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浜松の陸軍航空関係部隊
重爆の基地・三方原(浜松市・航空自衛隊浜松基地他)
1926年に三方原に陸軍飛行第7連隊が設置された。歩兵第67連隊に代わる部隊である。
当時は大正末〜昭和初期の経済悪化の時、地域の活性化を願う市民の熱心な誘致活動の結果であったという。
開隊日にはたくさんの人々がつめかけ、軽便鉄道の駅名までも変更された。
連隊は、日本初の爆撃機の部隊で、1928年には高射砲第1連隊が豊橋から移駐した。
1933年には重爆撃要員を育成する浜松陸軍飛行学校が連隊から独立し、重爆搭乗員育成の拠点となった。
1942年には第1航空航測隊、教育・練成飛行隊も置かれた。
第7連隊(連隊を改称)は、ニューギニアで激戦の後、海軍の指揮下に入り、夜間雷撃部隊として活躍した。
戦局が悪化すると、飛行学校は実戦部隊の浜松教導飛行師団となり、陸軍最初の特攻隊(富嶽隊)、沖縄に空挺特攻した義烈部隊などが編成され、悲痛な思い出を残した。さらに1944年、第2独立飛行隊が編成され、サイパンのB29基地への攻撃を行った。浜松は前線へとなっていたのである。
1945年、連日の空襲が浜松市街と飛行場を襲った。陸軍航空諸部隊はそれを支えた浜松基地の焼失を含めてその機能を失っていったのである。航空攻撃の主力兵種基地の機能停止は、敗戦を象徴するものとなった。
浜松の航空自衛隊浜松基地内には、現在も陸軍爆撃隊発祥之地の碑と高射砲兵の碑が残されている。
航空自衛隊浜松基地 - 航空自衛隊発祥の地、浜松基地の紹介。広報館の情報等。 |
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中島飛行機原谷地下工場
いまも残る戦時下の地下工場(掛川市原谷・本郷・遊家)
戦争末期、中島飛行機の地下工場が全国10数ヶ所に建設されていった。
1945年春。小笠郡原谷(はらのや)村に中島飛行機浜松製作所の地下工場建設が始まった。
この地下工場建設に2,000から3,000名の朝鮮人が動員された。地下工場は森町にも予定され、朝鮮人飯場が作られている。
原谷地下工の建設を請負ったのは清水組、古谷組で、その下で朝鮮人が徴用された。
原谷・桜木の国民学校へと多くの朝鮮人の子どもたちが転入し、クラス人員は倍増した。
集められた朝鮮人は粗末な飯場に居住し、トンネル掘削、伐採に従事した。1945年8月まで30以上の地下工場用トンネルが掘削されたが、完成前に日本帝国主義は敗北した。
強制労働から開放された朝鮮人たにの「万歳(マンセー)」の声が原谷村に響き渡ったと言われる。
本郷の共同墓地にはこの頃からの無縁仏を追悼する「無縁供養塔」がある。
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静岡空襲と慰霊観音像
静岡市の空襲(静岡市・賎機公園山頂)
静岡市がはじめてB29の空襲をうけたのは1944年12月7日であった。
その日の午後、東海地域が強い東南海地震が発生し、大きな被害を出していたが、空襲はその日の夜のことであった。
B29が長沼地区に焼夷弾を投下、工場や鉄工所、農家などに被害が出た。
翌年になると空襲は激しさを増していった。4月頃から三菱や住友の軍需工場が襲われ、工場生産に大きな打撃があり、周辺の民家や住民も巻き添えとなっていった。
その後、空襲は都市無差別爆撃に変わり、5月24日未明には静岡市の北西部が焼夷弾攻撃され40人ほどの死者がでた。
6月19日深夜から翌日未明にかけては、120機以上のB29が来襲、波状攻撃を繰り返し、静岡の市街はまたたくまに火の海となった。
この夜、死者は1600人をこえた記録される。
この空襲の最中、2機のB29が墜落した。1機は山林に墜落して爆破した。もう1機は二つに折れて安西と田町に落ちた。
安西と田町に墜落したB29の搭乗員の遺体に、石を投げつけたり棒で叩いたりする市民もあったが、田町の伊藤福松は「死んでしまえば敵も味方もない」として、搭乗員の霊を弔い、後に賎機山の山頂に戦災犠牲者を慰霊する観音像とB29搭乗員の慰霊碑を建てた。
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