エッセイの世界

 数ある綾子さんのエッセイ・・・その中に綾子さんの素顔が見えてきますね。

 ちょっと好奇心を出して、行ってきます!

 三方六  3分間の黙想  滝上  春光台  ナナカマド  目黒不動NEW

三方六さんぽうろく



 あの八重樫さんのお招きの旅の時だったろうか、その前だったろうか。帯広の銘菓「三方六」と巡り合ったのは。三浦の母は料理上手な人で、その影響か、三浦の舌は肥えている。その三浦が、言葉をつくして「三方六」の味をほめた。かつて営林局に勤めていた三浦は「三方六」の形そのものが先ず気に入ったであろうし、菓子に添えられた人工樹脂製の小さな鋸もうれしかったにちがいない。あまりに三浦がほめるので、私は何かにこのことを書いた。そしてその文が菓子舗柳月さんの目に入り、「三方六」の菓子箱の栞に使って下さるようになった。
(「ナナカマドの街から」 北海道新聞社 P150)


 ところで、他の都市のお菓子屋さんに叱られるのを覚悟でいえば、帯広の街ほど平均してお菓子のおいしい街も珍しいのではないか。それは、小豆の名産地だからか、ビートの名産地だからか。とにかくお菓子がおいしいことは事実である。特にあの「三方六」というお菓子は、吾が夫三浦(味にかけてはちょっとばかりうるさい男ですぞ)の激賞して止まないお菓子である。               (「三方六」栞より)

 

   ボランティア仲間のKさんの家に遊びに行ったとき、「これ、三浦さんのお宅からいただいたのよ。」
      と言って、出していただいたのが、この「三方六」というお菓子だった。「え〜私がいただいていいん
      ですか?」と一応、遠慮したものの、三浦ご夫妻の好物だと聞いて、さっそく喜んで頂戴いたしました!
       さて、見た目は、バームクーヘンにホワイトチョコレートがコーティングされているだけだが、しっとり
      した口触りで、なかなかおいしい。今風ではないかもしれないが、素朴で懐かしい味でした。なお、
      「三方六」という変わった名前は、開拓時代の薪の割り方(サイズ)だそうです。そんなところにも郷愁
      誘うものがあるんですね。
      参考までに       柳月本社  帯広市大通り8丁目15番地    0155−25−5566
                    千歳空港、帯広空港、旭川西武にもお店があります。

 

三分間の黙想」

 『三分間の黙想』という本を開いていたら、
〈自分を捧げること、それが、生きていることの条件である。ヘツロ〉
という言葉が目に入る。心の底に、この言葉が大きく響いた。
    
               (「難病日記」 主婦の友社 P26)

    1999年、暮れも押し詰まった頃、旭川のデパートで開かれた「追悼 三浦綾子展」、
       そこには綾子さんの生前愛用されていた、洋服やカラオケのマイクなど様々な遺品も展示され
       ていた。そのどれもが、まだ綾子さんのぬくもりを残しているようだった。その中で、一番私の
       興味を引いたのは、綾子さんの愛読書と紹介されていた一冊のぼろぼろになった薄い本だった。
       題名は「三分間の黙想」。何が書いてあるのだろう?むずかしいことかしら?早速メモを取って、
       キリスト教書店に注文しておいた。
        入手した本は、たぶん改訂されたもので、展示されていたものと装丁はずいぶん変わっていた。
       中身は、古今東西の名言にカトリックの司祭さんが解説をしているのだが、その内容がとても
       深いのだ。「続氷点」に出てくるジェラール・シャンドリの「一生をおえてのち残るのは、われわれが
       集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」という言葉も載っていた。
       この本は綾子さんの信仰生活や執筆生活に大きな助けを与えていたんだろうと思う。
       早速、私も線を引っ張った文章が何ヶ所も・・・ちなみに今日私が線を引いたのは、
       〈あなたがこの世に来たのは、芝居をするためではなく、人間となるためである。ガリンド〉
       いつも手の届くところに置いておきたいと思わせる、そんな本だ。
       参考までに     「三分間の黙想」F・バルバロ編 ドン・ボスコ社 定価900円
                      ISBN4−88626−001−2 C0016 P900E

 

 滝上 たきのうえ

  

    

  浦の郷里、北見滝上は、三浦の父が大正初期、福島県から入植した土地で ある。
  当時は鬱蒼とした原始林で、木を一本切り倒すごとに空がひらけ、その空に向 かって、父や母たちは歓声を上げたという。着るものが遂になくなり、最後には大 事な紋付まで野良着にしたという話もある。

   
(「この土の器をも」 主婦の友社 P147)

 椎茸も芋も大根も裏山より今採り来しを今食ぶるなり 

 石多き畑に人は苦しめど四囲の官林豊に茂りいき 

 林間鉄道のありたる道と夫に聞き明るき林に入って行くなり 

   (三浦光世「妻と共に生きる」 P96より初めて夫の故郷を訪ねたときの、綾子作の短歌3首)

 

   5月の下旬、私たちは、芝桜の名所、滝上を訪ねた。現在は、旭川から車で約2時間程でで行ける
      滝上も、三浦夫妻が揃って初めて行ったときは、汽車を乗り換え、7時間もかかったという。
      私たちが行った日は、滝上公園の芝桜はちょうど8分咲きくらいで、山の斜面を濃淡のあるピンクの
      絨毯が覆っていた。観光バスも次から次へとやってきては、人々がその美しさに感嘆の声を上げて
      いた。
       光世さんが子供時代を過ごした頃の滝上は、どんなだったのだろう?と、郷土館にも立ち寄って
      みた。たぶん、町の人達から寄せられただろう、当時の生活用具や農具、様々な道具が所狭しと
      並べられていて、それらは、開拓時代の厳しい生活を彷彿させるものだった。
      現在の美しい北海道は、先人達の言い難い苦労の結果であることを改めて思った。
       入り口付近に、「最も栄えた昭和30年代の滝上町の地図」がかかっていたので、勇気を出して、
      館の方に「あの〜三浦光世さんが住んでいらしたのはどの辺でしょうか」と尋ねてみた。そして、
      教えられた通りに行った所は、町からかなり離れた人家もまばらなところだった。
       幼い光世さんが祖父母と共に、(「泥流地帯」の)耕作ような子供時代を過ごした場所に立って
      いると思うと、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。
             

      

               郷土館・丸太の馬搬のようす             光世さんの住んでいたあたりの風景

         参考までに  滝上町郷土館  紋別郡滝上町元町  電話 015829−3499

 

 春光台 しゅんこうだい

   ある日彼は、わたしを春光台の丘に誘った。萩の花の多いその丘は萩が丘とも呼ばれていた。
  六月も終わりに近い緑はしたたるように美しく、二人のゆくてに小リスがちょろりと太いしっぽを見
  せていた。郭公が遠く近くで啼いているその丘は、元陸軍の演習場でもあった。一軒の家もなく、
  見渡す限りただみどりの野に、所々楢の木が丈高く立っている。この丘は、徳富蘆花の小説「寄生
  木」の主人公篠原良平が、恋の傷手に泣きながら彷徨した丘でもある。・・・・・・・・・

   そして、何を思ったのか、彼は傍らにあった小石を拾いあげると、突然自分の足をゴツンゴツン
  とつづけざまに打った。・・・・・・・・・
   「綾ちゃん、ぼくは今まで綾ちゃんが元気で生きつづけてくれるようにと、どんなに激しく祈って
  きたかわかりませんよ。綾ちゃんが生きるためなら、自分の命もいらないと思ったほどでした。けれ
  ども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐の
  ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです。

                      (「道ありき」 新潮文庫 P63〜66)

 

     友達の石坂パパさんととしふみさんが、古い地図や資料をもとに
        こここそ、前川さんが石で自分を打ちつけた場所であると特定!
        決めては、萩が丘という名、元陸軍の演習場であったこと、楢の木、
        寄生木(やどりぎ・写真中、鳥の巣のような形)の存在であると言う。
         今ここは、春光台公園として、市民に親しまれ、家族連れがバーベ
        キューを楽しむ格好の場となっている。それでも、鳥たちのさえずりが、
        絶え間なく空から聞こえてくるのは半世紀前のあの日と同じではない
        だろうか。
         私は、この丈高い楢(ミズナラ)の木を見上げ、ゆっくりとその周囲を
        回りながら、「あぁ、すべてがここから始まったんだな」と思った。
         あの日を境に綾子さんは、徐々にではあるが、確かに変わっていった。
        やがては、イエスキリストに希望を持ち、それをペンをもって伝える人に
        なっていった。そして、多くの人が彼女の作品に励まされ、生きる希望を
        与えられていった。
         その始まりは、前川さんの「本気」だった。本気で愛し、本気で祈り、
        本気になって語り、叱った人の存在。それが綾子さんの心を動かし、やがて、
        後の時代の私たちにまで届いた。
          果たして私はどこまで本気で人と向き合ってきたのだろうか?
          祈っていると言いながら、どこまで本気だったのだろうか?
          

       参考までに   春光台公園 市民の森のキャンプ場 炊事場の右手の小高い丘

      

 ナナカマド

    ナナカマドは旭川市のシンボルツリーと言われているが、それと関わりなく、私は
   この木をこよなく愛してきた。芽吹きの頃のあのオリーブというのか、いい様もなく、
   瑞々しい色が好きだ。六月頃になって遠慮がちに咲く白い小さな花も、何か誠実な
   人柄を見るようで、心が安らぐ。八月には、いつの間にかつぶらなナナカマドの実が
   少しずつ色づき、新秋の九月ともなれば真赤な実が青空の下に輝く。そして葉も実も
   真紅に燃える秋になる。雪が来て、その紅葉がすっかり散りつくしても赤い実はいよ
   いよ赤いまま冬を迎える。やがて、純白の雪がその赤い実の一房一房をまるで教会
   のベルに似た形にする。ナナカマドの実の真紅と雪の白と、空の青さがふり仰ぐ私達
   の目をどんなに楽しませてくれることか。

              (「心のある家」 講談社 P59 「ナナカマドの街を夢見て」)

     

  

 

 ナナカマドについて書いた綾子さんの文章を読んだら、なんだか胸がいっぱいになってきて
    しまった。毎年毎年、きっと晩年の苦しい闘病生活の中でも、このナナカマドは、綾子さんを
    楽しませ、なぐさめを与えてきたんだろうと思う。


目黒不動(東京)


  
三浦は目黒のお不動さんのすぐ近くで生まれました。
一九二四年四月四日でした。
一棟二戸、いかにも震災前の東京の借家らしいたたずまいでした。
私は三浦の兄に連れられて、三浦と共に、
三浦の生まれた家やその界隈を見てまわったことがあります。(新しき鍵 光文社文庫 P28)


4月の初め、私たちも光世さんの生まれた目黒不動界隈を歩いてみた。お花見も兼ねるつもりが、今年は桜の開花が遅くて、ちょっぴり残念がっていたのだが、実に不思議なことに目黒不動の本堂の両脇の桜だけは満開だった。きっと81年前の4月4日も、こんなふうに満開の桜の中、光世さんは周りの人々の喜びと祝福の中でこの世に生まれてきたのだろう。「光世」という名(世の光!)がそれをはっきりあらわしている。ここで家族一緒に過ごした幸せな幼児期が、きっと、後に来る苦しい時代を乗り越える力を、幼子の心に与えていたのではないかと思う。綾子さんもきっとこの界隈を歩いたとき、光世さんがこの世に生を受けたことを改めて感謝したのではないだろうか。

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