久野氏の家紋

久野氏の家紋は最初「瓜の中に三つ星」で、その後これを産土神の紋とし、新たに一部の久野氏が現在でも使用している「瓜の中に左三つ巴」にしたと加木屋久野家系図に書かれています。時は平安時代であろうと思われます。三つ星とは太陽、月、星の三光のことです。平戸・松浦家の家伝にも、「家紋三星(太陽、月、星の三光)を賜る」とあり、家紋の三つ星がオリオン座の三つ星に由来すると言う意見はちょっと信用できません。さて静岡県の鳥は三光鳥(さんこうちょう)ですが、三光鳥のオスは長い尾と目の周りのコバルトブルーが特徴で鳴声が、「ツキ(月)、ヒ(日)、ホシ(星)、ポイ、ポイ、ポイ」と聞こえることから三光鳥という名前が付けられたそうで、案外久野氏の家紋のルーツはこの辺にあるのかもしれません。 その他に現在久野氏が使用している家紋には、「丸に三つ鱗」「丸に下がり藤」「丸に横木瓜」「丸に三つ柏」「丸に抱き沢瀉」「丸に橘」などがあります。


備考:遠州下山梨久野家系図の宗清の個所には家紋に関連した事項が次のように書かれています。
「宗清 従五位上工藤遠江守呼原殿
遠江国原ノ谷住工藤左衛門尉祐経十四代之孫之
長亨元年末六月 義尚将軍於江州有合
戦之刻宗清於河邊敵討捕時節六月甚暑而
咽渇ス 義尚公賜瓜曰其方先祖工藤遠江
守時憲弘安八年鎌倉合戦時於片瀬川首三討
捕感其功従 惟康将軍祝三ノ首有可用三巴
紋之上曰而仕官之由 任先例其方又以此瓜可
為紋云々
義尚公帰京後任遠江守従五位上自是以来改
家紋以瓜内三頭左巴為家紋之其后宗清寺
田村住法名圓海周公庵主則遠江国寺田邨
原殿明神宗清社是之
按時憲以前家紋庵内木香之鎌倉戦功后以
三巴為紋亦江州戦功後以瓜内三巴為紋之」
同様な文章は尾張藩久野家系図にも書かれており、このような話は遠州久野各家に広まっていたように思われますが、この原宗清とは掛川市域の原頼景のことで、『掛川市誌』によれば、「原遠江守頼景 原氏中興の英主である。応仁の乱には細川方となり、今川義忠 の先陣として上洛し、東軍に属し大いに西軍山名宗全方を破り、戦功を立てた。その後長亨元年将軍義尚が近江の六角高頼を征討する際召されてその軍に従った。戦功により従五位上に叙し領土を加増され城飼郡にまで及んだという。松堂録に、長福寺大旦越遠江守藤原頼景とある。」となっていますから、原宗清の事績は間違いありませんが、頼景(宗清)の法名は「兜率院殿高山流水大居士」であり、系図に言う法名「圓海周公庵主」とは明応3年に61歳で亡くなった前遠江守の横地太郎長秀のことであろうと思われます。またこの原氏の家紋は「木瓜に違い鷹の羽」ですから、この家紋の話は相当無理がありそうです。さらにこの系図では原宗清の子の宗隆を久野氏元祖としていますから、遠州久野各家では出自が分からなくなったために原宗清に繋げた系図を作ったとも言えそうです。なお本系図で原氏は工藤祐経の末裔となっていますが、伊東大和守祐時の次男大和守祐光が遠江国の地頭に補せられ原ノ谷に居城し原氏を称したという話が『曾我物語』にあると『伊豆誌稿』に書かれており、『曾我物語』の記述を引用したのかもしれませんが、伊東氏流原氏が代々掛川市域に住んでいたという形跡は見当たりませんから、これも採用することはできません。掛川市にある春林院所蔵の原氏系図によれば、原清益の妻が工藤祐継(祐経父の祐次のことか?)の女となっていることから、この久野家系図では工藤祐経に付会させたとも考えられます。


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