訊き返す。とはいえ、訊かれた私たちにも答えようがない。何しろ文字どおりケーキが消えてしまったのだから。
藤谷さんは首を傾げながら冷蔵庫のドアを開けた。そして自分のケーキが消えているのを見て、きゅっと唇を噛んだ。一瞬、私は彼女が泣き出すのではないかと思った。しかし藤谷さんは毅然とした態度を変えなかった。
「星野君を待たせたら悪いです。私のケーキのことはいいですから、来栖さんのチーズケーキの方をいただきましょう」
何だか釈然としないまま私たちは食堂に戻り、チーズケーキを切り分ける。
「あれ、ココアケーキの方はお預け?」星野君が訝しげに訊ねたが、誰も何も言わない。星野君も女の子たちの様子から何かあったと気づいたらしく、それ以上は何も言わなかった。
「うん。千晶ちゃんご自慢のチーズケーキだけあって、本当においしい」沙貴ちゃんが幸福そうな笑顔でケーキをほめたけれど、それに相づちをうつ人は誰一人いなかった。皆、心の中で藤谷さんのケーキが消えてしまったことを気にしているのだ。
「ごちそうさまでした」ケーキを食べ終えた星野君はバッグをとり上げ、ダウンジャケットを着込んだ。
「それじゃ星野君をお見送りしましょ」私たちは星野君を玄関で見送ることにした。
シューズの紐を結び直していた星野君がすっと立ち上がった。
「それじゃ、僕はこれで。楽しいひと時をすごせたことを皆さんに感謝いたします」半分おどけて半分真面目な口調で言いながら星野君は頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。星野君のサンタ・クロースには楽しませていただきました。おかげで子供たちも大喜びだったし」
「クラスの皆には内緒に頼むよ」星野君は頭をかいた。
「忘れ物とかありませんか」藤谷さんが訊ねる。
「うん、忘れ物はないけど」言いよどんだ星野君は、そのまま藤谷さんの目を真っ直ぐに見つめながら、
「藤谷さんのケーキの方を食べられなかったこと、それが少し心残りかな」
「本当にごめんなさい」藤谷さんが申し訳なさそうに頭を下げる。それを見た星野君の方があわててしまった。
「あ、藤谷さんが謝ることないって。楽しみにとっておくから、今度ぜひケーキをごちそうしてよ」
「ねえ星野君、私のチーズケーキのことも褒めて褒めて」千晶さんが星野君に甘えるようにおねだりをする。星野君は苦笑いしながら、千晶さんに深々と頭を下げて、
「千晶様お手製のベイクド・チーズケーキ、とてもおいしゅうございました。またごちそうになりたく存じます」
「よろしい」千晶さんも満足そうにうなずいた。
「それじゃまた」星野君は私たちに手をふりながら、ドアの向こうに姿を消した。
女の子だけになってしまった。
星野君を見送った私たちは食堂に戻った。五人とも、何だかいっぺんに気が抜けてしまったように椅子にすわりこんだ。
「でも、よく考えたらやっぱり変だよね」香澄が右頬に手を当てながらつぶやいた。
「ケーキが消えちゃったこと?」沙貴ちゃんが訊くと、香澄はこくりとうなずいた。
「だって、キッチンに一人で入った人は誰もいないよ」
「そう言えばそうね」千晶さんと私も顔を見合わせた。確かにナポレオンの途中で紅茶を入れるためにキッチンに入った沙貴ちゃんと私が藤谷さんのシフォンケーキを確認した後にも、一人でキッチンに行った人は誰もいない
「誰にも見られないで冷蔵庫からケーキを出すなんてできるはずないわ。複数で共謀しているのなら話は別だけど」
「共謀して藤谷さんのケーキを隠したというわけ?」
「あるいはこっそり食べちゃったとか」
「あ、皆さん、とうとう沙貴ちゃんがケーキを食べてしまったことを告白しましたよ」
「え、違うよ、香澄ちゃん。私はシフォンケーキも食べたかったなあって思ってただけだもん」あわてる沙貴ちゃんである。
「うそうそ。いくらケーキが好きな沙貴ちゃんでも、隠れて一人で食べたりなんてしないものね」
「ああ、びっくりした」沙貴ちゃんはほっと胸をなで下ろす。
「結局、誰がケーキを隠したのかわからないままね」香澄が難しい顔で腕組みをしたところに来客を告げるベルが鳴った。
「どなたかしら」藤谷さんが不思議そうな顔をして席を立つ。
「待って、藤谷さん。私も一緒に行く」来客が誰なのか、私には心当たりがあった。
廊下を並んで歩きながら、私は藤谷さんに声をかけた。
「ねえ藤谷さん、もしかしたらあなたのシフォンケーキを隠した人には、すぐに天罰が下るかもしれないわ」
「え」藤谷さんが思わず足を止めて私の顔を見た。私は藤谷さんに微笑みかけた。
「名探偵殿のお出ましよ」
「名探偵って、もしかしたら村岡さんたちが前に話していた本屋さんの本が逆立ちした謎を解いた人のこと?」
「そうです、そうです、その名探偵さん。藤谷さんにも紹介してあげますね。素敵な人なんだから」
玄関に出迎えに出てみると、辛子色のコートを左手にかけた男の人がマフラーを外しているところだった。
「こんばんは、岩岸さん。ようこそおいでくださいました」私が声をかけると、男の人もやわらかく微笑んだ。
「こんばんは」
「ご紹介します。こちらは私のクラスメートで、藤谷真理さんです」まず藤谷さんを岩岸さんに紹介してから、
「そしてこちらは岩岸正さん」今度は藤谷さんに岩岸さんをご紹介。香澄のお兄さんから教わったご紹介のマナーである。
「よろしく」岩岸さんが会釈する。
「あ、こちらこそどうぞよろしく」藤谷さんもあわててぺこりと頭を下げた。
「はい、村岡さん。お約束の差し入れです」岩岸さんはモスグリーンの箱を私に差し出した。
「何にしようかあれこれ迷ったのですが、フォートナム・アンド・メイスンのダージリンにしました。どうぞ皆さんで召し上がってください」
「どうもありがとうございます」ありがたくいただく。
「それでは僕はこれで失礼します」再びマフラーを首に巻いて帰り支度を始める岩岸さんをあわてて引き留める。
「あ、まだお帰りにならないでください。実はぜひ名探偵にご相談したいことがあるんです」
「不思議な奇蹟でも起こりましたか」マフラーを巻く手を止めて穏やかな表情で訊ねる岩岸さんに、私は首をふってみせた。
「残念ながら起こったのは奇蹟ではなくて、奇妙な事件の方なんです」少しもったいぶった言い方になってしまった。しかし岩岸さんは穏やかな表情のままである。
「お話を聴かせていただけますか」
「ええ、もちろんです。ねえ藤谷さん、食堂をお借りしてもいいでしょ。藤谷さんのケーキが消えた話を、岩岸さんに聴いていただきましょうよ」私が言うと藤谷さんもにっこり笑って、
「どうぞお上がりください」と、玄関先のスリッパをそろえた。
食堂に入ってきた岩岸さんの姿を見て、香澄と沙貴ちゃんが歓声を上げた。
「わあ、岩岸さんだ」
「玲子、ずるいぞ。私たちに内緒で岩岸さんをご招待したな」
「ごめんなさい」私は香澄と沙貴ちゃんに手を合わせる。
「でも今日のところは岩岸さんに免じて許してあげる」沙貴ちゃんに許してもらえて、まずは一安心の私である。
「ねえ村岡さん、私にもご紹介して」一人とり残されていた格好になった千晶さんが私の袖を引っぱる。
「あ、ごめんなさい」千晶さんにも岩岸さんをご紹介して、ようやく騒動は収まった。
「ところで村岡さんのお話では、何か不思議なことが起きたそうですね」岩岸さんの質問に、私たちの笑顔も消えた。
「そうなんです。実はケーキが消えてしまったんです」
皆それぞれの席について、岩岸さんに今日の不思議な事件をお話しした。その間、岩岸さんは静かに耳を傾けている。
一通り私たちの話を聴き終えた岩岸さんは、
「キッチンの方を拝見したいのですが、よろしいですか」
「あ、はい」藤谷さんが席を立って、キッチンに続くドアへ岩岸さんを案内する。彼女が開けてくれたドアからキッチンに入りかけた岩岸さんだったが、そこでふと動きを止めた。
「どうかされましたか」藤谷さんが心配そうに訊ねる。名探偵は後に続きかけていた私たちの方にふり返った。
「キッチンを見せていただく前に、食堂の声がどれくらい聞こえるものなのか試してみたいのです。すみませんが、皆さんが晩餐会をなさっていた席にすわって、そのときに話した程度の声で何かおしゃべりをしていただけませんか」
「はあ」私たちはもう一度、先ほどの席に着いた。全員が着席したのを見て、岩岸さんはにっこり笑うと、
「それではよろしくお願いします」そう言ってドアを閉めた。
私は皆の顔を見回した。
「さて、何を話しましょうか」
すると香澄がいたずらっぽい表情で言った。
「ああ、本日はセイテンなり、本日はセイテンなり」
「香澄ちゃん、何それ。何か運動会みたい」沙貴ちゃんの質問に香澄は澄ました顔で説明する。
「だってほら、キリスト教のバイブルのことを《聖典》って言うでしょ。本日は聖典なり」
「なるほど。確かに聖書のお話があったものね」
とりとめのない話を続けていると、ドアが開いて岩岸さんが顔をのぞかせた。
「けっこうです。どうもありがとうございました。それでは皆さんもキッチンの方へどうぞ」
キッチンに入って最初に岩岸さんが見たのは、庭に出るためのドアである。サムターンはしっかり縦になっている。
「おや、このドアは鍵が開いているのではありませんか」
「あ、岩岸さんも間違えた。そのドアのつまみは、縦になっているときに鍵がかかるんですって。だから今もドアの鍵はちゃんとかかっているんです」私が説明すると、岩岸さんは鍵を開けドアを開けた。ノブの外側を見た岩岸さんは、藤谷さんに訊ねる。
「このドアノブには鍵穴がありませんが、外からキーを使って開けることはできますか」
「いいえ、このドアにはキーはありません。中からつまみをひねって鍵をかけるだけのごく簡単なものですから」
「わかりました。ありがとうございます」
岩岸さんは冷蔵庫を開けて中に視線を走らせると、すぐにドアを閉めた。次に名探偵は北向きの窓を開けて、そこから庭を見ていた。しかしこちらもすぐに窓を閉めてしまった。窓には頑丈な格子がついていて、そこから出入りすることはできない。
一通りキッチンを調べた岩岸さんは私たちの方にふり返った。
「けっこうです。食堂に戻りましょう」
食堂に戻ってみて、まだ岩岸さんにお茶の一杯も出していなかったことに初めて気づいた。ケーキの謎に夢中で忘れていたのである。せっかくなので、岩岸さんにいただいたダージリンを入れることにした。
「いただきます」ふわりと湯気の立つティーカップを手にした岩岸さんは、一口紅茶を飲んでから訊ねた。
「もう少しだけ教えてください。キッチンへ入るには、食堂のドアから入るか、庭へ通じるこのドアから入るか、その二通りしかありませんね」
「そうです」
「食堂に誰もいなくなった時間というのはありませんでしたか」
「なかったです。皆ほとんどの時間、食堂にいましたから」
「一人でキッチンに入った人もいないのですね」
「はい。真理ちゃんが必ず一緒に来てくれましたから」
簡単な一問一答が岩岸さんと私たちの間でしばらく続いた後、名探偵は静かに微笑んだ。
「どうやら結論は出たようですね」いつものことながら名探偵の推理は冴えている。
「え、もうわかってしまったんですか」千晶さんが驚いたように目を見はっている。
「誰です誰です、藤谷さんのケーキを隠したのは」香澄がせっかちに訊ねる。
岩岸さんはすらりと言った。
「誰にも姿を見られずに食堂からキッチンに入ることができる、皆さんよくご存知の人がいるではありませんか」
ぞくりとした。まるで今、目に見えないもう一人の人物が部屋の中で息をひそめているような気がした。思わずそっと後ろをふり返らずにはいられなくなってしまう。
「それって誰ですか」千晶さんが岩岸さんの顔を真っ直ぐに見つめながら訊ねた。我らが名探偵は、そんな千晶さんの反応を楽しむようにゆっくりとした口調で意外な名前を告げた。
「サンタ・クロースですよ」
「はい?」あまりに意外な名前だったので、千晶さんは一瞬絶句した。それから彼女は小さく咳払いをした。
「もしかして、星野君のことを言っているのでしょうか」千晶さんの表情が少しだけ厳しくなった。確かに星野君はサンタ・クロースに扮している。果たして岩岸さんは本当に星野君がケーキを隠したのだと推理したのだろうか。
「いいえ、星野君という男子生徒がこちらに来たときには、すでにサンタ・クロースの服装ではなかったのでしょう。僕が言っているのは彼のことではなくて、本物のサンタ・クロースのことです」そう言って、岩岸さんは手にしたカップを揺らした。
皆、何を言葉にして返せばいいのかわからず困りましたという表情になってしまった。千晶さんなどは「ねえ、この人本当に名探偵なの?」というような顔で私の方を見ている。千晶さんはこれまでの岩岸さんの千里眼ぶりを知らないのだから無理もないが、私も正直言って半信半疑になっていた。
当の名探偵の方は、私たちの秘やかな疑惑など全く意に介していない風である。楽しそうに話を続ける。
「サンタ・クロースでしたら煙突から出入りすることができますし、皆さんの目に触れずにキッチンに入ることもできたはずです。何しろ毎年の仕事ですからね」
もうこうなると、岩岸さんの推理を最後まで聴かせていただきましょうという気持ちになっていた。
「煙突から入ってきたサンタ・クロースは甘い香りに誘われて冷蔵庫のドアを開けます。そこにはおいしそうなケーキが二つ。どちらも食べたいけれど、さすがに二つは食べられない。迷いに迷った末に、サンタ・クロースが手にしたのが藤谷さんのココアケーキです」
「つまみ食いするサンタさんですか」沙貴ちゃんの質問に、岩岸さんはくすぐったそうな表情になって、
「そういうことになりますね。サンタ・クロース氏はおいしくケーキをいただいてから後悔したことでしょう。そこでささやかなお詫びの印として、西洋ひいらぎの枝でケーキのあった場所を飾ったのです。どうですか、サンタ・クロースの存在がまだ皆さんには信じられませんか」
ずっと幼い頃には信じていたサンタ・クロースの存在を信じなくなってしまったのは、いったいいつからだろうか。分別とか智恵とか常識とか、そういうものを身につけた代償に、私たちは何か大切なかけがえのないものを失ってしまったのかもしれない。
「岩岸さんのおっしゃるとおり、本当にサンタ・クロースが来たのだとしたら、私たちにも何かプレゼントを持ってきてくれたはずですよね」千晶さんが岩岸さんに少しだけ意地悪する。
しかし岩岸さんは楽しそうな表情を変えない。
「さあ、それはどうでしょう。サンタ・クロースの存在を信じている純真な子供たちの許へは本当にサンタ・クロースがやってくるものですよ。あなた方が心から信じるのならば、本当にプレゼントだって届くかもしれません」
ある考えが私の心の中に浮かんだ。考えるだけで胸がときめいた。もし私の考えたことが現実のことだったら、それはもう一つの奇蹟である。
「今、私ふと思ったんだけれど、もしかしたら本当にサンタ・クロースはプレゼントを運んできたかもしれない」
「それってどういう意味なの」香澄が真顔で訊ねる。私は黙ってテーブルから立ち上がった。
「キッチンに行きましょう。岩岸さん、少しの間いいですか」
「どうぞ」岩岸さんは静かにうなずいた。
キッチンへ入った私は、最初に部屋中をぐるりと見回した。一見すると先ほどと比べて何も変わっていないように思える。
「何か奇妙なところでもある?」声をひそめて訊ねる千晶さんを、私は目で制した。
私の視線が、ぴたりとある一点に吸い寄せられて止まった。
「ここ」私は冷蔵庫を指さした。
「もしかしたらこの中にサンタ・クロースのプレゼントが入っているかもしれないの。いい、開けてみるよ」私はゆっくりとドアを開けた。皆で息をひそめながら中をのぞき込む。
次の瞬間、全員が小さく声を上げていた。先ほど藤谷さんのシフォンケーキが消えてしまった冷蔵庫の中に、サンタ・クロースからの思わぬ贈り物が置いてあったのだ。
「ブッシュ・ド・ノエル」沙貴ちゃんがささやくような声で言った。今の季節にぴったりの、暖炉にくべる大きな薪をかたどったかわいらしいケーキである。そしてケーキの横には、小さなひいらぎの葉が飾られていた。
「どうしてなの。私、もう何が何だか全然わからないです」千晶さんがくすくす笑いながら天を仰いだ。
一人、岩岸さんだけは落ち着いていた。
「そのケーキがどうかしたのですか」
「あ、そういえば先ほど岩岸さんは冷蔵庫のドアを開けて中をご覧になっていましたよね。そのとき、このケーキって中にありました?」
「ええ、ありました。僕は教会の方で用意されたものなのだろうと思っていたのですが」
「いいえ、違います。教会ではケーキを用意していません」藤谷さんが不思議そうな表情で首を左右にふるのを見て岩岸さんはやわらかく微笑むと、
「それでは村岡さんの言うとおり、そのケーキこそサンタ・クロースからのプレゼントなのですよ」
私たちにも岩岸さんの言おうとすることがわかったような気がした。大切なのは疑うことよりも信じることなのだ。
「ねえ、せっかくのサンタ・クロースからの贈り物だから、皆でいただきましょう」私の提案に、皆も笑顔でうなずいた。
ひいらぎの飾りのついたブッシュ・ド・ノエルを皆でおいしくいただいて、今宵の晩餐会もお開きとなった。
帰り際に玄関でコートのボタンをかけていると、岩岸さんがそっと私に近づいてきた。岩岸さんは私だけにわかるように目配せをしてから、私の耳にこうささやいた。
「来栖さんと藤谷さんにお別れのご挨拶をした後で、室町さんと大和さんだけを誘って礼拝堂で待っていていただけますか」
しんと静まり返った教会の礼拝堂である。香澄と沙貴ちゃん、そして私は教会の礼拝堂の椅子に腰かけていた。正面にあるマリア像が私たちをやさしく見守っている。
千晶さんは先に家に帰ってしまったし、藤谷さんは何かお手伝いをすると言って教会の事務所に入ってしまっていた。
「ねえ、何だと思う? 岩岸さんが私たちだけに残るよう言ったわけ」沙貴ちゃんが私にささやきかけた。
「わかった。きっと私たちだけに特別にプレゼントをくれるんだよ」香澄がぎこちない笑顔のまま私の顔を見る。私は一人、黙って席にすわっていた。
やがてかすかな音を立てて礼拝堂のドアが開いた。
「すみません、遅くなりました」岩岸さんが姿を現した。
岩岸さんは私たちの横に腰を下ろすと、しばらく目を閉じたまま真っ直ぐ前を向いていた。やがて目を開けると、私たちに訊ねた。
「先ほどの謎解きについて、皆さんはどう思われました」岩岸さんの質問に、私たち三人は互いに目で譲り合っていたが、私が代表して答えた。
「あの、おっしゃりたいことはよくわかったんですけれど、何となくいつもの岩岸さんらしくないなと思いました」
「そうですか」岩岸さんは穏やかに微笑んだ。その横顔に、私は思いきって訊ねてみた。
「岩岸さん、本当は誰が藤谷さんのケーキを隠したのか、全てご存知なのではありませんか」
岩岸さんは小さく息をついた。
「礼拝堂で人を欺くことはできません。全てお話ししましょう。その代わり、この礼拝堂でお聞きになる話は、一度教会から外に出た後は決して他の人に話さないと約束できますか」岩岸さんは私たち三人の顔をじっと見つめながら訊ねた。
「お約束します」香澄が答え、沙貴ちゃんと私もこっくりうなずいた。それを確認してから岩岸さんは口を開いた。
「今回のお話は不思議なことが起きたように思えますが、実はいたって簡単なことなのです」
「簡単、ですか」私たちにしてみると、少しも簡単ではない。
「そうです。食堂からキッチンへ入りケーキを隠すことが難しいとなれば、庭を廻ってキッチンに入り、ケーキを持ち出して再び庭へ出ていく以外に方法はありません。そしてそれが可能な長い時間、食堂にいなかった人が必ずいるはずです」
私は少しためらいがちにその人の名を口にした。
「藤谷さん、ですね」彼女はキャンドルに火を灯す許可を神父様にいただくため食堂を外している。しかし、私はすぐに名探偵の推理の矛盾に気がついた。
「岩岸さん、でも藤谷さんだってお庭からキッチンには入れないですよ。庭から入るドアの鍵がかかっていたんですから。私が鍵をかけたのですから間違いありません」
岩岸さんは静かに首を左右にふった。
「ところが鍵は開いていたのです。わずかな間ですが、藤谷さんには一人でキッチンにいた時間があります」
「あ」私は思わず声を立てていた。岩岸さんの顔を見ると、そのとおりですというようにうなずいている。
「村岡さんがドアの鍵をかけた後、コルク抜きを忘れたといって藤谷さんだけがキッチンに残りましたね。その間に藤谷さんは再び鍵を外したのです。つまりその後、キッチンのドアの鍵はずっと開いたままだったのです。勝手口のドアをことさらに注意して見る人はいません。もしドアに目をやったとしても、サムターンが横向きなのを見て、無意識のうちに鍵はかかっているものと思ってしまったのかもしれません」
「え、でもでも」沙貴ちゃんが小さく身体を揺らした。
「岩岸さんと一緒に確認したときにはドアの鍵はかかっていましたよね。誰が鍵をかけたんですか」
「鍵が開いていたことを知っている人だけが鍵をかけようとするはずです。開いたことを知っている人は誰ですか」
「でも、鍵を開けた真理ちゃんにはドアの鍵をかけるチャンスがありませんでした。鍵をかけることができなかったということでは真理ちゃんだけでなく、私たちも千晶ちゃんも、それから星野君も同じです」
「ところがもう一人、キッチンの鍵が開いていたことを知っていた人物がいたとしたらいかがです」
「え、それって誰ですか」
「さて、誰だと思いますか」岩岸さんはそこで初めていたずらっぽい表情になって私たちに訊ねた。初めはぼやけていたカメラのフォーカスがぴたりと合って、思わぬ景色が見えた瞬間のような感覚である。
「あの、ひょっとして鍵をかけたのは」私たち三人の口から同じ名前がこぼれた。
「岩岸さんなんですか」
「おっしゃるとおりです」当の本人は澄まして答える。
「え、それではもしかしたらブッシュ・ド・ノエルをプレゼントしてくださったのも岩岸さんですか」私の質問に、
「はい。お気に召していただけましたか」
「わあ、参りました」私たちは同じように天を仰いでいた。ノエルケーキをプレゼントしてくださったサンタ・クロースは岩岸さんだったのだ。
岩岸さんは静かに語り始めた。
「僕は紅茶の他にもう一品と思いまして、心ばかりのケーキを用意してこの教会の門をくぐりました。神父様にご挨拶をして村岡さんたちのことをお話しすると、皆さんは別棟の方にいるのでそちらにどうぞとのことでした。僕が歩きかけると、神父様は僕の提げていたケーキの箱に気づかれたようで、建物の裏手に回ればキッチンへのドアがあるので、ケーキは冷蔵庫の中に入れるといいでしょうとのお言葉です。
「庭を廻ってキッチンのドアを敲いてみましたが、どなたも出てくる気配がありません。おそらく皆さんが星野君という男子生徒を見送るために玄関の方へ行っていたからでしょう。
「僕はしばらく途方に暮れていましたが、神父様のご許可もいただいていることなので、試しにノブに手をかけてみましたらドアが開きました。そこで失礼してキッチンに上がりケーキを冷蔵庫の中にしまってから、もう一度玄関の方へ回りドアベルを鳴らしたのです。後はドアの鍵をかけるため、キッチンで一人になる時間をいただくだけでよかったのです」
「すると、岩岸さんがキッチンの鍵をかけたのって」香澄が上目遣いに訊ねると、サンタ氏はくすっと笑った。
「はい。室町さんの『本日はセイテンなり』という素敵な声を聞きながらドアの鍵をかけました」
「ううむ」香澄は難しい顔で腕組みをしながら何ごとか思案していたが、やがて岩岸さんの顔を見て一言。
「岩岸さんって、とっても人が悪いですね」
「はい。ですからこうして罪を告白しているのです」憎めない罪人はやさしく微笑んでいる。
私は最後に残された質問をした。
「どうして藤谷さんはせっかく作ったケーキを持ち去らなければならなかったのでしょうか」
「それは僕にもわかりません。おそらく藤谷さんはケーキを作る際に、何かレシピを読み違えてしまったのではないでしょうか。藤谷さんはケーキをテーブルに置いたときに、指についたココアクリームをなめたそうですが、そのときにケーキ作りに失敗してしまった事実に気づいたとしたらどうですか」
「お砂糖とお塩を間違えていた、とか」
「あるいはそうかもしれません。藤谷さんにしてみると、好意を寄せる男の子に自分の意に染まないケーキを出すよりも、自分の手でそのケーキをどこかに持ち出してしまう方がよかったということなのでしょう。たとえ友人に内緒にしてでも」
藤谷さんの気持ちを思うと、とても彼女を責める気にはなれなかった。
「その後、誰かがキッチンに入るたびに藤谷さんは必ず後を追ってキッチンに顔を見せたそうですね。これは鍵をかける機会をうかがっていたというのではなく、絶対に誰もケーキを持ち出していないということを、後で証明するためだったのだと思います。藤谷さんとしては、自分のことで他の誰かが疑われるようなことにはしたくなかったのです。そこには一片の悪意もありません」岩岸さんが私たちの顔を見た。私たちも岩岸さんの顔を見た。私たちは静かに頭を下げていた。
「どうもありがとうございました。お約束したとおり、礼拝堂を出た後は、いっさい今宵のことは口にしません」私の言葉に岩岸さんは深くうなずいた。
礼拝堂を出るときに、どこからか讃美歌が聞こえたような気がした。ふり返るとマリア像がやさしく微笑んでいた。
私たちが教会を後にしたときには、すでに街は夜のベールに包まれていた。澄んだ夜空には無数の星がまたたいている。
聖夜の教会に飾られたひいらぎを家に飾ると、その部屋は幸せで清らかになるのだという。これから家に帰ったら、今日のひいらぎで部屋を飾ろう。まだ幼かった頃を、純粋にサンタ・クロースを待ちわびていたあの日の自分を思いながら。
おとめごっこクラブ
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