生産と消費


「生産すること、消費すること」って考えてみると面白い。

僕は2001年4月から”社会人”になるわけやけど
社会に出るってことの大きな意味は
「生産し始めること」なんちゃうかなと思ってて
この機会に、まとめて書いてみようと思う。
うまく書けないかもやけど、ぜひ書きたいことなのでやってみる。
抽象的なんやけど
「価値」の消費と生産ってイメージしてる。


基本的にはどんなことでも全体としてみたときに 「〜保存の法則」のようなものがあって 生産されてないものを消費できるはずはないと思うのね。 だから、消費と生産の量は必ず一致するんやって思う。 (経営学のバランスシートみたいにね) この「全体として見たときに」ってところに ちょっとした問題があって、各個人、集団が 「全体」とするものが違ってて、その外部のこと忘れがちやねんな。 例えば一つのグループ内でなら、みんなお互いのこと考えて 消費、生産の総量は一致してるんやけどね、  (みんなが自分のことだけ考えて消費ばっかりしてたら   グループが存続できへんやんな) 外部が提供してくれたものを消費するときに、 それが生産されたものであるってことを意識しなくなりがちやと思う。 そうするとそのグループ内での収支が合わなくなってさ 「消費に偏った」グループってことになる。 やっぱ漠然として分かりにくいから 例を挙げてみるな。  例えば、暴走族やったら、自分達が走ることによって  自分達で「楽しさ」を生産して、自分達で消費してる。  だから「楽しいからいいじゃん」ってことを言ったりする。  確かに自分達で完結して  「楽しさの生産=消費」、量を増やすのはいいことやと思う。  ここで欠けてる視点のひとつは、公共が(つまりみんなが)  生産してる道路とか環境を、消費してるって事実を考えてないことやと思う。 また、例えば、今の文明社会でよく言われるように  石油をたくさん使うってことは  現時点での生産量=消費量を大きくすることに貢献するから  現在を「全体」としてとらえるなら"良い"ことになりそうやけど  過去が生産したものを消費してるってことを意識するのは大事やんな。  当然、過去に対して生産することは物理的に不可能やから 僕らがするべきことは、「過去の消費」以上に「未来への生産」を することやと思う。 こんなふうに「全体」として意識するものによって 自分の行為に対する姿勢って変わってくると思うねんな。 一方で、自分は果たして「全体」のために生きるのかって問題もあって そのへんは以前に書いた自分の定義 と絡んでくるんかな。 ここまで書いたことを一言でまとめると  「消費と生産の量は一致するもの」ってこと。 それを踏まえて  「消費する量、少なくともそれ以上に生産しよう」 って思うねんな。 みんながそういう姿勢でいられたら、 すごく楽しい世の中になると思うねんな。  学生なんていうのは  自分の小遣いのうちでの収支は考えるけど  例えば社会とか家庭が生産してくれてるものを  自分が消費するのはあたり前のように思ってて、  大きな全体としてみれば、微妙な存在。 でも、その事実をちゃんと意識して学生生活を送るなら 「自分が今過ごしている時間は、ライフスパン(人生全体)でみて  生産を増やすことに、つなげていくべきなんやな」 って姿勢になれる。 若いうちは消費させてもらってることの方がずっと大きいんやから、 その事実に感謝して、謙虚に 将来の生産に備えるべきなんやと思う。 与えてもらった消費の機会を十分に楽しみながら。 感謝して、謙虚に、将来の生産に備えよう。
楽しみ方 (生産と消費 2) 楽しいことって 消費のなかにも生産のなかにもあると思うんやんか。 おいしいレストランで食事すること(消費)も楽しいし 手料理を作ってもてなすこと(生産)も楽しい。 ただ、 「消費の楽しみ」ってそれだけでは存在し得なくて  それを生産してくれる人がいるから、  その人に対して、お返し(価値の提供)をするべき。  その方法が、この社会では主に、お金を払うってことで。  そのお金を払うために、自分がお金を稼ぐ。  んで、お金を稼ぐってことは、逆の立場だから  価値を生産するってことであるはず(べき)。  (価値を生産しないのにお金を稼ぐことには抵抗を感じる)  消費するなら、その分どこかで生産するってことなんやね。   一方で 「生産の楽しみ」の方は、それだけで完結できる。  自分で生産して、自分で消費してもいいし  自分が生産したものを誰かに消費してもらうことで自分が嬉しくもなれる。   自分で家具を作って自分で使って楽しんでもいいし、   ギターを練習して人に楽しんでもらってもいい。 生産する楽しみは、自分の内側から出てくる楽しみ。シンプルな楽しみ方。 この、「楽しみが内側から満たされる」ってことが何を意味するかというと 「お金の量に依存するようなシアワセ観から開放される」ってこと。 お金がなくちゃ楽しくなれない、なんて思ってたらもったいない。 生産することにはお金を払う必要なんてない、っていう当たり前のこと。 楽しみは買うこともできるけど 楽しみは作ったって楽しめる。
ここで一つ現実的に無視できないのは 生産し始めるのにはイニシャルコスト(初期投資)が必要ってこと。  ギターをもってなけりゃ(消費)   曲が出来ないし。   (生産)  カメラを使わなきゃ  (消費)   写真は撮れない。   (生産)  食材がなけりゃ    (消費)   料理も出せない。   (生産) 考え事して楽しむにも、 刺激のインプット(消費)があってこそやと思うもんな。 素晴らしい社会っていうのは、 生産をするための初期投資としての消費の機会を提供してくれる。 僕らは、運良くこんな環境に生まれて 教育っていう最大の初期投資を与えてもらった。 消費の楽しみだけじゃなくて 生産の楽しみだって楽しめる。 消費より生産が好き。 生産を楽しめる社会って素晴らしい。 僕は生産をしていきたいと思う。 それと同時に、 生産したいと思ってる人への初期投資を手伝える自分でいたいと思う。 そんな世の中にしていきたいと思う。
補足 (ソフトな価値) ちょっと付け足し。 社会にとってもう一つ大事なことは 「生産された価値をちゃんと評価する」ってこと、 現実的には、「価値には報酬を払おう」っていう感覚が存在することやねんな。 自分が何かを見たり食べたりして楽しんだら それは消費してるってことやから、 生産者に対して報酬を払って然るべきやっていう感覚を みんなが共通して持ってることが大事やと思う。 当たり前のことなんやけど、 ソフトな価値、に対しては忘れがちなこと。  卒論で設計者の職能を調べたり、  コンサルティングの在り方を調べてて思ってんやけど、  やっぱ日本人って形にならないソフトなもの対して  報酬を払うっていう感覚が希薄やねんな。  形があろうがなかろうが、自分が受け取った「価値」に対して  報酬を払うのがあるべき姿勢やと僕は思う。 例えば、設計図面っていうのは、物としては 数枚のうすっぺらい紙かも知れんけど そこから受ける価値って、実際すごいおっきいやん。 その価値に対して相応の報酬は支払われるべき。 (それでいて、ごく単純な情報(ソフト)しか持たない  ブランドのロゴに対して日本人は簡単にお金を払ったりもするので  良く分からないんやけどさ) 情報化はどんどん進んでて ソフトって簡単にコピーされるようになったから ソフトを生産することによって報酬を得るっていうのは ますます難しくなると思う。 著作権があるっていったって、みんなコピーする。  mp3をこっそりダウンロードしたり  海外で海賊版の映像や音楽ソフトを買ったって  なんとも思わない人が多いのが実情。 そんなことで、ソフトな価値の生産をする人が少なくなってしまうのは 社会にとっても個人にとってもすごいもったいないことやと思うねんな。 (ソフトなものこそ大きな価値やな  と思ってる人間にとって、すごく寂しいこと) いいな、と思えたものに関しては 制作者に対して、 感動への感謝と次の制作への期待をこめた報酬を払う っていうのが大事なことなんちゃうかな。 その循環で、世の中に「いい」ものが出てくるちゃうかな。 制度に頼ってやと 報酬を確保するのが難しいかもしれない時代になってきて 大事になるのは、一人一人の意識やと思うねんな。 「受け取った価値に対して報酬を払う」  「生産した量に応じた消費をする=消費したいならそれ以上に生産する」 っていう感覚、意識を持つことがもっともっと重要になると思う。 そういう社会がいいなと思う。 制度に頼らなくていいって、素晴らしいことやん。 人を信頼できるってすごいシアワセなことやん。 生産された価値に感謝して報いよう。 生産する人がいるってことを大切に思おう。