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2004年3月20日(土)

◆発表会を明日に控え修羅場の連れ合いと別行動をとり、のほほんと森英俊邸訪問にでかける。おーかわ師匠から「一人でいくのもなんなので」とお誘い頂いたものなのだが、小雨降る講談社前にはなんとよしださんの姿まで。まいどまいど、野望は元気ですかあ?まずは拙作の話なんぞをしながら、コンビニに寄って飲み物を仕入れたら一路、森邸へ。なんでも、森さん、先週は雪の北海道で10万円分の貸本系古本を買ってこられた由。ははあ。んでもって、旅費・交通費が10万円だったそうな。ははあ。
10年ぶりにお邪魔した私は地上4階のメイン書庫には以前にご案内頂いていたのだが、今回はまずガレージ書庫にご案内で、度肝を抜かれる。片側壁面展開2列重ねの本棚には、森さん曰く「余り重要ではない」作家・叢書がずらりと並ぶ。ヴェルヌとか、って余り重要じゃないんですかそうですか。勿論、原書には当り前のようにダストラッパーが掛かっている。もう片側のロッカー棚には前後3列に雑本が詰め込まれ、無造作に並べられたSF系ジュヴィナイルの中にはエヴァン・ハンターの作品があったりする。はああ。
完全に毒気を抜かれた状態で応接間で古本談義。貸本屋道中記やら、ヤフオフ血風録の数数が披露される。途中、勧誘の電話から、森さんの商社マン時代の話になり、なぜか貧乏自慢へと話しが流れる。「貧困という言葉の意味を知りました」。ううう、ど、どうしたんだ、森英俊!こちらからのお土産本が出揃ったところで、いよいよメイン書庫へ。
「10年前からは随分変ってますよ」と言われたが、なるほど、まずは単純に蔵書数が増えている。階段書庫は、城戸禮やら三橋一夫やら竹森一男やらの明朗作家の棚で埋め尽くされ、以前であればそれなりに棚の前に屈みこめたメイン書庫内も、最早立って眺めるスペースしか残されていない。そして昼なお暗き状態の中で、懐中電灯頼りに背表紙を確認する有り様。カーの英米両版の原書がダストラッパー付きで年代順に並んでいた棚は健在。ロラック=カーナックやロード=バートンも当り前のように一本分の本棚を占領して揃いが並んでいる。んでもって、それらが全く目立たない。はああああ。
なにより変ったのが、和物の充実ぶり。完全に壁面一つ和物棚に変っており、楠田匡介やら、鷲尾三郎やら、日影丈吉やら島久平やら、岡田鯱彦やら、萩原秀夫やら、九鬼紫朗やらがバババンと当り前のようにお揃いで並んでいる。はああ。丁度10年前にお邪魔した時はマーダ・バイ・ザ・メールの立ち上げて和物の蔵書を鮎川哲也一人を残して一気に処理された頃だったのだそうな。はあああ。
いずれにしても、コピー用に外したものの本の方がどこかに埋れてしまって行き場を失った末端価格ん千円のダストラッパーが積み上がり、ウエイドのペンギン版などがゴミ扱いで足許のダンボールに詰め込まれ、更に香山滋を始めとする末端価格1冊うん万円のジュヴィナイルが無造作に地べたに転がっているのをみれば大概の古本者は人生観が変る。はああああ。小一時間ぐらいはお邪魔していたと思うのだか、3人で30年分ぐらいの溜め息をついてきた。はあああああああ。
もし、古本をやめたい人がいらっしゃったら、是非、森邸を見学されることを御勧めする。書痴の夢見る極楽と地獄がそこにはある。
◆一旦応接に戻って、再び古本談義。よしださんが大量購入された武道小説を拾い読みして盛り上がる。まあ、確かにノリのいい文章のものもありますね。「ひひひひひ」と笑い宙に消える悪漢とか、凛とした物言いの大年増とか、音読すると、とても楽しい。実際、このあたりの小説というのは口述筆記されていたのではなかろうかと思えるほどの読みやすさである。
森さんからお土産の御礼ということで2冊頂戴する。
「幽霊馬車」高木彬光(偕成社:貸本上がり・裸本)
「A Shakespare Murders」Amelia Raynolds Long
うーん、これが「幽霊馬車」ですか。題名ぐらいしか知らねえや。ロングは、最近少しずつ拾っているが、これは森さんも太鼓判の作品らしい。
んでもって、よしださんからも1冊。
「佐賀潜の罪と罰2ープレイボーイのための護身法ー」佐賀潜(集英社)
うわ、まさかこれに2があろうとは思わなかったよなあ。ありがとうございますです。
ということで佐賀潜収集が一歩前進。今や若手・大河内常平収集家ナンバー1となったおーかわさんや、日本一の富田常雄コレクターのよしださんに対抗するには、やはり私には佐賀潜しか残されていないのか。なんちゅうか複雑な気分である。
◆じゃあ、古本屋でも覗きますか、と森邸を辞して近所の古本屋に向ったが残念ながらシャッターが下りていた。「ああ、こんな時、女王様がいれば、こじあけてくれるのにね」といつものネタを振りながら茗荷谷の駅前へ。「軽く食事でも」と入った白木屋で開店時間から5時間くっちゃべる。北海道渉猟記に始まり、古本者のマナー談義やら、好きな作家の御勧め作品論やら、ああ、なぜ斯くも楽しいのであろうか。久しぶりにノーリミットのミステリ談義、古本話が出来て満足満足。皆さん、どうもありがとう。但し、酒量が過ぎて本が読めないのが玉に疵なんだよね。


2004年3月19日(金)

◆残業。購入本0冊。購入する活字媒体は、朝のデイリースポーツのみ、ってえのがなんともいやはや。

◆「名門」ディック・フランシス(ハヤカワミステリ文庫)読了
第20作の「配当」が見当たらなかったので、こちらを先に読んで見た。競馬シリーズ第21作の主人公ティムは、銀行家。よくもまあ、あれこれと競馬に関わる人々を発想できるものである。主人公の設定に捻りがあるのはフランシスの常で、今回も銀行家一族の血を引きながら、その父母が競馬や酒に溺れる享楽主義の「黒い羊」であったために、悲惨な青春を送った銀行員という一筋縄ではいかない内容。伯父に才能を見出され、平行員から取締役に抜擢されたティムが挑んだ最初の仕事は、名馬の生産牧場への融資であった。だが、3年で減価償却を終え、金のなる木になるはずの目論見は、僅か一年で決定的な危機に晒される。マスコミと口コミと奇跡的な実績を背景にのし上がってきた信仰治療者コールダーとの葛藤。無残に散らされた若い蕾。尊敬と愛情の狭間で試される心。名馬サンドキャッスルにかけた夢は果たして、その名の通り砂上楼閣と消えるのか?
産駒をテーマにしていることから、競馬シリーズの中では極めて長い期間に亘る物語である。主人公の生い立ちを別にして、事件の経過に3年という長さを掛ける事は珍しい。そしてその分、物語が気抜けしてしまっている印象を免れない。というか、筋運びの緩急にぎこちなさを覚えてしまうのだ。特に、生産牧場で勃発する殺人のくだりは唐突にすぎ、且つ過剰である。また、主人公の恋物語もさながらリドルストーリーで釈然としない。池上冬樹は25作目までの採点表を本文庫解説につけており随分と本作を高く買っているようだが、個人的には、全く冴えない作品であった。


2004年3月18日(木)

◆早引けして笹塚は「本の雑誌社」へ、予約本のサインに行く。都合78冊の予約が頂けたそうで、「ありがとうございますありがとうございます」としかいいようがない。ありがとうございますありがとうございます。漫画での同人歴が長い分、サインは慣れているが、5年のネット歴の中でも「kashiba@猟奇の鉄人」というサインはやったことがなかった。実際に書いてみると、なるほどよしださんに掲示板で指摘頂いたように、「猟奇の鉄人」というのがいちいち面倒である。まあ、わたしの場合、氏名で50画以上ある本名に比べれば、大概のペンネームは楽っちゃ楽なんだけど。
◆編集の金子さんから出来上がった本を1冊頂戴する。これも漫画での同人歴が長い分、「自分の本」に対する感動は薄いのだが、営業の杉江さんからご挨拶を頂き「一生懸命、営業しますんで」と言われた時に、ドキンときた。今まで「自分で作って自分で売る、売れても売れなくても自分の甲斐性」でやってきたもので、「自分の本を営業してもらう」という感覚が存在しなかった。うーん、そうか、こういうことか。参ったなあ。こりゃあ、おちゃらけておられませんな。
◆と、中をめくっていくうちに当初の予定と異なっている事に気がついて「ありゃりゃ?」と唸る。
金子さんにその旨を告げると、「あ!そうですね、そうでしたね。ありゃりゃ?そういえば著者校やってもらわなかったでしたっけねえ」と唸る。
「二刷から替えて、『最初からその趣向でした、いひひひひ』と開き直るしかないっすね」と杉江さん。
いや、それは邪悪すぎ。同人誌でもやりませんよ、そんなこと。
「んー、じゃあ、しょうがない。もう1冊、作りますか。原稿は山ほどありますし」と金子さん。
いや、その、つまり、そーゆーこっちゃなくて。
うーん、なんなんだ、この人たちのノリの軽さは?
◆銀の油性ペンでげしげし名前を書いていく。
「目黒曰く『50冊を越えると自分で何を書いているか判らなくなってくる』そうです」と金子さん。
「自分の名前間違えたり」と杉江さん。
「へえー、そんなもんですか」と相づちを打っていたら、しっかり自分の名前を間違えてしまった。あほう。
◆浜本さんから、契約の条件などをあれこれ。
いや、もう、本にして頂けるだけで満足です。はい。
で、書き下ろした「あとがき」には原稿料は出ないんでしょうか?でない。ああそうですか。
いや、もう、本にして頂けるだけで満足です。はい。
◆なにやらボーっと自分の本を眺めながら西大島〜南砂町定点観測。
「夢・出遇い・魔性」森博嗣(講談社ノベルズ)
d「女子大生殺害事件」幾瀬勝彬(春陽文庫)
「殺人ごっこ」左右田謙(春陽文庫:帯)
d「推定殺人」ギリアン・リンスコット(社会思想社ミステリBOX)
春陽文庫の2冊は持っていないかもしれないという強迫観念に駆られて買う。
ところが、手元にあった「あなたは古本をやめられる」の日記を読んでいたらしっかり幾瀬勝彬「女子大生殺害事件」は2年前に買ってるじゃん。うみゅうう。


◆「初稿・刺青殺人事件」高木彬光(扶桑社文庫)読了
日下三蔵法師編集の昭和ミステリ秘宝の1巻。作者が江戸川乱歩に持ち込み、そこでこの作品にほれ込んだ乱歩が、自腹を切る覚悟で岩谷書店に出版を持ちかけたという伝説の名作の初稿バージョン。雑誌「宝石」と同じ版形で出版されたため、この初出を持っていないと「宝石」をコンプリートしたとはいえない、と意地悪を言う人もいる。しくしく(ちなみにkashibaは未所持)。
刺青競艶会の優勝者・野村絹枝。大蛇丸の刺青を背負った妖艶な美女からの誘いに松下研三が応じた時、密室状態の風呂場で、酸鼻なる殺人は起きた。刺青の入った胴体を持ち去られたバラバラ死体。そして、現場を這うナメクジ。果たして、大蛇は蛞蝓に解かされてしまったのか?困惑する捜査陣をあざ笑うかのように、絹枝のパトロン最上竹蔵までが土蔵の中から射殺死体となって発見される。恐るべき奸知に長けた悪魔の芸術を暴けるのはただ一人、あの名探偵しかいない。白皙の貴公子、数学の大天才、神津恭介、ここに光臨。
実は、今回この手にとってみるまで、初稿が現在の決定版よりも長いものだと勘違いしていた。なんだ半分ぐらいの長さだったんだ。扶桑社文庫も分厚いとなあ、と思っていたら半分は短編の再録であったか。ううむ、思い込みというのは恐ろしいものである。最初は中篇を長編に引き伸ばして二度おいしい商売上手の血は、この頃から流れていたというべきか?まあ、へらず口はともかくとして、この作品の物理的&心理的トリックの鮮やかさには、やはり脱帽せざるを得ない。また、決定版では削られたというミステリマニア的くすぐりの部分も、微笑ましいというべきであろう。お蔭様で昭和ミステリ史上に輝く傑作ミステリを再読できました。


2004年3月17日(水)

◆残業。購入本0冊。ピアノの発表会で追込みの連れ合いともども、帰宅して飯食って寝る、という生活が続く。「ねないわよ〜」と娘一人が元気である。

◆「バルコニーの男」シューヴァル&バール(角川文庫)読了
警部マルティン・ベック・シリーズの第3作にして、日本初紹介作。1967年の作品でありながら、そこに描かれた連続少女強姦殺人の顛末と犯人像は全く古さを感じさせない。スウェーデンといえば、白夜とフリーセックスというイメージしか持ちえていない人間にとっては、この物語の犯人のように、異常性愛をこじらせている人間もいるのだというのが、むしろ新鮮であった。日本で宮崎さんちの勤くん事件がおきる20年も前に、つまり美少女エロ漫画もホラービデオもいきわたっていない時代に、このような心の闇を描いた警察小説があったのだ。スウェーデンが、世界一なのは福祉だけではない。では、これが、真犯人のサイコぶりにのみ依存した物語かというと、それだけではない。別の連続強盗犯を目撃者役をあてがい、多層的サスペンスを演出したり、刑事たちの性格や特殊技能(カメラのような記憶力)を際立たせる一幕を山場に配置したりと、読者の興味をそらさせない工夫が随所に施されているのである。
ただ、主役と目されているマルティン・ベックのキャラクターは、些か、希薄で、冷戦状態の女房には仕事と偽って「ロゼアンナ」事件で知り合った観光都市の警部と男同士の休暇を過ごすというすちゃらかぶりには、ヒーローの面影はない。更に、幕切れの逮捕シーンにおいても、道化役を押し付けられる始末。
87分署シリーズは「キャレラ・シリーズ」と呼ばれてもうよいのではないか、と思うことがしばしばあるが、こちらのシリーズは逆に「マルティン・ベック・シリーズ」というよりは、「ストックホルム首都警察シリーズ」の方がふさわしいのではないかとすら思える。


2004年3月16日(火)

◆大阪日帰り出張。新幹線の中でも、せっせとパソコンに向って死霊の作成、じゃなくて、資料の作成。なんやねん、このパソコンの変換は!?

「死霊を添付致しましたのでよろしくご査収ください。」

いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。

「プレゼンテーション死霊」

いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。

会社に戻って激残業。それでも、東京で途中下車してちゃっかり定点観測していた俺って。
d「梅田地下オデッセイ」堀晃(ハヤカワ文庫JA)
「やぶれかぶれ青春期」小松左京(旺文社文庫)
以上、均一棚でゲットだぜ。小松左京のエッセイは出ていた事もしりませんでした。


◆「子供の悪戯」レジナルド・ヒル(ポケミス)読了
ダルジール&パスコー・シリーズ第9作。息子の戦死を信じないまま死を迎えた妄執の女性富豪が遺した財産を巡る争奪戦をお得意の多重プロットで描いた傑作。
最後の最後で心底唖然とさせられた。20世紀末期に二十面相を見た。


2004年3月15日(月)

◆朝起きて「eROTICA」の残りを読切り、「人でなしの遍歴」を読み終えて会社へ。通勤電車でもう1冊。感想や日記をさぼれば結構読めるものである。多岐川恭は読みやすい。
◆口をきくのも億劫なほど働く。あわや仕事で午前様。自分が素面だと、電車の中で声高に放談する酔っ払いに優しくなれない。


◆「eROTICA」e-NOVELS編集(講談社)読了
普段はエロ小説を書かない8人の作家が「エロス」をテーマに競作した作品集。
e-NOVELS版の際には、ネット書評家が解説を担当するというお遊び企画で声を掛けて貰ったのだが、幸い活字版の方でも使って貰えた。まさか自分の文章が講談社の単行本に載ることになろうとは、思ってもみなかった。それが、ミステリでもSFでも古本でもなくてエロ小説の解説というのが「なんともいやはや」だったりはするのであるが、個人的には昨年書いた小文中では一番気に入っているというのが「いやはやなんとも」なところである。
で、普段はエロ小説を書かない、とは言ったものの、実はこっそりバイトでポルノ小説を書いている人がいないとは言いきれない。いや、正直なところ、津原泰水あたりは絶対普段からやっているのではないかと感じてしまった。これはもう、ポルノを読み慣れた人間としての勘としか言い様がないのだが、この人はエッチのツボを心得ている。それでいて異形ライターとしての味も出しているのだからお見事としかいいようがない。(「淫魔季」)
山田正紀の「愛の嵐」についてはお金貰って(まだ貰ってないけど)解説したのでここではパス。読んでいて、なぜか初期山田正紀の香りがしたとだけ申し上げておく。
「大首」(京極夏彦)は、「陰摩羅鬼の疵」のサブ・エピソード。そこに描かれた妄執は乱歩作品のそれに通じるものがある。尤も、乱歩はテクニカラーで京極は「わざと白黒」という色合いなのだが。
「愛ランド」(桐野夏生)はパンチ不足。女奴隷ものだが、レディースコミックに及ばない。郭公亭の若旦那の解説が空回り。
「思慕」(貫井徳郎)は、いかにもミステリ作家の書いたエロ小説。読み始めた瞬間に趣向が見えたが、情景としてはそそるものがある。
「柘榴」(皆川博子)脱帽。ここには、この人にしか書けない「エロス」がある。舞台設定・時代背景・キャラクター・語り口、全てにわたって非の打ち所がない。この作品集で頭一つ抜けて文学の域に達している作品。
「あの穴」(北野勇作)うわあ、北野SFだなあ。としかいいようがないです。はい。
「危険な遊び」(我孫子武丸)ときどきポルノ作家が小洒落た事をやろうとしてこういう話を書く。読んでいる方としては萎えるしかない。


◆「人でなしの遍歴」多岐川恭(創元推理文庫)読了
日本の推理小説を買い始めた頃に買った作品。何故買ったかといえば、東都ミステリだったから、というただそれだけの理由である。叢書が叢書であるが故に尊いという思考法は高校生の頃から変わらないようで。勿論、買うだけ買ったら読まないのである。人間として当然のことをしたまでです。は?人でなしですかそうですか。
作品の中身は多岐川恭流の斜に構えた「犯人探し」。通常犯人を捜すにあたっては既に殺人は完了しているものだが、なんとこの作品の主人公・篠原喬一郎は、立て続けに命を狙われた挙句、厭世観に捉われ「殺るなら、すっぱり殺ってくれ」と自分がこれまでの人生で踏みつけにしてきた人々を尋ね歩く、のである。人を人とも思わず生き抜いてきた傑物の人生の路傍で、あるものは会社を追われ、あるものは戦地に送られ、あるものは貞節を奪われ、あるものは未来を閉ざされた。果たして人でなしの遍歴に終止符を打とうとしたのは誰だったのか?
後年の「的の男」「男は寒い夢をみる」なども、この話のバリエーションだが、その中でも、この物語の主人公・篠原喬一朗のとぼけぶりは、頭一つ抜けている。主人公とともに、改めて人間の忘れっぽさやらしたたかさを垣間見せてもたえる逸品といえよう。主人公の改心ぶりが唐突であり、不自然さは免れないものの、一旦話の流れに身を委ねれば、人間心理の妙と皮肉なプロットが楽しい和風アイルズ、眠れる殺意を掘り起こし犯行以前の試行錯誤に明け暮れる物語である。なんだ、こんなに面白いんだったら、とっとと読んでおけばよかった。


◆「私の愛した悪党」多岐川恭(創元推理文庫)読了
作者の長編第4作らしい。講談社文庫に収録されていたので、今回の創元の合本の有り難味では、初文庫化の「変人島風物誌」に及ばない。しかしながらこの作品の持っているカラっとした明るさには、小泉喜美子が追い求めてやまなかった「都会派」小説の風合いがある。地下鉄サムか(最近はやりの)カームジンはだしの自称画家の繰り広げる小粋な微罪劇に目を奪われたり、プロローグの直後にエピローグを配置するという稚気に惹かれたり、鮮やかな手品的殺人トリックの連打に唖然とさせられたり、とまあ、なんとも盛り沢山な物語である。20年前に誘拐された小説家の娘は誰か?という謎だけでも長編一話分の創意があるにも関わらず、作者は様々な趣向で、多岐川版「死の接吻」を飾り立ててみせる。はっきりいって、あれだけの奇抜な殺人トリックを用いながらこうも淡白に語ってみせるというのは、昔ながらの探偵作家がみれば「勿体ない」以外の何物でもなかろう。
ただ本格の文脈にこだわってないために、メイン・プロットで、阿漕な捻りを加えており、フェア・プレイを期待する向きには余り御勧めできない。最後に冒頭のエピローグに戻ると、とある人物の振る舞いが明るすぎて納得いかないし、それやこれやで、丸のまま満点を与えることは出来ない作品なのである。


2004年3月14日(日)

◆そろそろ本気で遠隔書庫を撤収するよう求められる。そうだよなあ、と、あれこれ考えていたら、読書やら感想に手がつかなくなる。
◆エコエコアザラク〜眼〜第10話視聴。「黒井ミサ」の正体が明らかになる。
実はねえ、黒井ミサってねえ、魔女なんだぜ(>ネタバレ)
とりあえず、セーラー服姿の上野なつひはよろしい。というか、黒井ミサってセーラー服姿が正装だよね。
◆ホワイトデーの買い出し方々、新刊デフォルト買い。
「貧者の晩餐」イアン・ランキン(ポケミス・帯)
「リジー・ボーデン事件」ベロック・ローンズ(ポケミス・帯)
「絹靴下殺人事件」アントニイ・バークリー(晶文社・帯)
「ミステリーズ 4号」(東京創元社)
ランキンにしては短めだなあ、と思ったら短篇集だった。充分分厚い。その分、ベロック・ローンズは薄め。しかし、これは犯罪実話ものなのか?絹靴下は戦前版を持っていながら積読になっていたもの。新刊書店で血風状態。ミステリーズでは山田正紀の連載まで始まった。気がつけば、北村薫・島田荘司・山田正紀が連載を持つという豪華さ。あとがきにもあるとおり分厚くなっている。メフィスト化現象。ピンバッジプレゼントの第4弾はピストルマーク。
さて最もピストルマークに相応しい作品はなんだろう?真っ当な日本人としては拳銃=警官という刷り込み故、マッギヴァーンの「悪徳警官」あたりどんなものか?ハドリー・チェイスもピストルマークを代表する作家。実際に作中で飛び交う銃弾の数は最も多いのではなかろうか?ビジュアル的には拳銃を構えたポール・ニューマンの表紙が脳裏に焼き付いているロス・マクの「動く標的」も捨て難い。題名も銃を連想させて吉。というわけで私的「ピストルマーク代表作品」は「動く標的」に決定。
◆連れ合いに薦められて積録してあった「バベットの晩餐会」を見る。なかなかにアートウォーミングな料理映画でありました。ユトランド地方ってそんなに何もないところなんだろうか?
◆「幾らなんでも、そろそろ本を読まねば」と萎える心に鞭打って、官能小説集でリハビリするも、読み終えられず。


2004年3月13日(土)

◆午前中は前夜の酒が残っており、使い物にならず。
◆新京成沿線定点観測。古本屋が2軒潰れていた。収穫は何もない。電車賃の方が掛かってしまった。とほほ。
「ふたり探偵」黒田研二(光文社カッパノベルズ)
「月は幽咽のデバイス」森博嗣(講談社ノベルズ)
「初稿・刺青殺人事件」高木彬光(扶桑社文庫)
「煮たり焼いたり炒めたり」宮脇孝雄(ハヤカワ文庫JA)
「優しい殺し屋」ビル・フィッチュー(徳間書店)
「上司と娼婦を殺したぼくの場合」ジェイソン・スター(ソニーマガジン)
d「拷問」Rバーナード(光文社文庫)
◆がっくりと肩を落して帰りの車中、連れ合いから携帯に電話。実家で娘を預かってくれるので、夫婦水入らずで「王の帰還」を見に行こう、というお誘い。これだけは大画面でみておきたいと思っていた映画であり、18時20分の開演時間に千葉中央駅前のシネコンに駆け込む。いやあ、あっと云う間の3時間半。最後が、少々もったりとしたが、戦争シーンの迫力にはただただ息を呑むばかり。あ〜、面白かった。アカデミー11部門独占ってえのは、この大作に関わったスタッフへの敬意なんでしょうね。MYSCONに行かないと、映画館が儲かる。
◆終了後、娘を引き取りに行って夕御飯までご馳走になる。へべれけになる。
ああ、本が読めなかった。


2004年3月12日(金)

◆就業後、鎌倉の御前の「初期創元推理文庫作品&書影目録」完成記念宴会へ。
メンバーはROM編集長の須川さん、いつも元気な石井女王様、岩堀のおやっさん、書痴界の若頭・大西さんに、ホストの奈良さんに私。新橋の蕎麦屋で大いに盛り上がる。で、若干、書影の提供を行った関係で、1冊9000円也の同目録を頂戴してしまう。しかも、帯も4種付き。ありがとうございますありがとうございます。毎度の事ながら創元推理文庫を始めとする濃ゆいミステリネタ・古本ネタが尽きず、あっという間に4時間が過ぎる。

例えばこんな会話はどうだ。
大西「この『秘密諜報部員』のカバーは一体どこが違うんですか?」
奈良「34版の方には原題が入ってるでしょ」
大西「それは全く違いますね!」

つくづく「ああ、僕はコレクターでなくてよかった」と胸をなで下ろすkashibaであった。
とまれこの目録の凄さは、実際に手にとって見てもらうしかない。これは只の目録ではない。「或る書痴の記録」そのものである。また申し込み者リストを見せて戴くと、こちらも、斯界の濃ゆい人列伝。既に限定200部のうち半分以上が捌けてしまっているとのこと。値段が半端じゃないだけに、躊躇する人もおられるだろうが、ミステリ者ならば誰しも若かりし頃お世話になった創元推理文庫の「真実」を裏から表から、前から後ろから、上から下まで、ずずすーーーいと堪能できる好著である。春陽文庫と並ぶ摩訶不思議の殿堂を是非体験して欲しい。
◆ベロベロに酔っ払って帰宅すると本が二冊届いていた。
「本の雑誌 2004年4月号」(本の雑誌社)
「エロチカ」e−Novels編(講談社:帯)
「本の雑誌」ではよしださんとの野望対談を掲載してもらっている。野望といいながら実は全然慎ましやかなところが、哀愁を誘うに違いない。「古本者の妻座談会」には、うちの連れ合いにも声を掛けていただいたのだが、「何を言うか判らないわよお」と云う事でパスさせて頂いた。野望特集では王様の軽妙洒脱な文章と日下三蔵法師都筑道夫発掘譚が眼を惹く。また安田ママさんも取り上げていたが青山南エッセイの「蛇にピアス」の雑誌版と単行本版の読み比べにはビックリ。ほほお、そういう書き直しというのはあるものなのですね。
「エロチカ」では、電子版同様、山田正紀作品「愛の嵐」の「解説」を担当させて頂いた。もともとの文章は「山田正紀一般論ちゅうかなんちゅうか」につき、肝腎の「愛の嵐」に関するくだりを書き足している。御興味のある向きには覗いてみて頂けると嬉しゅう存じます。事前に気になって世話役のフクさんに「8人の解説者は誰なのか教えてちょ」と尋ねたところ、「内緒」と断わられたが、漸く面子が把握できた。思いのほか知った顔が多くて、少し驚く。ネット・ミステリ界というのは意外に狭いのかもしれない。
ところで、この「解説」のゲラが上がった際に、こんな一幕があった。電子版で「サイコパスな殺人鬼」と書いた部分が、検閲図書館員に引っ掛かったらしい。電話の向うで「えー、サイコパスといいますと、気のふれたというような意味で、それと殺人鬼が結びつくというのがー(もごもご)」と編集さんが困っていたので、おおお、これが噂の「言葉狩り」というものか、とドキドキしつつも「まあ、余りこだわるような部分でもないよな」と思い「はいはい、削って頂いて結構ですよ」とケリをつけた。電話口から編集さんの露骨なまでの安堵ぶりが伝わってきた。こういうのってこだわる人はこだわるんでしょうね。
しかし5分後に「『サイコトパスな殺人鬼』ではどうでしょう?」と提案してみる手もあったなと、思いつく。山田正紀作品の題名だし、造語だし、それはそれで収まったような気もする。咄嗟にそのアイデアが出てこなかった自分が悔しうございます。ぶりぶり。


◆「OZの迷宮」柄刀一(光文社カッパノベルス)読了
希代のトリックメーカーの面目躍如たる連環不可能犯罪短篇集。これにストーリーテイリングの才が加わればとつくづく溜め息をつかされる。


2004年3月11日(木)

◆残業。今週はホントに辛い。しかも、4月から担当替えになる内示を受け少しへこむ。一体何度目の「企画担当」だ。ぶつぶつぶつ。もし、お立会いの中に企画という職種に憧れを持っておられる方がいらっしゃったら、教えて進ぜよう。「企画担当」ってえのは「用務担当」「すぐやる係」「なんでも承り官(雑務取り扱い)」という意味だかんね。
で、定例禁酒日だったのだが、禁を破る。ういいい。
◆帰宅したら、石川さんからお譲り頂いた本が到着。
「佐賀潜の罪と罰ープレイボーイのための護身法ー」佐賀潜(集英社)
ありがとうございますありがとうございます。
集英社コンパクトブックスの叢書内叢書「プレイボーイブックス」の1冊。まあ、いってみれば「生活笑百科」ならぬ「性活艶笑百科」のようなものである。軟派のための軽い法律入門とでも申しますか。ホンマ仕事を選ばなん人ですな。


◆「ヌードのある風景」カーター・ブラウン(ポケミス)読了
重量級のサーロイン本格、ヨークシャ・プディング添えの後には、ブラウニーのヌード添えで軽く済ませる。「死体はヌード」はアル・ウィラー、「ひややかなヌード」はダニー・ボイド、そして「ヌードのある風景」は、ハリウッドのトラブルシューター、リック・ホルマンの翻訳第11作。だからといって、カーター・ブラウン「ヌード」三部作とかいうような御大層なものではなくて、いつものGood Old カーター・ブラウンなのである。