「母」の世界

  多喜二が高商卒業して、その年の三月から拓銀に勤める
ことになった。 わだしらは銀行なんて、一生縁のない所だと
思っていたども、多喜二が勤めたということで、末松つぁんと
二人で、一度だけ拓銀の前に行ってみた。
 六月だったべか、暑い日だった。石造りの立派な建物に、
二人ともびっくら こいて、
 「へえー」
 「へえー」
というばかり。あん時、末松つぁん喜んだ。
 「もう一生、多喜二は食うのに心配はない。寄らば大樹の陰だ、寄らば大樹の陰だ。」

     旧北海道拓殖銀行小樽支店     

         「わだしの葬式はキリスト教でやって下さい。
        先生がわだしの葬式ばして下さい」って頼んだら、近藤先生それはそれはうれしそ
        うな顔をして、
        「一緒の所に行こうね」
        って、わだしの手ば握ってくれた。その目から涙がぽとんぽとんと落ちた。そして、ぽ
        つんと言われた。
        「神の恵みです」
        ってな。

        雪がとけて、あったかくなって、チマにつれられて、教会にも顔ば出すようになった。
        「多喜二のお母さんが来た。」
        「多喜二のお母さんが来られた」
        って、みんな傍に寄ってくれてね、ありがたいような、妙に淋しいような気持ちがした
        もんだ。
        けどなあ、正直な話、教会ってところは、わだしには向かないんだね。何かというと
        「聖書をお開きください」
        とか
        「賛美歌何番をおひらきください」
       って言うんだもんね。字の読めないわだしは、どうやって聖書読んだらいいものだか。

                                    (「母」  角川書店  P81,184,185)

 
小樽シオン教会

     夏の終わり、10年ぶりに訪れた小樽の町は、さらに洗練された観光の町になっていた。
        歴史的建造物が多く残された土地ではあるけれど、現在の町の雰囲気は小林多喜二一家
        が住んいた昭和初期とは、すっかり変わってしまっているのだろう。
         国語の教科書で、「小林多喜二〜蟹工船」と暗記しただけで、一冊の著作も読んでいない
        私にとって、小林多喜二という作家は遠い存在だった。それが、綾子さんの「母」を読んでか
        らというもの、その、貧しいけれど、明るくて仲の良い家庭に育った多喜二という人に親近感
        抱くようになっていった。
         小樽文学館に所蔵されている、多喜二のデスマスクには、わざわざ「どうぞ触れて下さい」
        という張り紙があった。かすかに口を開けたその死に顔を静かになぞっていった時、ああ、
        お母さんのセキさんも、こんな風に警察から戻ってきた変わり果てた息子の姿に呆然としな
        がら、優しく顔をなでてあげ続けたのだろうと思った。
         偶然のことだけれど、今回私たちの宿泊先は「多喜二」という寿司屋の2階だった。
        店名のいわれを聞いてみると、「あまり知られていないことだけど、小樽について一番書い
        ているのは、多喜二なんです。それを知って欲しくて、ご遺族に承諾をもらって名付けました。」
        ということだった。3つの展望台からは、その多喜二が愛した小樽の町を見渡すことができる。

        参考までに  
          ・旧北海道拓殖銀行小樽支店の建物はペテルブルグ美術館として使用されていたが、
           残念ながら、現在は閉鎖。小樽郵便局の向かい。
          ・小樽シオン教会  JR小樽駅裏手  (富岡1−2)
          ・寿し処多喜二・二階の和風ペンション「風旅籠」   0134−32−7788