Leoard Holton's“Deliver Us from Wolves”(1963)


オカルト・ミステリ特集を編む事を思いついた際に真っ先に頭に浮かんだのがこの作品。
なにしろ、かの森英俊氏が「カーのファンをもうならせる怪事件」「文句なしの傑作」と絶賛されている作品です。しかしながら、その時点では、この本は入手できておらず、このまま見果てぬ夢に終わるのかと半ば諦めておりました。
ところがっ!「思い」というものは通じるもので、昨年夏偶然、池袋パルコの古本市で、この本に出会う事ができたのであります! 一瞬わが目を疑いました。極東の古本市に、まさか捜し求めていた本が!? これを天命と呼ばずして何を天命とよびましょうか。
この本はROM106号でレビューされるために、天から遣わされたのです。
数多くの本との出会いの中でも印象に残る「Deliver Us from Wolves」。果たしてその出来は?

日本の山岳信仰の中では「狼」は「大神」であり神の使いとして畏敬されてきたのに対し、
欧米では狼は常に悪役です。「聖書」でも人間を羊に、サタンを狼に喩えた表現がでてきま
すし、童話でも狼は常に退治されるべき存在として描かれてきました。人を恐れず、巧みに
猟師の罠をかいくぐる狼は、自然の脅威の象徴であると同時に人の中にある退けられるべき
「獣性」の象徴ともなりました。そして、中世の森に住む人々は心から「狼を我々より祓い
給え」と願ったのです。
職場からも上司からも友人からも半ば追い立てられるようにして、ポルトガルでの休暇旅
行に出かけたロサンジェルスの名探偵ブレッダー神父が、偶然にもそうラテン語で記された
石の護符を入手したのは、奇跡で有名なファチマ寺院門前の土産物屋でした。
あれこれブレッダーに売り込もうとしては尽く失敗していた土産物屋の店主エミル・バー
ガス・ルチオは「お目が高い」と4エスクードでその護符を神父に譲ります。
神父はかねてからの昼食の約束を果たすために、ファティマを更に上がった山頂の町オウ
レムにあるレイリアの僧正宅を訪れます。そこでブレッダーは、英国から派遣されているペ
インター神父に紹介されました。食事が終わるとブレッダーは、僧正から思いがけない相談
を受けます。それは、<ペインターの教区で、狼男が出没する。ついては、名探偵として名
高いブレッダーに真相を究明してもらえまいか>というものでした。
ペインターの教区の山村で、相次いで何物かに子羊が殺されるという事件が起きたのです。
そして、その血溜りから犬か狼の足跡が墓場に向かって伸び、恐ろしい事には途中からその
足跡が人間のものに変わっていくというのです。最初は「誰かの悪ふざけである」というペ
インターの説教に納得していた村人たちですが、もとより迷信深い土地柄のこと、2度3度
と同じ状況が繰り返されるに至り、「250年前に人狼として処刑された『森のペドロ』が
墓場から甦ったのだ」という噂が広まり、ペインターは孤立していきます。たまに教会を訪
れる人間は、銀の弾丸に祝福を求める始末。
僧正の苦衷を察したブレッダーはペインターとともに、ホアキム・ダ・セラ村へ向かいま
す。山又山の道中でブレッダーは迷信深い教区でのペインターの苦労話や、村人に対して絶
大な影響力を持つ美しい伯爵夫人アリシアのことを聞かされます。自動車競技で有名な夫人
は、大概はリスボンに住んでいるのですが、今は村を睥睨するかのように小高い丘に立った
古城「白の城」に逗留しているというのです。
村についたブレッダーが先ず目にしたのは、木切れで出来た十字架や家々の窓や扉に下が
る松の枝の束でした。すべては狼を払うためのまじまいだとペインターは説明します。
ホアキム村を走る道路は二本、一本は城に向かい、もう一本は半マイル先の墓地を越えて
10マイル離れたトードス・サントス村に続きます。その交差点には、村の生活用品を一手
に引き受ける雑貨店が立っています。ブレッダーが村で最初に口をきいたのは、雑貨品店主
にして村の指導的立場にあるエンリケ・ペレイラでした。そして厳格なカトリック信者であ
った父親への反発から無神論に走る女教師マリアとも出会います。
ペインターが村人から完全に孤立し、精神的に疲弊しているのを見てとったブレッダーは
彼に休暇を薦め、単独での捜査を開始します。
彼はエンリケ・ペレイラの家を訪れ、狼男にまつわる話を聞き出します。
そこで彼は、今回の事件が単なる<羊殺し>ではない事を知ったのです。
狼男「森のペドロ」の墓に立てられた十字架が嵐で壊れてしまったのがすべての発端でし
た。それから少したったある日、「ペドロ」を始め村と城の研究に熱心なへレナの弟トマス
・シルバーが墓地の外で自分の胸をライフルで撃って死んでいるのが発見されます。この事
件は猟にでた彼が足を滑らせた結果起きた事故として処理されました。そして例の羊殺しが
連続して起き、ついにはエンリケ自身の眼で、墓場から甦った「ペドロ」がトマスの身体を
乗っ取り、墓地の塀を乗り越えていく姿を見たというのです。
事故が果たして本当に事故であったのかを疑うブレッダーに対し、エンリケは仮に事故で
ないとすれば、トマス殺しの容疑者の筆頭はペインター神父だと告げます。姉と同じく無神論
者の彼は「ペドロ」研究をめぐりペインターと反目していたというのです。

次にブレッダーが向かったのは、伯爵夫人の居城「白の城」でした。
堅牢な城壁と必殺の仕掛けの施された二重の橋に守られた古城に向かったブレッダーは、
驚く程快く伯爵夫人に迎えられます。活発さの中にも優雅さを秘めた麗人は、広大な城の中
を案内してくれますが、ブレッダーは日頃の運動不足が祟って足は痛いは、息はきれるはで
夫人の城自慢に集中できないまま、与えられた一室で休息を取ります。浴槽で疲れた足を癒
している時に、神父は8角形の作りのその浴室の梁の一本にラテン語のあの文句が刻まれて
いるのを発見します。
「狼を我々から祓い給え」
伯爵夫人と晩餐をともにしながら、ブレッダーは狼男事件を話題にします。
伯爵夫人は、ペドロの墓に新たな十字架を築き魔封じを求める村人の願いを聞いてやるの
で、まもなく騒ぎは収まる、余計な詮索は無用であるとブレッダーを諭します。そして、ト
マスの事故は事故として処理するのが、ペインターのためでもあるとブレッダーに仄めかす
のです。トマスの事故の晩、ペインター神父がトードス・サントスに銃を積んだ車で出かけ
ていたことも、村の警官シルベスターからの報告で知っていると彼女は続けます。
最後に、ブレッダーは、なぜ例の言葉が浴室の梁に刻まれていたのかを、伯爵夫人に尋ね
ます。夫人は、かつて、その浴室は寝室であり、その場で彼女の先祖が、狼に噛み殺された
故であると説明します。そしてその罪を問われ処刑された城の農奴こそ「森のペドロ」だっ
たのでした。(後にブレッダーは、250年前「白の城」城主であったディエゴ卿のインド
帰りの弟ジョアオ卿が、獣にかみ殺された事件の顛末を城の記録で知る事になります。)
城を辞去したブレッダーは、伯爵夫人から聞いた「ペドロ」の墓を一度みておこうと、近
道をして墓地に向かいます。空には月はなく、星明かりの中、ブレッダーの背後では陰鬱に
城の鐘が時を告げます。道と墓地の境にあった「ペドロ」の墓を子細に調べたブレッダーは
植生から誰かがペドロの墓を掘り返した事を確信します。迷信深い村でそのような事が出来
る人間は、多くはいません。ペドロの墓を調べ終わったブレッダーは、墓地の塀を乗り越え
更に暗い中に入り込みます。その彼の耳に何か大きな物が蠢きが届きます。小型の懐中電灯
を持って恐る恐る音源に近づいたブレッダーは、光芒の中に何物かを捉えます。
土を纏わせた縺れ髪、血の気がなく黄色い魂の抜けた木乃伊の如き顔、ぼっかりと空洞の
ように開いた口、シャツの胸には赤黒い染みを広げさせた「それ」はブレッダーの誰何に無
言のまま墓地の塀を登り、向こう側へと消えていきます。
果たして、「それ」は「ペドロ」に乗っ取られたトマスの死体だったのでしょうか?
そして、ブレッダーは「それ」が蠢いていた墓所の上で黒いベレー帽を発見します。

と、ここまでは実にオカルト・ミステリ的展開をしてきた本書ですが、ここ以降話は急展
開、ラストは活劇に次ぐ活劇で、事件の背後にある奸計の正体に迫り、果ては大西洋を挟ん
だ大捜査にまで発展します。その陰が陽に、陽が陰に転じる過程で、全てのパズルの断片が
一つの絵に向かって収束していく快感が味わえます。これは真の本格ミステリに接した際に
得られるあの快感に他なりません。けだし、森氏の絶賛もむべなるかなの傑作といえます。
ただ、この作品のオカルト趣味が「怖い」か、というとそれはまた別問題で、舞台設定も
どことなく南欧の明るさがあって「怖い」という程のものではありません。
むしろ、ブレッダー神父が聖職を志す契機となった戦争体験(戦場で火だるまになって死
んでいく日本兵(!)の姿を目の当たりにした事)の方が余程「怖い」話でありました。

中世の森を切り開いて作られた広場は、森から見ると「死」の場所に他なりません。人
という自然を外れた生き物が他の生き物の犠牲の上に生息する「死」の場所。やはり一番
恐ろしいのは、狼でも狼男でもなく人であり、最も暗いのは夜の森や墓場ではなく人の心
の闇である、という真実を、この作品も告げているのでしょう。


(初出:ROM106)


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