年末になると、一人で勝手に焦る気持ちが生まれてきて、逆にそれを落ち着かせようと自己防衛するように、色々なものに目を向けてしまう。
窓の外から聞こえる自動車の走る音も、私を急かしているように聞こえてしまえば、いますぐ目の前から聞こえるファンの音も、異常に気になってみたりもする。蛍光灯の白い明かりが空しさを照らす灯に思えれば、今日のもやに霞む満月は、苛立つ気持ちを解きほぐしてくれるもののようにも見える。
同じものを見ても、その日の気分で全く別のものに感じもすれば、単に気温が違っただけで、印象が変わってしまうものでもある。
それは、五感のなせる技なのか。
見ているつもりで聞いているのかも知れないし、肌でその光の温もりを感じようとしているのかも知れない。お湯に手を浸して暖かさを感じているつもりが、こころの安らぎを求めてそうしているのかも知れない。
そういうことを考えてしまうから、現実を見ないと思ってしまうのだけれども、もしそう感じるのならば、私にとっての本当の現実とはいったいなんなのだろうかとも、考えてしまうわけだ。
自転車を駆って買物に行くのも現実だし、街路樹から落ちてゆく枯れ葉を見てため息をついているのも、また現実なのだ。歩道に積もった落ち葉の上を、自転車で走ってみて、落ち葉が舞うのを楽しんでいるのも、また現実だ。
いや、そういう事はただの事実というのだろうか。言葉の遊びはしたくないものだが、同じ言葉でも、同じ意味を共有できなくなるとき、誤解が生まれてしまうので、難しいものなのだ。
疲弊してしまったのか。
嘘に嘘を重ね続けていかなければ、上手く生きていけないのならば、そうするだろうし、いつも真実のみを追い求めていて生きていけるならば、そうするだろう。一体、自分にとっての嘘とはなんなのか、真とはなんなのかも曖昧なまま、ただ日々を重ねていっているような気がしてならないのだが、そういうことを考えてしまっては、永遠に抜けることのできない思考の螺旋に間違いなく嵌ってしまうだろうという、自分が思う所の冷静さが、そういうことをさせずにいるのかも知れない。
詰まるところ、無限大の感情を、有限の言葉で言い表して、自分を納得させようとしていることに、間違いの発端があるのかも知れない。感情を直感のままに、行動に反映させていくのならば、良いのかも知れないが、その行動にすら、言い訳を求める自分があるわけで、その行動を言葉に表したい衝動に駆られるのもまた事実なのだ。
不安だからだろう。
こころを曇らせる黒い霧が不安だとすれば、その霧を晴らしてくれるのは、自信なのだろうか、それとも希望なのだろうか。そういったありきたりの言葉で、気持ちを表現しようと思うこと自体、嘘で自分を隠そうとする行為なのかも知れない。
よく分からないのだが。
そういってしまえば、何となく決着を見たような気にもなるし、実際私がしばしば使っている様な気もする。いや、使っているだろう。
どうでもいいんだ。なるようになるさ。
そう思えているうちは、何となく勢いがあって、全てがうまくいくような気にとらわれているのだけれど、実際、なにが、何をもってなるようになるんだろうと、考えたとき、何も起こらずに、淡々と日々を過ごすことができればそれでいいのではないかと、どこかで逃げている自分がいるのかも知れない。
憂鬱なんだ。
実際。もし、未来に何が起こるのか、全て分かったとしても、恐怖は無くならないだろうし、全く分からなかったとしても、恐怖はある。違いはなにか。何が起こるか分からない、未完成であるが故のところから生まれてくる、希望が、活力になっているのだろう。全てが分かってしまって、それ以外の結果が生まれる可能性が否定されてしまったとすれば、そこには、自分にとって都合が良いことに対する期待はあっても、希望はない。逆に、自分にとって都合が悪いことの多さに、絶望が全てを呑み込んでしまうだろう。何も分かってはいないし、永遠に未完成でいられるから、まともでいられる。
なぜ、こういう文章になるのか。
知らない。まとまりがつかないから、書いてみたのかも知れないし、気持ちの整理がつかないから、言葉にしてみて、自分に嘘をつこうと努力しているのかも知れない。自分に自分を納得させようと努力しているのか。理と野が複雑に絡み合っているから、そこから何とか抜け出して、そういった状況を俯瞰してみたいと望んでいるのかも知れない。しかし、それはきっと見ないほうが良いものだろうし、決して見ることができないものだと思っている。そう理解させている。
生きている。
その事実だけは、間違いの無い事の様だから、きっと明日も、悩んでいるだろし、言葉を編んで、気持ちを表そうとしているに違いない。


平成拾参年拾弐月弐日 午前壱時頃記す。