いつも二人で‥‥‥

高橋保志

 赤。
 赤い色。
 血の色。
 暖かな色。
 甘い色。
 心地いい色。
 大好きな色。
 冷たい色。
 嫌な色。


「あっ」
 小さくつぶやく声。
 横を歩いていたさくらが、突然、立ち止まる。いや、立ちすくむって感じか。
「どぉしたん?」
 そう言ってさくらの方を見ると、すぐその理由がわかった。
 さくらの向こう、踏み固められた雪の道の上に、猫の死体があった。
 真っ白い雪の上に、白黒ぶちの猫が頭を潰して、その小さな身体から、その大きさからは信じられないような量の、赤い血が飛び散り、真っ赤にその場の雪を染めている。
 そっとさくらを見ると、そのピンクの唇がかすかに震えているのは、寒さのせいだけではなさそうだ。それでも、目は、死んだ猫から引き離せないのだ。
 死骸は、まだ新しいらしく、汚れてはいない。踏み固められた轍ができてる、団地奥の狭い通りの雪の上も、その猫の血の上を通ったタイヤの跡はない。きっと、触れれば、ぼろ雑巾のようなその子猫の死体は、まだ暖かいのかもしれない。
「えっ、まやか!」
 わたしは、すかさず、さくらの肩に手を回すと、猫の死体から、無理矢理、さくらの視線を引き離そうとする。
「あ、でも‥‥‥」
 さくらは、左手を上げるて、ちょっとだけ抵抗する。
「どうするのよ?」
 わたしは、聞く。
「えっ?」
「じゃ、さくら、触れる? わたしは、イヤだよ」
「でも‥‥‥」
「もう死んじゃったんだからさ」
「もう死んじゃったって‥‥‥」
「もう死んじゃったんだから、なにもしなくても一緒だよ」
「まやかちゃん、冷たいよ」
「猫だって、死んだ後で人間に優しくされてもイヤだよ」
「それはそうかもしれないけど‥‥‥」
 ようやく、さくらは、前を向くと、なんとかゆっくりと歩き出す。
 わたしは、そのまま、さくらの手をぎゅっと握り、その手を引っぱる。わたしは、まだ心が引き留められるという感じのさくらを引きずって、強引なくらいの早足で、ずんずんと歩いていく。
「‥‥‥でも、やっぱりかわいそう」
 しばらく歩いて、さくらは、そう言った。予想通りだ。だから、わたしは、さくらの手を引っぱって、できる限りの早さで猫の死体のある場所から離れさせたのだ。
「今から、あそこまで戻るの? もう、さくらの家に着くよ」
 さくらは、答えない。
 わたしは、途絶えた会話を無理矢理続けた。クラスメートのことや、先生のこと、もうすぐ始まる中間試験のこと、とにかく、猫の話題を打ち消すように。
 わたしは、とっくに、さくらの家までついていくことに決めていた。少し遠回りなのだけど、そうでないと、きっとわたしと別れた後に戻るに違いない。
 さくらには、あんな野良猫の死体に、関わって欲しくなかった。さくらの手に血を付けて欲しくなかった。


「ねこ? うん、わたし、ねこ、大好きだよ。世界で一番大好き!」
 幼いさくらは、そう答えた。遠い遠い昔だ。
 遠い遠い昔‥‥‥。わたしが、初めて、奥底の見えない恐怖に自分が放り込まれたと感じたとき。
「そうなの‥‥‥」
 震える声で答えたわたしの顔は、少し青ざめていたかもしれない。
 でも、さくらは、そんなわたしの様子に気がつかなかったのだろう。屈託のない声で続けた。
「まやかちゃんも、猫好きだよね? かわいいものね」
「う、うん。そうだね。かわいいものね」
 慌ててさくらの言葉を肯定する、やはり小さかった頃のわたし。
 人を好きになることは、喜びではなく、苦痛の始まりであり、それは、出口のない暗闇に自ら足を踏み入れることだった。
 希望のない、永遠の地獄。
 ひりひりするような病的な快感と、常につきまとう不安感、そして、相手の一挙一動、何気ない一言に、奈落に突き落とされるような恐怖を憶える。
 たぶん、きっと、最初から、わたしは、何かが違うと思っていたはずだ。わかっていたはずだ。だけど、気がつけば引き返せないところまで来ていて。戻ることはできず、ただただ前へ進むだけ。それがいっそう深い暗闇の奥底へ向かっているのだとしても、他に道はない‥‥‥。


「あら、まやかちゃん」
 さくらの家に着くと、さくらのお母さんが、わたしを笑顔で迎えてくれる。
「お久しぶりです」
 さくらのお母さんは、童顔で、本当の年齢よりも若く見える。若く見えるのは、仕草や振る舞いにときどき子どもっぽいところがあるからかもしれない。
 さくらのお母さんは、さくらに似ていると思う。面ざしも、雰囲気も。ま、あたりまえか。子は親に似るのだし。
「ゆっくりしていってね」
「はい。おじゃします」


 さくらと初めて会ったのは、幼稚園の入園式だ。
 それは、わたしにとっては、始まりの始まりであり、また、お終いの始まりでもあった。
 雑然と並べられた小さな椅子に、入園する子どもたちが座らされていた。親たちは、後ろの方だ。どの子も、親から切り離され、同じ年頃といえど今まで会ったこともない他人の中に放り出され、落ち着かなげだ。
 わたしも、内心、不安を感じながら、それでも、子どもながらに、ある意味、「かっこをつけて」、おとなしく椅子に座っていた。父親と母親のいるはずの後ろを振り返ることもせず、あえてまわりを気づかわしげに眺めることもせず。
「あの‥‥‥」
 そのとき、小さな声がわたしに話しかけてきた。
「わたしは、みのさくらです。あなたは?」
 隣の女の子だった。
 ずっと後でさくらから聞いたことがある。あまりに落ち着いているので、わたしのことを、お母さんのようだと思ったのだそうだ。だから、この人なら安心できると思って話しかけたのだそうだ。
 さくららしい。
 わたしは、そのとき、初めて、さくらという女の子を見た。
 きらきらした眼が、まるで綺麗な宝石のようだった。ピンク色のリボンが結ばれたフワフワした髪も薄桃色したほっぺも、人形のように、かわいらしかった。
「みかぐらまやか‥‥‥」
 だから、わたしの答えは、ちょっとぶっきらぼうだったのを憶えている。そして、自分の口調に気づき、言ってしまってからすぐに後悔したことも。
「そうですか。まやかちゃんですか。よろしくおねがいします」
 でも、そんなことを気にするふうもなく、そう言って、さくらは、にっこりと笑った。
 わたしは、すぐにこのさくらが好きになった。
 このさくらが、父親の言う、運命の人なのだと思った。
 生まれて初めて出会った、同じくらいの歳の人間。父、母、親戚‥‥‥そういう大人たちではない、自分と同じ時間の人間。本当は、ただそれだけだったかもしれない。
 多分、わたしは、あらゆる局面で、気がつかないうちに、不運に見舞われていたのだと思うが、そのわたしの人生の中で、これだけが唯一の幸運だった。そういう意味で、「運命の人」と思ったのは、間違いではなかった。だけど、それ以外に関しては、すべてが誤りだった。誤りだらけのわたしの人生の中で、さくらだけは、唯一の光り輝く真実だった。もちろん、わたしが、真にそのことに気がつくのは、さらにずっと後のことだったけれど‥‥‥。


「なんか、久しぶりに見たよねぇ、このジャケット」
 わたしは、さくらから二つのCDのケースを受け取ると、それをちらりと眺めて、たぐり寄せた自分の革鞄の口を開ける。
「長い間借りてて、ごめんね。でも、これ、とっても良かったよぉ」
「ま、ダブル・ディーラーは、日本の宝やからねぇ。あと、今度、ハロウィンの新しいのも買ったから、それも持ってくるよ」
「やったね〜」
 うれしそうにそう言うさくらは、帰り道に見た猫のことは、もう、すっかり頭にないようだ。
 わたしは、荷物を詰め込んだ鞄を再び押しやりながら、さくらのベットの枕元に乗っかってる黄色いアナログの目覚まし時計に目をやる。
「わたし、ちょっとお手伝いしてくるわ」
 そう言って、わたしは、立ち上がる。
「ああ、もう、まやかって、いっつもそうね」
 そんなふうに言いながら、さくらも、にこにこ笑って立ち上がる。
「あ、お手伝いしますぅ」
 階下に降りたわたしは、キッチンに顔を出す。
「あら、そんなこといいのよ。さくらの部屋でゆっくりしてらっしゃい」
 さくらのお母さんは、手を止めて、こちらを振り返る。
 冷えた廊下から入ると、キッチンは、温かい水蒸気で、少しむっとするくらい。鍋がお湯をふく音がし、どこか甘い匂いも漂ってくる。
「いえ、いいですよぉ。いつもお世話になってるし‥‥‥」
 そう言いながら、わたしは、すっかり勝手知ったるさくらの家のキッチンで、入り口にかかってる、これも既にほとんどわたし専用になってる、グレーのデニムのエプロンを取る。
「お世話だなんて、大仰ね。うちのさくらの方が、よっぽど、まやかちゃにはお世話になってるのにね」
「いえいえ。料理、嫌いじゃないですし」
「そう? それじゃ、また、お願いするわね」
 形だけのやりとりの後で、にこやかに笑いながら、わたしが、キッチンで隣に立つことを認めてくれる、さくらのお母さん。
 これも、いつものことだから。
「それじゃ、そこの炊いたカボチャをつぶしてくださるかしら? ちょっと力仕事だけど。今日は、カボチャでコロッケを作ろうと思ってたの」
 シンクの横には、ふわふわな湯気を立ててる、皮をむかれ、薄切りにされてゆであげられた、オレンジ色のカボチャの入ったステンレスのボールがある。
「ああ、あと、こちらのお野菜は‥‥‥」
 わたしは、下ごしらえの途中らしい隣のボールに入っている洗って水切りされたレタスと、やはり、洗われて切られるのを待っているだけのタマネギのつやつやした玉を見て、言った。
「シーフードのサラダに合わせようと思って。ちょっとマリネにしてね。そちらは、私がするから」
「わかりました」
 後ろで、何をするともなしに、うれしそうなさくらが、うろうろしながら、わたしたちの作業を後ろからのぞいている。
「まやかってさ、昔っから、料理上手だったよね?」
「さくらも、少し、憶えなさい。ほんとに恥ずかしいわ、まやかちゃんに比べると‥‥‥」
「いいの、いいの。わたしが作るより、まやかちゃんとお母さんが作ってくれた方がおいしいのができるし、わたしは、まやかちゃんとお母さんのごはんが食べられるのがしあわせなんだよ」
「もう、この子ったら」
 さくらのお母さんが、半分笑い声で、たしなめる。わたしも、ちょっとだけ、笑いながら、ポテトマッシャーを握り、カボチャのたてる甘い匂いをかいでいた。


「まやかちゃんって、お料理上手だね」
 初めての料理。さくらに食べてもらった最初の料理は、炒飯だった。あのときも、さくらは、そう言った。すこし、感心したように。そして、うれしそうに。あの時のさくらの笑顔が、わたしには、すごく眩しくて、そして、気持ち良かったことを憶えている。そう、あんなことをしても、わたしは、「きもちよかった」のだ。


 いた。
 遠く、向こうの垣根の隙間から、じっとこちらを伺う黒い瞳。
 わたしは、しゃがみ込むと、右手で、ポケットから、ビスケットの入った包みを引っ張り出す。
「ねこ、ねこ‥‥‥」
 わたしは、ドキドキしながら、その灰色の子猫を呼んだ。
 来てくれるだろうか。
「ねこ、ねこ、おいで」
 わたしは、子猫を呼んだ。


 わたしがまがりなりにも料理がなんとかなるのは、死んだ母親のせいだろう。母は、確かに料理はうまかった。いや、料理だけではない。家庭の主婦であることに喜びを感じるタイプの女性だったので、家事全般、和洋中、イタリア、フレンチ一通りの凝った料理(パスタから蕎麦まで自分で打った。ジャムもソーセージも佃煮もハムも、市販の物は食べさせられたことがない)から裁縫、もちろん、キルティングやパッチワーク、イギリス留学時代に身につけたという刺繍まで、何でもこなした。家は、いつも隅から隅まできれいだったし、よく手入れされた庭で摘んだ花の香りがいつもかすかに漂っていた。
「母さま、わたしは、さくらさんになにかごはんを作ってあげたいのですけど」
 神妙な顔でそう言った六歳の娘に対して、あの母親は、にっこりと笑って答えたものだった。
「まあ、まやか。それじゃ、炒飯にしましょうか? お昼にはちょうどいいし、これならまやかにもつくれると、ママは、思うわよ」
 大きな中華鍋。熱い火。はぜる油。
「いい、まやか。火はちょっと強めにしてね。油がはねるから、気をつけてね」
 完璧なあの母親は、小学校にも上がらない子供に火を使わせることをまったくためらわなかった。もちろん、包丁についてもである。ああいう合理主義の部分についてだけは、あたしも、彼女を評価する。
 小さなあたしは、母親に言われるままに、材料を熱い鍋に投入していく。
 母親の目を盗むのはなかなか難しかった。
 今思えば、ああいう態度であっても、あの母親は、初めて火や刃物を扱うわたしのことを、それなりに心配し、注意を払い、気をつけていたのかもしれない。
 母親らしくか?
 まあ、そうかもしれない。


 猫は、無警戒に、幼いわたしの差し出したビスケットを口で挟んだ。子猫だから、用心が少し足りなかったのかも知れない。もちろん、目の前にいる人間が、ついさっき、本当に猫が好きなさくらと一緒にお菓子を食べさせてくれた女の子だというのを憶えていたせいもあるのかもしれない。
 左手に、小さな猫がビスケットをかみ砕く、カツカツという感触を感じながら、小さなわたしは、なるべく平静なふりを装い、右手で玄能の柄を確かめた。
 瞬間、子猫は、異常に気がついた。ぱっとわたしの手のビスケットから口を離すと、身を縮め‥‥‥それがいけなかったのだ。すぐに逃げれば、六歳の少女がふるう玄能なんかに殺されはしなかったろう。
 自分の力が子供なりに弱いことを分かっていたので、わたしは、渾身の力で玄能を振り下ろした記憶がある。金属の塊は、子猫の左耳の後ろにめり込み、頭蓋骨を砕いた。ぐしゃりという感触が、あたしの右手に確かに伝わった。


「まやかちゃん、おいしいよ」
 さくらは、わたしが初めて作った、さくらの「大好き」な猫の入ったチャーハンを、そう言ってくれた。
 わたしが、どうしようもない罪の意識に翻弄されたのは、その夜のことだった。


「うちのお父さんは、今日も遅いのよ」
 さくらのお母さんは、熱いできたてのコロッケの盛りつけられた皿をダイニングのテーブルに置く。テーブルには、既に、大きめのガラスの深皿に盛られたシーフードのマリネが乗っている。レタスとクレソンの緑、ラディッシュやタコ、マグロの身やスライスされたトマトの赤、それに、添えられたレモンの黄色が鮮やかだ。
 お役所に勤めるさくらの父親は、いつも忙しく、わたしも平日にその姿を見ることはめったにない。お役所というと、時間ピッタリ、休まず、遅れず、働かず、のイメージがあるが、現実には、だいぶ違うようだ。
「でも、今日は、まやかちゃんもいるから、女三人でにぎやかにごはんだね」
 さくらは、結局それが彼女唯一の仕事である、取り皿を並べながら、さくらもそう言う。
「まやかちゃんは、ご両親を亡くされてから、一人で暮らしてらっしゃるんでしょ? 何でもできるもの。偉いわよね」
「あははは。なんとなく、慣れましたから」
 わたしが、天涯孤独の身であることを、安っぽい同情の言葉で飾ったりしない。そういうところが、さくらの家族の、わたしが好きなところだ。
「うちでよかったら、いつでもごはんを食べに来ていいのよ」
 それでいて、きちんと気をつかっている。
「いっそのこと、ここに住んじゃえ、住んじゃえ」
「そうね。さくらと取り替えちゃいましょうかねぇ」
「ああっ! ヒドイこと言うよ、お母さん」
「お父さんが帰ってきたら、相談してみましょう」
「ええ〜っ」
 さくらの家族のやりとりは、いつも暖かく、心地よい。これが、「愛」なのだろうか。いや、この心地よい空気を、そんないやらしい言葉では、呼びたくない。



「愛、それは、この世でもっともすばらしいものだ」
 そう、腐れ頭の父親は、その日のわたしに曰ったものだった。
 わたしにだって、素直で純粋だった子どもの頃というのがあったはずだ。そう。素直で純粋で疑うことを知らない子どもの頃だったからこそ、あのおめでたい父親の膝の上になんか乗って、そいつの言うことなんかを聞いていたりしたのだ。
 思い出すだけで、鳥肌の立つ日々‥‥‥。
「人は、人を愛し、愛されて、はじめて、完全な人と呼ばれる存在になる。愛する人を得て、その愛を心の中に育んだときに、人は、初めて、完全な存在になれるんだ」
「あいするひと?」
「そう。その人が好きになって、その人を好きになってくれる人がいたとき、その人は、ちゃんとした人であると言える」
 わたしは、真剣に、この脳みそが腐れた男の言葉を聞いていた。恥ずかしい限りだ。
「じゃ、そうじゃなかったら、どうなるの?」
「そういう人間は、不完全だし、出来損ないの、恥ずかしい存在だ。正しくない人だ」
 父親の言葉は、小さかったわたしにはよくわからなかった。といって、もちろん、理解しようとするのが間違いなので、わからなくてもよかったのだが。それでも、「不完全」、「出来損ない」、「正しくない人」‥‥‥そんな言葉が、小さかったわたしの心を恐れさせた。けして入り込んではいけない、深い暗闇。二度とはい出すことのできない、永遠の地獄。
 もちろん、その脳みそが腐ってようが、蛆がわいていようが、子どもにとって、親は親だ。幼い子どもにとっては、絶対的なものなのだ。間違っているなどとは決して思わないし、もし間違ってると思ったら自分がおかしい、そう思うものだ。少なくとも、わたしは、そうだった。
 それでも、今でも、疑問に思う。
 なぜ、その言葉が、わたしを恐怖させたのだろう。
 なぜ、その言葉だけで、あの父親の言うことが、呪いのように、わたしの心を縛り付けたんだろう。
 きっとそれも、今では思い出すこともできない、さらに昔の何かの無責任な言葉か不運にも偶然の出来事が関係しているのかもしれない。
「まやかは、そんなふうになってはいけないよ。お父さんとお母さんのように、おまえも、早く、愛し、愛してくれる『運命の人』を見つけなさい」
「はい、父さま」
 わたしは、幼いながらも真剣にそう答えていた。


 アマトール。
 TNT、硝酸アンモニウムなどの混合物。白色で、粘土状。可塑性がある。
 昔の戦争の時の軍艦の砲弾の炸薬に使われてもの‥‥‥だそうだ。それが、なぜ、今、この家にあるのか‥‥‥。もちろん、わたしは、知らない。興味もないし、知りたくもない。あの脳を病んでいる両親やそのまた両親たちの行為の理由なんか考えたくもない。
 この広い三階建ての家には、探せば、どこかに銃や刀剣の類もきっとあるに違いない。掘り出して面倒なことになるのもしゃくなので、あえて調べたりはしないが。
 そのときそこにそれがあった。
 そして、わたしは、それの使い方を知っていた。
 一度、父親に連れられていった山奥の渓流で、父親がそれを使うのを見せられた。その使い方の丁寧な説明と共に。
 爆薬は、炸薬と雷管からなる。
 炸薬は、それ自体は、感度が低く、ある意味安全であること。
 ただし、一旦点火すれば、極めて少量でも、苛烈な破壊力を発揮すること。
 起爆には、感度の高い雷汞やアジ化鉛などの起爆剤を利用した、あるいは、電気式の雷管を使う。


 猫、文鳥、灰色のうさぎ‥‥‥。
 わたしは、自分の行為がどんどんエスカレートしていくのを止めることができなかった。
 背徳的な快感と、底知れない恐怖。焦燥感。罪の意識。常に継続する不安感。
 行為と形式が自分の思考を支配していく恐ろしさと、それを止められない無力感、絶望感、劣等感。
 同級生の男の子、学校の先生、引っ越してきた女の子、近所に生まれた赤ちゃん‥‥‥。


「わ、このコロッケ、おいしいよ。ふわふわのさくさくぅ」
 そう言いながら、さくらが、熱いコロッケを、ほっぺたを膨らませながら、ほおばる。まるで、おっきなリスみたいだ。‥‥‥あるいは、ちっちゃな子どもか?
「結局、ほとんどまかせちゃって、悪かったわねぇ」
「いえいえ。楽しかったですし。それにしても、このカボチャ、おいしいですね」
「そうねぇ。カボチャは、あたりはずれがあるけど‥‥‥これは、あたりね」
「まやかって、主婦としてカンペキよねぇ。ねえ、ねえ、まやかちゃん、うちに、お嫁に来ない?」
「おお、言ってろ、言ってろ」
 そんなさくらを、わたしは、軽くあしらう。


「潤一君って、かっこいいね」
 さくらがふと漏らした言葉‥‥‥。
 その頃には、わたしも、自分自身で得た世の中の常識、知識をある程度蓄えることができていた。だから、女の子は、男の子を好きになるのが普通なのだということぐらいは、知っていた。自慢できることではないけど、あの両親と両親が与えてくれた世界だけがすべてだったわたしには、そんなことさえ、やっと身につけた常識だった。
「そう‥‥‥」
 自分は女だった。さくらも女だった。
 だから、怖かった。
 もうやりたくなかった。
 でも、怖かった。
 これを乗り越えたら、また、少し心が安まるんだろうか?
 そうに違いないと確信した。
 だから、今少しだけ耐えよう。我慢しよう。
 でも、そうではないと、わたしは、知っていた。
 事実、結局、彼は、わたしが最後に殺した人間ではなく、単に、最初に殺した人間となったに過ぎなかった。


 わたしは、彼が、仲間の男のたちと、よくその公園でサッカーをしているのを知っていた。公園の奥に、子どもには充分な大きさの広場があり、小さなゴールが二つ置いてある。さらに、その広場の端に木製のベンチが、一つ。
 わたしは、そのベンチからはちょうど公園の反対側になるブランコに座っていた。そして、そこから、いつものように、友だちとボールを追いかける彼の姿を追っていた。
 宙に浮かんだ両足をぶらんぶらんさせながら、わたしは、見ていた。
 じっと握りしめたわたしの右手は、汗ばんでいた。
 疲れた彼が、仲間と交代し、ベンチに座ったとき‥‥‥それは、起きた。
 オレンジ色の光。
 土煙が巻き上がる。
 飛び散る赤い煙。
 お腹の奥に響くような重い大きな音は、山奥で聞いたのと同じ音。
 違ったのは、その後に、たくさんの人の声がしたこと。
 叫ぶ人、泣き出す人、悲鳴を上げる人‥‥‥。
 わたしは、ブランコを飛び降りて、走る。
 あった。
 わたしは、公園の隅のニレの木の枝に引っ掛かったピンク色の肉片を見つけた。
 あの男の子は、赤い飛沫と細切れの破片になった‥‥‥。
 心の芯を甘く溶かすような、そして、神経を焼くような、痛みの混じった快感が、小さなわたしの中に湧く。恐怖が幼いわたしに与える数少ないご褒美だった。
 用意していた薄水色のタッパウェアをポシェットから取り出すと、その肉片をつまんでその中に入れる。


「今日は、何を作りたいのかしら、まやか?」
 頭の中にたんぽぽでも咲いているような、そんなのどかな調子の声で、母は、言った。
「ジャム‥‥‥」
 最初、母親に言われるとおりのものを、母親と一緒に作っていたわたしは、そのころから、自分の作りたいものを自分から言うようになっていた。
「ジャムがいいです、母さま。杏の‥‥‥さくらちゃんが、甘い杏のジャムがいいって」
「そう」
 わたしを見ながら、にっこりと笑う母親。気味が悪い。
 すぐにジャム作りの準備が始まった。
「ジャムはね、たっぷり砂糖を使うから長持ちするのだけどね」
 自由水と砂糖。
 砂糖は、それ自身水を取り込み、食品から自由水を奪う。だから、砂糖の中につけられた食品は、細菌の繁殖が抑えられて、結果、長持ちする。
「塩づけにしたりするのと一緒ね。でも、ジャムが甘い本当のわけはね‥‥‥わかる? まやか」
 母は、にこやかな顔でわたしを見る。
「甘いとおいしいでしょ? 幸せな気持ちになれるから、だから、ジャムは甘いのよ、まやか」
 一面に菜の花でも生えてそうなおめでたいことを、おめでたそうな声で、このおめでたい母親は言う。
 鍋を見つめているわたしは、それでも、おとなしく、母親の言うことを聞いている。すでに、このステンレスの鍋で、袋一つ分のグラニュー糖と杏の実と共に、そこには別のものが煮えている。だから、緊張が解けたわたしは、そんな母親の言葉も聞く余裕があったのだろう。あの時の言葉は、今でも、妙に憶えてる。
「でも、甘くないジャムもあるのよ」
 そのあと、母親は、タマネギやエシャロットを使ったジャムの話を延々と続けた。
「そういうジャムは、パンに付けたりするよりも、ソースのように料理の味付けに使ったりするわね。今度、作ってみましょうか?」
 何時間も煮込まれて飴色になったジャムは、家に泊まりに来たさくらと一緒の朝ご飯の食卓に乗せられた。
 さくらの帰り際、パッキン付きのしっかり蓋の閉まるガラスの瓶にわたしの杏のジャムを入れて、さくらに渡した。
「わ、いいの? これ、すっごくおいしかったから、さくら、なくならないように少しずつ食べるね」
 うれしそうに、そう笑う、さくら‥‥‥。


 わたしにとって悲しいことに、それが、生き物の命を奪うことが悪いことであると思うくらいの常識と分別はあった。人の命を奪う行為が、人の間でもっとも忌むべき行為とされていることを知っていた。
 「不完全」、「出来損ない」、「正しくない人」‥‥‥。
 わたしの心の中に、二人の教師がいて、それぞれが別々なことをわたしに強要し、どちらの行為を選んでも、どちらか一方が、わたしの為したことを鋭く糾弾するのだった。幼いわたしは、いつも、二つの命題に、二つの正義に、二つの正しさの間に、無惨にもてあそばれ、引き裂かれていた。そして、目の前に真っ暗な恐怖を突きつけ、常に、わたしのなかで勝利していた正義は、父親のあの言葉で縛り付けられた、あの理不尽な行為を強いる方だった。
 わたしにとって、いつも最後は、世間の常識、世間の正しさは、単なる可能性に過ぎなかったのだと思う。


「疾病利得」
 本の上でその言葉を発見したとき、わたしは、心臓の凍る思いだった。
 わたしは、こんなことをいったいいつまでやっていけるのか、などとは思いもしなかった。なぜなら、これに終わりがあるとは思っていなかったし、その程度の希望さえ持てなかったから。
 わたしは、しだいに、自分の精神に何か疾患があるのではないかと思い始めていた。気の触れた両親がいるあの家だけが自分の世界のすべてではなくなり、時が進み、外の世界が自分の中で徐々に大きくなっていくにつれて、それは、確信へと変わっていった。
 心の中で、もはやどれが正しい「良心」なのかはわからない、その良心に責めさいなまれるとき、わたしは、自然と、すべてを心の病のせいにして、それを押し込めていたところがあった。それは、わたしにとって数少ない、嵐を避ける避難所のようなものだった。
 だけど、父親の書斎でみつけたその本に書かれたその言葉は、そんな逃避先を、単なる自分の弱さと決めつけた。
 疾病利得。
 自分は、自分の意志で行っている。
 すべては、自分の欲望から出た行為であり、それを、精神の病や、あるいは両親のせいにしているだけだ。自分は、本当に悪いのだ。
 そして、わたしを引き裂く二つの力は、ますます荒々しく、情け容赦なくなった。
 それでも、わたしは、その状況から抜け出すすべを知らなかった。


「あ、これ‥‥‥」
 食事が終わった後。テーブルに運ばれてきたグラスに入ったお菓子に、わたしは、ちょっと声を上げる。
「むふふふ‥‥‥」
 向かい側で、さくらが不気味な声で笑う。
「なによ〜、その笑い」
「まやか、それ好きだったよね〜」
 部屋の暖かさに汗をかいている透明なグラスには、下半分が薄い黄色の半透明、上には、白いムースが乗っている。柑橘系特有のさわやかな透明な匂いが漂う。
「柚のムース、好きなんですって? さくらから聞いてたから、作ってみたんだけど、ちょうどいらしてくれたから、よかったわ。試してみてくださる?」
「うれしいです。いただきます〜」
 さくっと小さなスプーンを突き刺し、奥の柚のゼラチンをそっとすくって、クリームと一緒に口に運ぶ。
 食事のあとの少しほってた体に心地よい冷たさが、すっきりした酸っぱさと甘さと共に口の中に広がる。
「‥‥‥うん、おいしいです」
「そう、よかったわ」
 本当は、加えられたグランマニエが心持ち多すぎて、柚の香りとのバランスを崩している。それに、多分、材料をまぜるときに使った道具に付いていたのだろう微かな他の食材の臭いが混じって風味をわずかに損なっているのも感じた。冷たいお菓子は、そうでないお菓子以上に、香りが命だ。でも、どれもこれも些細なこと。わたしは、そんなことをおいておいて、素直に、おいしいと思った。
 それに‥‥‥。これは、本当に懐かしい。いつ食べても‥‥‥。
 そう。わたしは、確かに柚が好きだ。それは、あのときのことを思い出すから‥‥‥。


 夜の終わりは、わたしが、世界のお終いを意識したときだった。もう守りきれない。世界を保つことができない。そんな悲鳴を上げた瞬間だった。
 考えてみれば、当たり前のことだ。
 世界の終わりは、つまり、いびつに歪んだわたしの中の世界の終わりに過ぎなかった。それを育ててきたのはわたしなのだから、わたしがそれから逃れるには、わたしがそれを辞めればいいだけだったのだ。


「さくらちゃんにあげるっ」
 わたしは、言った。
 そのとき、もはや、わたしは、必死だった。
 きっかけがなんだったのか、もう憶えていない。
 いつものように、何か、またさくらが興味を持った新しいことの話だったはずだ。
 わたしは、久しぶりにわたしの部屋に遊びに来てくれたさくらの前で、必死に叫んでいた。
 勢いで、わたしの右手がぶつかって、テーブルの上に置かれたグラスが倒れ、中のクリームが飛び散るのも気が付かなかった。
「さくらちゃんに、この世界を全部あげる。さくらちゃんがほしいものは、何でも。わたし、わたし、わたし‥‥‥」
 でも、そのとき、さくらは、言った。小さな、かわいらしい、さくらの声が言った。
「まやかちゃん。さくらは、そんなのいらないよ」
 そんなのいらない‥‥‥。
 それが、鍵だった。
 小さな声だった。本当は、一瞬、何を言われたのかわからなかった。でも、それは、わたしの心の、体の隅々まで響き渡った。
「まやかちゃんが、いっしょに遊んでくれたら、さくらは、他にはなんにもいらないよ」
 目が回るような奇妙な感じだった。
 そして、わたしは、自分が泣いているのだと気がついた。
 後にも先にもわたしが自分の人生の中で、人前で泣いて見せたのはそのときだけだった。
 すべてが壊れて消えていった。世界が崩れ、溶けていった。
 そんなのいらない‥‥‥。
 なんて、簡単な言葉だろう。
 そんな簡単な言葉が、それは、わたしを縛り付けていた偽りの価値観を壊し、心の底に眠らせていた疑いを明らかにし、これまでわたしを支配してきた「言葉」を糾弾した。
 なにが起きたのかわからなかった。
 でも、気が付くと、すべてが変わっていた。
 自分が背負い続け、それに押しつぶされそうになっていたものは、単なるどうしようもないガラクタだったことがはっきりとわかっていた。どうしてそんなものに騙されていたのだろうと、一瞬前の自分の気持ちが理解できなかった。
 そう。そのとき、一瞬のそのときに、わたしにすべてが起こっていた。
「まやかちゃん、どうして泣いてるの? さくら、何か悪いことした?」
「ううん。そうじゃない。そうじゃないよ。さくらちゃん‥‥‥」
 わたしは、心配そうなさくらの顔に、涙をぬぐった。今、ここで、さくらが悲しんだら、またすべてが元に戻ってしまうような気がして、必死に涙をぬぐって笑顔を作った。
「さくらちゃん、なんにも悪くないよ」
「よかった」
 さくらは、また笑ってくれた。
「まやかちゃん、このごろ、ぜんぜんいっしょに遊んでくれないから、さくら、さみしかったよ」
「うん‥‥‥」
「まやかちゃん、いっしょにいてよ。さくらも、まやかちゃんといっしょにいるよ」
「うん‥‥‥」
 部屋に立ちこめた、薫るすっきりした柚の匂いが、そのときのわたしの心の中のようだった。
 そして、それが、さくらが、真の意味で、わたしにとってのたった一つの光り輝く真実となったときだった。


 わたしが救われたのは、そのようなわけだ。
 さくらは、初めから知っていたのかもしれないとわたしは思っている。
 どうしたら、わたしが救われるのか、いったいわたしが何を求めていたのか。
 おかしな話だけど。
 わたしが知らないことを、さくら自身も知らないまま、ずっと、わたしが聞くのを待っていた。‥‥‥あの日初めて出会ったときから。‥‥‥ずっと‥‥‥。
 すべての元凶であるあの脳天気な両親がそろって交通事故で死んだのもそれから一ヶ月もしない頃だった。
 両親のお葬式の間中、全然悲しんでないわたしの手をわんわん泣くさくらがぎゅうっと握っていたのを憶えてる。いや、わたしは、少し、悲しかったのかもしれない。わたしも、そこまで「できすぎ」ではないだろう。でも、そうやって、さくらが泣きながらわたしの手を握ってくれてたおかげで、そんなことに気づきもせずに済んだのだ。


「わ〜。やっぱり寒いね、まやか〜」
 そう言って、さくらが口元にあてるミトンの両手の隙間から、白い息がふわりと上がる。
「だから、送らんでもいいって言ったっしょ」
 外は、もちろん、真っ暗だ。まだ微かに白いものが舞い降りている外は、積もった雪がすべての音を吸収して、しんと静かだ。
「大丈夫、大丈夫っ。二人で歩けば、あったかいし」
「そりゃ、どういう理屈だ」
 そんななかで、二人の声が二人の間だけで聞こえる。
 もちろん、言い訳はできない。わたしがこれまで殺してしまった命に対する償いから、わたしが逃れることはできないだろう。それが親の誤った教育のせいであれ、あるいは、自分の精神の病のせいであれ、たくさんの生き物を、そして、人間を殺してしまったことへの言い訳にはならないだろう。だから、自分は、いつか償いをしなくてはならない。
「さくらもさぁ、高校生なんだから、彼氏の一人もいてもいいよねぇ」
「まやかちゃんは?」
「さあてね?」
「あ、ひどいなぁ」
 ひどいのは、どっちなんだろう。もちろん、わたしは、そんなさくらの無邪気に「ひどい」ところも大好きだ。
 それでも、いつか、この脳天気娘にも、この子を好きになってくれるような奇特な男が現れるのだろう。まあ、こんなヤツだが、性格が悪いわけではないし、顔の造作なんか、わたし的にもかなりオススメのレベルだ。
 そう、そのときこそ‥‥‥。
 いや、直後だと、なんか当てつけみたいだと勘ぐるヤツとか変なことを想像するロクでもないのとかがいそうだから、やっぱり、しばらくしてからかな‥‥‥。
「あ、まやかちゃん、今、何、考えてたの?」
「う〜ん、さくらのことに決まってるじゃない〜」
「えっ、え〜っ!」
「だから、わざとらしく驚くなってっ」
「あたっ。‥‥‥もう、痛いよ、まやかちゃん!」
 やっぱり、白いバスルームで、滴る自分の血を見ながら死にたい。まわりが、今度は自分の血で真っ赤に染まるのを見ながら、あるいは、そうしたら、安心できるかもしれない。いつでも、赤は、わたしにとっては、特別な色だったから。
 ちょっと綺麗すぎるかもしれないけど、可哀想な女の子の、ちょっと運のなかった女の子の、最後のわがままだと思って、許して欲しい。もちろん、同情してもらえるほどの立場じゃないというのはわかってるから、せめて‥‥‥希望だ。
 でも、それまでは‥‥‥。そう、それまでは‥‥‥。
「もう、そろそろここでいいよ、さくら」
「え、もう少し、行くよ。ついでに、まやかんちに寄ってこうかな」
「おお、それじゃ、ついでに泊まってけ。お泊まりセット、置いてあるやろ」
「やった、お泊まり、お泊まり〜」
 さくらと二人、手をつなぎ、きゅっきゅっと雪を踏みしめながら、暗い夜道を、冷たい道を歩いていく。
 今は、しばらくは‥‥‥。
 いつも、二人で‥‥‥。

おとめごっこクラブ
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