久野氏の面々

史書などに登場する久野氏の面々です。

西暦 名前 事績など
1031 久能大膳藤原季善 上総忠常党と讒訴され伊豆へ遠島、のち許され相州にて道心となる(加木屋久野家系図)
1031 久野美耶太夫季貞 季善の子、久野氏の初見(同上)
1155 久野六太夫 源義平の従者、武蔵大蔵合戦に参加、のち相州久野谷の名主(鎌倉史話散歩)
1177 久野広尾 六太夫の娘、源頼朝の家臣柳川弥二郎[吾妻鏡の久野谷弥次郎]に嫁す(同上)
1189頃 久能兵庫頭勝重 勝重の娘は駿河に流された藤原清衡の曾孫樋爪次郎兼衡に嫁し、兼衡は三沢[宮加三]、三保などを領した(清水市史など)
1193 久野(久能)四郎忠宗 駿河藤原南家為憲流入江氏の末流原氏の一族、久野家の入り婿か?忠宗兄の原宗俊は遠江原谷(掛川市)に住す(曽我勲功記+岸和田久野家文書)
1214 久能大膳太夫藤原定冨 後鳥羽上皇の命をうけた長谷川長易に藤枝で討たれる(駿河記)
1262 久野讃岐守定全 尾張藩久野家の先祖、遠江原田庄細谷村[掛川市]に原氏庶流として所領を有す(諸氏伝略稿+東寺百合文書)
1270頃 久野次郎太屋仲 本国駿河、名古屋鳴海久野家3代、成海神社神主、武官を兼ねる(鳴海久野家系図)
1280頃 久野民部兼之 兼之の代に駿河久能の地が今川国氏の領地となる(加木屋久野家系図)
1285 久野四郎兵衛入道 遠江国住人(鎌倉遺文)
1285 久野乙増丸 四郎兵衛入道の子、中尊寺経蔵別当職を譲られるが還俗する(同上)
1299 久能大炊助入道、又
久能(久野)左近将監頼貞
鎮西探題引付衆二番の11人の中の1人、神事奉行(九州中世史研究+鎌倉遺文)
1364 久野三郎左衛門入道(沙弥蓮阿) 今川家臣(一万首和歌作者+続草庵集)
1364 久野下総守藤原宗明 今川家臣(一万首和歌作者)
1400頃 久野十太夫 名古屋鳴海根古屋城主安原備中守家臣(尾張志)
〔以下戦国時代〕
〜1469 久野次郎左衛門尉 伯耆守護・山名教之配下で出雲中城進山に出陣し、尼子清定方に討たれる(島根県史)
久野(久能)佐渡守藤原宗隆 初代遠江久野城主、初見は文明8年(1476)
久野二郎左衛門尉保清 名古屋成海神社神主、今川義元より朱印状を賜る
久野伊賀守宗憲 5代遠江久野城主
久野八右衛門宗明(宗秋) 宗能父、掛川城の今川氏真陣営に寝返り追放される(大武鑑+日本外史+改選諸家系譜続編など)
久野三郎太郎元宗 宗明長男、今川義元の近臣、桶狭間の合戦で討死
久野(久能)三郎左衛門宗能 宗明次男、7代遠江久野城主、徳川家康に仕える
久能半内宗衡 駿河江尻城主、2代遠江久野城主・久野宗理次男、久能家の義子(岸和田久野家文書)
久能(久野)半内氏忠 今川義元の甥、桶狭間の合戦で討死(改正三河後風土記 天沢寺記)
久野三郎四郎宗経 4代遠江久野城主、桶狭間の合戦で討死
久野淡路守宗益 6代遠江久野城主、徳川方に不意討ちされる(岸和田久野家文書)
久野(久能)弾正忠宗政 駿府にて武田信玄に攻められ武田家臣となる
久野采女宗当 同上
久野覚之助宗勝 今川義元および武田信玄に仕える
久野千菊丸 宗能子、徳川方の人質となり三河に住す
久野日向守宗一 義父宗益討死時武田方に走る、のち千村良重家臣(木曽家伝集)
復姓し、小笠原長武として清洲の松平忠吉に仕える(士林泝)
久野民部少輔宗朝 徳川家康の伊賀越えに従う、三宅正次との私闘で相果てる
久野次郎左衛門 本国尾張、佐久間信盛および細川忠興に仕える(熊本永青文庫蔵・先祖附 細川家家臣略系譜)
久野(ひさの)与右衛門宗直 丹後の細川幽斎に仕え、細川忠興卒去時殉死(興津弥五右衛門の遺書 熊本永青文庫蔵・先祖附 細川家家臣略系譜)
久能武蔵守賢治 肥前の有馬義貞に仕える

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