櫻の杜に迷う Se perdre dans les cerisiers

松堂 明友


 春休みが一年の休みの中で一番好きである。
 こういうことを言うと、高校の友人たちからは必ずといっていいほど「変わっている人」と言われてしまう。
 確かに春休みは地味である。長い夏休みのように躍動的な季節でもなく、新年を迎える冬休みのように厳粛な気持ちになることもない。しかしその代わり、ゆっくり本を読んだり、好きな音楽を心ゆくまで聴いたりすることができる。そうしたのんびりした時間が私のお気に入りなのである。
 高校二年の春休み、私はそうしたゆるやかな時の流れを楽しんでいた。おそらく来年は受験や卒業といった人生の一大イベントを迎えて、のんびり春を楽しむというわけにはいかないだろう。今年の春休みだけは、思いきりしたいことをするのだ。
 さて、私は休みに入ってから一冊の本に読みふけっていた。『江戸俳諧歳時記』がそれである。季節柄、今は春の句を読んでいる。特に《桜》を詠んだ俳句を味わうのである。
《人恋し灯ともしごろをさくらちる》の句のところで私は部屋の明かりをつけた。本に夢中になっているうち、いつの間にか黄昏時が迫っていたのである。少し読書に疲れた私は、読みさしの本に浅葱色の栞を挟んで、部屋の窓を開けた。
 月は朧に霞み、辺りを淡く青白い光で照らす。なまめかしい春の匂いがどこからともなく風に乗って届けられる。私は思わずうっとりと目を閉じていた。
 そんな気持ちのよい春の宵のことである。
「もしもし、玲子?」親友の室町香澄から私に電話がかかってきた。最初の挨拶から香澄の声は何となくうきうきしていた。
「私ね、いいこと思いついちゃった」電話の向こう側で香澄は大いに盛り上がっている様子である。
「明日、沙貴ちゃんも誘ってお花見に行こうよ」
「お花見?」
「うん。夕方の天気予報で明日はいい天気になるって言ってたから。ここ数日はずっと花曇りだったけど、明日はきっと桜もきれいだよ」
「そうねえ」このところ少しばかり体調が思わしくないということもあって、私は気の乗らない声で返事をしていた。すると香澄はまた別の方法で私の説得にかかる。
「今年は記念のお花見になるかもしれないでしょ」
「記念のお花見って、何の記念?」
「これまで私たち三人が同じクラスでいられた記念。三年生になったら、もう同じクラスにはなれないと思うし。高校時代の思い出に、三人で一緒に行こうよ、お花見」
「どうしようかな」気持ちが揺らいだ。暖かな春の公園で、気のあった友とのんびり花見というのも悪くない。
「それにね」迷っている私の気持ちに気づいているのかいないのか、香澄は楽しそうに続ける。
「岩岸さんもお誘いしようと思うの」
「え、岩岸さんもお花見に来てくれるの?」
「そう。少し前に岩岸さんとお話ししたときにね、桜が満開になったらお花見に行きましょうって約束したんだもの」
「ずるい。香澄だけで岩岸さんに会うなんて許さないから」
「あ、私だけじゃないよ。沙貴ちゃんも一緒。つまり玲子だけ仲間外れということね」
「ええ、仲間外れはいや」私が少し拗ねてみせると、受話器の向こうで香澄が声を上げて笑った。
「ね、だから玲子も一緒にお花見、お花見」
 ついに私も降参することにした。
「わかりました。私もご一緒いたします。ぜひお花見に参加させてくださいませ」
「よしよし。それで待ち合わせだけど、先月皆で遊びに行った公園の池にかかっている橋のたもとで朝十時に集合というのはどうかしら」
「うん、いいよ。でも午前十時なんて、お寝坊さんの香澄にしては、またずいぶんと早い時間ね」私が訊ねると、受話器の向こうでくすっと笑う声が聞こえた。
「だって、私知ってるもの。玲子はなるべく朝早い時間の方が楽なんでしょ。ねえ、花粉症のお嬢様」
「あ」これは一本とられてしまった。香澄は私が気乗りしてない本当の理由をちゃんと知っていて気遣ってくれたのだ。香澄の気遣いに感謝しようと思っていると、
「電話を通していてもちゃんとわかるの。玲子らしからぬ色っぽい鼻声なんだもの」そう言って香澄はまたくすくす笑う。
「ふんだ。色っぽくなくて悪かったですね」とりあえずは憎まれ口などたたいてみる。
 香澄のご明察のとおり、私は今、花粉症の真っ盛りなのだ。私の場合、特に桜の花が盛りとなる今頃が一番つらい。このところ私は外出するのも避けて、家で本ばかり読んでいたのである。
「だけど玲子だって、その色っぽい声を岩岸さんに聞いてもらえるんだからいいじゃない」
「うん。明日は元気になるように今夜は早めに寝ようかな」
「私もそうしようっと。それじゃ玲子、明日桜の樹の下で会いましょう。おやすみ」こうしてにぎやかな電話は切られた。再び春の静寂が部屋を充たす。私は受話器を置きながら、幸せなため息をこぼしていた。

 香澄の言っていたとおり、翌日は四月に入って初めて晴れた。
朝からぽかぽかと暖かい。この陽気で桜もいっそう見事に咲き誇ることだろう。まさにお花見日和である。《初桜折しも今日はよき日なり》の句が身近に感じられる。
 さて、その《よき日》にどんな服で出かけようか。少しだけ迷った末、私はパールホワイトのブラウスにタックパンツ、そして紺のカーディガンを着ていくことにした。昼間は暖かくとも、夕方になるとまだまだ冷える花冷えの季節、このカーディガンはとても重宝する。
 机の上の本をポシェットに入れて、私は少し早めに家を出た。
 最初は香澄の誘いにもあまり気のすすまなかった私だったが、結局は待ち合わせの公園に三人の中で一番早く着いてしまった。時計を見ると、まだ十時にはだいぶ間がある。
 手持ち無沙汰である。
 私は桜の樹の下にあるベンチに腰を下ろして、昨日から読みさしの『江戸俳諧歳時記』を読み始めることにした。
 桜の花びらがちらほらと散っては私の紺のカーディガンを彩っていく。散った花びらを払ったりするほど私も野暮ではない。桜のアクセサリーを身にまとったまま春の俳句を読み続けた。
「玲子ちゃん、お待たせ」ふんわりした声に本から顔を上げると、大和沙貴ちゃんがやわらかな春の光の中に微笑んでいた。
 沙貴ちゃんはまるで桜の精が抜け出たような淡いピンクのブラウスに、アイボリーホワイトのフレアスカート。ポニーテールもブラウスと同色のリボンで結っている。
「わ、沙貴ちゃん、おめかし」私がからかうと沙貴ちゃんはにっこり笑って、
「そんなことないよ。でも今日は岩岸さんに逢えるから」
「あ、強力なライバルの登場だわ」私がおどけてみせると、並んでベンチに腰かけながら沙貴ちゃんが言う。
「ううん、玲子ちゃんの方が素敵だよ」
「ほんと?」思わず顔をほころばせながら私が訊ねると、
「うん。洋服が」沙貴ちゃんも人が悪い。
「もう、喜んで損しちゃった」私がかわいく口をとがらせてみせても、当の沙貴ちゃんはにこにこしている。私もつられて笑ってしまった。これも人徳である。
 私は本をポシェットにしまい、ベンチから立ち上がった。
「それにしてもお花見の幹事は相変わらず遅いわね。またお寝坊なのかしら」
「私たち、待ち合わせの時間を間違えたりしてないよね」沙貴ちゃんに言われて腕時計を見ると午前十時五分である。
「香澄の場合、だいたいいつも私たちより五分遅れて来るのが標準だから、もうそろそろ登場する頃だよ」
「あ、噂をすれば」沙貴ちゃんが視線を私の背後へ走らせた。聞こえてくる軽やかな足音にふり返ると、香澄が長い髪を春の風になびかせながらこちらに走ってくるところだった。
「ごめんごめん、遅れちゃって」走ってきた香澄は、そのまま桜の樹に手をかけて、はずんだ息を整えている。デニムのミニスカートからすらりと伸びた脚が美しい。ようやく息をついた香澄が私たちに向けてぺこりと頭を下げた。
「二人とも、待たせちゃってごめん。遅くなったお詫びに、これを進呈いたします」香澄はリュックを背中から下ろすと、中から小さな狐のぬいぐるみをとり出した。
「わ、かわいい。香澄ちゃん、ありがとう」さっそく沙貴ちゃんが香澄からマスコットを受けとる。
「玲子も、はい」香澄から手渡された狐クンは、手の中にすっぽりと収まるくらいの大きさ。とぼけた表情がいい。白いストラップがついていて、どこにでも吊り下げられるようになっている。
「ありがとう。これ、香澄の手作りなんだ」
「うん。三人お揃いだよ。ほら、この前の『狐の嫁入り』事件の後に思い立って作ってみたの」
 さっそく私は狐をポシェットに結んでみた。沙貴ちゃんは私の横でしばらくぬいぐるみの顔を眺めていたが、不意に心配そうな表情になって顔を上げると、
「そういえば、岩岸さん遅いね」公園の入り口の方を見る。
「あ、ごめん。言ってなかった」沙貴ちゃんの言葉を聞いた香澄は片目を閉じて両手を胸の前で合わせた。
「岩岸さんは少し遅れて来るんだ」
「急用か何かあるのかしら」
「ううん、そうじゃないの。私が岩岸さんに一時間遅い時間をお知らせしたから」
「間違えたんでしょ」
「うん、まあそんなところかな。でも私たちが待つんだから、別に失礼じゃないでしょう」香澄は意に介していない。
 岩岸さんを待つ間、ちらほらと桜の花の散る公園で陽当たりのよいベンチにすわって、私たちはいろいろなことを話した。これから始まる新学期のこと、香澄が昨日観た映画のこと、そして今日これからのこと。
 おしゃべりが一段落着いたところで、沙貴ちゃんが見渡す限りどこまでも続く桜並木を見上げた。そして沙貴ちゃんは感嘆のため息をこぼす。
「桜の花って、どうしてこんなにきれいなのかしら」
「それはね」香澄は小さな子供に怪談を聞かせるような調子で声をひそめると、
「桜の樹の下に埋まっているからなんだよ」台詞の途中で沙貴ちゃんの背後から手を回し、肩にそっと手をかけた。
「きゃあ、怖い。玲子ちゃん、助けて」沙貴ちゃんは肩の上の手をやさしく払いながら私に抱きついてきた。もちろん全然怖がってなどいないのだ。と、沙貴ちゃんは抱きついたまま私の顔を見上げて、
「ねえ、玲子ちゃん、桜の樹の下に眠っておいでなのって西行さんでよかったんだっけ」
「沙貴ちゃん、違う違う。香澄の言っていた話は梶井基次郎の小品が出典だよ」
「いけない。私、《願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ》の歌と間違えてた」
「西行さんも、まさか沙貴ちゃんに桜の樹の下に埋められることになるとは思ってなかったかもね」香澄が瞳をくるくる動かしながら沙貴ちゃんをからかう。
「西行さん、ごめんなさい」沙貴ちゃんは首をすくめながら、拝むように両手を胸の前で合わせている。香澄と私は顔を見合わせ、思わず吹き出してしまった。桜の樹の下での女子高生のひそやかなお詫びを、西行法師が天上でどのような顔をしてご覧になっているかと思うと、何だか妙におかしかった。

 春である。春眠暁を覚えずの季節である。香澄が小さなあくびをしながら、陽だまりの猫のようにぐうっと伸びをした。
「ああ、いい気持ち。このままずっと春休みだったらいいのに」
 散った桜の花が香澄の長い髪を髪飾りのように飾っている。香澄と桜の花を見ているうちに、私は香澄に初めて出会ったときのことを思い出していた。
 それは五年前の春、中学に入学した日のことである。入学式の前にクラスが発表になった。慣れない環境と着慣れない制服に私は気後れしたまま教室に入り、配布された座席表の確認もそこそこに席に着いた。
 周りは知らない顔ばかりである。緊張しきって椅子にすわっていた私の制服の背中を、誰かが後ろからつついた。
 席を間違えていたのだろうか。どきりとしながらゆっくりとふり返ると、私の後ろの席にいた髪の長い少女が微笑んだ。その人なつこい笑顔に、堅かった私の表情もなごんでいくような気がしていた。彼女はさらさらした髪を小さく揺らしながら私にちょこんと礼をした。
「初めまして」
「あ、こちらこそ」私もあわててぺこりと頭を下げた。そんな私の様子を楽しそうに見つめながら彼女は言った。
「私、室町香澄。あなたの名前は?」
「村岡玲子です」
「ふうん、レイコさんか。ね、《レイ》って礼儀作法の礼?」
「あ、ううん、玉偏に命令の令です」私が説明すると、彼女は机の上に開いていたノートに、青いインクのペンでさらさらと私の名前を綴った。それから彼女は顔を上げた。
「きれいな名前ね」
「ありがとう」私たち二人は顔を見合わせて、どちらからともなく笑顔になっていた。香澄の後ろ、教室の窓から見えた桜が満開だったことを、私は今でもはっきりと覚えている。
「どうしたの、玲子。ぼおっとしてる」香澄の声で、私は追憶の世界から引き戻された。香澄が少し心配そうに私の顔を見ていた。私の瞳が潤んでいたのは花粉症のせいではない。
「ううん、何でもない」私はベンチから立ち上がった。桜の枝を見上げながら、私は昨日憶えたばかりの芭蕉の句を口ずさんでいた。
《さまざまの事思ひ出す桜かな》

 陽もだいぶ高くなってきた。私たちのいる公園でも満開の桜の樹の下、そこかしこで春の宴が始まった。にぎやかである。
 香澄が落ち着かない様子で腕時計に視線を走らせた。
「そろそろ名探偵さんがいらっしゃる時刻」
「岩岸さんは香澄と違って時間に正確だから、もうすぐ来るね」
「あ、そんなこと言うんならさっきの狐、返してもらうぞ」
「だめ。もらったものは返さないわ」
「あ、岩岸さん」沙貴ちゃんの声に、香澄も私も会話をやめて公園の入り口へ一斉にふり返っていた。
「こんにちは。気持ちのよい天気で何よりでしたね」岩岸さんはチェックのシャツに小豆色のセーター姿である。
「ええ。私たち、日頃の行いがいいんです」香澄が笑った。
 ここで岩岸さんのことを簡単にご紹介しておくことにしよう。フルネームでお呼びすれば岩岸正さん。私たちより四歳年上の大学生。私たちとは去年の春に出会ったばかりだから、まだ一年ほどの知り合いである。
 出会いのきっかけが印象的だった。香澄が関わった不思議な謎を、岩岸さんは見事に解決したのである。それ以来、身の回りでささやかな《事件》が起きるたび、私たちは目の前にいる名探偵に謎解きをお願いするようになっていたのだ。
「岩岸さん、どうぞ」私たちは岩岸さんが腰を下ろせるようにベンチの上で少しずつ席を詰めた。
「失礼します」私の横に岩岸さんがすわると、さっそく香澄がいたずらっ子のような笑顔を浮かべた。
「今日は岩岸さんに手頃なお土産を持参しました」
「おや、いったい何でしょう」岩岸さんもつられて微笑みながら訊ねる。香澄はベンチの背凭れに掛けてあった鶯色のリュックから小ぶりな木製の箱をとり出した。
「それがお土産ですか」岩岸さんが問うと、香澄は笑顔で首を左右にふった。
「あ、違います。実はこの箱に関するお話がお土産なんです」
「わかりました。どうぞ、お話の方を続けてください」
「はい。私には兄が一人いるんですけど」
「やさしいお兄さんなんです。香澄にはもったいないくらい」
「こらっ」香澄は私にげんこつをふり上げる真似をしながらも、どことなく嬉しそうである。
 香澄のお兄さんは仙台の大学に通っている。今は大学の方も春休みなので久しぶりにお兄さんが家に帰ってきていると、香澄が昨夕、電話で嬉しそうに話していたのを思い出した。私も何度か香澄の家でお会いしたことがある。香澄によく似た澄んだ目をしていた。香澄のことをいつもやさしく見守っている、そんな雰囲気のあるお兄さんである。
「十日ほど前のことです、その兄が私の部屋に来て訊くのです。
『確か、香澄は桜か何かの木でできたオルゴールを持っていただろう。ほら、宝石箱のような形をしていて鍵のかかる』って」
「この小箱がそれ?」沙貴ちゃんが木製の箱を指さす。
「うん。特に小物入れとして使っているというわけでもなくて、ずっと本棚の上に置いてあったの。あるって答えたら、しばらくの間、それを鍵と一緒に貸してほしいと兄が言うの」
「いかにも謎の導入部って感じだね」
「そうかも。でもそのときは私もあんまり深く考えずに、兄にオルゴールと鍵を貸してあげたよ」
「オルゴールの鍵はいくつあったのかしら」
「鍵は三つ。それも全部兄に渡しちゃった」
「その後はどうなりました」岩岸さんが顔の前で指を合わせた。
「それから五日後、兄がオルゴールだけを持ってきました。鍵だけはもうしばらく預からせてほしいって」
「オルゴールの中には何か入ってたの」私が訊ねると、香澄は小さく首を左右にふった。
「オルゴールには鍵がかかっていて蓋は開かなかった。でも、ふってみると中で何かがかさこそ音を立てているのが聞こえたから、何かペーパーみたいなものが入っていると思うけど」
「ふうん。お兄さんがオルゴールの中に何を入れたのか、香澄は訊いてみた?」
「それがだめ。兄ったら、こんなにかわいい妹が訊いているのに、中に何が入っているのか教えてくれないの」
「はいはい。自分で言ってるんだから世話がいらないわね」
「笑いながら『春休みの宿題にしておこう』なんて言って」
「春休みの宿題でしたら、解いて提出しないといけませんね」岩岸さんが穏やかな声で言う。
「ところが昨日、その宿題を解く鍵が届いたんです」
「鍵が?」私が訊くと香澄は小さくうなずいた。続けて香澄はリュックから白い封筒をとり出した。
「これ」
 沙貴ちゃんと私は思わず香澄の手許をのぞき込む。封筒はまだ開封されていない。中に何かかさばる物が入っているらしく、ずいぶんと厚みがある。そして何かスタンプのようなものが押された付箋がついている。
「昨日の午後のことです。兄が私を呼んで言うのです、
『そろそろ宿題を解くための鍵が届けられる頃かな』と。私がそれってどういう意味なのと兄に訊ねますと、
『もうすぐ郵便配達の人が来ると思う。香澄、すまないけれど郵便物を受けとってきてくれないかな』と言うだけです。私は少し不思議に思いながら玄関から外に出てみました。しばらく待っていると本当に郵便配達の人が来て、郵便物の束を渡してくれました。その中の一通がこの封書です」
「お兄さんの言ったとおりだったんだ」
「うん。私が急いで手紙を持って行きますと、兄は封書が届くことはわかっていたという顔でこう言いました。
『オルゴールの鍵がこの封筒の中に入っているよ。僕の部屋にオルゴールがあるから持ってきてごらん』と。行ってみますと、兄の言葉どおり机の上にオルゴールが置いてありました。今日、そのオルゴールと封筒をそのままお持ちしたわけです」
「その場ですぐ封筒を開けてみればよかったのに」
「でもせっかく今日こうして名探偵に会える機会があるというのに、すぐ開けてしまうのも何だかもったいない気がして」
「なるほど」香澄の言うことももっともである。
「この手紙、少し変ってるよね」沙貴ちゃんが手許の封筒を表にしたり裏にしたりしながら言う。封筒はごく普通の郵便封筒である。八十円切手が貼られ、消印もきちんと押されている。
 しかしその封筒には一つだけ奇妙な点があった。表に書かれた宛先が「仙台市青葉区桜の森二−三−四 室町香澄様」となっているのだ。もちろん仙台に香澄宛の手紙を出しても届くはずがない。宛名不十分として戻ってきてしまっている。
「ふうん、仙台に《桜の森》っていう地名があるんだ」私が言うと、横でそれを聞いて香澄がくすくす笑った。
「あるわけないでしょ」
「え、ないの?」
「もちろん。仙台市青葉区には桜ヶ丘とか水の森とかいう地名はあるけど、《桜の森》なんていう町は存在しないわ。架空の町宛だから、こうして手紙が戻ってきたというわけ」
「香澄ちゃん、詳しいのね」沙貴ちゃんが感心したように言うと香澄は小さく舌を出した。
「なんて、実は私も玲子と同じことを訊いて兄に笑われてしまったの。仙台のことは皆、兄からの受け売り」
 封筒を裏返してみると、差出人欄には香澄の家の正しい住所と香澄のお兄さんのお名前が記されている。
「それじゃ、封筒を開けるよ」香澄はリュックから銀製のペーパーナイフをとり出した。華奢なナイフが封じ目に差し込まれ、銀色の刃がすっと動いて封は開いた。
 中から出てきたのは薄紙にくるまれた小さな包みと便箋が一枚。香澄がデニムのスカートの上で薄紙をゆっくり広げた。
「やっぱり鍵」そこには少し古風なデザインの鍵が三つ。セピア色をした細いリボンで結んである。
「これ、香澄ちゃんがお兄さんに渡したオルゴールの鍵に間違いない?」沙貴ちゃんが念を押す。
「間違いない。このリボンは私が兄に渡す前に結んだものだし」
「お手紙の方は何て書いてあるの」
「ええと」香澄は便箋を開いて私たちにも聞こえるように声を出して読み始めた。
「鍵は確かに全て返しました。この鍵でオルゴールを開けてごらん。ささやかな贈り物と不思議なものが入っています」
「不思議なものって何かなあ」沙貴ちゃんが楽しそうに身体を揺らした。
「オルゴールも開けてみようか」私が言うと、香澄はこっくりうなずいた。古風な鍵をそっと鍵穴に差し込む。少しひねるとわずかな金属音がして鍵が開いた。
 玉手箱を開ける浦島太郎ように、香澄がゆっくりと蓋を開ける。たちまちもくもくと白い煙が立ち上る、などというはずもなく、代わりに聞き慣れたワルツが流れてきた。確かにオルゴールである。私たちはおそるおそる中をのぞきこんだ。
 桜の木箱の中には、三枚のチケットが入っていた。
「美術展のチケットだね」沙貴ちゃんがそれを手にとって、もの珍しそうに眺めながら言う。
「まだ何か入ってる」香澄が箱の中身を全てとり出す。他に小さなメッセージカードと新聞の切り抜きが入っていた。香澄はカードのメッセージを一読してから私たちにも見せた。
《香澄へ。たまにはお友達と絵画でも見て楽しんでおいで。ほんのささやかな贈り物です。兄より》とペンで記されている。
 新聞の切り抜きの方はといえば、チケットに合わせて上野の美術館で開催されている展覧会の紹介記事である。
「特に不思議なものは入ってないみたいね」沙貴ちゃんが私の顔を見ながら言う。しかし私はその新聞記事に不思議な点を見つけて、一人眉をひそめた。
「待って。この新聞記事、変だよ」私は切り抜きを指さす。
「何か妙なところがあるかなあ。文化欄によくある美術展の紹介記事みたいだけど」香澄が新聞の記事を目で追う。
「内容じゃなくて、上の欄についている新聞の日付。この新聞記事は五日前のだよ」
「それがどうかして」首を一瞬ちょこんと傾げた沙貴ちゃんだったが、私の言いたいことにすぐ気づいたようである。
「あ、そうか。五日前って、ちょうど仙台東郵便局で宛先不明のスタンプが押された日付だ」
「そうそう。つまりこの新聞が配達された日には、この封筒は《桜の森》という存在しない町を探して仙台で迷っている真っ最中だったということになるわけ」
「でも私たちは、今日ここで初めて封筒を開けた。ということは兄がオルゴールに鍵をかけたのは、この手紙を投函したときよりも前になるはずだよね」
「確かに。それから鍵を仙台の架空の町宛の封筒に入れて郵送したのね。そうでなければオルゴールにかけた鍵を郵送することができない」
「それじゃ、兄はこの新聞記事をどうやってオルゴールの中に入れたのかしら」
「わかった。お兄さんは香澄ちゃんから鍵を借りている間に、どこかで合い鍵を作ったんじゃないかしら」
「でも、それって反則だよね。香澄はどう思う」
「それはないと思う。だって、兄が自分から言っていたもの。
『鍵は後で必ず香澄に返すから。もちろん勝手に合い鍵を作ったりはしないから心配しなくていいよ』って。合い鍵を作っていないという証拠はないけど、ここは兄を信用してあげて」
「もちろん信用するけれど。でも、それだとオルゴールの謎は解けないことになるわね」
「香澄ちゃんのお兄さんが言っていた春休みの宿題って、このことだったんだ」
「難しい宿題だこと」香澄は腕組みをして考え込む。
 考えに詰まってしまった私たちは難しい顔で岩岸さんの方を見る。岩岸さんは穏やかな表情のまま香澄に訊いた。
「封筒の方を見せていただいてもよろしいですか」
「どうぞ」香澄が岩岸さんに封筒を渡す。
 岩岸さんは《桜の森》宛の封筒を手にとって、しばらくその宛名やスタンプを興味深げな様子で見ていた。次に岩岸さんは封筒の中を見た。中に何も入っていないことを確認したからだろうか、岩岸さんはすぐに封筒を香澄に返してくれた。
「ありがとうございました」
「何かおわかりになりましたか」さっそく香澄が訊ねる。
「ええ、いろいろと参考になりました」それだけ言って、岩岸さんは静かに笑った。名探偵は手の内を簡単には明かしてくれないようである。

 私たちはもう一度オルゴールに注目していた。
「無理矢理に力任せで箱の中に新聞記事を差し込んだのかもしれない」香澄がオルゴールと新聞を交互に見ながら言う。
「やってみよう」こういうときにはあれこれ議論しても仕方がない。実践あるのみである。さっそくオルゴールの蓋を閉じて、蓋と本体の隙間から中に新聞の切り抜きを入れることができるか試してみた。しかし、実験の結果はすぐに判明した。
「やっぱりだめ。蓋を閉じちゃうと隙間なんてできない」
「この新聞記事は全然折れ曲がったりしてないものね。お兄さんはそんな乱暴な方法を使ったりしてないよ」香澄も私も諦めて小さなため息をついた。
「ねえねえ、私の推理、聴いてくれる?」沙貴ちゃんが目を輝かせながら私たちの方に向き直る。
「いいよ。お手並み拝見と参りましょう」香澄が組んでいた脚をほどいて、ベンチにきちんとすわり直した。
 沙貴ちゃんは何から話そうかと思案げに四月の空を見ていたが、やがておもむろに口を開いた。
「ええとね、まず香澄ちゃんのお兄さんのお友達に、仙台の郵便局でアルバイトをしている人がいるの」
「ふむふむ」
「香澄ちゃんのお兄さんは先に《桜の森》宛ての封筒を空っぽのまま、封をしないで投函する」
「なるほど」
「数日後、お兄さんはこの新聞記事とチケットと香澄ちゃん宛のカードをオルゴールに入れて鍵を閉める。そしてお友達にその鍵を速達で送る」
「うん、それで」
「お友達は仙台の郵便局で、お兄さんが先に送った封筒にオルゴールの鍵を入れて封をするの。そうすればその手紙は差出人である香澄ちゃんのお兄さんの手許に返ってくるでしょ」
「お、沙貴ちゃん、冴えてる」香澄と私が賞賛の拍手などしていると、
「残念ですが、その方法は難しいでしょう」岩岸さんが穏やかな声で沙貴ちゃんの推理を止めた。
「だめですか」沙貴ちゃんは笑顔で訊き返す。
「まず《桜の森》という存在しない地名に宛てた手紙ですが、封をしていない封書が仙台のどの郵便局に廻るかわかりません。もっとも最初は仙台の中央郵便局に届くのかもしれませんが、そこでは郵便物の数が多すぎて、とても目的の封筒を探し出すことはできないでしょう」
「沙貴ちゃん、惜しかったね」香澄がねぎらいの言葉をかける。しかし沙貴ちゃんはまだめげたりはしない。
「それじゃ、香澄ちゃんのお兄さんのお友達に新聞社で記者をしている人がいるというのはどうかしら」
「お友達シリーズね」
「うん。そのお友達が偶然にもこの美術展の記事を書いた記者の人なの。お兄さんはこの記事を新聞に載るずっと前にお友達から手に入れて、オルゴールにしまって鍵をかけてから三つの鍵を《桜の森》に郵送すればいいの」
「この新聞記事を書いた記者の人がお友達だなんて、本当にそんな偶然があるのかなあ」私が首を傾げると、
「ううん、私もないと思う」沙貴ちゃんが天真爛漫な笑顔で答える。
「あらら」香澄と私はベンチの背凭れに寄りかかって天を仰いでいた。沙貴ちゃんが甘えるような調子で、
「だけど思いつくことは何でも言ってみる方がいいでしょ」
「それは沙貴ちゃんの言うとおりだけれど。でも謎はますます深まるばかり」私がまた小さなため息をつくと、今度は沙貴ちゃんも真面目な顔で香澄に訊ねた。
「封筒に何か細工がされていて、なんていうことはないよね」
「うん。これも別にごく普通の封筒だし。そうだ、私もそれが気になったから、兄から同じ封筒をもらってきたんだ」香澄はリュックの中をかき回していたが、やがて戻ってきたものと同じ封筒をとり出した。
「香澄、ちょっと見せて」私はその封筒をもう一度調べてみた。
 ごく普通に市販されている事務用の封筒である。作りもしっかりしていて特別に奇妙なところはない。封の部分に糊がついていて、湿らせるだけで簡単に封ができるようになっている。
「問題なし。何も怪しいところはありません」私は首をふりながら香澄に封筒を返すしかなかった。
「皆さん、宿題にだいぶ手間どっているようですね」横から見かねたように岩岸さんが声をかけた。
「だって難しいんですもの」香澄が口をとがらせる。
「やはり今回の宿題は解けないということになりますか」私が横目で岩岸さんの顔を見ながら問うてみると、名探偵は静かに首を左右にふった。
「いえ、そんなことはありません。解き方さえ見つけてしまえば、それほど難しい宿題ではありません」岩岸さんは涼しい顔で憎らしいことを言う。もはやこうなっては名探偵に降参するにしくはない。私はお願いの言葉を口にした。
「ぜひ私たちにもその解き方を教えてください」
 岩岸さんは頭の後ろで両手を組んで、しばらくの間何も言わず、咲き誇る桜の樹を見上げている。私たち三人は期待に息をひそめながら岩岸さんの言葉をじっと待っていた。
 やがて、名探偵は静かに推理を語り始めた。
「僕の方から解き方をお教えするまでもありません。大和さんの考えた方法が、ほとんど宿題を解いていましたよ」
「私の考えた方法がですか」当の沙貴ちゃんは首をちょこんと傾げている。ポニーテールがふわりと揺れた。
「そうです。お兄さんは室町さんからオルゴールと鍵を借りて、まずオルゴールに鍵をかけます。次に《桜の森》という架空の住所を書いた封筒を用意します。その中に何も入れず、封もしないままでポストに投函したのです」
「鍵の方はどうなるのでしょうか」
「そのままどこかにしまっておけばいいのです。そして展覧会の記事が載っている日に新聞の記事を切り抜き、室町さんに見つからないようにオルゴールの鍵を開け、中にチケットや室町さんに宛てたメモと一緒に入れ、再び鍵を閉めます。これで箱の方は準備完了です」
 岩岸さんはいかがですかという表情で私たちの方を見る。しかし当の私たちは釈然としない。というよりも不満不平でいっぱいという顔をしていたに違いない。
「確かに箱の方はそれでいいかもしれません。でも、鍵はどうするんですか。香澄の手許に差し戻されてきたときには、すでに封筒に鍵が入っていたんですよ」私が疑問を口にすると、岩岸さんは静かに笑った。
「実は室町さんが受けとった封筒は、お兄さんが空の封筒を投函した翌日に、何か他の鍵を入れて封をしてから投函された別の封筒なのです」
「別の封筒?」一枚のトランプが突然二枚になる手品を目の前で見せられたような気分である。
「差し戻された封筒が、いったいいつ戻ってきたのか、特別に消印などが押されるわけではないのでわかりません。実は封をしていない封筒の方は、すでにその前日に戻ってきていたのだとしたらいかがですか」
「つまり、香澄が昨日受けとった封筒は今ここにある封筒とは違うということですか」
「そのとおりです。室町さんは受けとった手紙の束を持ってお兄さんのところへ戻った後、部屋にオルゴールをとりに行っていますね。その間にお兄さんは、その日に戻ってきた封筒と、前日に返ってきた封筒に本当の鍵を入れて封をしておいたものをとり代えるだけでいいのです」
 私たちはしばらく言うべき言葉を探していたが、岩岸さんのあざやかな推理に反論することができなかった。それでも香澄がかろうじて言葉を継いだ。
「でも、本当に兄が岩岸さんの言われたような方法をとったのか、それはわからないですよね。証拠がないですから」
「いえ、証拠はあります」岩岸さんはこともなげに言う。
「え、本当ですか?」香澄はまだ半信半疑である。岩岸さんは静かに笑うと、
「すぐにわかります。それではこれから散歩がてら、証拠を確認しに行きましょう」岩岸さんはベンチから立ち上がった。
 いったいどこへ行くというのだろう。私たちは興味津々で岩岸さんの後に続いた。
 公園からしばらく歩くとクリーム色の壁をした小さな建物が見えてきた。横に赤いポストがあるので郵便局だとすぐにわかる。岩岸さんはそのまま扉を開けて建物の中に入っていく。
 郵便局の中で岩岸さんは香澄に訊ねた。
「室町さん、確かあなたは返送されてきたものと同じ封筒をお持ちでしたね」
「あ、はい」香澄がリュックを開けて封筒をとり出した。
「少しの間、お借りします」岩岸さんは香澄から封筒を受けとると、用紙の記入台の上でオルゴールの鍵を薄紙に包み、香澄に宛ててお兄さんが書いた便箋と一緒に封筒の中に入れた。
 岩岸さんは郵便の窓口の小柄な女性の局員さんにその封筒を手渡しながら訊ねた。
「この手紙を送りたいのですが、料金の方はどうでしょう」
 窓口の女性は岩岸さんから封筒を受けとると、てきぱきと横にあった郵便料金用の秤に載せ、デジタルの数字を読みとった。
「これですと重量超過ですので、料金は九十円になりますね」「そうですか」岩岸さんは封筒を受けとってから、ふと思い出したというような口調で窓口の女性局員さんに訊ねる。
「すみません。もしこの封筒に間違えて八十円切手を貼って投函してしまったとしたら、その封筒は宛先には届かずに戻ってきてしまうのでしょうか」
「あ、いいえ、その場合でも郵便物が料金不足である旨を表示した上で宛先に配達されます」
「配達されるのですか」
「はい。そこで受けとられた方が、不足している料金をご負担されるか、あるいは受けとらずに差出人に差し戻すかをお決めいただくことになると思います」
「わかりました。どうもありがとうございました」岩岸さんはいろいろ説明してくれた局員さんに一礼すると、満足そうな笑顔で私たちの方にふり返った。
「どうやら証拠は見つかったようです」

 公園に帰る道すがら、私たち三人は岩岸さんと並んで、しばらく無言のまま歩いていた。もう少しで公園の桜が見えてくるというところで、香澄が岩岸さんに話しかけた。
「つまり、鍵を三つ送るためには切手が不足しているということですね」
「そうです。この封筒には八十円切手が貼ってあります。本当に鍵を三つ入れた封筒が投函されたとすると、料金不足の表示が付いて戻ってくるはずです。しかし戻ってきた封筒にはその表示がありません。これで《桜の森》で迷っていた封筒に鍵が入っていなかったことがはっきりしました」
 公園の入り口が見えてきた。先ほど私たちが陣どっていたベンチでは、カップルが楽しそうに語らっていた。
「せっかくだから桜並木の下を少し歩きましょうよ」香澄の提案で、私たちはそのまま散歩を続けることにした。
「あ、お団子屋さん」沙貴ちゃんが目ざとく甘味処の幟を見つけて幸せそうな歓声を上げた。岩岸さんもにこにこしながら、
「皆さん、少し歩いたので疲れたでしょう。ここで一休みしましょう」そう言って筵の敷かれた長椅子に腰を下ろした。
 注文したお団子と抹茶のセットを待つ間、香澄がいい声で団子の歌など口ずさむ。やはり乙女には花より団子なのだ。
 やがて歌を歌い終えた香澄が、岩岸さんの方に向き直り、改まった様子でぺこりと頭を下げた。
「岩岸さん、本当にどうもありがとうございました」
「いいえ、どういたしまして」
「これで兄の宿題も解けて、もうめでたしめでたしです」香澄はそう言うと、岩岸さんから見えないように私にVサインをした。沙貴ちゃんと私も顔を見合わせ、してやったりという笑顔を浮かべていた。今回は私たちの胸のすくような勝利である。
 お団子と抹茶が来た。
 のどかな春の日である。どこかで正午を告げるチャイムの鳴る音が聞こえてくる。それを耳にした岩岸さんは腕時計を見て透明な微笑を浮かべた。
 抹茶を一口いただいてから、岩岸さんは誰に言うともなく謎の言葉を口にした。
「さて、お昼を過ぎました。午後になりましたから、そろそろよろしいでしょう」
 何がよろしいのだろう。眉をひそめている私たちに、岩岸さんは穏やかな声で話しかけた。
「いかがでした。皆さんの創作された《桜の森》の宿題には、先ほどのような解答でよろしかったのでしょうか」
 お団子を口へ運ぼうとしていた私たちの手の動きがほぼ同時に止まった。香澄がお団子をお皿の上に置いて、ちょっぴり悔しそうな表情で訊いた。
「あの、もしかして初めから《桜の森》のことは全て私たちの創作した架空のお話だとわかっていらっしゃったんですか」
 岩岸さんはやわらかく微笑んだ。
「はい。今日は四月一日です。午前中であれば嘘をつくことが許されている日でしたね。架空の町で鍵が迷うという創作も、楽しく罪のない嘘だと言えますから」
 そうなのである。本日は四月一日。エイプリル・フールとも万愚節とも呼ばれている、嘘が許される日なのだ。
「やはりエイプリル・フールだとお気づきでしたか」私が問うと、岩岸さんは静かにうなずいた。それからいたずらっぽい表情を浮かべて、
「ですから僕も、嘘が許される午前中は創作されたお話だと気づいたことを言わずにいました」
「わ、やられました」香澄が天を仰いで目を閉じた。
「どうして嘘だと見破られました?」私が質問すると、岩岸さんは《桜の森》宛の封筒をとり上げた。
「実際に室町さんのお兄さんが先ほど僕が説明した方法で封筒を送ったはずがないからです」
「はい?」今度は目の前に出されたカードが一瞬にして消える手品を見せられているような気分である。目の前の手品師さんは意味ありげに微笑むと、
「皆さんは僕の話を聴いていて、一つ妙な点に気づきませんでしたか」
「妙な点ですか」私たちは顔を見合わせて、それから首を左右にふった。岩岸さんは顔の前で指を合わせると、
「室町さんが郵便配達の人から受けとられた封書には料金不足の表示はありませんでしたね。室町さんのお兄さんが本当に僕の言ったような方法を用いたとすると、重さで見破られないように、その日の封筒にもほぼ同じ重さの鍵が入っていたはずですから、封筒には九十円切手が貼ってあったはずなのです。ということは、お兄さんは鍵の入った封筒が重量超過になることを当然知っていたはずです。にも関わらず、一番重要な封筒には八十円切手しか貼っていない。これは不自然です」
「それは気づかなかったです」香澄があっさり脱帽した。
 まず岩岸さんは《桜の森》の宿題に、私たちの想定していたとおりの謎解きをした。それはつまり、私たちの用意した嘘を岩岸さんが見破れなかったということになる。お団子が来る前、私たちが妙に嬉しそうだったのはそのためだったのだ。
 しかし、実際は名探偵の方が一枚も二枚も上手だった。私たちが用意した答えにひそんでいた矛盾にただ一人気づき、嘘はすっかり見破られていたのである。
 参りましたと言おうとした私だったが、もう一つだけ岩岸さんに確認しておきたいことがあった。
「岩岸さん、一つお訊きしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「先ほど岩岸さんは『皆さんの創作された』と言われました。でも、香澄一人が創ったお話だと考えることもできたはずですよね」すると岩岸さんはにこやかに首を左右にふった。
「いいえ。あなた方三人とも《桜の森》が架空のお話だということをご存知だということもわかっていました」
「どうして玲子ちゃんと私も香澄ちゃんと一緒に、その、岩岸さんに嘘をついていることがわかってしまったんですか」沙貴ちゃんが恥ずかしそうに頬をうすく染めて訊いた。
「簡単です。今日の桜が全てを教えてくれたのです」
「桜が?」香澄が小さく首を傾げて、後ろで咲き誇る桜の樹を見上げた。春のそよ風に吹かれて、花びらが二片、三片と宙を舞っている。
「僕が来る前に、皆さんはこの公園で《桜の森》のことを相談しましたね」岩岸さんの言われるとおりである。私たち三人は「相談した」という意味で黙ってうなずいていた。
「それから室町さんが用意してきたオルゴールの中にチケットと新聞記事とメッセージカードを入れて鍵を閉め、その鍵を薄紙に包んで便箋と一緒に封筒に入れて封をした。違いますか」これも岩岸さんの言われるとおりである。私たち三人、今度は「違わない」という意味で黙って首を左右にふっていた。
 実は今日、香澄が岩岸さんより一時間早い時刻に沙貴ちゃんと私を呼んだのもそのためだったのである。
 遅れてきた香澄はリュックの中からオルゴールや封の開いた封筒にチケット、そして新聞記事などをとり出した。
「ねえ、これ何?」沙貴ちゃんが訊くと香澄は微笑んで、
「今日は三人で岩岸さんにエイプリル・フールの挑戦をしようと思うの。協力してもらえないかな」
「挑戦って、いったい何をするの」好奇心から私が訊ねると、香澄は楽しそうに手を胸の前で合わせた。
「春休みで帰省している兄から面白い話を聞いたの。架空の町に宛てた手紙で鍵を郵送する話」
 準備の方は、香澄がお兄さんに手伝ってもらって全てを用意してきていた。香澄の話を聴いているうちに、沙貴ちゃんも私も何だかわくわくしてきた。
「ふうん、香澄ちゃんのお兄さんて、いたずら好きなんだね」
「あ、でもちゃんと最後には正直にお話しして、きちんと謝りなさいって言われちゃった」
「それは香澄のお兄さんの言うとおり。エイプリル・フールのエチケットだものね」私も二人にウインクしてみせた。
 そんな会話をしたのが二時間少し前のことなのだ。
《見かへればうしろを覆ふ桜かな》という句がある。昨夜この句を読んだとき、私は咲き乱れる桜の華やかさよりも、自分の知らぬ間にわが身に桜の群が迫りくる怖さのようなものを強く感じたものである。今の私には、背後で私たちの様子をじっと見ていた桜が、岩岸さんだけに聞こえる声で三人の秘密をささやいている情景が思い浮かんでいた。
 私は微かに身を震わせながら岩岸さんに訊ねた。
「桜はどうやって岩岸さんだけに私たちの嘘を教えたのでしょうか。私には桜の声は聞こえませんでしたけれど」
「私も桜の声を聞き逃しました。岩岸さん、私たちにも桜の声を聞かせてくれませんか」香澄が無理な注文をする。しかし岩岸さんは意外にも簡単に答えた。
「いいですよ」
「耳を澄ませばいいんでしょうか」私が訊ねると、岩岸さんは峻厳な面持ちで私に言った。
「それでは村岡さん、手を出してみてください」
「あ、はい」私はおずおずと両手を差し出した。手が微かに震えているのが自分でもわかる。少々怖い。
 岩岸さんは封筒を手にとった。そしてその封筒をゆっくりと逆さまにした。それから私たちの顔を見て静かに微笑むと、
「よろしいですか、よくご覧になっていてください」そう言って封筒の両端を押してふくらませると、小さくふった。
「あ」私たちは息を呑んだ。
 封筒の口から薄紅色をしたものが一片、はらはらと私の手の上にこぼれ落ちた。まだ瑞々しい花びらだった。
「ほんの少し前に散ったばかりの桜の花びらです。この公園で鍵を封筒に入れたときに、散った桜の花びらが封筒の中へ偶然入ったのでしょう」
 私たちは息を凝らしたまま可憐な花びらを見つめた。
「もしも室町さんが一人で創作したお話であれば、この公園に来てから封筒に封をするはずはありません。公園で封をしたのだとすれば、大和さんも村岡さんも話の内容をご存知のはずだということになります。いかがですか」
《桜々散つて佳人の夢に入る》という句があったけれど、この公園の桜は散って封筒の中に入り、私たちの秘密を岩岸さんに告げたのだ。見事、桜にしてやられたことになる。
「ほんと、桜はおしゃべりなんだから」香澄が形のよい右の眉を少し上げて桜の樹に文句を言った。しかし香澄はすぐにくすくす笑い始めた。
「やっぱり嘘をついてはいけないということなんですね」
「そういうことかもしれません」岩岸さんが桜を見上げながら穏やかな調子で言った。
「ごめんなさい。もう嘘をついたりしません」沙貴ちゃんが岩岸さんに頭を下げる。香澄と私も静かに頭を下げていた。
 桜の花びらがまた二、三片、春の風に散った。

 公園の芝生に映る影が少しだけ長くなった。香澄が桜の樹を見上げながら言う。
「昨日の夜、兄が私に言ったの。桜なんて毎年同じように見えるかもしれないけど、その年その年の桜は、きっとそれぞれに美しいはずなんだって。私、兄の言葉を聞いていて、もしかしたら生きていくとはそういうことなのかもしれないなあって、思ったの。おかしいでしょう」
 誰も笑わなかった。私たちは何も言わず、ただ桜を見ていた。いつまでもいつまでも見ていた。

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