雪のあとに   Apres une neige

松堂明友


 これから私がご紹介するのは、今から一年前の冬の日、街の全てが妙なる雪にやさしく包まれたときのお話。

 去年は二月に入ってからというもの、寒さがいっそう厳しさをつのらせていた。かの高村光太郎の詩の表現を拝借するならば、「刃物のやうな冬」の到来である。
 その日の朝、目覚めたときから私はすでに予感めいたものを感じていた。布団の中でよっこいしょと身体をひねり、枕の上に腕を組んで、その上に寝起きの顔をふわりと乗せた。われながら何ともお行儀のよくない格好である。
「今日は、きっと雪になる」そっとつぶやいてみた。子供の頃、期待に息をひそめながら雪の朝に窓を開けたときの懐かしい思いに胸をくすぐられたような気持ちになる。
 私は静かに目を閉じた。このまませめてあと五分、いいえ、あと三分。暖かな布団の中でまどろむ至福の時間である。
 天使に再び夢の国へ誘われそうになったそのとき、台所で朝食の用意をしている母親が私を起こす声が聞こえた。またたく間に眠りの国の天使はどこかへ飛び去ってしまう。
「はあい」返事をした勢いそのまま、えいっとばかりに暖かな布団をはねのけ、私はベッドからとび起きた。
 窓を開けると、ひんやりとした冷気が肌を刺した。しかしまだ雪の降り始めている気配はない。ちょっぴり残念。
 高校の制服に着がえ、鏡の前でいつもより時間をかけて髪をとかす。知らず知らずのうちに心がはずむ。
 食堂に降りて、トーストにバターを塗りながらテレビを見ていると、白いタートルネックのセーターを着た天気予報のお姉さんが、東京でも午前中には雪が降り始めるでしょうと告げている。各地の天気を表す雪だるまがかわいい。
 暖かな布団の中にいる時間が長い分、冬の朝は特にあわただしくなる。食後のミルクティーもそこそこに身支度を済ませると、母親の用意してくれたお弁当を鞄に入れ、玄関へと私は急いだ。
「行ってきます」すでにマフラーにコート、そして手袋と重装備の私である。雪への期待に胸をときめかせながら、私はいつもより少し早めに家を出た。
 空はすっかり準備万端、いつでも雪を降らせて進ぜましょうというように、練り絹を思わせる深い色をたたえている。こういう今にも雪の降りそうな様子、これを雪催いというのだそうだ。「ゆきもよい」なんて「雪も佳い」と響きが同じ。そう気づいて一人でマフラーに顔をうずめ、私はくすくす笑った。
「おはよう、玲子。何かいいことあったの?」声だけですぐにわかる。後ろからぽんと背中をたたきながら朝の挨拶を投げかけてきたのは室町香澄。私の親友である。
「あ、香澄、おはよう。今日は雪だよ」掌を天に向けて私が言うと、香澄も楽しげにうなずいた。
「うん。そうしたら帰りに雪合戦しようか」
「まあ、香澄ったら情緒ないんだから。雪をめぐらす、なんて出てこないかなあ」
「何、それ」
「風が雪を吹きめぐらすように、袖を軽やかに翻して舞うこと。曹植が詠んだ詩の一節」
「ふうん」香澄は興味なさそうな返事をすると、一、二と数えながら七歩だけ私の先を歩いたところで立ち止まった。その場で香澄はくるりと私の方にふり返ると、
「でも、兄は私のことをとっても大切にしてくれるから、私は詩が詠めなくてもだいじょうぶだよ」
「うん、そうだね」
 二人、顔を見合わせてにっこり笑う。
 魏の曹植は詩才に優れていたが、それを兄の曹丕に妬まれて、あるとき七歩歩く間に詩を詠まねば命はないと命ぜられた。曹植は七歩歩む間にたちまち兄弟の不和を嘆く詩を賦したという。
 古典の授業で習った故事をさりげなく引用する香澄の横顔に、私は機知と聡明の香りを感じていた。
 私の視線に気づいた香澄が、小さく首を傾げながら言問いたげな表情で私を見る。少しだけどぎまぎしながら見つめ返した香澄の顔の前を、一すじの白いものがふわっと流れた。
「あ、香澄、見て。雪だよ雪」
「ほんとだ」さきほどの知のまさった女子高生はどこへやら、香澄は手袋をした両手を広げ、無邪気にくるくると回っている。私も天を仰ぎながら歓声を上げた。そういえば、都心で雪を目にするのもずいぶんと久しぶりのような気がする。
「ね、行こう」私たちはどちらからともなくかけ出していた。手にした鞄が二人のはやる心のようにかたかた鳴った。
 私たちが高校に着いた頃には、すでに花壇の辺りなど、うっすらと白いベールで覆われていた。教室に入ると、久しぶりの雪にクラスメートたちも浮き立っている様子で、大勢が窓際に集まって天を見上げている。しかしその集団の中に、ふだん見慣れた女の子の姿がないことを確認した香澄は、思わず表情を曇らせた。
「沙貴ちゃん、今日もお休みみたいだね」
「うん」私も小さくうなずいた。
 大和沙貴ちゃんは、香澄と私にとってかけがえのない親友。数日前から熱っぽくて具合が悪そうだったのだけれど、とうとう昨日、沙貴ちゃんは風邪をこじらせて高校を休んでしまったのである。
「ねえ玲子、今日学校が終わったら沙貴ちゃんのお見舞いに行こうか」鞄を机に置きながら香澄が言う。
「そうだね」香澄に賛成しながら私は窓から空を見上げた。雪は、いよいよその白い袖を軽やかに翻し優雅に天を舞っていた。

 一時限目は現代文の授業である。教室に入ってこられた先生は、教壇を通り越して真っ直ぐ窓に向かい、黙って天を仰ぎ見た。私たちも先生に誘われるように窓の外の世界にしばし目を凝らしていた。
 教室の窓から見る雪は音もなく、悪戯な天使の羽根のようにただ無心に舞っている。
 やがて先生は私たちの方に向き直るとにやりと笑って、
「こういう風に向こうの街がかすんで見えないときは、雪がどっさり積もるぞ」
 現代文の先生の予言、というより予報は見事に的中した。二時限目の終わる頃には雪の降りはいっそう激しさを増した。
 誰からともなく職員会議が開かれているという噂がクラスに広まった。ただそれだけの情報で、もうクラス中がそわそわし始めるのだから、雪の日は面白い。
 皆のそわそわの理由は簡単なことである。高校が半休になるかもしれないのだ。雪国の人に笑われてしまいそうだが、都会の交通網は雪にあっけないほど弱い。そわそわの予感は当たり、高校では生徒の帰宅の足を考慮して授業を三時限目で切り上げ、半休とすることを早々と決めた。ホームルームを急遽繰り上げて四時限目に行うことになった。本来ならば今日の四時限目は数学だったので、今勉強している積分法を苦手としている生徒は特に大喜びである。そういう私もライプニッツ不肖の弟子の一人だったので、密かに雪に感謝していたのだけれど。
 クラスの皆がそれぞれに帰り支度をしているところに教室のドアが遠慮がちに開いたかと思うと、数学の先生が顔をのぞかせた。この数学の先生は長身痩躯である。その上、みごとな髭を生やされているので、何だか雪雲とともに冬の山より降りてきた仙人が教室をのぞいているようである。
「先生、何かご用でしょうか」香澄が声をかけると、先生は嬉しそうに髭を揺らしながら、飄々と教壇に上がられた。
「この雪だから、家に帰って諸君が時をもてあますといけない。今日授業で解法を勉強しようと思っていたとっておきの難問をプリントにしてある。次回の授業までの宿題としよう」
 えええっという非難の声が教室中に響き渡った。先生は構わずにプリントを配りながらこうおっしゃる。
「こんな日にじっくり積分の問題にとり組める諸君がうらやましいよ。積分は雪の日にこそふさわしいじゃないか」
「ええ、どうしてですか」思わず香澄が席から立ち上がって訊ねる。どうにも納得できないという風である。先生は澄ました顔で、
「積雪っていうだろう。積もるの《積》の字が同じだ」
 もう少しアカデミックな理由を期待していたクラスの皆から一斉に落胆のため息がこぼれた。香澄などは私にも聞こえるくらいの大きな失望のため息をもらしていた。いずれにしても説得力に欠ける話である。
 数学の先生と入れ違いのように担任の先生が教室に姿を現した。ホームルームは先生が簡単な連絡事項を告げるだけで終わった。
 クラスには、電車を乗り継いで遠方から通学してきている生徒もいるわけで、彼らは電車が止まらぬうちにと、急いで高校を後にする。その点、私などは気楽なものである。いつでも家まで歩いて帰ることができるという気安さから、私は教室に残り、のんびりとノートを広げて数学の問題にとり組むことにした。文字どおり窓の雪で勉強というわけである。なるほど、先生がとっておきの難問とおっしゃっただけあって、どの問題もなかなかに手強い。
 数式に疲れた私は気分転換に席を立ち、教室の窓辺へ歩み寄った。窓から中庭を見下ろすと、校章をかたどった池が白いレリーフのように浮かび上がり、幻想的な風景が広がっている。
 窓辺にもたれて、降りしきる雪をじっと見つめていると、校舎という船に乗ったまま天に昇り、そのまま雪の国へと吸い込まれていってしまいそうな錯覚に陥る。白い世界に陶然となっていた私の夢は、教室のドアの開く音で破られた。
「遅くなってごめんね」雪の窓からふり返ると、週番の香澄が教室へ戻ってきたところだった。香澄は小さく首を傾げて私の顔を見つめながら訊いた。
「あれ、窓辺で一人で何してたの」
「あ、うん。中庭の雪があんまりきれいだから、見とれていたところ」
「ふうん。玲子も意外にロマンチシストなんだ」
「意外に、が一言余計よ」私が横目で苦情を申し立てると、香澄はくすくす笑いながら自分の席に着き、学級日誌を開いた。私も席に戻って、解きかけだった積分の問題にとりかかった。
 しばらくの間、教室には二人がペンを走らせるさらさらという音だけが流れ、かえってそれが雪の日の静寂を際立たせた。静かで満ち足りた冬の午後である。
「さて、これでよし」やがて香澄がペンを置いて、日誌をぱたんと閉じた。
「学級日誌も書き終えたし、これを先生に届けて今日の任務は終了っと。玲子、これから日誌を職員室へ持っていくんだけど、一緒に行かない?」
「一人では寂しいので一緒に来てください、でしょ」私が香澄の心の中を言い当ててみせると、香澄はおどけたように首をすくめてみせた。
 私たちは連れだって教室を出た。
「わあ、寒っ」校舎から渡り廊下に出た私たちは、思わず首をすくめて制服の襟元をかき合わせた。雪はいつの間にか小降りになっていた。張りきって降り積んだので、ここはひとまず小休止というところなのかもしれない。その代わり、それまではほとんどなかった風が吹きすさび始めていた。
 香澄と私はお互い寄り添うように職員室へ向けて歩き始めた。途中、特別教室などがある棟から続く渡り廊下の真ん中で香澄がつと立ち止まった。つられるように私も足を止める。香澄は本校舎の端から西へ伸びた細い通路でつながっている小さな建物を見て言った。
「さすがに今日ばかりは《修道院》に籠っている生徒もいないみたいね」
 わが校には、図書室の別館として建てられた建物があり、自習する生徒のために開放されていた。などというと格好がいいのだけれど、実際にはこの離れはもっぱら女生徒のための談話室として使われるようになっていた。
 そういうこともあって、口の悪い男子生徒たちはこの離れを「尼寺」と呼んでいた。クラスの中であまりに女子が騒がしいときなど、男の子から「うるさいなあ。尼寺へ行けよ」と言われてしまうわけである。
 もっとも女の子だって負けてはいない。別館の呼び名を言い換えることで、格調高いイメージを創り上げて対抗するわけである。誰が始めに言い出したのか、私たちはその建物のことを《修道院》と呼び慣わしていた。
 いつもの放課後であれば、数名の女生徒が集っておしゃべり三昧の時間を楽しんでいるであろう《修道院》にも、さすがに今日のような大雪の日には誰も足を運んでいないらしい。《修道院》に続く通路部分には屋根がないので、真新しい白い絨毯でも敷きつめられているみたいに雪が積もっていた。そこには足跡一つとしてついていない。窓から漏れる照明の光もなく、《修道院》は雪の中にただひっそりと静まりかえっている。
「行こう」私が促すと、香澄は小さくうなずいた。
 担任の先生に日誌を届けて香澄の週番の仕事は全て終了、となるはずだった。ところが職員室に入ってきた私たちの姿を見つけた先生が、「おいでおいで」をするように気味の悪い笑顔で手招きをしているではないか。何やら嫌な予感。
「おお室町、ちょうどいいところに来てくれたな」
「はあ」香澄が気の進まないという調子で返事をする。
 聞けば、職員室の廊下に掲示用の大きな貼り紙をするのを週番に手伝ってもらおうかと思っていたところだったとのこと。
「先生がそう思った瞬間に、室町の姿が見えたんだ。さすがは室町、週番の鑑だな」先生の妙な誉め言葉に、さすがの香澄も苦笑いしながら肩をすくめてみせた。
「先生直々のご指名だから、お手伝いしていく。玲子は教室で待っててくれるかしら」
「わかった。私は先に帰りの準備をして待っているね」
 一足先に教室に戻った私は帰り支度を済ませると、鞄から『ディケンズ短編集』をとり出して読み始めた。
 香澄はなかなか戻ってこない。香澄を待っている間に、本もすっかり読み終えてしまった。手持ち無沙汰な私は、誘われるように再び窓辺へ行き、先ほどと同じように窓の外に広がる白一色の世界を見るともなく見ていた。先ほどまで降りしきっていた雪も、今はすっかり止んでいるようだ。私は思わず長いため息をこぼした。
 軽やかな足音が廊下の向こうから聞こえてきたと思ったら、一人の女子生徒が小鳥のように教室に飛び込んできた。教室には誰も残っていないと思っていたのか、彼女は私の姿を見て不意をつかれたように立ちすくんだ。しかし、すぐにそこにいるのが私だとわかったようで、彼女は制服の胸元を軽く押さえると安堵したように息をついた。
「何だあ、玲子だったのか」
「まあ、何だとはご挨拶ね」
 教室に入ってきたのは、同じクラスの長峰飛鳥。少し栗色のかった長い髪。生徒指導の先生を論破して、つけることを許された真っ白な髪飾り。はきはきとした物言い。芯の強さではクラスの誰にも譲らないという自負。もちろん勉強でも男の子なんかに負けないという自信に満ちている。
 飛鳥は演劇部の部員である。三月の舞台発表に向けて、稽古稽古の毎日だという。今日もこの雪の中、残って舞台の練習をするのだろう。
 最近の高校の演劇は創作ものに人気があるそうだが、私たちの母校は伝統的に古典劇、その中でも特にシェークスピアを得意としていた。今年、わが演劇部の選んだ劇は『テムペスト』なのだそうだ。弟の陰謀によりミラノ公の地位を追われたプロスペローとその娘ミランダ、彼女と恋に落ちるナポリ国の王子フェルディナンド、そして小粋な妖精たち。孤島を舞台にくりひろげられるこの悲喜劇は、文豪シェークスピア最後の作品である。
 飛鳥は今回の劇で重要な役である妖精のエーリアルを演じるという。ところがその役柄についての話題をふってみたところ、とたんに飛鳥のご機嫌が悪くなった。どうやら本人はその役が不満らしい。
「だいたい、どうして私がプロスペローの小間使いみたいな役を演じなくちゃいけないのよ」
「あら、いいじゃない」私が小さく微笑むと、
「よくない」飛鳥はつまらなそうに口をとがらせた。飛鳥の話によると、彼女はミランダの役を希望していたという。しかし部内でのオーディションの結果、飛鳥にはエーリアルの役が割り当てられ、狙っていたミランダ姫は新進著しい一年生が演じることになったらしい。
 私には、飛鳥が演じるのなら深窓の令嬢といったミランダよりも、当意即妙、才気煥発なエーリアルのほうが向いていると思うのだが、本人だけは大いに不満なのである。
 シェークスピア劇における配役の難しさの話から、飛鳥と私の話題は演劇に用いられる衣裳をめぐっての苦労話へと移っていた。そこに先生から頼まれた仕事を片づけた香澄がようやく教室に戻ってきた。
「あ、何の話をしているの。ずいぶん楽しそうじゃない」聞き上手の香澄が会話に加わって、ひとしきりシェークスピアの話題で盛り上がってしまった。
 私たちのおしゃべりは、誰かが教室のドアをノックする音でさえぎられた。ドアが静かに開いて、女子生徒が一人、堅い表情を浮かべた顔をのぞかせた。演劇部部長の橘菜津子さん。橘さんも私たちのクラスメートである。教室に入ってきた彼女は堅い表情のまま、飛鳥に問いかけるような視線を向けた。飛鳥はその視線を真っ直ぐに受け止めながら言葉を返す。
「舞台稽古までにはまだ時間があるはずよね。それとも私に何か別の用かしら」
「ええ。長峰さんにぜひ訊いてみたいことがあって」
「私に訊いてみたいこと?」飛鳥が訝しげな顔で訊き返すと、橘さんは黙ったまま小さくうなずいた。
「演劇部の部室からミランダの衣裳が消えたのよ」
「ミランダの衣裳なら、つい今しがた、部室の衣裳棚にあるのを二人で確認したばかりじゃない」
「そうなんだけど、しばらくして島津さんと部室に小道具をとりに戻ってみたら、衣裳がなくなっていたのよ。部外者が部室に入るとも思えないし、演劇部員の誰かが衣裳を持ち出したのかと思って」
「それで私を疑っているというわけね」飛鳥は軽い反感のこもった視線で部長の顔を見返した。橘さんも声が少し険しくなる。
「そうは言っていないでしょ。私が部室を出た後も、あなたはしばらく部屋に残っていたから、何か気づいたことでもないかと思っただけ」
 少々二人の間の空気が険悪になりかけているのを見てとった香澄が、なだめるように飛鳥と橘さんの間に入った。
「とにかく、ここで二人で言い争っていても衣裳は見つからないわよ。私も手伝うから、皆で校内を探してみよう」香澄に諭されて、二人はようやく言葉の矛を納めた。
 教室の外に出てみると、廊下にもう一人の女子生徒が心細そうに佇んでいた。ほっそりした身体に透き通るような色白の顔、くっきりとした二重瞼の目がとてもきれいな女の子である。長い髪を二筋の三つ編みにして制服の背中に垂らしている。
 橘さんがその女の子の肩に手を置いた。
「村岡さんと室町さんにご紹介しておくわ。彼女は一年生の島津祐未さん。わが演劇部のホープなの。彼女、今度の劇でミランダの役を演じることになっているのよ」
「島津です。衣裳のことが心配で、橘先輩に一緒についてきてしまいました。お騒がせして申し訳ありません」彼女は優雅な物腰で私たちに会釈をした。
 なるほど、この生徒が飛鳥が言っていた、新進著しいという一年生部員なのか。言ってみれば、飛鳥は彼女にミランダ姫の役を奪われたことになる。そんなことを思いながら島津さんに目を向けると、彼女はじっと飛鳥の横顔を見つめていた。紛失した衣裳のことを案じているのか、それとも何か別のことを思っているのか、その美しい瞳は蒼く沈んでいるように私には見えた。
「それじゃ島津さんにも手伝ってもらって、さっそく皆で手分けして衣裳を探すことにしましょう」そう言うと、香澄がてきぱきと衣裳捜索の組分けとエリアを決めていく。私は香澄と一緒に特別教室棟の方を探すことになった。

 人気のない特別教室棟の中を、香澄と私は上の階から順々に見て回った。そのまま一階に降り、渡り廊下に出たときのこと。私の先にいた香澄が小さな声を上げて立ち止まった。
「玲子、見てあれ」香澄が指し示す方に視線を向けた私も思わず息を呑んだ。
 そこは一面の銀世界である。《修道院》へ続く通路が雪化粧されている情景も先ほどと変わっていない。しかし、そこに奇妙なものが出現していたのだ。香澄と私は思わず顔を見合わせていた。つい先ほどは、《修道院》に続く雪の絨毯の上に跡など一つとしてなかった。ところが今、そこにはくっきりと一列の足跡が遺されているのだ。それをじっと見つめていた香澄の唇から、ぽつりと言葉がこぼれた。
「誰か、《修道院》にいるね」
 香澄はそれ以上は口にしなかったけれど、香澄が続けて何を言いたいのか、私もすぐに理解できた。行きの足跡だけがあるということは、誰かが《修道院》にいるということになる。そして《修道院》にいるその何者かが、演劇部の衣裳を携えているかもしれないのだ。もしそうだとしたらいったい誰が、そして何のために。
「行って見てみようか」私がかすれた声でささやくと、香澄も真剣な表情でうなずいた。
 私たちは遺された足跡を消さないように、通路の端の方を選びながら《修道院》へと歩み寄っていった。上履きで踏みしめると、降り積もった雪がさくさくと林檎のような気持ちのよい音を立てる。
 入口のドアのところまで来た。部屋の中は薄暗くてよく見えない。香澄が入り口のドアのガラスを通して《修道院》の中をそっとのぞき込む。
「どう、誰か見える?」私が後ろから訊ねると、香澄は小さく首を左右にふった。ドアを静かに開け、私たちはおそるおそる《修道院》の中へと入る。
「あったかい」香澄がほっと息をついた。ほんの少し前までストーブに火がついていたらしく、まだ部屋の中は十分に暖かい。私が手探りで壁の照明スイッチをオンにした。ほの暗い《修道院》の室内に、蛍光灯の光がふり注いだ。と、
「あ、見て、玲子」香澄が目ざとく何かを見つけて声を上げた。
「演劇部の皆が探してたミランダの衣裳って、きっとあれだわ」香澄が指さすテーブルの上には、清楚な純白の衣裳がきれいに畳まれて置いてあった。香澄が鞄を床に置いてテーブルにかけ寄る。
「待って、香澄」思わず衣裳を手にとろうとする香澄に、私は後ろから声をかけた。
「衣裳には手を触れない方がいいわ。演劇部の人たち、舞台衣裳をとっても大切にしているから、もし汚したりしたら大変」
「あ、そうか」香澄は衣裳に向けて差し伸べかけた手を、静電気が走ったときのように反射的に引っ込めた。
 私たちはしんと静まりかえっている《修道院》の中をぐるりと見回した。不気味ともいえるその静寂に、私は細かく身体を震わせた。香澄も落ち着かない様子で身体をもじもじさせている。私たちは一つの奇妙な事実に気づいてしまったのだ。そう、《修道院》の室内には私たち二人の他には誰もいなかったのである。
「おかしいよね。足跡があったのに部屋に誰もいないなんて」香澄の言葉に、私も黙ってうなずいた。
 この《修道院》の中には、東側の壁一面を占める木製の大きな書棚、資料閲覧用のテーブルに椅子が七脚、あとはスチール製のロッカーと小さな黒板が入口のドアの横に据えつけてあるだけで、それ以外に人が隠れるような場所も家具類もない。
「建物の裏手に隠れているのかもしれない。私、ちょっと見てくる」香澄が再び《修道院》のドアを開けた。たちまち香澄の吐く息が冬の白に染まる。
「気をつけてね」私は雪の中へ出ていく香澄の背中に声をかけた。
 再び《修道院》の中は、しんとした静寂におおわれた。私はゆっくりと部屋の中を見渡した。もし誰かが、この部屋のどこかに思いもかけない方法で隠れていたとしたら、そこで全ての謎は解けることになる。何か見落としていないか不安になった私はロッカーの中、机の蔭、カーテンの向こうと、人が隠れることができそうな場所を見て回った。しかし部屋の中には誰も隠れていないことがはっきりして、私は少しほっとした。
 今、《修道院》の周りを調べている香澄もすぐに戻ってくることだろう。私は先にするべきことを終えて香澄を待つことにした。鞄を床に置いて、私は手近な椅子の一つに腰を下ろした。
 屋根から雪が滑り落ちる音が室内に響いた後は、再び気味が悪いほどの静寂。壁掛けの時計が秒を刻む音だけが耳を打つ。
 やがてドアが開いて、香澄が帰ってきた。
「玲子、見てこれ」香澄は薄いベールをかぶったように真っ白な自分の髪を指さして、少々ご機嫌斜めである。
「軒から意地悪な雪が落ちてきて、乙女の黒髪がこんなになっちゃった。もう、これじゃ美人が台なしだわ」文句を言いながら髪の雪を払っている香澄の様子に、私は思わず吹き出してしまった。
「はいはい。それで、美人の雪かぶり姫様、《修道院》の周りの様子はいかがでございましたか」私がおどけてそう訊ねると、それまで口をとがらせていた香澄の顔にたちまち不思議そうな表情が浮かんだ。
「それが不思議なんだけど、建物の周りにも誰一人いなかったのよ。もちろん足跡も探してみたけど、通路にあったもの以外どこにも遺っていないの」
「待って、それじゃあの足跡をつけた人は、いったいどこに消えちゃったの」私が眉をひそめて訊ねると、香澄は青ざめた表情のまま首を左右にふった。
「わからない。だって本当に誰もいないんだもの」
 それからしばらくの間、香澄と私は途方に暮れたように黙ったまま、ただ《修道院》の中に立ちつくしていた。しかし、いつまでもこうしていても仕方がない。
「演劇部の皆に知らせてあげよう。きっとまだ校舎の中を探していると思うから」私は自分の鞄を手にとり、香澄を促した。香澄も腑に落ちない表情のまま自分の鞄をとり上げた。
 念のため、ストーブの火が消えていることをもう一度確認してから、私たちは《修道院》のドアを開けて建物の外に出た。
 辺りの雪景色には、先ほどと比べて何も変わった様子は見られない。《修道院》に来るときに香澄と私がつけた足跡の他には、例の謎の足跡が遺っているだけである。
 香澄と私が本校舎に入ると、ちょうど橘さんが自分の受け持ちエリアを探し終えて帰ってくるところだった。
「あ、橘さん、衣裳見つかったよ」香澄の言葉を聞いて、それまで浮かない表情だった橘さんの顔がぱっと輝いた。
「室町さん、それ本当?」
「うん。なぜかわからないけど《修道院》の中にあった」
「どうして衣裳が《修道院》なんかに」橘さんは首をひねっている。と、そこに飛鳥と島津さんも戻ってきた。衣裳が見つかったことを香澄から聞かされると、安心したのか二人とも芯が抜けたように校舎の壁にもたれかかってしまった。
 香澄と私が衣裳を見つけたときの状況を橘さんたちに簡単に説明して、さっそく皆で《修道院》に向かうことにする。私が《修道院》に向かう足跡が一列しか遺っていなかったことを話したときには、三人ともその意味がよくわからないという顔をしていたが、実際にその足跡を目の当たりにして、何か得体の知れない不気味さを感じたのか、全員がその場に立ちすくんだ。
「行こう。足許に気をつけてね」香澄に促され、私たちは謎の足跡を踏んでしまわないように迂回しながら《修道院》へ向けて歩き出した。
 建物の中に入った演劇部員たちは真っ先に、テーブルの上にあるミランダの衣裳へ心配そうに歩み寄った。橘さんが震える手で、畳んであった衣裳をとり上げて調べ始める。
「あっ」突然、橘さんが悲痛な声を上げた。彼女が手にしている衣裳をのぞき込んだ飛鳥と島津さんの顔からも、すっと血の気が引いた。三人はそのまま茫然自失の態でミランダの衣裳を見つめている。
「ねえ、どうしたの」こわごわ訊ねる香澄に、橘さんは無言のまま手にしていた衣裳を見せた。それを目にした瞬間、香澄も私も声にならない悲鳴を上げていた。
 まるで今日の雪が降り積もったかのような純白な衣裳の、ちょうど腰の部分がうっすらと焦げているのだ。裾にほどこされた色あざやかな花模様の刺繍が華やかなだけに、その焦げた部分がいっそう痛々しい。
「いったい誰がこんなひどいことを」橘さんが唇を堅く結んだ。
「私と玲子じゃないよ。私たちが衣裳を見つけたとき、ストーブの火は消えていたし」遠慮がちに香澄が口にした言葉に、橘さんと飛鳥の肩がわずかに揺れた。
 そこで私は先ほどから気になっていることを橘さんと飛鳥に訊いてみた。
「橘さんと飛鳥が部室で衣裳を最後に見たのって、まだ雪が降っていた頃ですよね。それならば、ここに衣裳を持ってきた人の行きの足跡は雪で消えてしまったはずだから、足跡が一列しか遺っていなくても説明がつくんだけれど」私の質問に、二人は黙って顔を見合わせていたが、橘さんが答えを返してくれた。
「私たちが衣裳を確認したときは、もう雪はとうに止んでいたわ。絶対に間違いない」
「他の衣裳と見間違えたということはないですか」私は重ねて訊ねた。しかし橘さんは、そんなことは全く問題外だというように軽く首をふった。
「私が予備の衣裳と見間違えたとでも言うの? それはありえないわ。この衣裳には、独特な花の刺繍がほどこされているでしょう。部室で見た衣裳には、間違いなく今ここにある衣裳と同じ刺繍があったわ。糸のほつれ具合や色彩、それにこの微妙な縁取りを見間違えるなんて絶対にあるはずがない。今ここにある衣裳は、私と長峰さんが部室で見た衣裳に間違いないです」
「でも、それだと本当におかしなことになりますね」
「玲子、それってどういう意味?」私の言うことをよく呑み込めないという顔をしている香澄に、私は詳しく説明をする。
「香澄と私で職員室に日誌を届けに行く際、《修道院》の前を通ったときには足跡なんてなかったよね。さすがに今日ばかりは《修道院》にこもっている生徒はいないみたいっていう話をしたじゃない。そのとき、雪はもう止みかけていたでしょ」
「うん」香澄がこっくりうなずく。
「橘さんの話では、雪が降り止んでいたときにはまだ部室に衣裳があったということだから、今遺っている足跡は衣裳を《修道院》に運んだときのものということになるはず」
「でもそうだとしたら、衣裳を《修道院》に持ってきた人はどこに消えたの。建物の裏にでも隠れているのかしら」橘さんが眉をひそめながら当然の質問を投げかけた。
「それは違います」香澄は橘さんに、《修道院》の周りを調べたけれど誰もいなかったこと説明した。
 ますますわからなくなってしまった。
 雪の降り止んだ後で《修道院》に衣裳が運ばれたことは橘さんの話からも明らかである。しかも香澄と私は、雪が止む少し前に、建物に向かう足跡が全くない状態の《修道院》を見ている。つまり、《修道院》に向かう謎の足跡は衣裳を運んだときのもの以外ありえない。しかも帰りの足跡がない以上、衣裳を運んだ人物は《修道院》の中か周りにいるはずである。しかし香澄と私が衣裳を発見したとき、《修道院》には誰もいなかった。衣裳を運んだ人はどこに消えてしまったというのだろうか。
「一つ方法があるんじゃないかな」香澄の意味ありげな言葉に、皆の視線がいっせいに香澄に集まる。香澄はゆっくりと部屋の中を歩きながら自分の推理を話し出す。
「まだ雪が降っていた時間に誰かが《修道院》に来ていたの。そして雪が降り止んだ後に、この衣裳を持った別の人がやって来る。その人は通路を挟んだ向こう側から、《修道院》に残っていた人に向けて、丸めた衣裳を思いっきり投げるの」
「無理ね」私は首を左右にふった。校舎から《修道院》まではかなりの距離がある。その間を衣裳を投げて渡すなんて、たとえハンドボール部員でもできるはずがない。衣裳を何か重りとなるものと一緒に包んで投げたとしても、本校舎から《修道院》までの距離を投げるのは難しいだろう。香澄の推理はあっさり却下されてしまった。
 しかし香澄はあきらめない。しばらく考えていたと思ったら、今度はこんなことを言い出した。
「それじゃ、こんな方法はどうかな。衣裳を持ち出した人は、長いロープを持っていたの。まず本校舎にロープの端を結わえてから、それを雪に触れないように少しずつ弛ませながら《修道院》まで来る。衣裳を部屋の中に置いた後、そのロープのもう一方の端を《修道院》のどこかに結んで、それを伝わって本校舎まで戻るの」
「お堀を渡る忍者みたいにロープを伝わって?」半ば呆れながら私が訊ねると、
「そう。やっぱりだめかな」そう言いながら香澄は腕組みをする。それまで真剣な顔で香澄の推理に聴き入っていた橘さんが思わず吹き出した。つられるように、飛鳥と島津さんもくすくす笑い出した。私は香澄の顔を見ながら言う。
「香澄、それも無理。だってどちらの建物にもロープを結べるようなところなんてないし、うまくロープを伝って戻ってこられたとして、そのロープをどうやって回収するの。《修道院》側の結び方をほどけるように工夫しておいたとしても、たぐり寄せるとき雪の上に跡が遺ってしまうわ」
「あ、そうか。ロープを回収するところまで考えてなかった」香澄が残念そうに首を左右にふった。
 しかし香澄の推理でその場の雰囲気が和らいだのか、続いて他の人からもいろいろな意見が出された。
 まず橘さんから、行きにつけた足跡の上を、戻るときには逆向きになって一歩ずつたどって行ったのではないかという意見が出された。さっそく香澄と飛鳥が実験をしてみた。しかし、実際には一度ついた足跡の上を後ろ向きにたどって戻るのは意外に難しく、どうしてもわずかに足跡がずれてしまうことがわかった。それに例の足跡をよく観察してみても、二度踏みつけられたような跡などは全く見られなかったのだ。
「あの、私も一つ思いついたんですが」島津さんが、おずおずと手を挙げた。
「帰り道だけ、粉雪を上から撒いて足跡を消しながら戻ったのではないでしょうか」
 さっそく検証が試みられた。しかし実験の結果、雪を足跡の上から撒いても、どうしても多少の凸凹ができてしまい、自然に降り積もった雪のようになめらかにはならないことがわかった。香澄と私が謎の足跡を見つけたとき、通路の雪の上に人工的に雪を撒いたような乱れた跡は全くなかったことで、島津さんの考えも否定されてしまった。
 帰りは先の細い竹馬に乗って戻ってきたのだとか、行きに歩幅を大きくとり、帰りは逆向きになって行きの足跡の間にうまく足跡をつけながら戻ったのだとか、曲芸みたいなアイデアも出されたけれど、どれも成功しそうにない。
 果ては、実は《修道院》には誰も知らない秘密の抜け道が隠されていて、衣裳を運んだ人物は密かにそこから逃げたのだという奇想天外な意見まで飛び出したが、もちろん《修道院》にそのような隠し通路などあるはずもなかった。
 結局、私たちには雪の上の足跡の謎を解くことはできなかった。皆、疲れきった表情で椅子にすわり込んでしまった。何とも重苦しい雰囲気が《修道院》の中にただよい始める。
「ねえ、皆、元気を出して」たまりかねたように香澄が椅子から勢いよく立ち上がった。香澄は皆の方に向き直る。
「もうこうなったら、これは全部雪の精の仕業だということにしてしまわない?」香澄の声に、飛鳥が顔を上げた。
「雪の精の仕業?」飛鳥が問うと、香澄はこっくりうなずいた。
「そう。いたずら者の雪の精がこっそり衣裳を羽織って《修道院》に遊びにきたのよ。衣裳を着た雪の精はテーブルの上で舞い踊ったの。そしてそのときに衣裳がストーブの熱で焦げてしまったのよ。そう、この部屋は暖かすぎたのね、だから雪の精はすっかり溶けて天に昇っていってしまった。後には衣裳だけがテーブルの上に残されたの。ね、そう考えた方がいいと思う」
 香澄の言うような幻想的なことが本当に起きたのだとすれば、それはそれで素敵な話なのかもしれないが、さすがに橘さんたちはそう簡単に幻想的な気分にはなれないようだ。香澄のおとぎ話にも、演劇部員の三人に笑顔が戻ることはなかった。
 島津さんがちらっと腕時計に視線を走らせる。
「橘先輩、長峰先輩、そろそろ舞台稽古の時間が始まります。もう体育館へ行かないと」島津さんに促され、橘さんと飛鳥はようやく椅子から重い腰を上げた。
 何とも釈然としない気分を抱いたまま、私たちは《修道院》の前で別れることになった。演劇部員たちは舞台稽古のため体育館へ、そして香澄と私は下校するため昇降口へ向かうために。
 いつの間にか、また粉雪が天を舞い始めていた

 通学路の途中にあるデパートの中に、赤地に雪のような白い文字の看板で有名なケーキ屋さんがある。わが校の女子生徒にも人気のお店である。香澄と私は、そのケーキ屋さんのショーウインドウの前で、あれこれ悩みにふけっていた。ここで沙貴ちゃんへのお見舞い用のケーキを買おうというのである。
 香澄と私は肩を寄せ合うようにしてショーウィンドウの中をのぞきこむ。栗毛のモンブラン、赤毛のシフォン、金髪のチーズケーキ、エトセトラ、エトセトラ。女の子を誘惑するいけない天使たちの手招きに、二人の女子高生はショーウィンドウの前で甘いため息をこぼしていた。
「沙貴ちゃんにはレアチーズにしようか」私がささやくような声で提案すると、香澄もこくんとうなずいた。
 雪を思わせるレアチーズクリームの上に彩りよく苺とキウイが飾られているケーキを一つ、沙貴ちゃんのために小さな箱へ詰めてもらった。もちろん香澄と私も、しっかり自分たちのケーキを買うことを忘れない。こうして沙貴ちゃんのお見舞いへの準備もすっかり整った。香澄と私は暖かいデパートの中から、身の引き締まるような寒さと雪だけが支配している外の世界へ再び踏み出した。
「あ」香澄が小さな声を上げて立ち止まった。私がふり返ると、香澄が舌を出して顔の前で両手を合わせていた。
「ごめん、大切なものを買い忘れてきちゃった。すぐ戻ってくるから、ちょっと待ってて」そう言い残すと、香澄は再びデパートのドアの向こうへ消えた。
 一人残された私は、手持ち無沙汰のまま空を見上げた。電線に細く降りつもっていた雪が北風に吹かれ、歩道までの短い時間をさらさらと宙に舞う。しばし時の経つのも忘れ、私は雪しずりに見入っていた。
「お待たせ」香澄が戻ってきた。見れば彼女のコートの胸元の辺りだけ、一足先に春が芽吹いたような華やかさである。香澄はスイートピーの花束を捧げ持っていた。
「お見舞いにお花も買ったんだ。きっと沙貴ちゃん、喜ぶね」
「あ、違うの。これは私たちからじゃなくて、わがクラスの男子生徒有志諸君から大和沙貴嬢へのお見舞いの品」
「クラスの男の子から?」
「そう。二時限目の古文が終わったときにね、窓の外の雪を見ながら、今日沙貴ちゃんのお見舞いに行くって話をしていたら、それを聞きつけた男の子たちまで一緒についてくる、なんて言い出したの」
「はあ。でもそれ、沙貴ちゃんだってありがた迷惑だよね」
「でしょ。だから私も言ってやったの。『バカモノ、病で臥せっている女の子のやつれた姿を見ようなんて悪趣味もいいところ。それより私が代表してお見舞いに沙貴ちゃんの好きなお花を買ってってあげるから、寄付をしたまえ』ってね」
「ふむふむ」私は思わず笑みの浮かんだ頬をそっとなでた。教室の中で男子生徒を前に、沙貴ちゃんのため啖呵を切っている香澄の姿が目に見えるようだ。
「そうしたらこんなにお花が買えるくらいお見舞いが集まったというわけ」香澄は抱えている花束を小さく左右に揺らした。
 私は香澄が抱えている色とりどりのスイートピーの花束を見ながら、
「ふうん。沙貴ちゃんてずいぶんもてるんだ」
「そうだよ。沙貴ちゃんは男の子にとっても人気があるんだから。さしずめ《ポニーテール友の会》といったところね」
 私はなぜか不意に哀しくなって、うつむきながら視線を横に流した。小さなブティックのショーウィンドウに映る自分の顔をじっと見つめた。そして、心の中でそっとつぶやいてみる。
《私だって、二人に負けないくらいの美人なんだけどな。それなのに》
 そこで香澄が澄んだ瞳で私の顔をのぞき込んだ。
「玲子が風邪ひいて高校お休みしたらそれこそ大変。男の子たちから、たくさんたくさん花束が届くでしょうね」
 身体の芯が冷たくなった。自分の醜い心の内を香澄に見透かされた、私はそう思った。
「はいはい、どうせ私は沙貴ちゃんみたいに人気がないし、丈夫なだけが取り柄ですから、男の子からお花なんてもらえるはずもありません」揺らぐ気持ちを抑えるように、私は心にもない憎まれ口をきき、香澄の先に立って雪の積もった歩道を早足で行こうとした。と、そのとき。
「玲子、私の言い方、そんな風に聞こえたのかな」背中から聞こえてきた小さな声に、はっとした。ふり返ると、花束を手にした香澄が、寂しげな表情で雪の中に佇んでいた。
「私、心から言ったつもりだったんだけど、茶化しているみたいに聞こえて玲子が気を悪くしたのなら謝る。ごめんなさい」香澄は深く頭を下げた。彼女のきれいな長い髪がチェック模様のマフラーの上にはらりとこぼれた。
 香澄はそのまま、伏せた顔を上げようとしなかった。眠ったまま雪の中で凍りついてしまった白鳥のように。香澄の髪を、マフラーを、風に舞う粉雪が少しずつ冬の色へと染めていく。
 私は雪の中をまろぶように香澄の前へかけ寄った。自分の失言を恥じた。香澄に頭を下げさせるなんて。謝らなくてはいけないのは私の方なのに。香澄の肩に軽く手を添える。
「香澄、ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないの。ただ、何だか沙貴ちゃんが急にうらやましくなっただけ。それだけなの。ほんとにごめん」
 香澄はそこで初めて顔を上げた。私の顔をやさしい表情で見つめ、そして少しだけ微笑んだ。
「玲子はしっかり者だし頭もいいし、それにノーブルな顔立ちをした美人なんだもの、玲子に秘かに憧れている男の子って、きっとたくさんいると思う」
「うん」私は素直にうなずいた。いつも罪のない憎まれ口をたたいたりふざけ合ったりしている香澄から改まって言われると、雪になって空を舞っているような不思議な気持ちになる。
「だから、そんなに悲しいこと言わないで、ね」
「うん」今度は私も笑顔でうなずいた。そんな私の様子を見て、香澄はようやくほっと小さく息をついた。
「よかった。それではいざ、沙貴ちゃんの家を目指して出発」
「香澄」先を行く友の背中に、私はそっと呼びかける。
「ん、なあに」ふり返った香澄に、私は心をこめて感謝の言葉を贈った。
「ありがとう」

 沙貴ちゃんの家に着いた。
 香澄がコートの雪を払いながら玄関のドアフォンを鳴らす。沙貴ちゃんのお母さんが出迎えてくださった。もし、まだ沙貴ちゃんの具合がよくないようだったら、お見舞いのお花とケーキを預けて帰ろうと思っていたのだが、沙貴ちゃんはもう熱も下がって明日には高校に出てこられるという。
 沙貴ちゃんのお母さんにぜひにと勧められ、私たちは家に上がって沙貴ちゃんを見舞っていくことにした。
 お母さんがドアをノックすると、部屋から子猫が甘えているような声が返事をした。
「こんにちは。具合はいかが」お部屋に入っていくと、ベッドで休んでいた沙貴ちゃんが、私たちの顔を見て驚いて起き上がった。
「玲子ちゃんに香澄ちゃん。来てくれたんだ」沙貴ちゃんはストライプのパジャマ姿。微熱があったのか、卵のような愛らしい顔がまだほんのりと赤い。いつものポニーテールをほどいた長い髪がふんわりと波打っている。
「ああ、だめだめ。病人は安静第一だよ」香澄が大げさな手ぶりで沙貴ちゃんを制する。それを見て沙貴ちゃんはくすっと笑った。思ったよりもずっと元気そうな沙貴ちゃんの様子を見て、私も安心した。
「雪降ってて寒かったでしょ。どうもありがとう」沙貴ちゃんは布団の上にあったピンクのカーディガンを羽織った。
 さっそく香澄が恭しく花束を沙貴ちゃんに向けて差し出す。
「はい、お花。これね、クラスの男子生徒有志諸君からのお見舞いの品。どうぞ、お納めくださいませ」
「きれいなお花」沙貴ちゃんは花束に顔をうずめて目を閉じた。
「で、私たちからはこっち」そう言いながら、私はチーズケーキの箱を差し出した。沙貴ちゃんが無邪気に目を輝かせる。
「あ、お花もいいけど甘いものがほしいなって、私も思ってたところ」
「花よりケーキっていうものね」
「それをいうなら花より団子でしょ」香澄の言葉に私が注釈を加えると、それを聞いた沙貴ちゃんが首をちょこんと傾げて一言。
「玲子ちゃん、黄粉餅のお団子だったらあるよ。召し上がります?」おどけた沙貴ちゃんの仕草と台詞に、香澄と私の軽やかな笑い声が部屋に響きわたった。
「音楽、かけるね」沙貴ちゃんがベッドの中からリモコンを使ってミニコンポのスイッチを入れた。やがて管弦楽の穏やかな響きが部屋を暖かく充たし始めた。
 そこに沙貴ちゃんのお母さんが、紅茶の入ったカップを三つ持ってきてくださった。やわらかな湯気にのって高貴な芳香がふわりとただよう。おいしい紅茶も入ったことだし、皆でケーキをいただきましょうと沙貴ちゃんが言ってくれたので、香澄と私もそれぞれ自分用に買ったケーキをいただくことにした。
 紅茶を一口いただいてから、私は沙貴ちゃんに訊いてみた。
「もう風邪の方はだいじょうぶ?」
「うん。昨日は少し熱もあって苦しかったんだけど、今日はだいぶよくなったから」
「それじゃ、明日は一緒に学校に行けるね」
「うん」沙貴ちゃんと私は、顔を見合わせて笑顔になった。
「あ、私この曲大好き」ティーカップを口許に運びかけた手をふと止めて、香澄が流れる曲に耳を傾ける。
 ガブリエル・フォーレのパヴァーヌ。レースのカーテンが掛かったフランス窓から見える外の世界にイメージがぴったりの素敵な音楽である。沙貴ちゃんと私も香澄に倣い、その典雅な調べに聴き入った。
 しばらくして、香澄がふと夢から覚めたように目を開く。
「そうだ、音楽に聴きほれて忘れるところだった。ねえ、沙貴ちゃん」
「なあに」ちょこんと首を傾げる沙貴ちゃん。
「あのね、昨日の夜、岩岸さんと電話でお話ししたの。沙貴ちゃんの風邪のことお話ししたら、岩岸さん、ずいぶん心配してたよ。それでね、これからお見舞いに来てくれるって」
「え、だめ。恥ずかしい」沙貴ちゃんは布団を首のところまでかき上げて赤くなった。そんな沙貴ちゃんの姿を見て、香澄は小さく微笑むと、
「うそうそ。お見舞いの話は嘘。でも岩岸さんが沙貴ちゃんのことを心配してたのは本当だよ」香澄はしばし思案げに首をひねっていたが、やがて名案を思いついたときに見せる笑顔になった。
「ね、いいこと思いついた。これから岩岸さんに電話してみようか。沙貴ちゃんの元気な声を聞かせてあげよう」
「でも、迷惑じゃないかしら」沙貴ちゃんが布団からそっと顔をのぞかせながら言う。
「だいじょうぶよ。沙貴ちゃんの風邪の様子がわかったら連絡くださいって岩岸さんも言っていたから。あ、ねえ沙貴ちゃん、この電話、借りてもいい?」香澄は沙貴ちゃんのお部屋の隅にあった電話機の子機を見つけたと思ったら、もう受話器を手にしていた。
「どうぞ」沙貴ちゃんの許可をもらった香澄は、制服のポケットから手帳をとり出し開くと、ナンバーをプッシュし始めた。
 香澄の電話がつながるまでの間、私たちの話に登場した岩岸さんのことについてご紹介しておこう。フルネームでお呼びすれば岩岸正さん。容姿端麗にして頭脳明晰。私たちより四つ歳上の大学生である。岩岸さんと初めて出会ったのは、私たちが高校二年に進級したばかりの春のことである。その頃、香澄の書いた手紙をめぐって一つの不思議なできごとが起きていた。私たちを悩ませたその謎を、岩岸さんはみごとに解き明かしてくれたのだ。それ以来、岩岸さんは私たちにとって身近な謎を相談できる名探偵であり、そしてまた頼りがいのある兄のような存在でもあった。
 その岩岸さんに香澄のかけた電話がつながったらしい。
「あ、もしもし、私。誰だかわかる?」と、香澄は甘えたような作り声で問いかけた。
 まったく、香澄の茶目っ気には困ったものである。もし他の人が電話に出ていたらどうするつもりなのだろう。はらはらしている私をよそに、当の香澄は受話器を耳に押しあてたまま、楽しそうに瞳をくるくる動かしている。やがて相手の答えが聞こえてきたらしく、香澄の顔から笑みがこぼれた。
「そうです、当たりです、室町香澄です。昨日はどうもありがとうございました。ところで今、私はどこから電話してるかわかります?」香澄は再び無邪気なクイズを出して喜んでいる。さすがに沙貴ちゃんのお宅から電話しているという回答は返ってこなかったらしい。香澄が楽しげに首を左右にふった。
「はずれです。わあい、岩岸さんにもわからないことがあるんですね。実は今、沙貴ちゃんのおうちにお見舞いに来てるんです。はい、そうです。あ、はい。それじゃ、沙貴ちゃんに代わりますね」そう言うと、香澄は受話器を沙貴ちゃんに手渡した。
 沙貴ちゃんはちょっと恥ずかしそうに受話器を耳に当てた。
「もしもし、あ、こんにちは。はい、大和です」しばらく電話の向こうの声に耳を傾けていた沙貴ちゃんは、やがてかすかに口許をほころばせた。
「はい、もうすっかりよくなりました。ご心配かけてすみません。はい、ありがとうございます。あ、はい、それではまた香澄ちゃんに代わります」お見舞いの言葉をかけてもらった沙貴ちゃんは、幸せそうに微笑みながら受話器を再び香澄に返した。
 電話を代わった香澄は、しばらくの間、今どこにいらっしゃるんですかとか、これからどうされるんですかとか質問をしていたが、相手の答えを聞くと瞳を輝かせ、それならこの後お会いしませんか、などと言い始めた。どうやら香澄は岩岸さんにデートの申し出をしているらしい。私に一言も相談せずにである。
 それからしばらく電話での会話は続いていたが、どうやら香澄はちゃっかり岩岸さんと逢う約束をとりつけたらしい。香澄は私の顔を見てにっこり笑うと、
「はい。それでは後ほどお会いできるのを楽しみにしていますね」私たちの方に向けてVサインまで出して得意そうである。
 香澄の会話もようやくおしまい。さあ、いよいよ次は私の番。そう思って受話器に手をさしのべた私の目の前で、香澄は用事は済んだとばかりに受話器の通話ボタンをぽんと押して電話を切ってしまった。電話を切った瞬間の香澄と私の目が合う。
「あ」香澄は小さな声を上げた後、固まってしまった。私は口をとがらせる。
「香澄ったら、ひどい。私も岩岸さんとお話したかったのに」
「ごめん、玲子」香澄はしゅんとなっている。いけない、いけない。私に本気で香澄のことを責めるつもりなどありはしない。
「でもいいわ。岩岸さんと逢う約束をしてくれたから、香澄のこと許してあげる」そう言って、私は香澄にウインクしてみせた。何ごとにも寛容さが大切である。
 それからしばらく私たちは、暖かいお部屋で心ゆくまでおしゃべりを楽しんだ。昨日、そして今日の授業の様子などを沙貴ちゃんに教えてあげたりもした。もちろん、きちんと沙貴ちゃんにも今日の数学のプリントをお土産として持ってきてある。
「ええ私、これはいらない」沙貴ちゃんが真顔で言うのがおかしくて、香澄と私で笑い転げてしまった。
 楽しいときは時間の経つのも早いもので、あっという間に帰りの時刻が来てしまった。香澄と二人、帰り支度にとりかかる。
「せっかく風邪が治りかけているところだし、見送りはこの部屋でいいわ。今夜は暖かくして、ぐっすり眠ってね」マフラーを巻きながら、香澄は沙貴ちゃんにいたわりの言葉をかける。
「それじゃ、お言葉に甘えてここで失礼するね」ベッドの中から沙貴ちゃんが私たちに手をふった。玄関で沙貴ちゃんのお母さんにおいしかった紅茶のお礼を述べて、香澄と私は沙貴ちゃんの家を後にした。
 外はいつの間にかすっかり冬の夕闇に包まれていた。空は相変わらず厚い雪雲に覆われているので、漆黒の闇がいっそう重く感じられる。
 香澄と私は雪道を駅に向かって歩き始めた。
「ねえ香澄、岩岸さんとはどこで待ち合わせすることにしたの」
「あ、うん。駅前の街路樹の前にしたの」待ち合わせ場所の定番である。
 すでにお相手は待ち合わせ場所に到着していたようである。グレーのコートを瀟洒に着こなした男の人の姿が見えた。私は思わず香澄を残したまま走り出していた。私に気づいた岩岸さんが軽く右手を上げた。
「こんばんは。今日はずいぶんと積もりましたね」
「どうもすみません、香澄がこんな雪の中を無理言ってお呼び立てしたりして」私が息をはずませながらお詫びの言葉を岩岸さんに述べていると、ようやく後から追いついてきた香澄が横からひじで軽く私をつついた。
「とか言いながら、玲子だって岩岸さんに会えて嬉しいくせに」
「はいはい、香澄の言うとおり。私は岩岸さんに会えて嬉しいです。岩岸さんと二人きりで会えたらもっと嬉しかったのに」
「あ、言ったな。岩岸さんとデートの約束したのは私だぞ。玲子にはもうここで帰ってもらおうかな」
「もしそんなことになったら、香澄のこと許さないから」
 いつものようにじゃれ合っている私たちを、岩岸さんは楽しそうに見ていたが、寒そうに首をすくめると言った。
「そろそろどこか暖かい場所に席を移しましょう。このままでは三人とも雪に埋もれて遭難してしまいそうです」

 私たちは駅前にあるティーハウスに入った。沙貴ちゃんの家でケーキをいただいたばかりだったので、注文は飲み物だけにする。香澄はホットココア、私はホットミルク、岩岸さんはロイヤルミルクティーを頼んだ。
 暖房のよく効いた窓際の席に腰を下ろす。温かい飲み物を口にすると、冷えきっていた身体にぬくもりが広がって、ようやく生き返った心地になる。
「今日はこの雪で、高校も半日だったそうですね」岩岸さんがティーカップを軽く揺らしながら私たちに話しかける。
「でもその代わり、しっかり数学の宿題をお土産に持たされましたけど。先生曰く、とっておきの難問なんだそうです。私、もう今から何だか憂鬱な気分」香澄が肩をすくめて答える。
「そうなんです。私も教室で何問かチャレンジしてみたんですけれど、どれも難しくて」積分法の難問を思い出して私が顔をしかめてみせると、岩岸さんは口許に笑みを浮かべた。
「その数学の宿題、見せていただいてもいいですか」
「はい、もちろん」香澄も私も異論のあろうはずがない。これこそ天の助けである。香澄は今日配られたプリントを手早くとり出し、すでにテーブルの上に置いている。私は鞄を静かに開けて、中から自分のプリントをそっと抜き出し、香澄のプリントの横に並べて置いた。
 岩岸さんは私のプリントを手にとり、そこに印刷されている数式にざっと目を走らせていたが、小さくうなずくとポケットからペンをとり出した。
「なるほど確かに難しいかもしれませんが、どれも基礎と応用のバランスのとれた、とてもいい問題ですよ。まず、この第一問目ですが」岩岸さんは、それらの難問をすらすらと解いていく。それも一人で勝手に解いてしまうのではなく、私たちが自分で解法を導き出せるようにわかりやすい説明を添えながらである。その端整な横顔を見つめながら、この先生ならさぞいい家庭教師になるだろうな、そんなことを私はぼんやり考えていた。そうしている間にも課外授業は進み、特別講師の解説による全問の解法が私たちのプリントに書き写された。
「どうもありがとうございました。これで次の数学の時間は自信をもって授業に臨めます」私たちは岩岸先生にぺこりと頭を下げた。授業は無事終了である。
 私がペンをケースにしまっていると、香澄が私の制服の袖を軽くつついた。
「ねえ玲子、もう一つの難問の方も岩岸さんにお願いしてみようよ」
「おや、まだ難問が残っていましたか」岩岸さんが楽しそうな表情で私たちに訊ねる。香澄がテーブルの上に大きく身を乗り出して、
「そうなんです。いたずら者の雪の精が現れて、真っ白な衣裳を持って空を飛んだかと思ったら、今度は姿を消してしまったんです」思わせぶりな香澄の言葉に、岩岸さんはくすぐったそうに笑うと、
「なかなか面白そうなお話ですね。聴かせていただけますか」そう言って香澄と私の顔を交互に見つめた。
「玲子、私が岩岸さんにお話ししてもいい?」香澄が遠慮がちに私の顔を横目で見ながら訊いた。私が黙ってうなずくと、香澄は嬉しそうにココアを一口飲んだ。
 今日、高校で起きたミランダ姫の衣裳と《修道院》に遺された足跡をめぐるミステリーを、香澄は岩岸さんに一つ一つていねいに順を追ってお話ししていった。その間、名探偵はいつものように顔の前で指を合わせたまま、黙って香澄の話に耳を傾けていた。
 香澄の話が終わった。私たちは名探偵の謎解きが始まるのを息をひそめて待つ。
 岩岸さんは最初に香澄の顔を、続けて私の顔を見た。それから岩岸さんには珍しく表情を曇らせた。
「残念ですが、僕にはここでその謎を解くことはできないだろうと思います」
「あの、私の説明ではわかりづらかったのでしょうか」香澄が不安そうに岩岸さんに訊ねる。
「やっぱりお話は玲子にお願いした方がよかったのかな」少し拗ねたように口をとがらせると、香澄は手許のカップを小さく揺らした。そんな香澄の仕草を見て、岩岸さんはやさしく微笑むと、
「いえいえ、そういう意味ではありません。室町さんの説明はとても簡潔でわかりやすかったですよ」
「本当ですか。ああ、よかった」香澄は叱られると思っていたお兄さんから褒められた妹のように、ほっと胸をなで下ろした。しかし香澄はすぐ、おかしなことに気づいたというように目を丸くして岩岸さんの顔を見つめ返した。
「あれ、それじゃ本当に岩岸さんにも《修道院》の足跡の謎は解けなかったんですね。でも、岩岸さんが降参するなんて珍しい。私、岩岸さんにかかればこのくらいの謎なんて簡単に解けちゃうと思っていたのにな。何か拍子抜け」香澄はつまらなそうに口をとがらせている。
「もし僕がその場にいれば、何か別に気づいた点があったかもしれません。謎の足跡というのも、じっくり観察できたことでしょう。しかし残念なことに僕はいずれもこの目で見ていません。さすがに室町さんのお話だけでは、謎を解くための推理の材料が足りないように思うのです。室町さんのご期待に添えなくて本当にすみません」岩岸さんに頭を下げられて、かえって香澄の方が恐縮してしまった。
「あ、いえ、そんな。私の方こそ自分で勝手に期待しておいて、それが充たされないからといって文句だけ言うなんて、岩岸さんに失礼でした。反省します」香澄がそっと目を伏せた。沈み込んでいる香澄に、岩岸さんは静かに語りかける。
「しかし室町さん、この世には解かれない方が幸せな謎もあるとは思いませんか」
「解かれない方が幸せな謎?」思わず顔を上げる香澄に、岩岸さんは微笑みかけると、
「そうです。例えば今日雪の上に残された一列の足跡の謎も、解かれない方が幸せなのではないでしょうか。謎が解けない代わりに、室町さんが想像したいたずら好きの雪の精はいつまでも消えずにあなたの心の中に生き続けることができるでしょう」
 岩岸さんが話している間、香澄は真剣な表情でその言葉に耳を傾けていたが、自分が創り出した雪の精のことに岩岸さんがふれると、香澄の澄んだ瞳にいつもの輝きが戻った。そんな香澄の目を見つめながら、岩岸さんは言う。
「いかがでしょう、こういう美しい雪の日には、その方がずっとずっとふさわしいとは思いませんか」
「はい」香澄は笑顔でうなずいた。

 心も身体も暖かくなって、私たちはお店を後にした。
 香澄は、お店の近くにあるバス停から出るバスに乗ってしまえば、乗り換えることなく一本で家に帰れるということだったので、まずは香澄をバス停まで送ることになった。
 バス停の前まで来ると香澄は不意に立ち止まって、なぜか何も言わずに私の顔を見た。
「ん、香澄、なあに」私が首を傾げてみせると、香澄はコートのポケットに手を入れたまま、顔だけ私に近寄せてささやいた。
「いいな、玲子は」
「え、何が」
「だって、岩岸さんに駅まで送ってもらえるんだもの」
「そうだよ。いいでしょ」私はわざとはしゃいでみせる。自分の本当の気持ちを香澄に気づかれないように。
 やがて重々しいチェーンの音を響かせながらバスがやって来た。バスはまるで姫君を迎える馬車のように香澄の前で停まると乗車用ドアをゆっくりと開いた。ステップの上に立って、香澄はこちらへふり向いた。
「岩岸さん、さようなら。今日はどうもありがとうございました。それじゃ玲子、また明日ね。ばいばい」香澄は岩岸さんと私に手をふった。静かに閉まるドアの向こうで、香澄のクリーム色の手袋がふわふわと揺れた。
 香澄の乗ったバスを見送った岩岸さんと私は、駅に向かって歩き始めた。足許を見つめながら、転ばないようにゆっくりと歩く。マフラーに埋めた顔に冬の雪風が吹きつけて、私は思わず強く目を閉じた。ようやく風が止んだところで目を開けて何げなく横を見ると、岩岸さんがやさしい表情で私の顔を見ていた。私はあわてて視線を足許へ戻した。
 二人、しばらく黙ったまま再び粉雪の降る街を並んで歩く。自ら望む静寂でありながら、私はその沈黙の時間が怖かった。やがて、岩岸さんが私にそっと言葉を投げかけた。
「村岡さん」
「はい」
「きっとあなたが考えに考えた末に決めたことなのだろう思いましたので、先ほど室町さんの前では、僕はあえて何も言いませんでした」
「はい」
「衣裳を焦がしたのが誰なのか、村岡さんは知っていますね」
「はい」小さくうなずく。やはりこの人は全てを見通していたのだ。そのことに気づいたとたん、先ほどまで無理をして張りつめていた気持ちが、雪がとけるように消えていった。
 駅に着いた。

 珍しいことに駅舎の中に乗客は一人もいなかった。少し心配になって駅員さんに訊ねてみると、電車は雪で遅れてはいるものの、しっかり運行しているとのこと。ただ、私の乗る電車が来るまでには、まだだいぶ時間があるようだった。岩岸さんと私は駅のベンチに並んで腰を下ろして電車を待つことにした。
 やがて、岩岸さんが静かに語り始めた。
「先ほど室町さんからお聴きした話から僕が推理したことをお話ししてみます。もし何か間違っていることがありましたら指摘してください」
「はい」私はこっくりうなずいた。
「まずこの事件で幸運だったのは、遺されていた足跡が一列だけだったということです。もし《修道院》に行きと帰りの二列の足跡が遺っていたとしたら、誰が衣裳を《修道院》に持ち込んだのかという謎は解けなかったかもしれません」
「それじゃ岩岸さんは、足跡が一列しかなかったので謎が解けたと言われるんですか」むしろ逆ではないのかと思って、私はもう一度訊き返してみたが、岩岸さんは静かに首を左右にふる。
「いいえ。《修道院》に向かって続く足跡しか遺されていなかったという事実から推理を順にたどっていけば、謎は全て解けていくはずです」
 もはや私には言うべき言葉はなかった。岩岸さんの話の続きを、私は黙って促した。
「建物へと続く足跡が一列遺されていたにも関わらず、《修道院》の中やその周辺には誰もいなかったということでしたね。足跡や雪に何の細工もされていないことと、秘密の抜け道の類が存在しないことの二つを前提に考えれば、導き出される結論は一つです。即ち、通路に遺されていた足跡は《修道院》に向かうときのものではなく、《修道院》から帰るときについたものであるということです」
「つまり、その足跡をつけた人は、後ろ向きで本校舎まで戻ったということですか」
「そうです。ではその方法で本校舎まで戻ったのは、いったい誰なのか。それが今回の話と全く関係していない第三者だった場合、衣裳が《修道院》に移動していた結果と足跡が矛盾します。部外者が部室に入る可能性が低いことから考えても、足跡の主は演劇部員の誰かだと考えるのが自然です。室町さんのアイデアを借りて、その人物をここでは雪の精と呼ぶことにしましょうか」岩岸さんは私の顔を見て、いたずらっぽく笑った。
「おそらく雪の精は、まだ雪が降っていた時間にミランダの衣裳を持って《修道院》に入ったのでしょう。なぜ雪の精が《修道院》へ衣裳を持っていったのかはわかりませんが」
「それは」何かを言いかける私を、岩岸さんは指で制した。
「雪の精が《修道院》にいる間に、雪によって行きの足跡は消されます。雪が降り止んだ後、《修道院》での用事が済んだ雪の精は、いざ校舎へ戻ろうとしてドアを開けた。するとそこには一面に降り積もった雪の絨毯です。雪の精にふとしたいたずら心が芽生えたとしてもさして不思議はないでしょう。雪の精は後ろ向きになって校舎へと戻ります。そこには建物へ続くように見える一列の足跡が遺るだけですから、一見すると誰かが《修道院》に向けて歩んだとしか思えません。雪の精は急いで衣裳を部室に返し、その直後に橘さんと長峰さんが衣裳を確認したのです。ところが雪の精は、それからしばらく後で大変なことに気づきます。衣裳が焦げてしまっていたのです」
「衣裳が焦げて」
「そうです。《修道院》にいた間に雪の精はストーブの熱で衣裳を焦がしてしまっていたのです。部室で長峰さんと橘さんが衣裳を確認したときは、衣裳はすでに焦げた後だったのです」
「でもそれなら、なぜ橘さんたちは衣裳の異変に気づかなかったのでしょう」私の投げつけた探るような視線を、岩岸さんは真っ直ぐに受け止めた。
「部室で二人が確認したとき、衣裳は畳まれた状態で衣裳棚にしまってあったそうですね。そのときに裾の部分にほどこされた刺繍が見え、腰の辺りの焦げた部分は隠れるような状態で畳んであったのだとすれば、何も奇妙な点はありません。どうでしょう、ここまで何かおかしな点はありますか」名探偵は静かな声で私に訊ねた。
「いえ、ありません。でも岩岸さんの推理によると、最後の最後に最も難しい問題が残されてしまいます。橘さんと飛鳥がその衣裳を部室で見たときには、雪はもう止んでいたのです。すでに足跡がついてしまっている通路に新しい足跡を遺さずに、雪の精はどうやって衣裳を再び《修道院》に持ち込んだというのですか」思い詰めた表情で訊ねる私を見て、岩岸さんは静かに微笑んだ。
「村岡さんの言われるとおりです。もう雪の精には衣裳を《修道院》に持っていくことはできません。しかし雪の精には、衣裳を《修道院》に持ち込むことができる人物に衣裳を預けるという方法が残されていたはずです」
 私はかすれたような声で訊ねた。
「そんな人がいるでしょうか。足跡を遺さずに《修道院》に行くことができる人などいるはずないと私は思いますけれど」私の反論を聞いて、岩岸さんはかすかにうなずいた。
「そうですね。ではこう言い換えましょう。雪の精は、《修道院》へ続く足跡が遺っていても誰も不思議に思われない人物に衣裳を預け、その人物によって衣裳は《修道院》に運び込まれたのだと。足跡が遺っていても誰にも疑われない人とは誰か。それができた人物、刺繍の入った衣裳を雪の精に代わって《修道院》に運び込むことができた人物は一人しか考えられません。その人物とは」そこで岩岸さんは言葉を止め、じっと私の顔を見つめてから、静かに言葉を継いだ
「村岡さん、あなたです」

 しばしの沈黙が二人の間に流れた。私はあえて何も言わなかった。一言も口にしない私を見て、岩岸さんは少し寂しそうな表情になった。黙りこくっている私の横で、岩岸さんは再び自分の推理を語り始める。
「衣裳を探しに出た村岡さんは、室町さんと一緒に《修道院》に入りました。そのときあなたは自分の鞄を携えていました。その鞄の中に、雪の精から預かったミランダの衣裳が隠されていたのです」
 私はゆっくり首を左右にふった。
「その推理は成り立ちません。香澄と私が《修道院》に入って、私が入口近くにある照明のスイッチをつけたすぐ後に、香澄がテーブルの上に畳んで置いてあった衣裳を見つけているのです。香澄が気づく前に衣裳をテーブルに置くことなんて、私にできるはずがありません」
 私の反論を聞いても、岩岸さんは少しも困った様子を見せなかった。名探偵は口許に余裕の笑みを浮かべて言った。
「部室で衣裳を確認した橘さんがこう言っていましたね、
『私が予備の衣裳と見間違えたとでも言うの?』と。これはミランダの衣裳に、裾に刺繍のほどこされていない予備の衣裳があったということを意味しているのではありませんか」
「なるほど、舞台用の衣裳には予備のものが用意されていたのかもしれません。もしそうだとすると、推理の続きはどうなるというのですか」
「先に《修道院》に入った雪の精は、本物の衣裳だけでなく、予備の衣裳も一緒に持ち込んでいたのです。ところが《修道院》を出るとき、雪の精は予備の衣裳の方を部屋にうっかり忘れてきてしまっていた。村岡さんたちが《修道院》に入ったときに室町さんが見つけたのは、その予備の衣裳の方だったのです。後は説明するまでもないでしょう。室町さんが《修道院》の外を確認しに行っている間、室内に残っていたのは村岡さん一人でした。鞄の中から本物の衣裳をとり出し、それをテーブルの上に畳んで置き、予備の衣裳の方を鞄に詰める時間は十分にあったはずです」
「その予備の衣裳の方はどうなったのでしょう」私が問うと、名探偵は小さなため息をこぼした。
「予備の衣裳を鞄に入れた後、村岡さんにはその衣裳を誰かに手渡す機会がありませんでした。おそらくあなたの鞄の中には、《修道院》から持ってきた予備の衣裳がまだ入ったままなのではありませんか」
 私は観念したように目を閉じた。乱れそうになる呼吸を整えてから、私はそっと目を開いた。私は手許に抱えていた鞄を静かに開けた。名探偵が指摘したとおり、鞄の中には刺繍のされていない、もう一つの衣裳が大切にしまわれていた。
「先ほど数学のプリントを鞄から出すとき、香澄や岩岸さんに衣裳を見られてしまわないようずいぶん気を遣ったのに、やっぱり名探偵には隠せませんでしたね」私は岩岸さんの顔を見て、照れたように笑ってみせた。岩岸さんも微笑を返してくれたのが何よりの救いだった。名探偵は推理のまとめに入る。
「これで雪の精が誰なのかもはっきりしました。村岡さんに衣裳を預けて《修道院》へ運んでもらうことができた演劇部員こそが雪の精です。村岡さんと面識がなかった島津さんや、村岡さんと二人だけで会う機会がなかった橘さんは除外されます。雪の精は長峰さんということになるのです」
 雪の精が誰なのか明らかになった今、私にはもう何も隠すことはなかった。
「後は私の口から説明させてください。まず、これだけははっきり言っておきたいのですが、決して飛鳥は島津さんを妬んで衣裳を焦がしたわけではありません。飛鳥がそんなことをするはずのないことは、私が一番よく知っています」
 私は続けて岩岸さんに全てを告白した。

 飛鳥は、どうしてもミランダを演じてみたかった。その思いをどうしても断ちがたく、雪で生徒がほとんどいなくなった今日、まだ雪が降っている間に部室からミランダ姫の衣裳をこっそり持ち出し、飛鳥は誰もいない《修道院》へ籠もったのだ。
 飛鳥はそこで心の命じるままにミランダを演じた。満足のできる演技だった。しかしどれほどうまく演じても、結局自分はこの役を演じることができないのだと悟り、飛鳥は哀しくなってしまった。純白の衣裳を身にまとったまま、飛鳥はテーブルに顔を伏せて哀しみに耐えていたのだという。
 どれだけの時間そうしていたのだろう、やがて飛鳥は静かに身を起こした。そろそろ橘さんが部室に来る時刻だということを思い出したのだ。《修道院》を出ようとした飛鳥は、目の前に広がる一面の雪を見ているうちに、ふと後ろ向きに校舎まで戻ったら面白いと思ったのだそうだ。かくして《修道院》へ向かったように見える足跡が遺された。
 飛鳥は部室に衣裳を戻し、そこにやってきた橘さんと一緒に衣裳を確認した。しかし橘さんが出ていった後、衣裳を畳み直していた飛鳥の目に映ったのは、真っ白な衣裳を汚すかのような焦げた跡だった。先ほど《修道院》で一人哀しみに耐えていたときにストーブの熱で焦げてしまっていたのだ。飛鳥は衣裳を手にしたまま床に崩れるようにすわり込み、しばし茫然としていたという。
 やがて飛鳥はエーリアルのようにはね起きた。このままではいけない。パニック状態に陥った飛鳥は、その衣裳を持ったまま部室を飛び出した。不安と自責の念に追い立てられるように飛鳥は校舎の中を走った。やみくもに走った飛鳥は何かに導かれるように自分の教室へ飛び込んでいた。そう、私一人が残っていた教室に。
「私には、飛鳥の様子がいつもと違うことがすぐにわかりました。何があったのか訊ねる私に、飛鳥は全てを話してくれました。そういう事情ならば、全てを皆に正直に話した方がいいと私は飛鳥に忠告しました。しかし、飛鳥は寂しそうな笑顔を浮かべたまま首を左右にふるだけでした。飛鳥は部の中で孤立していたのです。きっと演劇部員たちは誰一人自分のことを信じてくれるはずがない。役をとられたことを恨んで、島津さんに嫌がらせをしたのだと言われるに違いない、そう飛鳥は言ったのです。そしてそのとき、飛鳥は初めて涙をこぼしました。いつも気丈で自分の弱いところを見せたがらない彼女が私の前で涙を流すのを見たとき、私は心に決めたのです。飛鳥は私が守ろうって。幸いなことに、飛鳥は焦がした衣裳と非常によく似た予備の衣裳を《修道院》に忘れてきていていました。そしてあの逆向きの足跡のことを飛鳥から聴いたとき、私の心の中に一つのアイデアがひらめいたのです」そこで私は背筋をすっくと伸ばし、岩岸さんの顔を見つめて言った。
「私は、そのアイデアを実行しました。友を救うために」
「後悔はしていませんね」岩岸さんの問いに、私は何の迷いもなくうなずいた。
「橘さんたちを欺いてまで飛鳥の過失を庇ったことについて、私は少しも後悔していません。ただ一つだけつらかったのは、何も知らない香澄を巻き込んだことでした。香澄を利用するような形になったことについては、本当に申し訳ないと思っています。だから、どうしても香澄にだけは岩岸さんの謎解きを聞かせたくなかったのです」私の心の中を見通していたように、岩岸さんはやさしく微笑んだ。
「村岡さんの気持ちはわかっていました。ですから僕は、あえて室町さんの前では謎解きをすることを避けました。しかし室町さんはとても頭のいい方です。もしかしたら室町さんは、あなたが隠そうとした謎の真相も、あなたがそれを隠そうとした理由も、全て気づいていたのかもしれませんよ」岩岸さんの言葉に、私はそっと目を伏せた。
「それでもいいのです。もし全てを知っていたのだとしても、香澄は私に何も言いませんでした。それが私にとって一番の救いになることを、香澄はきっとわかっていたからだと思うのです」バスの中で手をふった香澄の顔を私は思い返していた。
 電車が来た。私たちはベンチから立ち上がった。岩岸さんが私の顔を見てから、いつもの穏やかな調子で言った。
「それでは僕はここで失礼します。雪はまだ降り続くようです。どうぞお気をつけて。またお会いしましょう」
 雪は全てを覆い隠してくれた。妙なる美しいものも悪しく汚れたものも平等に。しかし、雪はそれらをいつまでも隠し続けてくれるわけではない。雪がとけるように謎は解けた。謎が解けたように、やがて今日の雪もとけてゆくだろう。そしてその後には、厳しい冬の間を雪に埋もれていた雪割草が姿を現すように、きっと凛としたものが残るに違いない。私はそれを信じている。

 これで私がお話ししてきた、今から一年前の冬の日に、皆の心が妙なる雪にやさしく包まれたときの物語はおしまい。
 それでは私も冬の眠りにつくことにしよう。いつの日にか再び会えるそのときまで。

おとめごっこクラブ
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