語り部運動資料(南地区)
 註:本内容は、秦野市老人クラブ連合会の会員が採集した、秦野南地区での語り継がれてきた伝承
(語り部運動資料集)の内容を原文のまま記載しています。
思い出の井戸                         平沢第一老人クラブ   山口ツヤ
 私は、本町の曽屋で生まれたので、小さい頃より水道を使っておりました。
そして、昭和の初めに祖父の所へ養女に来ましたところが、祖父の所では井戸水でした。
深く掘って、井戸車をつけ、縄のついたつるべでカラカラと水を汲み上げたのです。
 祖父の所では、表に一ヶ所、裏に一ヶ所掘ってありました。その裏の井戸水を飲料水、
風呂桶、洗濯用にと毎日使っていたのです。隣近所の家でも、皆、井戸が掘ってあり、その
水を使っていました。
 祖父の話では、「この水も井戸替えをするのだ、一家で一つの井戸水なら、度々かえなくて
もいいが。一つの井戸を三、四軒で共同で使っている所もある。そういう所は、必ず一年に
一度は井戸替えをしないと、落葉が入ったり、ごみが溜まるので、必ず掃除をするのだ。」
という。
 「井戸替えとは、井戸の中にはいり、底の水を全部、汲み上げて、中をきれいに掃除するので、
井戸替えは大変の事なんだ。」と、私はよく云い聞かされました。
 すると間もなく、ポンプに変り、すいこを手で上下にあおいで水を出すようになりました。
 ところが、風呂桶が遠い所で、そこまで持って行くのが、私には大変のことで、バケツ一杯
汲んではは休み、又、汲んではは休みしておりましたら、祖母が、私の姿を見て、「一杯の水も
出して使うのは、大変なことなんだから粗末にしてはいけない」 私に云って聞かされましたが、
その時は、かったるいのであまり観じませんでした。
 あとで考えて見て、本当にそうだと、私は思って、今日になっても、おばあちゃんの言葉は
耳について忘れません。
 そのうちに、水も蛇口をひねると、ジャージャージャージャーと水がでる水道になりました。
私達ありがたい毎日です。 お水は大切に使いましょう。
御嶽神社と御嶽道                      宮町老人クラブ     草山貞胤
 昭和八年、台風の時、御嶽神社の杉の大樹が倒れました。その年輪は九百八十年余りで、其処
にある欅も千年近い老木で、当御嶽神社の歴史の古さを物語っています。
 慶長十三年、徳川家康が鈴張の地に鷹狩りの後、当神社にお休みになった時、社殿が古いので
再建を奨められ、二六戸の氏子が、立派に再建されました。現在の中宮は当時の物で、彫刻等
誠に立派です。
 御嶽道の名前は、建久三年(一一九二)の頃より出て来た。それは神職の家が中丸の地にあり、
神職の神社への通り道が狭いため、両側の住民がお互いに三尺ずつ下がり、二間道路にされた。
それから御嶽道とよばれるようになったという。
軽便鉄道と競争                        北町長寿会     小沢房吉
 六十年以上も昔のこと、私が小学生のころでした。JR二ノ宮駅の附近の小高い山の上に、吾妻
さんという神社があります。毎年一月十六日がお祭りで、いろいろと行事がありましたので、人出が
ごった返すほどの賑わいでした。
 秦野と二ノ宮間と遠い道中でしたが、年寄りから子供までがよく歩いて行ったものです。
 その頃、秦野と二ノ宮間を軽便鉄道という小さな汽車が走っていました。速度が早くないので、
子供のことですので、軽便汽車と競争をやったこともありました。上りへ行くと子供の方が早いし、
下りへくると汽車の方が早い。小さい汽車でも機械で走るのですから、止むをえません。
 今とは違って、昔の人は何処へ行くにも、ほとんどの人が歩いたものです。
スズ虫取り                            西上町老人クラブ  佐藤カネ
 一銭銅貨を使用していた頃、スズ虫でお金になった事のお話です。
農家の子供の私共には、お正月やお祭り日の時だけしか親からお金は戴くことはありません。当時
でも煙草屋さんの店先にはお菓子や果物が置いてありました。目にしてたまらない程食べたいと
思った子供心を忘れません。
 そんな私達の部落へ毎年東京のスズ虫買いのおじさんが夏休みになると三日位泊り、子供達の
集めたスズ虫を買っていかれました。
 夏休みには煙草の収穫、乾燥の忙しさ。子供まで手伝いをする処でした。家の者の昼休みに、
山へ行くことを聞いてから出かける。
 新聞紙で袋をつくり、コップを持って行く。林の中でのスズ虫とりは、まき山後の根本辺を見つけ
ては従横と口で息を吹き乍がら、はいずる形で走り廻る。スズ虫を見つけつかまえた時は、うれしさ
胸一ぱいですが、穴蜂にさされたり、バラに引っかかって顔を傷つけたり苦しみもする。苦あれば
楽ありで、毎日少しずつ集め、まとめた数の分が金に代る時二十銭、三十銭、自分達の手にお金
が入る。このお金は親も取りません。子供にとっては大金です。このお金はどんな使い方をしたで
しょう。一銭の買物にも時間がかかります。食べたい菓子を見るだけ、やっぱり長く味わうものと言
えば、アメ玉の一銭で四個になってしまうのです。そして学用品のエンピツ、ケシゴムなど買物には
自分で使う。子供の頃の無駄使いが出来なかったことが、しっかりと身に泌みついてか、物の豊か
な時代の現在ぜいたくが出来ない私です。
前触れは有るもの                        西上町老人クラブ    小川ツネ
 月日の立つのは早いもので、私が嫁いでから四十五年がたちました。
 私が体験した事ですが、今から四十五年前の三月の事です。実家に居る頃の事で夕食が済み、
妹とお茶碗を洗ってふいた後、お膳に伏せて食器戸棚に納めました。
 翌日、朝御飯にしようとお膳を出したら、何んとお茶碗の糸底からお膳に真赤に血が流れて居り、
私を初め、家中の者がびっくりしておかしいと首をかしげ、「出征して居る兄に何か有ったのでは」と
心配しながら、三日過ぎました。
 忘れもしない三月十八日、東田原神社のお祭りの夕方、役場の方が二人で戦死の公報を持って
いらっしゃいました。お帰りになった後で、この間の血はやっぱり前触れだったと家中で泣きました。
我が家の言い伝え                        諏訪町長寿会    飯田右八
 私の家では代々、次の行事について、言い伝えが行われております。理由のよく解らない面も
あります。
@ 一月三ヶ日は神棚の供え物は一切、男が行い、女は手を付けない。
A 何の行事も、四の日、四の月を好のみ行う。祝事等、結婚式等も。
B ショーガ、ゴマは一切畑に作ったり、蒔いたりしない。(ショーガ苗ことが起きる)
C 十二月三十一日にだるまと縁起物を購入。だるまは三年毎に大きくする。
D 誕生祝いは原則として行ってはいけない。(昔、祝いの後、不幸が生じたそうだ)
E 一月四日の山初めの行事にはおかざりと供えもちを木に供える。
鎌倉権五郎さし木の「えのき」                 諏訪町長寿会    熊沢宗治
 私の家のご先祖様は、殿様のおとしだねで、昔のことで何国米、殿より預いたものだと聞きました。
 熊沢元右ェ門が代々で、何代続いたか存じませんが、昔の家号は「江戸屋」です。江戸に御用
づとめをしていたと聞いています。
 昔は諏訪神社迄、他人の土地はふまずに行くことができたと話に聞いています。
 又、お稲荷様の傍らにある「えのき」は、昔、鎌倉権五郎が来た時、さし木にしていった木と聞いて
います。 その時、中町のお天王さんと峰の八幡様の三ヶ所にさしていったそうです。
ゴザ松の由来・他                         今川町長寿会     横溝文吾
(1) ゴザ松の由来
 今の南が丘の団地から、中井町の砂口への途中に、ゴザ松と言われた松がありました。
 その松は、枝があまり上にはのびず、下枝が四方にひろがっている上、下の道巾があまり広くなく、
地面に草が生い茂り、昼でも暗く、子供は勿論、大人でも通るのは気味が悪かったようでした。
 現在は、その松は枯れてしまいありません。
(2) 「一貫目」といわれた土地
 今泉の白笹稲荷神社の近くの震生湖よりに「一貫目」と云われた土地がありました。そのわけは、
そこの一升分の砂は、他の土地のよりも重く、一貫目の重さがあったとのことです。
縁切り橋・天社神                         西大竹老人クラブ     高橋秀平
(1) 縁切り橋
 西大竹字前田は、其の昔から雨が降れば、田植えが行われ干ばつの折りには、不耕作という
自然の田がありました。上智大学の残土により埋立が行なわれ、其の後組合施行により、区画整理
を、実施して、現在では中央に、前田公園児童館が出来、その周辺は立派な住宅地になっていま
す。その北側の排水路に昔から、石の橋がありました。今現在では取りはずし、舗装されておりま
すが、部落の人はその橋を、縁切り橋とか、矢越の橋とか云い伝えられています。それは、其の昔
花嫁が土沢に行く途中、花かごの台上で突然、消えてしまったとか、これは、当時の人は、妖怪の
仕業であると信じて弓を射った所、その矢は石の橋の下を、越えて、見つかったとか伝説が、あります。 平成のこんにちでも、西大竹の、人達は、花嫁の挨拶廻りには、石の橋のあった道路は、通り
ません。
(2)天社神
 西大竹は、昔三つの集落を、西大竹と云った。開戸庭、中庭、北庭それぞれ三つの天社神が、祭
られている。所在は、開戸庭は、二の宮街道の南ケ丘入口の手前、中庭は、嶽神社の裏、北庭は、
神社の裏旧道にそれぞれ祭られている。旧道の天社神は、道路拡張によってグリンタウン下の市有地
に移転し、今も春秋の社日の前日、講中によってそれぞれお祝いし五穀豊穣祈願を致しております。
畑の片隅の不動尊                         平沢第一老人クラブ  山口ツヤ
  祖父母より引き継がれた土地の片隅に不動尊が祭られてあります。
 ただ昔から、「むずかしい神様である」と言い伝えられてありました。その不動尊は其の当時小屋も
なく、畠の片隅にありましたので、今から二十年前、私が大工さんにお願いして、小さな小屋を作って
いただきました。
 十二月になりますと不動尊を掃除に行き、お正月には家で搗いたお供えを上げておりました。
 何の祭り事もせず今日に至っておりましたところ、或る日、息子が或る会社の社長と商談中「お宅の
家では何か神様の様なものが祭られてはいないか?」と尋ねられたそうです。その時は気がつか
なかったそうですが、帰宅して能く考えて見ると、我が家の畠の片隅にあり、其所に祭られた不動尊、
その畠を不動の木と言っておりました。
 それを思い出して、すぐ社長様に話しをしましたら、早速見に来て下され「此の不動尊はあらたかな
神様です。放っておく事はなりません。毎月に二十八日は不動尊にお参りに行く様に」とのことでした。
今迄知らずとは言え、何の御供養もせず申訳ないと、家族の者がお詫びを申しております。
 毎月の二十八日になりますと息子がお参りに行く様になり、お供えした果物は家族皆で頂いており
ます。 近所の商売をして居られる人達もお参りに来て下さいます。
小さな祠の想い出                            中町長寿会    小泉初男
 私の家には以前、代々受継がれて来た古臭い、小さな小さな祠がありました。高さ七十センチ位、
間口四十センチ位、奥行は五十センチ位の木製ですが、観音開きの扉のある祠でありました。
 観音開きの扉を開くと中は、二つの室に区分されていて、一方に疱瘡神が今一方には、七面大明神
が祭ってありました。 祭った謂われについて、父の話ですが、昔南秦野村地一帯に疱瘡が蔓延し、
死者も多数出た年があり、先祖が疱瘡に罹らない様に、又罹っても軽く済む様にとの祈願して祀った
と、又、七面大明神については、代々我家の護り神として祀ったとの事でありました。
 毎年祭典を催しておりましたが其の祭日は忘却しました。 祭日には、赤い幟を祠の前に何本も立て
て、母は朝早くより赤飯を炊きおにぎり作り、祖父と父は、菓子を紙袋に詰める作業に追われて
いました。私達も時にはお手伝いした事もありました。やがて祭典に集まって来た子供一人一人に祖父と
父母がおにぎり、菓子袋を手渡していた。多い時には六十人以上も集まって来た事もあります。私達
兄妹も其の列に入って祖父母又は父母より貰うのが楽しく又嬉しかった事を想い出します。
 祠の中に何があるのかと子供心の好奇心から扉を開いて中を見た事がありました。
 二つに分かれている室の一方には小さな桟俵(米俵の両側のふた)に赤い紙のしめが立っていて
其の奥に古びた、疱瘡神のお札が入っていた、今一方には白羽重の小さな四角の布団の上に蛇の抜殻
がのっていた事を憶えております。この小さな祠は大正三年に父が平塚町の養生館通りに米穀商の
店を開業した時に南秦野町今泉の元屋敷地より移されて来たものです。その後、大正十一年七月に
平塚劇場前に店を新築開店の際祠も新しく造り代えられて、庭の一割に祭られていましたが、昭和
十九年大東亜戦争が烈しくなり、平塚市も空襲の恐れが生じて来ましたので、父母は秦野市今泉の
元屋敷の一割に疎開、祠も今泉に戻って来ました。
 父の死後、祠の管理は弟がしていた様ですが、祭典は其の後、催されておりませんでした。
 昭和五十年十月、私は平塚市より現住所に移って来ましたので、弟が、「祠も古くなり、腐れ箇所も
出て来たので、石で造り代えて本家に戻そうか」と、言っていたが、その弟も今は故人となってしまって
、祠の存在も今はさだかではありません。
平沢峯山のこと                            平沢第一老人クラブ   加藤善平  
(一)梵天講
 平沢峯山台、震生湖バス停留所のそばに梵天様の石のほこらがある。このお祭りを梵天講といい、
昔から毎年五月十五日に行われている。参加する者は平沢峯部落の十六世帯、昔は各戸で食物を
作り持参したが、今は会員制で酒食を準備して梵天様に供えお祭りを行っている。
(二)大震災埋没者供養塔
 大正十二年九月一日関東地方に大地震が発生した。小学校より帰宅途中の小原部落の十三才と
十一才の二少女が、峯坂道路途中で埋没した、近隣の部落民村内の青年団消防団員等で埋没した
と思われる道路を堀かえしたが、死体はみつからず終わる。南秦野村一般有志で、二少女の冥福を
祈って供養塔を建てた。これが峯山台峯山旧道の終点、槇の木の下に建ってある供養塔である。
(三)平沢峯山の高台に柳川家祖先の墓がある。三浦より移住した者で、三浦の故郷の見える場所に
埋葬するよう遺言により、峯山に墓が作られたという。
 震災時、周りが丈余の老松が生えており、大正初期の全国名木、御感の松の名を戴いたが、
十二年の大震災に枝をふり落とされ、千年の松は生命を失う。 昔、押切方面の漁師は舟の出入りに
この松を灯台代わりにしたという。
峯部落の庚申講と梵天講                       平沢第一老人クラブ  青木亀次
(1)庚申講
 私の町内、南町の峯部落には今でも行っている講があります。
 一つはお庚申講といい、庚申の日の当番の家に行き、庚申の神様に線香を上げ、一晩中語りあうと
いうならわしがあります。でも今は十時頃で終わりにします。又、講中の時に親睦旅行貯金も集めます。 庚申講というのは、庚申の日の晩に寝ると、腹の中の虫が天帝のもとへ出かけていって、その人
の罪を告げ、命を奪わせると言うので寝ないで過ごす習わしです。
 峯部落中央の道路端に「見ざる「・言わざる・聞かざる」三猿の形を刻んだ石塔、庚申塔が立って
います。お庚申講の終わった時の帰りには一同でお参りをして帰ります。
(2)梵天講
 峯部落では毎年五月十五日に梵天講を行っています。梵天塔は比奈窪行きバスの震生湖バス停
のそばにあります。
 私達の講の一つで、五月十五日には午後、供え物をつくります。長さ三米の竹竿に半紙、藁本麻で、
奇妙な飾りを二つつくり、塔の左右に飾り付けて、一同で参拝して、その前で皆仲良く酒盛りしてお祭りを行います。山の上での行事、よい気持ちです。
御嶽神社の本宮のことなど                      北町老人クラブ    山口義春
 渋沢や栃窪から震生湖へ行く道には、大きな松の木が有りましたが、今では一本ものこらずなくなり
ました。昔、小原の人が植えたのだそうです。
 昔は小原村は平沢村より人家が多く、平沢の御嶽神社の本宮は、小原も宮窪に有ります。
 この尾根道は、今ではハイキングの道になっており、道端には富士浅間神社が祀ってあります。
十日市場                                 北町長寿会     小清水和佐治
 私の子供の頃、歳の暮れになると、父は必ず、天秤棒を持って「十日いちばに行って来る」と出かけ
ました。帰りは一杯機嫌で天秤棒の両端に正月用品を一ぱいぶらさげて帰ってきました。七十三・四
年前のことです。
十日市場のお祭り                            新田長寿会    高橋小満江
 私達の幼い頃、本町のことを十日市場といった。七月十日がお祭りの日です。お祭りがあるので、
なるべく、麦の取入れを済ませるようにしたが、雨の多い年には終わらなかった事もあった。母にメリンス
の着物を作ってもらい、着ていくのが何よりの楽しみで、家の事も懸命に手伝った。其の日は、家の者
も半日仕事をして、午後からはお祭りに出掛けます。秦野駅の前に大きなサーカスが掛かりました。
昔の秦野駅周辺は草原でした。鶴巻坂の処までまで来ると、「天然の美」の音楽が聞こえて来ます。
心もそぞろです。駱駝や象が沢山居ました。キラビヤかな服装をした人達が大勢いました。五銭の
木戸銭を払って入ると、大きな天幕の中には、大きなブランコが掛かっていた。ヒヤヒヤする場面も
あった。色々な曲芸を見て町の方へ行くと、綿あめや金魚すくい、鯛焼屋もあり、いかを焼く香が食欲を
そそります。その内にお輿が来て、露店もこわされた処もあり、私達も逃げました。
西大竹の泣き地蔵                         西大竹老人クラブ    桐生義雄
 西大竹に夜泣きに霊験あらたかな地蔵さんがある。
 舟形後光に浮彫された、増丈約四十糎、碑文共約五十六糎、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ座像
で後光に干時元禄十一年戌寅、高橋□□と刻まれている。
 昔、子供が激しく泣いていたが、野作業が多忙の為、帰りしな子供を抱き上げた時には、すでに
死んで居り、その子の供養のため建立したものと伝えられており、特に子供の夜泣きに大いに霊験あり
、遠く京浜地方の方も願かけに来るそうです。願をかける時は、茶飲茶碗に梅干を入れてお供えし、
また、願がかない夜泣きがなおった時には、そのお礼として幟をたてるものと伝えられている。
今泉中町の昔                               中町長寿会    綾部 茂
 今泉中町は、町制以前は中之庭部落と云い、農業主体の部落で、大正末期は四十戸前後の戸数
だったそうです。
 珍しいことに、この小部落には、準商人、農業を兼ねた商人が多く、その職業を見ると、
 大工親方三人、棟梁一人、豆腐屋一、菓子屋一、駄菓子屋二、煙草屋一、魚屋一、魚屋一、油屋一
を数えている。油屋はとくに菜種の絞り製造工場で、その製品は広く県内に売れていたそうです。(現
瓜本農産加工所)これらの多くの商人で、他の部落に見られぬ賑やかさであった。
 また部落の中央をはしる道路は、各人の屋敷なりの曲折の多いことで有名で、城下町として伝えら
れている。
 小田原方面からの方々、並びに中井町の人々も十日市場に、日用品の買出しやら、大山詣りの
参拝道とも云われ、それなりに土地商人は活気があったと聞いて居ります。
 部落の中央には小藤川が流れ、南端には中尾川が流れて、水の便が良かった一方水害も多かった
様です。
 この二つの河水を利用して、水車屋が三軒もあり、農家の精米、麦粉ひきなど他部落にも活躍した
ようです。
 また煙草専売法以前は刻み煙草を製造して、その販路は湘南地方、遠くは八王子、山梨、静岡地方
二も売られていたそうです。
芹沢の湧水群界隈のこと                     今泉西上町老人クラブ    綾部顕治
 いまから凡そ100年前の明治時代中期頃から、今泉村に芹沢と云う部落があり湧水群が三ヶ所
あった。現在は秦野市水道になり増口の貯水層に送られ、市民の利用する水道とされて居りますが、
電気の無かった時代、水力を利用して水車屋が四戸とメルトン工場、製紙場があった。その水の
お陰で近在から男も女も働きに通ふ様になり、賑やかな工場地帯に発展していた。
 白笹神社の大鳥居の手前に玉川の寿司屋があった。その裏の所から、大量の湧水が出て川になり、
室川にそそいでおり、澄んだ透明の水にてハヤが群をなして泳いでいて、子供も大人も釣りによく
来ていたという。
 又、大鳥居のそばで宇土野東助夫婦が茶屋を出して居た。おかみさんはお八重さんとい言って、
お世辞が良く客扱いが上手でお茶を出したり、酒や種々のおちまみを出してとても繁盛したという。
 次の湧水群は武夫さん所(小泉芳雄宅)の穀類を売って居た裏の竹やぶの所と、おけやをやって
居られた文ちゃんの前の橋のしたから湧水が出ていた。その手前の洗濯屋の所に木挽きの家があった
、昔は皆、板鋸でひておられたとの事です。
 その湧水から流れて五十間程の所に水車があり、土地で取れたタバコの葉を買い集めて、刻み工場
では、女工や男工が五十人程、働きに来ておった。古谷さんと言ふ人が工場主との事。そのそばに
加藤魚屋があった。
 そして酒屋の松ちゃん(小泉勉さんの祖父)の家でも昔は酒造家で工員を大勢使用していた。その
隣に饅頭や菓子を作る店があって、娘が二人いたそうです。器量良しで若者がよくよって繁盛したそう
です。その道の向こうにも菓子屋があって売れたそうです。そこの仲ちゃん云ふおじいさんはお灸を
すえて、リュウマチ、神経痛を直したそうです。リヤカーで来て、帰りには歩いて帰れる様になり、皆
喜んで、すえて貰ったということです。
 もう一ヶ所は小泉安さんの所の竹やぶの下からの湧水群である。近所の人は洗い物や洗濯物を
すすぐのに使用していたという。そこから五十間程、流れて小泉亀縣さんが作られたタバコの刻み
工場があって、使用人が大勢働いていたそうです。後に小清水安さんが米麦粉をつくる水車屋に
変わりました。 その下が観音様の前でしたので、堂面と云ふ屋号で原熊五郎さんが水車屋をやって
いられた。 その水をトンネルを掘って三十間位で、出た所に清水藤左右衛門さんが作った、メルトン工場があった。女工100人と男工も働き、糸取りと織物を作っていたそうな。その奥の所に製紙場があって
神を造っていた。後で徳さんと云ふ人が住んでおられた。
 そのメルトン工場の後は瓜本四郎さんの製油工場になり、向かいあってトテントテンと油をしぼって
売っておられた。後に飴工場となる。その下に観音下の水車屋があって水は室川へ合流した。この
湧水群の為に工場が発展し、町内や附近の人々が働きに大勢来た。これ一重に湧水が大量に出て
電力の無い昔では水力と人の力で、地域が栄えた為と思ふ。以上をもって水の尊さを知って貰いたい
、昔を忍ぶ何時までも。
椽(エン)口について                         今泉西上町老人クラブ    山田好永
 昔の家は入口(玄関)には大戸がありその戸に小さな潜り戸があり、通常出入りしていた頭を下げな
け閊えて入れない入口であった。椽口とは縁側から直接上り、障子を開けて入る処を椽口と言った。
 昔は、庄屋様とかお坊様とか偉いお方は、一般庶民の家に来た時は、頭を下げる潜り戸を開けて入
らず、椽口から入らられたと聞く。 お坊さんがお盆のお棚経に来て下さる時、椽口から入ってこら
れた。現在は新築され玄関も大きくなったので、椽口から入られるような事は少なくなった様だ。
 お葬式の時、仏様となられた故人を椽口から送り出してあげたいとせめてもの家族の気持ちから
始まったと聞く。
今泉八坂神社の御神木                       諏訪町長寿会     飯田右八
 今泉の中央の尾尻よりに、もとは天王さんといい、現在は八坂神社という社がある、。
 この神社の御神木は、市の文化財として指定されている「椋の木」で樹齢は三百年以上と推定される。
 この御神木は、言い伝えによると、兄弟御神木が他に二本あるそうで、一本は諏訪町の隈澤宗治方
の屋敷内に権現様という小さな石堂があるが、その御神木で、現存しているが、何回もの台風や落雷
やらで、木は半分位になってしまった。他の一本は上町の八幡神社にあったとのことであるが、何年か前の台風で折れ、無くなってしまった。
 八坂神社の御神木については、根元の周囲は五、六米位で、やはり落雷等により、子供が出入りで
きるような穴があいて居ります。
 年に一度の九月の祭典時には役員みんなで、大シメ縄を作り御神木上部に取りつけ、祭典行事を
行って居ります。私達が青年の頃はいろいろと余興等も行ったこともあり、現在は祭りバヤシ太鼓程度
のことを行事として行って居ります。
 言い伝えによると、昔何百年前かわからないが、祭典時、御御輿を尾尻明星をかついで廻っていたら、突然、火の雨が降って来たので、其の場に穴を掘って御神輿をいけてしまったということであり、
その火の雨とは落雷のことではないかと思われますが、何れにしろ何か起きたことにより、現在は、
尾尻明星は講中から外れ、今泉、中町、諏訪町、下今川町の講中で行っており、天王さまが八坂神社
と改名された理由もよく解らないが、そうした点も考えられます。現在も小林秀雄氏を天王開戸と呼ん
でいます。
お諏訪さんと尾尻                             上今川町長寿会   櫛田市郎
 昔から今泉神社のことをおすわさんと言っている。
 古老からきいた話ではむかし諏訪湖に古くから住む大蛇が、空を飛んで来て、(何の為に飛んできた
のかわからないが、一説には、きれいなうまい水を飲みに来たとも!)現在の今泉神社の所が頭、尾が尾尻の地点に落ちついたので、その様な地名になったという。
電灯がつくのは東から?                           今川町長寿会  小宮薫蔵
 秦野にも電灯がともることになった大正初期の話である。
 ランプから電灯に、これは全く画期的な変革であって、当時子供であった私達にとっても、大きな
関心事であったことはいうまでもない。それは、電灯が東からつくのか、西からかが問題で、議論の中心
となっていた。 結論として、小原の高台(昔の一本松)に登って、たしかめることになった。
 頃あいををみて仲間と一緒に、坂下から急坂(今は廃道)をあえぎあえぎよじ登った。
 高台に立って眼下にひろがる盆地の集落を眺めながら点灯の時を待った。
 やがて陽は西に傾き、夕やみがあたりをつつんでくる。点灯の時は刻々とせまってくる。もう話し声は
ない。みんな固唾をのんで眼下の集落に目をこらしていた。
 そして遂にその時はきた。
 一瞬にして一斉に灯りがともったのだ。東からでも西からでもなかった。 みんな唖然、みんな
びっくり、そしてそれぞれが納得したような、しないような変な気持ちで帰路についた。
 今は昔のはなしである。           (記録 内藤 寛)
尾尻部落の稲荷講                            上方町長寿会   高橋義雄
 尾尻部落の稲荷講は、天保七年二月吉日に始まり、一方は十九戸、もう一方は十八戸の二つの講
があったが、昭和の後半農家が減るとともに講中も減り、十八戸の講の方は、五十年の初めに解散し
てしまい、十九戸あった私の講も現在八戸になってしまいましたが、何とか、昔の仕来りを守りながら
続けて居ります。
 仕来りについて申し上げますと、先ず最初に講中の者が一堂に集まり、来年の当番(宿)と、下番を
籤引きで決め、当番に当たったものは、来年の二月初午の前夜、宿を引受けます。下番の者は、当番
の者が初午並びに二の午の両方、宿が出来ない場合に当番を引き受けることになります。当番の家
では、初午の前、一日か二日前に、「稲荷講の宿をやります」と講中に告げて歩く。
 当日が来ると、お稲荷様のお社の前に、申し送りできております。幟旗(現在は白笹稲荷大明神)を
立て、講の準備をを行います。
 夜になると、講員の夕食の準備をし、稲荷大明神の掛軸を掛け、その前に講中に出す夕食と同じ膳を
飾る。 夕食は、酒、あずき飯、ケンチン汁、にしめ、刺身、きんぴら、煮豆、酢物、天ぷらで酒は
ご飯茶碗で飲むことになって居ります。
 夕食が終わると、今年の掛金を支払うことになります。昔は、米一升の価で決めていた様ですが、
現在そのようなわけにはまいりません。最後に来年の当番宿と下番を決める籤引きをやり、決まりま
したら、掛金と籤とを神前に供え、稲荷講の行事が終わります。
 今年の農作物が豊作であります様にと、講中の安全をお祈りして解散致します。
梅原牧場の大凧あげと秦野太鼓のこと               上方町長寿会   関本宗吉
 梅原牧場は尾尻(大秦町一、小田急線秦野駅前の神奈中ビル付近)にあり焼く五反歩(四九・五u)
の広さであった。
 牧場内には幹が直径2mもあるような大欅があった。
 当時の支配人の関本源蔵氏は、明治の初期に平塚市入野から分家して、牧場内に一戸を構えて
居住していた。 同牧場では毎年、お節句に青年衆が集まり、関本氏所有の大凧あげが催された。
 凧あげが終わると、牧場内の大欅の下に集まり、半玉を含めた芸者を迎えて大宴会が催された。
その宴会には太鼓を打ち鳴らして、賑やかに宵をすごした。
 太鼓叩きについては、関本源蔵氏が入野に居住当時から覚えていたので、関本氏は時々、青年衆
を牧場の広場に集めて太鼓叩きを教え込んでいた。
 この太鼓叩きが各地域のい祭りに祭囃しとして広がったもので、これが秦野太鼓の元祖である。
関本氏は太鼓に合わせて、笛も覚えていたので、笛吹も教え込み、最初は太鼓に合わせて、笛を
吹いていたが、後継者が絶えてなくなったということである。 
古峯神社と寿徳寺百番観音堂                   新田町長寿会   高橋小満江
 (1)古峯神社
 大秦町三−十一にある古峯神社は、今から五十年程前、尾尻地区では、昭和十五年に
高橋卯七、高橋右八、高橋友吉さん方が火災にあい、翌十六年にも守屋さんの近所が火災になった
ので、梅原家の敷地内に、お稲荷さんの社だたのが、当時何も祀ってなかったので戴いて、栃木県
の火伏の神様、古峯神社の御神体を勧請し、そこにお祀りをしました。それ以来、火事はなくなったとの
ことです。
 このお社は、梅原家全盛の時、お建てになって、彫刻などがしてあり、小さいけれどもなかなか立派
です。 毎年十月一日にお祭りをしています。
 (2)寿徳寺百番観音堂
 当山観音堂は、元栄螺堂と称し、寛永十二年九月、当壇頭、梅原家三代目、月太郎兵衛が
尾尻六番地三号(現在のイトーヨーカドー敷地の南側)に建立されたものです。
 現在の観音堂は三回目の建立(昭和四十六年五月)で今日に至っております。
 当観世音は百番観音と称し、相模西国三十三番、板東三十三番、秩父三十四番を一堂に請じてあ
ります。 安産の守り、子育観音として御利益があらたかで、近郷近在はもとより遠方の善男善女の
信仰も集めております。
消え去った的山                             西大竹老人クラブ   高橋利介
 現在、南ヶ丘団地の建ち並んでいるあたりにあった的山は、広大な山続きで、六十町歩外、立野等
合計七十五町歩もあり、その昔、狩人の的場に使用した伝説があり、明治時代には鳥獣も多数、生息
していて、狩人も多く出入りしていた模様です。
 或る時、西大竹の狩人広吉様は、猪と見違えて、うったところ宗五郎様をうってしまい、幸い軽傷で
済んだということもあったそうです。
 昭和初期にも、鳥獣も多数生息して居り、私は昭和二年に独逸ダイアナ製大型強力の空気銃を
買って、この的山へ出かけ、半年程で様々山鳩、子兎迄うっt事も忘れられない。
 昭和四十七年より、七十五町歩の内二十四町歩は公園団地となり、的山はすっかり衣替えして姿を
消してしまった。
大八車を背負った坂道                     平沢第一老人クラブ    加藤高次郎
 僕の家の横の坂道は、十年程前からバスが通っているが、今から丁度六十年程前迄は、農家の人
は上りには大八車を背負い、帰りには、畑や山でとれた農産物(大小麦・野菜・薪炭)等を運んで生活
をたてていた人が可成多かった。
 この急な道路が秦野−中井線である。大雨でも降れば忽ち部落総出で、水の押し寄せるのを防ぐ
のに大騒ぎ、又、後始末も大変である。どうしたらよいか心ある人は苦労はすれどなかなか名案が無い。
 当時、坂下に青木春吉さんと言う私より十六・七上の笠屋さんがあり、弟子も何人か使っていた。
 この青木さんが僕の所へ来て、「オイ加藤、この道を何とか改修しようではないか。」寝耳に水の様な
話しであったが、そう簡単には行かない。そこで先ず二人で県議の田中八郎宅(平塚市長持)に行き、
事情を詳細に説明した。暫く考えていられたが、「仲々容易ではないがやりましょう。」との返事。帰って早速部落の有志宅を訪問、田中氏の返事を中心に部落総員の集会を開き、この事業遂行上の役職も
決めて愈々発足した。
 部落の役員も加藤繁蔵氏、露木繁蔵氏、其の他百名以上あり、経費も七千円以上(只今の何億位?)
かけ、改修は完成した。また横須賀の小泉又次郎先生(只今の小泉純一郎代議士の祖父)には
随分ご厄介になった事は忘れない。
古狸の話                             北町長寿会       山口義春
 昔、大住群平沢村に一つお寺がありました。
 住職が三日ほど留守をするので、幾さんに留守番を頼んだ。その夜、一時頃、「幾さん幾さん、酒飲み
に行こ」と雨戸をたたく音がした。でて行って見ると、だれもいない。二日目の夜は若衆を頼んだ。
夜三時頃、トントンとたたく。表へ出ると、黒いものが川の方へいく。それを追いかけると、石打場の
仙蔵さんの堀ぬきに入ったので、つかまえたら大きな狸でした。みんなで狸汁をつくり、酒をのんで
たべてしまったという。
湯かけ・捨て子のこと                      緑町長生クラブ      落合高志
(一)湯かけ
 子供の頃、よく町や村の道祖神のそばに「へいそく」を立てたさん俵が、いくつか供えてあるのを見
かけた。これは、「湯かけ」といって、子供が「ハシカ」にかかりそれがなおるとそのさん俵を子供の頭
にのせ、笹でその上に湯をかけ赤飯を「オヅッキ」にのせ、さん俵に添え道祖神に納めたものだそうだ。 これは「ハシカ」が無事すんだお祝いの行事だという。
(二)捨子
 昔は「りちぎ者の子沢山」と云って子福者が多かった。
 男揃いの末の女の子供は育ちが悪いとかで、その子を捨て子にする。そこで女の子の多い家の人に
頼んで拾い上げてもらい、その人の子供として育てることにして家まで連れ戻してもらう。そうすると
その子が丈夫に育つというこんなことがあった。 
思い出の御輿造り                          清水町老人クラブ    加藤秀雄
 私達が子供の頃、南地区の南町では、七月十四日のお盆の前日、御輿造りの行事がありました。
一年生から六年生までの男の子だけの行事で、上級生が総大将で、全員が当時の部落寄合所に集まり
、上級生の指示により、毎年決められた木(モミソの木、一年中青い葉のついていた)を探し求め、枝に
提灯を付けたりして、御輿造りをしたものです。
 子供等は出来上がった御輿を指差しながら、明日の天気が気になるのか、下駄など履物を高くあげ、
占い事をしたりして家路についたものです。
 当日、日の落ちる頃から、担ぎ始めるのですが、揃いの服装と云うことはなく、思い思いでした。提灯の
あかりが狭い道路を照らし、「ヤッセイコーラ」と、かけ声をかけながら、また障害物にさしかかった時は、
「チンチンコーラ」と別の掛け声で部落の家庭を三日間廻り、御賽銭を頂き、それを上級生から渡された
ものです。
小藤川の河童                               中町長寿会    綾部 茂
 むかし、生後三十一日目のお宮参りをするため、赤坊をおぶって、小藤川を渡ろうとした時、急に川
の中から河童が現れ、いきなり赤坊にとび付き、一瞬のうちに川の中に隠れたそうです。其の時、附近の人が赤坊を助けようとと川面を見ると、赤坊は息切れして死んでいたそうです。
 其の後はお宮参りには遠廻りして、小藤川をさけたそうです。それからは、子取川の呼び名もついた
そうです。
 現在の南農協と南小裏の西町に通ずる道路の中間にある。
湯掛けの行事                               中町長寿会    小泉初男
 昔、疱瘡で子供が高熱を出した時には、桟俵に赤飯を盛り赤い紙の旗を立てて、疱瘡神を祭り、此の桟俵を熱を出した子供の頭に乗せ、笹で湯を二度三度掛けて疱瘡熱の下がる事を祈願した。
 又、この桟俵を道の辻に置いて来て、帰りには後を振り向かないで帰る様に言われた。
私の家の七草粥                             中町長寿会   森 富子
 お正月の七草粥は、春の七草、せり・なずな・ごぎょう・はこべ・すずな・すずしろ・ほとけのざを近くの
さわじりで、一月五日につみとって揃えておく。
 一月六日の夕方と七日の朝、神棚の下にござをしき木鉢の上にまな板をのせて、つみとった七草を
木のしゃもじ・お玉を両手に持って「七草なづな日本の鳥と唐土の鳥と渡らぬ先にあわせてバタバタ」と
、となえながらたたき、これを塩味のお粥とまぜ、さらに神様にお供えしておいた餅を入れて七草粥を
作り、七日の朝神佛に供える。
駒形宮のこと                               西上町老人クラブ   綾部顕治
 今泉西町室川に架かる白笹橋の袂に西町会館がある。その左奥の間に駒形宮があり、本尊が祀られているが、ふだんは唐紙が閉まっているので、拝めません。毎年二回、戸を開けて、馬のご本尊に
白笹稲荷神社の宮司さんに祝詞をを奉納して戴いている。毎年、春は三月十九日、秋は、九月十九日
が祭典です。前には子供をat留目、よく菓子袋を配ったこともあった。
 駒形宮は以前、川向かいの栗原辰雄さんの屋敷にあったそうですが、明治三十年、相州大住郡今泉村となった頃、庄屋の清水蒔三郎さんの屋敷の川端である現在地に移された。
 今から七百年前の事4,鎌倉時代、頼朝公が富士の巻狩の帰り道、大住郡の方に廻って来られた時、前の駐在所辺にさしかかる頃、白馬が元気なく歩くのがだんだん遅くなり、膝を折って座ってしまった。おいしい草を与えても食べようともせず、馬方が一生懸命介抱したが、惜しくも死んでしまった。
頼朝始め家来も悲しみ、寺の坊様にお経を上げてもらい、畑へねんごろに葬った。
 その後、百姓の家には、馬が方々に飼われていたので、木彫りの白馬を造って駒形宮にお祀りした
という。
諏訪町の水神様                             諏訪町長寿会    飯田右八
 諏訪町の真中を上方町に流れている小川があり、一番上に水神様の小さな石宮があります。この
建立年月日は消えており、今泉村氏子の文字だけがわかっている。この川の水は、現在、田の用水
として使用されているが、昔は住民にとっても最も大切な生活用水で、飲料水から風呂水まですべてに使われていた。
 前の家の故飯田七右衛門様(昭和十五年、九十三才没)の話しによると、七右衛門様が七才の頃、
若い人がコロリという病気で大勢亡くなった。昔ながらの川の水が原因であると気付き、水神様をまつり、それからは五月節句の日には川の清掃を村全員の人達で行い、水神様のお祭りを行った。私の
子供の頃は色々と催し事もあったが、現在は、祭典のみ行われている。
河原淵水神講                              諏訪町長寿会   石塚秀雄
 諏訪町の水神講は、河原淵水神講という名で呼ばれている。
 昔は、今の諏訪町と今川町一丁目が一つで河原淵といった。昭和二年、小田急が出来て、河原淵
は線路で分断されてしまい、南側が諏訪町、北側が今川町一丁目に分かれた。 お神輿をかつぐのは
、今でも一緒である。
 河原淵水神講は、毎年五月三日におまつりを行うが、昔はその年に長男が嫁取りをした家と、新しく
分家した家とが費用を出して、毎年水神j講のまつりを行ってきたが、現在は部落で行っている。
正月の粥行事二題                          今川町長寿会   上村ミツ
(一)七草粥
 正月六日の夜、前日、お諏訪様の傍らの田圃の畦から採って来た、セリ・ナズナ・(ペンペン草)・
こおにたびらこに、だいこん・小松菜・人参・ごぼうを加えて木鉢に入れ、神棚の下へ供えたあと
すりこ木・お玉・しゃもじ・包丁をかわりばんこ使って、まな板の上の七草を、「ナン、ナン七草なずな、
唐土の鳥が日本の国にわたらぬ先に、合わせて、バッタ、バタ。バッタ、バタ」と、唱えながら、トントントンとたたく。これを家中のもの全員がやる。 翌七日の朝には、主婦だけが前夜と同様に七草をたいた後塩と少量の味噌を加えて、七草粥をつくる。
 この日が、今年の味噌の使い始めで、七草までは味噌汁はつくらない。
(二)十五日粥のこと
 正月十五日には小豆粥もつくる。この時は佐藤を入れた小豆粥をたべる。自分の好きなだけ砂糖
を入れてよいので、子供の時は何よりこの粥が待ち遠しかった。 この時の粥は、全部たべずに少量残しておき、十八日の朝皆で一口ずつたべることになっている。
 むかしから、戦の時の兵糧の食いのばしのためにした習わしだといわれてきた。の
 池久保のお観音様                           新田長寿会   高橋小満江 
 南地区南ヶ丘と中井町砂口の道境の大原博さんの畑の片隅にお観音様が祀ってあります。
 昔、私達は「池久保のお観音様」と呼んでいました。この池久保は、長雨が続くと深さ三米、広さ
三町歩位に水がたまってしまいます。今までに四回もたまったようです。
 この水のたまった時に、ここで近所の青年が死にました。そこでて天保二年に大岳院の仁左衛門
他四名と砂口五名の有志の方々で、この観音様が建てられたようです。其の時は酒匂川が氾濫した
二宮金次郎さんの時代のことだったようです。
 このお観音様が、昭和四十二年に夜の内に何者かに持ち去られてしまいました。
 その後、大原さんのお家では長男の方がなくなられたり、不幸が続きましたので、これはお観音様が
災難にあったためではなかろうかと、現在の観音様を建立されたものです。
平沢堀田の稲荷様                           三協長寿会   加藤日吉
 平沢堀田の加藤日吉宅のお稲荷様は、祖父の三代前に勧請され祀られあったと聞くが、祭神は不
明である。
 堀田地区では、毎年、戦前よりの家十五戸が、各家の正月の屋内飾りの品々を、初午の日に加藤家お稲荷様の前でお焚きあげをしたあと、十五戸全員が、当家で稲荷講を行っている。
高尾さんのことなど                           上今川町長寿会  櫛田美子
 今泉一二〇番地、三杉克篤宅の裏庭の隅に石の祠と木造のお社が祀ってあります。
(1)石造りの祠のこと
 石造りの祠は、屋根も土台も少し傾いて、かどかども丸味を帯びています。丈は五十糎位のものです。きざまれた文字を見たら、寛政一二年(一八〇〇年)と記され、私の知らない頃、亡くなった祖父の
名前でした。
 この石の祠はきざまれてから一九〇年も経っているものかと、なんとも不思議な気が致しました。
(2)高尾さんのこと
 石の祠の隣にある木造りのお社のご本体は、「天狗様」とは子供の頃から聞いております。高尾さんがもととか。
 姉の話によると、昭和二年に小田急線が開通することで、土地が割られ、その時低い方から、現在の場所に移されたようです。(現在、家の裏は小田急線で、一、五m位低い地面です。)その後、
子供の頃、祖母とバケツを下げて掃除に行きました。祖母はお燈明をあげ、さかきの小枝をさしました。
 毎月の一の日と、十五日には、母の炊いた小豆御飯をあげにいくが私の役目でした。供えるものは、
時には茹でた蕎麦であり、お餅のこともあったような気もします。
 姉の昔語りを聞くと、そおの時代、現在の下今川町通りは花街色街だったとか、大川橋際の川沿いにも、その様な家が何軒かあったそうです。裏の踏切のすぐそばに、我が家だけに上がってこれる
一人歩けるほどの巾のせまい小路がありました。そこを上がると、我が家の裏庭で、このお社と祠へも
行けたようです。 朝家の者がお詣りに行くと、時々一銭銅貨が二〜三個あげられていたそうです。
しかしお詣りする人の姿は見かけなかったそうです。
 個人の家の小さなお社や祠に人目に立たず、夕暮れ頃からそっとまいる人はおそらく花街の人では
なかったかと......... 一寸かなしい気持ちになりました。
なるかならぬか −けずりかけ始末−                中町長寿会     綾部 茂
 中町には、けずりかけ を作る者は、私と繁治さんの息子さんの二人だけになってしまったが、毎年
作っている。二十日に かずりかけ をおろした時、先を四つ割りにして、そこに十四日のだんごの残
っているのをはさんで、柿、ざくろ、柚子など、実のなる木を「なるかならねえか、ならねば切ってしま
うぞ」と云いながらたたくと、実がなると云われていた。私も柚子の木で試してみたら、何と沢山実が
なった。
                                           今川町長寿会   川口 勇
 子どもの時、私も けずりかけ で、「なるべえか、なるめえか、ならねえとぶった切るぞ!」と云って
木をたたいた。 (東地区、西田原にて)
大正時代の花街今川町                         今川町長寿会   内藤 寛
 ◎大正時代の今川町には宝仙楼、清水屋、大木屋、三階や、宝来家、養生館、さくらや、藤金屋
等々の料亭があり、芸者、半玉、仲居の女の脂粉ただよう花街で、近在の若者の胸をときめかした
あこがれの場であり、又、大山講中の無事下山に一息いれる憩いの場でもあったようだ。
 ◎料亭には、東北地方から、小学校を中途退学して売られてきた女の子も少なくなかったようで、
当局は、義務教育遂行のため再就学を強行し、年齢を問わず退学当時の学年に編入させた。南小の
児童たちは、桃割れ髪のませた年上の女の子と机を並べて学習をするそんな学校風景もあった。
 ◎商売屋もいりいろあった、金靴屋(馬蹄)、くら屋(馬の鞍)、肥料店、かじ屋、鋸の目立て屋、桶屋、ブリキ屋、足袋屋、一膳めし屋、銭湯、豆腐屋、医院、紺屋(染物)、床屋、雑貨屋、菓子屋、ふるい屋、竹材店等あったが今は全部その姿を消している。思えばこれら商家が農家と関係深い業種の
多かったこともうなずける。
 ◎註
 目下聞き取り中なので謝り洩れの修正はこれから。
 そして料亭、商家の所在の略図を作成するつもりですので、お気づきの点がありましたらお知らせ
願いたい。
目一つ小僧                                  臼井戸長寿会   高橋フミ
 十二月八日二月八日は、目一つ小僧が来る晩です。おじいさんが「今夜は、目一つ小僧が来るから、ゲタやはなむすび(ワラで作った、ゾウリの半分の大きさのもの)を全部家の中に片付けな」と、子供
達に言いつけました。「どうして入れるの」と聞いたら、「はきものが外に出ていると、目一つ小僧に
ハンコを押されてしまい、そうすると、百日の病にかかってしまうのだよ」と言って、子供達にはきものを、全部家の中へ片付けさせました。そしてどこの家でもみかえごを長い竹の先へさして玄関に立てて
置くと、目一つ小僧が来て、目がたくさんあるカゴを見て、おどろいて帰ってしまうのだと、年寄りが孫に
教えてくれました。
 *この話は、鶴巻地区にもあるようです。
思い出二題                                  平沢第一老人クラブ  富田トリ
 (一)関東大震災のこと
私は学校卒業後直ぐ秦野専売局のタバコ工場に勤めました。その時十四才でした。
 実家は、寺山で毎日、落合坂を往来するのですが、この坂には、大きな欅が何本もあり、昼でも薄
暗く、独りで通る時は、とても怖くて、歩けませんでした。
 冬は日が短いので、四時を過ぎると、暗くなって来てとても怖く、それで仲間の人と一緒に、十人位で通っていました。
 専売局では、毎朝朝礼があり、中庭に祭ってあるお宮にお詣りしていましたが、震災の時、工場の中
があまりにも激し言われ、皆で、手を合わせて拝みました。
 工場の機械は、大きく床にボールトで、強く据え付けてあり、全然動きませんでしたから、機械も人も
何の被害も怪我もなく無事でした。
 工場は、男女合わせて八百五十人位居て、他に職員も居り、全部で千人位居たと思います。
 地震が始まり無事であったことをお宮様にお詣りしてお礼を言いました。
 帰りは工長さんから「十五人位づつまとまり代表者が所と人数の報告をいて帰るように」と言われて、
その様にして帰りましたが、途中まで、父が心配して、迎えに来てくれたので、ホッと安心して帰れま
した。
 (二)道祖神のこと
 五十年も前になるだろうと思います。南町峯会館におリン様というおばあ様の信者が住んで居られ
ました。ほんとうによく、人だすけをして下さいました。
 私が地蔵様にお詣りに行き、帰ろうとした時、突然「あなたに出来るかな」といわれて、「私にできることでしたらやってみます」と申しました。「毎月月の十四日に道祖神の草取ができる」といわれ、私の顔
を見て「どうかな」と申されました、私は喜んで「草取を私にさせて下さい。必ず月の十四日にいたします。」と誓いました。
 そのときおばあ様が「ちょっと一つ気になる事がある、女の人に言うてもな、むだよな」と言われて、「でも聞かせて下さい。」とお願いしましたら、」何十年後に、道祖神に看板が立つよ。なにかわ知らん。
かわいそうだが、男子病人絶えず・」といわれた。 私は信心者のおばあ様に厚く御礼を申し上げたことを覚えている。
 この道祖神が、「畑中バス停」の処にある現在の道祖神です。以来、私は毎月十四日になると草取
を実行しています。 おばあ様は、その後、亡くなりましたが、平塚市須賀の人でした。
 
今川町馬頭観世音堂について                     今川町長寿会   山口益夫
 よく馬頭観音の石碑等は各所に見受けられますが、堂として建て残され、世話人会で毎年馬頭観音
の、供養と町内住民の無病息災を祈願する例祭を町内の大きな行事の一つとして行っている。」
このような例は数が少ないと思われますので、今川町馬頭観世音堂について述べてみたいと思います。
(一)観世音堂は中今会館の前に在ります。この中今会館附近は、かって馬場であり、草競馬も行われ、人が多く集まり、かなり賑わったと聞いております。
(二)今川町馬頭観世音堂が建てられたのは詳しい資料が無いので不明ですが、現在の中今会館の場所に在り、昭和三十九年に中今会館が建てられたため、その前に移されたのが現在の観世音堂
で、これまで、本尊として祀られていた石碑(正面に馬頭観世音、右側に大正六年一月再建、施主
山口浅次郎と刻まれた高さ45cmの文字碑)は堂の前に移され、現在は昭和四十四年十月に造られた馬頭観世音菩薩像が本尊として祀られており、供養例祭は、例年十月五日に行っております。
お稲荷様のお告げ                            今川町長寿会   加藤二三子
 関東大震災の翌年のことです。裏にまつられていたお稲荷様がつぶれて、雨ざらしになってしまいましたが、家をなおす方が先で、お稲荷様があとまわしになってしまいました。
 或る日の夜のことです。よく晴れて、月がこうこうとと出て居りました。床についた私がしばらく眠って、目をさまして南の障子の方を見ると、人間の頭のような陰が、左右にゆれておりました。あまりの
恐ろしさのあまり、皆んなを起して、外へ出てみましたが、そういう陰ののうつるようなものは、何もあ
りません。それから気味が悪くて眠れませんでした。
 その翌日、昔は、いろいろとみる人がいて、祖母が、みてもらいにいって来ましたら、その人の言われることにに「お稲荷様が、雨ざらしになっているので、なおしてくれ」とのことです。
 早速、なおしてお祈りをして貰いました。その後は、そのようなことは一度もおこりませんでした。
 このお稲荷様は、私の実家、名古木五四八、小泉和夫方にあります。
弘法の清水・鬼子母神とザクロ                    臼井戸長寿会   高橋ふみ
 (一)弘法の清水
 秦野駅から五・六分歩いたところに、弘法の清水が湧き出ています。名水百選に選ばれてから東京
や横浜方面からも、お水を汲みに来られる人が多くなりました。夏は冷たく、冬暖かいおいしい水です。この水は、大正十二年の大地震の時にも濁らず、多くの人の、喉をうるおしたそうです。
 昔は、木の臼を切り抜いて水を出していたので、この部落を、臼井戸と呼ぶようになりました。何度も
改造され、今のような、りっぱな弘法水になりました。このおいしい水を多くの方々に飲んでいただく
ために、水神講に入っている人達が、交替で掃除をして守り続けています。
 ○この弘法の清水も、現在は、工業用溶剤の汚染により、これまでのように生水のままでは、飲め
なくなってしまいました。
 (二)鬼子母神とザクロ
 昔、かわいい赤ちゃんが生まれると、すぐ鬼子母神が来て食べてしまいました。悲しんでいる母親を
哀れに思った村人が、赤ちゃんの替わりになるものはないかと思い、ザクロの味が、赤ちゃんの味に
似ているので、鬼子母神の境内にザクロの木を植えました。それから、赤ちゃんを食べられなくなって
母親は安心しました。その話を聞いてから、どこの鬼子母神の境内にも、ザクロの木を植えることに
なったと、ひいおばあさんから聞いた話です。
土橋由良記                                  三協町長寿会   加藤 公
 三協町の、「土橋通り」と呼ばれている道路は中央分離帯のある立派な道路に改修されたが、
地元の人は馴れ親しんだ「土橋」への愛着が強く、土橋由来碑を川畔に建立して土橋という名を残そうとしたものである。
 明治の初め、ここに樹齢数百年の欅の大樹が五本あり、この木の下に小さな流れがありましたが、
大水の度に流れは次第に深くなり、杣道に橋がかけられ人々はその上を渡って、何時しか「土橋」と
呼んで親しんで来ました。そしてこの附近一帯の地域を土橋と呼ぶようになりました。
 その後、度々の大水で大樹は倒れたりしましたので、大正十五年にコンクリート橋となり、
昭和六三年の道路改修に伴い現在の暗渠になったのです。
お化けの話し                                 新田町長寿会   綾部朋吉
細田の大入道おどろいて
こわいこわいと竹之内
お送りしますと送り***
頭を下げて礼を述べ
狐につままれふらふらと
さまよう所は堀之内
むじな騒ぎで目をさます
又も狐に化かされて
狐の嫁入り見たかった
「そば」の夜盗虫箕を持って
振るい落としに行ったらば
狐のみこし現れて
わっしょわっしょと大騒ぎ
昔の人の言うことにゃー
股からそれを見るならば
狐が姿をあらわすと
のぞいて見たが駄目だった
切り口みせても姿みせぬ
にっくい奴は、かまいたち
どんどん引きのカッパめ
姿を見せる人、見せぬ人、
ふえたりへったり狐の火
点けたり消したり赤坂で
光ものが中町へ中町へと
やって来るのは何だろう
上町の横穴と川                               今泉西上長寿会  佐藤カネ
 上町の竹ヤブの下に横穴があります。入口は縦一米位、巾は七十cm位で、長さは測ることの出来ない程の長さです。 昔、峯の小泉良太郎氏が水車を廻す水を引くために掘られた横穴だそうです。
入り口には水神様が祀られていて、近くの家では、赤ん坊が生まれるとこの水神様にお参りしました。
 横穴から竹の樋が引かれ、バケツに水が汲めるようになっていました。また、横穴の中に器に入れ
た食べ物も色々しまっていました。その下には三ッの隣組の共同の洗い場と洗濯場もありました。また
、下には水車も廻っていました。
 河の水はきれいで冷たく美味しい水でした。また、魚はハヤが沢山いたし、鰻も採れ、夏にはホタル
が飛び交いました。 子供たちはなつにはローソクに火をつけて、横穴の探検もよくしました。
 時代も変わり今の子供たちにそんな話しをしてもわかって呉れず水道も引かれて、その場所に行く
人も無く、昔のにぎやかな人声の川辺を懐かしく思い出すだけの今日この頃です。
上方町の天王様                              上方町長寿会    飯田常吉
 昔のことである。明星部落道路端の畑(大岳院北側)に血の雨が降ったとのことである。
 その跡を埋めて祠を建てて祀り、祠を天王様と称して、現在も残されている。(現在区画整理で移動
予定)
 天王様は、畳や・伊豆・大上・中下・大下・車・梅さんの七軒で、夏病をしないようにと、毎年八月の
一ヶ月間、当番を決めて灯明を上げていたが、今から五十年前頃(大東亜戦争前)からは途絶えている。 言い伝えによると、血の雨でなく、火の雨だという説もあるそうである。
道祖神の供物                               新田町長寿会   綾部朋吉
 一月十四日の道祖神の時に、ダンゴや里芋や色々な野菜の形をかたどった団子を作って木の枝に
刺すのは、昔大飢饉の時食べ物が無く、楢や櫟の実を食べて過ごしたことを忘れず、作物の豊作を
祈るものだそうです。
むじな騒ぎ                                 新田町長寿会     綾部朋吉
 柿の実が熟すと、むじなが木の上で「オホイー・オホイー」と啼くのを、人間をからかいに来たと、人間
は大騒ぎとなる。 昔からむじなが人に声をかけるから返事をしても後は何にも言わない。
私の見たこと                               新田長寿会   綾部朋吉
一、 細田の大入道
 四月、雨の降る夜、街灯の傘に雨があたり、しぶきになって飛び散った所に光が当たるとボーッと
後光が出来、それが大入道に見えた。慌て者は驚いて逃げ帰る。
二、中丸ドンドン引
 五月のある日、親戚の爺さんが酒に酔って、橋の上で「押すなよ、押すなよ」と言いながら河の中に
入ってしまった。私は驚いてお爺さんを引き上げた。お爺さんは「河童が相撲をとろうと言って、俺は
嫌だと言うのに、川の中に突き落とされてしまった」という。
 この話は今は亡くなられた綾部朋吉さんの話を高橋が書きました。
道祖神                                   新町長寿会    美濃川 好
 私の子供の頃は、一月十四日の道祖祭りをダンゴ焼きと呼んでいました。
 学校から帰ると、半紙を二つ折りにしたものを長くつないで「奉納道祖神」と書いて、畑の片隅にあった、道祖神の回りに立ち並べ、持ち寄った門松等に火が着けられると字がうまくなるといわれて、皆んな一生懸命でした。
 その頃は、藁葺き屋根の家が多く、飛んだ火の粉で火事になることも多く、母から出掛ける時によく
注意されました。
 近頃、道祖神の祭りもさびれて寂しい思いがしています。子供の成長を願う行事をまた盛り上げて
欲しいと願っています。
室について                                今泉西上長寿会   小磯晴治 
 私の子供の頃の秦野の農家はタバコ作りが盛んで、当時のタバコは秦野葉といって、収穫から納付
まで、総て一枚一枚の作業でした。
 専売局に納付する最後の作業の、十月下旬から十一月上旬になると、寒さも厳しくなり、室を作った
ものです。広さは三坪位で、土を一尺位掘り下げ、その上に丸太と竹で骨組みして、藁で屋根から
周囲を囲い、土間に厚く藁を敷いて、その上に筵を敷き、南側に出入り口を一ヶ所設けます。先住民
の住居のようですが内部は暖かく、タバコの異常乾燥も帽子出来る重宝なものでした。農家の知恵
だったのでしょう。この室は二月か三月ころまで使っていたように記憶しています。
つるまき坂の狐                             西上町老人クラブ    小林佑子
 つるまき坂を上り学校道に出る。向い側に狐山が見える。 坂を上ると、ひといき土手に腰を下して
、一ぷく煙草を水休んだが、つかれてとろりとすると狐に化かされて、あっちこっちとさまよって困った
そうだ。 また夜遅くなると、待っていて、「お送りしましょう。」と言ったそうだ。
 或る時、今日こそと坂を上がってくると、向こうの山で、白い狐が何か頭からかぶっているのが見えた。また人を化すのだと思い、これはよい所を見た。今夜は一つやっつけてやろうと、土手に腰を下ろして、煙草を吸い、口に含んで待っていると、案の定美しい娘に化けて、「おじさん、送りましょう。」と
言った。そこでいきなり、含んでいた煙草の煙を吹きかけた。すると娘は尻を端折り、あわてて山に
向かって逃げて行った。それからというもの、化かされなくなったそうだ。
南町の稲荷様と地鎮講                        平沢第一長寿会    栗原荘蔵
 平沢峯の栗原丑光さん所有のお稲荷さんは、風邪をひいたときにお参りして「治ったら飴玉をお供え
します」とお願いすると、風邪が治ると言われていました。私も小学校の二、三年生の頃、二回お参りし
たことがありました。明治のころは近所の人や、北町の方からも大勢お参りに来られたようです。今の
若い人は迷信と言われるかも知れませんが、今でもお飴玉を供えられるお年寄りもあります。
 南町峯の地区では今も豊作や家内安全の祈願の為、地鎮講を行っています。何時の頃始まったのか判りませんが、以前畑lヶ中組、峯組と四軒屋組の三組の地鎮講の組がありました。昔は午後四時
頃から集まって「、豊作と家内安全の祈願が終わると酒盛りとなり、今年の作柄のことや雑談で賑やかに過ごし、当番の家では夕飯の接待までされました。
 昭和十年頃峯組と四軒組が合併して十六戸で峯講中となり、三十五年頃畑ヶ中講も合併し、南町と
して祀りを行うことになり、宿も当番制でなく会館でするようになりました。会員も二十七名でしたが、
年を経るにつれて農家も少なくなり、今では峯地区だけで、春秋の彼岸に近い「つちのえ」の社日に
若い人達で実施されています。
 組は一つになりましたが、今でも三組の地鎮さんの掛軸を掛けて祀っています。
峯のお地蔵さん                             平沢第一長寿会   加藤絹子
 峯の会館の近くに江戸時代の作といわれるお地蔵様があります。蓮の花の台座の上に金色に輝いて、その額に緑色の翡翠の宝石が輝いていましたが、大正の末頃宝石は盗まれて今はありません。
 このお地蔵さまのお陰で、昔西風の強い時西の石打場の方からの大火も峯地区はまぬがれ、又
悪い疫病の流行ったときも峯地区では軽く済んだそうです。家族の病気平癒や安産の祈願に峯の人
ばかりでなく、遠い所からもお参りに見えました。今ではお年寄りが毎月二十三日か四日にお念仏を
あげ、正月と七月には地区の役員さんが灯明を上げてお祀りされます。
 このような有難いお地蔵様を峯地区の人達は大切にして、何時までもお守りして行きたいものと思っています。
お呪いの話し                              西上町長寿会   佐藤かね
 昭和三十年頃、私が嫁の頃はお産は実家に帰ってするのが普通でした。
 私の実家では三人の娘のお産の度に母は「セイの神様」(道祖神)を倒しに行きました。そしてお産が無事に済むと「セイの神さんのお陰です」と言って、ご飯とお線香を持って「セイの神様」を起こしに
行きました。母は本当にその呪いを信じていたようです。「セイの神」を倒すと、お産が軽く済むと言われていました。
要清草                                  中町長寿会     綾部村蔵
 明治初期の頃、今の大岳院のプールの辺りは、小さな田んぼが数多くありました。此処の清水の湧
きでている所に、綾部要蔵という人が、横浜で手に入れた、「異人ぜり」の苗を植えましたが、その植物の名がわからないので、要蔵とその息子の清治郎の名前の頭文字を取って「要清草」と名づけて、
回りに柵を作り[取るべからず]の立て札を建てたそうです。この異人ぜりはその後秦野一帯に広がり
ました。
樽                                     上今川町長寿会    大津本治
 樽は今では殆ど目にすることは無いが、昔は庶民の最も勝れた水を貯える容器であり、庶民の生活
の中に深く根をおろし、生活用具としてだけでは無く、時には娯楽の用具としても親しまれていた。
 樽や桶を作る人はつらい年季奉公でその技を身につけ、腕を磨いて立派な樽や桶を作った。
 昔は祝言の席は、布で作った鯛を取りつけた漆塗りの赤い樽で飾られた。酒好きの人は、樽の飲み口からコップに注がれるあのトクトクという音は忘れられないし懐かしい音だろう。
 八木節の樽をたたく音も素晴らしい。
 醤油樽には九升樽と四升五合樽とがあった。醤油樽は大八車でお得意さんに届けた。空樽を集めて
廻るのを樽集め、樽拾いとも言った。俳人一茶はそのつらい仕事振りを
    雪の日にあれも人の子樽拾い
と詠んでいる。
おしやもっつあん                           上今川町長寿会     櫛田市郎
 私の子供の頃、諏訪町の杉の開戸に大きなカヤの木がありました。その根本に小さな社があり「おし
やもっつあん」と呼んでいた。その当時一日、十五日、二十八日に赤いマンマを供えて拝みに行った
人が相当あったという。そのカヤの木は落雷で半分焼けて、社も今は無いが、「おしやもっつあん」にはその名のとおりご飯をよそる「しゃもじ」を祀ってあったようである。中にはお茶をあげた人もいたらしく「おちゃもっつあん」という人もいる。古老の話によるとおしゃもじにお経を書いて、玄関の軒下に三、
四本飾った家もあったという。食事と健康を祈ってのことだろうか。
馬場の由来                              上今川町長寿会     鈴木 清
 大正の始め頃、今川町地区の水無川沿いに、馬場が出来ました。石ころの川原でしたので、土を
盛って堤防を作り馬場を作ったそうです。今の人道橋辺りから川筋に沿って千米位、巾は百米くらいでしょうか。昔は近在の農家では、農耕馬を飼っていたので、休日や祭日には競馬を楽しんだそうです。
今でも今川町会館のそばに馬を祀った馬頭観音様が残っていて、毎年地元の有志が供養して居ります。今でもその辺りを年寄りたちは「馬場」と呼んでいます。
小田急今昔                              三協長寿会    加藤 公
 今から四十数年前の話しですが今思へば当時はのんびりしていたものだった。小田急で帰るとき
「その信号の前で停めて」などと頼んで、家の近くで電車から下りるなんて言うこともあった。
 今はそんなことは到底考えられないし、若しそんなことをしたら一騒動だろうが、当時終戦の混乱期
ということもあったと思うが、なんとものんびりした田舎の風景である。
 当時の小田急線は、二両連結で手動扉、静かな田園に特有の音を響かせてノンビリと走っていた。
現在は十両連結で分秒を争う正確さと、スピードで走り抜けて行く。世の中も同様、なんとも忙しく息
せき切って走り続けているような風潮の日常になってしまった。もう少し一息入れてゆっくりと言う訳
にはいかないものか。今の子供たちが気の毒に思えてなtらない昨今である。
ソ連抑留時の食について                     西上町長寿会   小磯晴治
 ソ連軍の捕虜となり、シベリヤに抑留されていた時、収容されて約一ヶ月は仕事も無く、従って食事
も生命を維持することも困難な程度のもので、一日二食、朝と晩に馬の飼料の「コーリャン」を粥にし
食器の空き缶三分の一程度を支給される。こんな生活が半月から一ヶ月も続くと栄養失調者が続出し
一ヶ月足らずで私の隊でも十人以上の死者が出た。戦友の話だが、仕事を与えられ夜工場に往復する道で、落ちていたジャガイモを拾ってそっと雑嚢にしのばせて持ち帰り、内緒で食べようと取り出したら、凍ったジャガイモはなんと馬糞とわかり、がっかりしたなんて言うに笑えない話しもありました。
 仕事が終わり収容所に帰っての話しといえば、食べ物の話しばかりで「真っ白い米を食べたい」とか
「お汁粉」「よもぎ団子」とか母の作ってくれた懐かしい食べ物を想い出しては語り合い、一日も早く帰国できる事を願いながら生活したものでした。現在のような飽食の時代が来るなど荘蔵も出来ませんでした。
自家製のお茶                            西上町長寿会    佐藤かね
 昔の農家の屋敷にはお茶の木の垣根あり、この葉でお茶を作って飲んだものです。私も茶作りをし
ました。五月の八十八夜の頃に、茶摘みを近所の一にも手伝って貰って一日で摘み」、次の日フルイ
通しで芥を除き、かまどに湯を沸かし、茶の葉が箸にまとわりつくようになったら手早くゴザに広げて冷やします。次に囲炉裏の上にかけたホイロに葉を入れて一日目は荒もみ、二日目は仕上げの手もみを
します。熱い仕事で大変なさぎょうでした。四、五日もかけて出来上がった新茶を、近所の皆様と味見
をしたのは楽しく懐かしい思い出です。
池久保                                 中町長寿会      綾部良三
 今泉畜産団地の東側に池久保という地名の農地がある。そこは長雨が続くと、昨日の畑は今日は
広さ三町歩にもなる湖になってさざ波をたてていた。時には鴨が何百羽も水遊びをしていたこともあった。
 昔から寅年の大溜まりと言っていたが、今は土地改良がされて水の溜まることはない。
ボランティア今昔                        中町長寿会    森 富子
 今は、「ボランティア」と言うことが良く言われますが、私の子供の頃は、隣近所の「助け合い」は日常
の当たり前のことでした。
 夕立があれば、地干にされているたばこをしまい合ったり、病人でもあれば「今日の具合はどうよ」と
縁側から声をかけたり、野良仕事の手伝いなど、そんなことが今言われている「ボランティア」ではなかったのかと思ひながら、過ぎた日々を懐かしんでいます。
狐灯                                  中町長寿会     綾部良三
 終戦間もない八月の末、今泉台の畑仕事が遅くなり、薄暗くなって帰ろうとした時、小原の一本松の
向こうの、森の下辺りにポツリポツリと灯りが見える。煙草畑の風除けを壊さずに燃しているのか、無茶なことをするものだと思ひながら見ているとどうやらそうではないらしい。灯りは北の方から南の方に
チカチカと動いて行く、そのきれいな灯影に見とれていると、その灯りが下火になると、そのげだんの
畑にも灯りが次々とついてゆく「あの長さは五六十米はあるだろうか」と家内と話していると、また、その下段の畑にうつる、三段次々と実にきれいと言うか、見事な光景に見とれていた。こんな時は狐が
居て化かしているのだと聞いていたから、周囲を見回し自分の頬をつねってみたが化かされてもいないらしい。恐らく一生に二度と見られない光景であろう。何ともきれいで見事な光景だった。
 「昔の人に話したら、お前も見たのか、と言われるだろうが子供たちに話しても笑い過ごされてしまう
だろう」家内と笑いながら野道を帰った。
神奈川県西部地震                        中町長寿会     綾部良三
 神奈川県西部は、地震の多い所である。昔から震度六以上の地震を挙げてみると次の様だ。
一. 長元五年十二月十六日。平成六年より九百六十年前。富士山の噴火に依る。
二. 寛永十一年一月二十一日。午前四時。 小田原藩領内怪我人七百人。死者七九人。農家二二〇戸。
これより七十年後。
三. 元禄十六年十一月二十三日。午後二時
 小田原藩内死者、武士一三七人。町人六五一人。旅人四四人。領地内一四七六人。計二、三〇八人。牛馬一七一頭、潰家九五四戸。天守閣崩れ、大津波あり。
これより七九年後
四, 天明二年七月一四日。夜九時(浅間山噴火天明二年)
これより七一年後
五. 安政元年(嘉永六年)二月三日。午前三時。小田原藩領内潰家二二〇戸。怪我人七〇〇人。
死者七九人。
これより七〇年後
六. 大正十二年九月一日午前十一時五十八分。
関東大震災。
関東大震災による南秦野地区被害状況。死者二四名。内小学生二名、怪我人三〇人。
家屋全壊二三〇戸、半壊四〇〇戸。
中町被害 全壊一〇戸、半壊一五戸、死者三人。
天皇陛下より震災被害地全帯に御下賜金金一千万円あり、 慎重協議の結果、
死者、行方不明者十六円、全焼十二円、全壊八円。半壊、怪我人四円とし、大正十二年十二月二十七日役場に於いて伝達、拝受するとある。
七. 昭和五十八年八月八日午後十二時五十九分。山北地方強震。震度五。山北駅付近軒並み
屋根瓦落下。 今泉では瓦の落ちた家二、三戸あり。西秦野峠地区では山崩れあり。北、西地区では
墓石倒壊あり。
 関東大震災から今年は丁度七十二年目に当たる。何時地震が起きても不思議ではない。折しも
兵庫県南部沖地震も起きて、その被害は想像を絶して甚大である。地震の恐ろしさの認識と地震への
対策は心懸けなければならない。
秦野駅誘致運動                            臼井戸長寿会    高橋ふみ
 小田急の用地買収は大正十三年頃から始まった。
 直接東京に通ずる鉄道となって秦野でも、その駅の誘致こそ地域発展は間違いなし誰しも思ふこと、
才ヶ分方面、本町四角方面。南地区と本町地区との町と村をあげての争奪戦が始まった。土地の無償
提供を申し出る者あり。値上がりを狙って黙する者あり。町村長始め町村会議員の陳情団は竹槍で
警護され激しい地域紛争であった。このような陳情合戦も小田急側の一声で現在地に決定したので
ある。
 小田急は、昭和二年四月一日に開通し、秦野も漸く変貌し始めた。現在乗り降りする人達はこのよう
な昔の知るや知らずや。
氏神様の裏通り                             西大竹長寿会    宮村一郎
 大竹の氏神様の裏通りは、昔の大竹の農家の人達が作った道で、今は東海道の二宮と秦野市を
結ぶ本通りです。
 西側は小さな森や林で、その間に女竹が生い茂り、身をすり合うように深く入り込んだ小枝で、北側は小さな原でした。
雨の降る度に坂道の中程が削り取られて凹凸になります。また、日差しが悪くて少し雨が振り続くと
坂の谷間に苔が生え、足を滑らせては転びました。しかし、この坂は秦野方面への近道なので大竹の
人は、荷物を背負って通り抜けて買い物に行きました。
 又、この谷間坂が秋になると木の葉がいっぱい積もり、その中を「コジュッケイ」という鳥が餌を食べに来て、落ち葉の中に滑るようにしてカサカサと音立てて人の前を進みます。左右の山も紅葉して秋
が来た事を感じさせられました。
 又、坂の途中まで登ると、大きな石の台座の上に据えられた天神様のいしの塔が、道行く人を
見守るように立っていて、心がいやされ、懐かしい思い出深い坂道でした。
堂の前                                  西大竹長寿会    宮村一郎
 西大竹の南の方にこんもりした、土盛りしたような小さな丘があります。ここは堂の前と呼ばれていて
、悲しい話しの伝わる丘です。
 昔戦に破れた何人かの武士がこの地まで落ちのびて来ましたが、これ以上逃げることも出来なくなって、この土地に落ちつくことに決め、頂上の小高い所を平らにして小さな社を建て、身につけていた
稲荷大明神のお札を祀って護り神とし、自分達はその回りに小さな小屋を建てて住みました。
 しかし、戦いに敗れ、慣れない暮らしに疲れ、歳とった武士たちは次々に亡くなりました。そして一人
亡くなる度に、その武士が身につけていた刀や槍、蓑笠なども一緒に埋めたということです。
 この小さな丘を見るたびに、無縁仏となってこの丘に眠っている武士たちの、無念な思ひに身の引き
締まる思ひがします。
お盆とみそ萩                             上今川町長寿会  櫛田市郎
 お盆の仏壇飾りの中に、丼に水を入れ、その中にみそ萩を浸しておいて、期間中、日に何回か、その
みそ萩で丼の水をお清めという事だろうか。
 高齢者のいられるお宅、またいられなくとも、この風習を引きついでおられるお宅もあるようで、秦野、
平塚方面で、この風習が見られる。お盆のときに庭先に辻を作るが、その辻にみそ萩がさしてあったと
いう事も聞いている。あるお宅では、みそ萩は仏さんの花だから庭に植えてはといわれたという話しも
聞いたこともある。
命拾いされたお不動さん                   今川町長寿会    大原信男
 福祉会館の前の熊沢家には不動三尊が祀られています。明治二十年頃、今の福祉会館の所は
瑠璃光山慈眼寺(新相模薬師札所十七番)の境内で、道路側の西端には道祖神(大用寺門前のものと
他に一つ)の祭場になっていました。
 暮れの大掃除が終わると、道祖神の祭場には古くなった神棚のお宮やダルマ・神社のお札や煤はらい
の竹が納められるがその中に小さいながら厨子に入った立派なお不動さんが納められていました。
熊沢さんの祖父の佐吉さん(明治6年生まれ、昭和39年没)は「これはもったいないことだ雨でも降ったら
大変だ」と不動さんを家の中の床の間にお招きして、毎朝のようにお水や御飯をあげて供養を続けてきま
した。道祖神に捨てられて一月十四日の寒のの神の火祭(トッケダンゴ)には燃やされてしまう運命に
あったお不動さんは佐吉さんのお陰で命拾いをされたわけです。佐吉さんは菓子種(最中の皮等)を製造
していられ、とても長寿な方で九十二才という御高齢で天寿を全うされました。これはお不動さんが、お礼
のために力添えをして下さったものと思われます。
                   (中曽屋長寿会 熊沢昭二さん談)
水を飲みに出掛けた薬師さん                 今川町長寿会  大原信男
 平沢小原の薬師堂には、大人がやっと持ち上げる位いの仏足石があります。高さは十に糎、上面は
四十一、五糎×五十一糎の自然石の凝灰岩で、表面に足あとのようなものがついています。この石を
仏足石と認めれば、県下で唯一の珍しいものです。小原にはこの石について次のような昔話が伝わって
います。
 「平沢小原には神川という川があります。村人たちは毎日何回となく水を汲んでは桶に入れ平秤棒で
かついで、家まで運んでは飲み水等に使っていました。特にお風呂の水は一パイにするにはそれはそれ
は大変なことでした。
 村人は一番先に汲んだ清らかな水を毎日のように薬師さんにお上げしていました。忙しい日が続く中で
村人は薬師さんに水をお上げするるのを忘れてしまいました。薬師さんはのどがかわいてしょうがない
ので、こっそりお堂を出て神川の水源に水を飲みにお出かけになりました。村人は水をお上げするのを
忘れたなど気づかずに、次の日の朝早く水を汲みに行きました。不思議なことに、水源の踏石に薬師
さんの足あとがついていました。村人は水をお上げするのを忘れたことに気付きました。村人は深く薬師
さんにお詫びをして、この日から欠かさず水をお上げしました。
                           (小原 山口 実さん談)
沙汰面                                     上今川町長寿会   櫛田市郎
 今泉神社周辺の電話線の電柱の標識板に「沙汰面no....」という文字が入っている。
 NTTに問い合わせたが特に由来は分からない。昔から伝わっている地名を借用しただけだという返事
で、修理のときに具体的地名が分かれば迅速に処理できるという。
 或る有識者に聞いた話だと、「北条氏の領有時代に、和田氏が支配していた地域に沙汰をした範囲の
地名の名残であろうかと」ということである。
地名「味噌田」について                         今泉西上町老人会   小磯晴治
 私が今泉に転居して味噌田という珍しい地名を知りました。どうしてこのような地名がついたものか土地
の古老「山口直信氏」88才に聞きました。それによると渋沢丘陵が今泉地区南部まで連なっており
湧き水が豊富に在るためこの地区では昔は水田で稲作をしていたそうですが一部の水田では底無田
と言って腰までつかる田があったようです。丸太等を沈めて作業を仕易いようにしたとか、一年中ドブドブ
しており味噌のようだったので誰いうとなく味噌田と言うようになったようです。
 この味噌田地区はどの辺かと言うと県道西大竹−堀川線の白笹稲荷入口交差点を震生湖方面に向
かって百m位行った処から西側の部落です。
 参考までにこの県道の白笹稲荷入口交差点から西に向かって両側の部落が味噌田下自治会です。
とぶ板渡し                           緑町長生        木口津富
 富士見町側と緑町側「を結ぶ通行は、以前は水無川の川床に板を渡して通行していたのです。
 その頃は水無川も、ハヤ・うなぎ・カニなどが生殖し、深見の処では水遊びをしたものです。
 また水無川は大雨が降ると鉄砲水が出て、板渡しは流され、そのつど、板とか細身の丸太を見つけて
渡し通行できるようにしたのです。板渡しができるまでは富士見橋を渡って緑町に帰ってきました。昭和
四十七年に富士見町、緑町間に人道橋が完成したことは有難いことです。
 また平成四年には水無川の河川工事が両側同時に完成し立派になり昔の面影はなくなりました。
水無川も、昨今は鉄砲水も出なくなり安心して居られるようになりました。時の流れと共に、これらの事も
遠い昔話となることでしょう。
私の思い出                              諏訪町長寿会    飯田右八
 誰でも一生のうち、数多く忘れられない思い出があると思います。そんな私の思い出を、少年時代、
青年時代、壮年時代、そして老年時代と分けて書いてみます。
 まず、少年時代、うれしかったことは、お正月、新しい下駄、タビ、シャツを着用し、お米の御飯と色々な
ご馳走に有りつけたこと。そして青年時代恐ろしかったことと言えば、昭和七年十一月十四日の夜の台風、秦野地方の屋根という屋根はほとんど飛ばされ、風速五十米くらいとか、その時の嵐は関東大震災より
恐ろしく感じました。
 その後、支那事変、大東亜戦争、やがて終戦となり食糧難の時代で物資は無く現在の若い人には想像
もつかないことでしょう。私は二十八才の時、補充兵として召集され二年間の軍隊生活、幸い内地勤務
でしたので、命があったことは誠に幸せでした。
 壮年時代は平和に恵まれサラリーマン生活、四人の子供を育成し喜びと幸せを感じます。
 老年時代は健康で生きがいのある人生を送って行きたいと念願しています。
子供の頃の遊び唄                        今泉西上町老人会  佐藤かね
 大正生まれの子供の遊び唄がいろいろありましたがその一つ縄飛び唄を御紹介します。
 一番  はじめは一宮
 二は  日光の東照宮
 三は  桜のそうごろう
 四は  信濃の善光寺
 五つ  出雲の大社
 六つ  村々の鎮守様
 七つ  成田の不動さん
 八つ  八幡の八幡さん
 九つ  こうやの弘法さん
 十で  東京神ごんしゅう
あれほど願かけたのに
なみ子の病はなほらない
 誰に教えられた事なく流行してただ唄い乍ら遊んだものです。
便利屋さん                          今泉西上町老人会    佐藤かね
 昭和の初期、秦野と二宮間に軽便鉄道をが走っていた頃に県道を毎日通る便利屋さんがいました。
黒のモモシキ、半纏、前掛、スゲ笠をかぶり荷物はリヤカーで運ぶ。リヤカーの前方に綱をつけて肩へ
かけて両手と肩の力とで引いていた。必ず後押しに娘さんをつけている。娘さんは長着で下駄履き姿、
毎日のこと親の手助けをする親孝行娘とよんでいた。一ぱいの積荷を引いて玉の汗を流していた。大変
なお仕事の便利屋さんがありました。今では見られません又考えられない事ですが私にはハッキリその
面影が想い出されます。
関東大地震の思い出                            緑町長生   堀野正吉
 大正十二年九月一日午前十一時五十八分、私は未だ七歳でした。母が、昼食だから姉を呼びに行って
きてと言われ、家より四軒先の中家と言う家に姉を呼びに行っての帰り、道路に出たとたん大地震が
起きた。小さな木につかまって揺れをこらえた。道路は地割れし、道の片側を流れる小川は水があふれ、
私は水びたしになりながらも急いで家に帰りついた。家はつぶれ母は庭で私を待っていた。父は泉秋寺
のおせがきに出かけていたが直ぐに帰って来た。飲み水は井戸であったが、井戸水に毒をいれる人が
いるということで大騒ぎとなり近所の人達と見張りをしたことを想い出す。数日後、南の方で山が池に
なったとのこと。それは震生湖のことであった。
監物家の由来                              中町長寿会    監物四郎
 弘法山に配流された、足利晴氏の館には、関白九条家の「萩の方」がお守役をしており、北条氏康は
小田原から館へ通ううちに、いつしか氏康も萩の方に惹かれて、相思相愛の中となり、永禄三年に
男子をもうけた。
 後に萩の方は病となり、氏康とその子氏興は室川の対岸の上大槻村の高台に薬師様を祀り、萩の方
の平癒を祈ったが、萩の方は翌年この地で没した。後、万治三年(一六六〇年)その薬師様を医王山
長福寺として開山させた。
 更に、氏興の長子に、「岡部志摩守監物」の拝命が下り、上大槻、下大槻、曾屋の各村を知行した。
これが大槻監物の始祖であると伝えられている。
震生湖射撃場のことなど                         中町長寿会    綾部良三    
 震生湖は関東大震災によって生じた湖であるが、その頃、豚商を営んでいた中町の小林奥二郎さんが、小原に商売に行き、豚を籠に入れ荷車で小原の村を出た時に地震に逢い、命からがら味噌田の山口
直信さん宅までたどりつき、地震で山林畑が陥没していると告げた。
 山口直信さんと栗原秀雄さんがおそるおそる裏山に登り、畑に四つん這いになって、そのすさまじい
あり様を見た。以後二、三年は底に水溜まりがあった程度で、今泉の陥没地と呼んでいた。
 震生湖の射撃場は、昭和初期栗原光孝さんが南秦野在郷軍人会長の頃、中郡の実弾射撃場を計画
され、土地所有者西町栗原秀雄、栗原一明、小泉 貢、上町の小泉 清さんの協力のもと、中郡の在郷
軍人の奉仕により、昭和三年完成し、在郷軍人や中学生等の唯一の実弾射撃場となった。しかし、日支
事変、太平洋と戦争が厳しくなるにつれて、召集される人も多くなり、又、実弾の入手も困難となり射撃場
は使用されなくなった。面影は終戦直後まで残されていたが、現在はゴルフ練習場となっており標的は
ゴルフ練習場へ下る道の近辺にあった。
秦野駅南部の変貌(尾尻上方)                     上方長寿会   高橋長生
 尾尻の上方地区は、秦野市の中でも、明治以来激しい地域の一つに入る。秦野駅南部(尾尻上方町)
は昭和二年小田急線開通、その後昭和五十六年から行われた市の区画整理により、土地の基盤整備
が行われた。駅の南口が開設され、自由通路で北口広場に連絡し、南口広場、歩道に彫刻を六基設置
し、水とみどりのある駅前街路を核に、付近一帯立派な市街と変貌した。
 小田急開通(昭和二年)以前は今泉を通り、大川橋へ、東は臼井戸、新田を通り水無川畔、二宮街道
に通じ、小道が二、三ヶ所、今の駅から東側の竹の下の桑畑、竹やぶを通り水無川の堤防に出るだけで
あった。
 開通当時は上方は十軒程度、明星地区に数軒住居があった。
 その後駅裏で便良く、住居が徐々に建てられ、百戸以上になり、区画整理によっての移転戸数は物置
、車庫等を含めて二百五十棟近くになっていた。
 昭和四十九年頃から公共による区画整理の話しが出、五十六年事業計画され、実施されることに
なった。昭和六十年三月都市計画道路(秦野駅連絡線)の小田急線下を通る尾尻地下道が完成し、
大型車両がこの地域に入るようになり、埋立造成工事が進められ、事業決定から二十年余を経て、
種々の難問を克服して、完成の運びとなり、整備された区画道路、都市計画道路で、どの住居も広い
道路に面し、すばらしい市街地に生まれ変わった。
今川町の学校みち                            今川町長寿会     尾登錠太郎
 私が南小学校に入学した昭和五年頃は、小学校の通学路は、河原淵の踏切り番のいる小田急線踏切
を渡るか、線路を横断して小田急の崖を駈け上り、オシャモッァンの榧の木の前を、畠の畦道に沿って
今泉神社の前まで出るかして、小学校へ通いました。
 それを見て、今川町の親達は、何とか学童が安全に通学出来る道が欲しいと、今川町から神社まで
道路を作ってもらいたいとの要望をしました。
 道路用地は、主として諏訪町の人々の農地で、地区からの村会議員は飯田喜十郎氏であったので、
今川町の有志二十名以上が、何とか、村として学校道の実現方をまとめてもらいたいとお願いに行きま
した。 飯田議員は役場へ提案する前に、地区の農家の了解が必要な為、何日も相談を重ね、賛否両論
中々纏めるのが大変でしたが、昭和七年に学校道工事が決定されました。その頃は道を作る人たちの
日当は、一日八十銭だったそうです。
 工事が始まると父親に、「お前達の校道だから、手伝いに行け」と言われ、二人一組になってモッコ
を引いた懐かしい思い出もあります。
 此の学校道も、その後何回かの拡幅工事で広くなり、小田急踏切も整備され、バスまで通るようになり
ました。
今川町の初代会館                          今川町長寿会    尾登錠太郎
 今川町には大正時代から、町内の集会場が無かったので、昭和三年に競馬場東側の、当時の村有
空地に「集会場兼観音堂」を建設しました。
 此の建物の間口は四・五間で約十五坪位で、建設費は三四二円四三銭也(内借入金は二四五円)
でした。 参考までに当時の組数は十一組で、年間町内掛金合計額は約四五〇円でした。
 大東亜戦争の敗戦後昭和三十九年に、馬頭観世音堂を現在の位置に建立し、古くなった手ぜまな
「集会所兼観音堂」は解体され、現在、町内の皆さんが毎日いろいろの集会に利用されている中今会館
に立替えられました。
関東大震災の思い出                    平沢第一長寿会    山口ツヤ     
 関東大震災の時私は七才で、その日は姉と二人でお人形で遊んでいましたが、突然ズドンズドンと
大きな音がして何が何だか分からないまま起き上がることも出来ず、ころころところがって、気がついたと
きには外にいました。
 姉と二人で抱き合って途方にくれているだけで、怖いと思う他は何も考えることも出来ませんでした。
その時母の「どこにいるの」と私たちを呼ぶ声が聞こえました。その時は何ともいえない嬉しさでした。
 家は傾き、庭はうねり、何本も地割れがして怖くて歩くことも出来ませんでした。
 町は火事になり空まで真っ赤になり、黒い煙と火の粉が飛んで来ました。近所の人達も「山の方に
逃げた方がいいよ」と言って逃げて行かれた人もありました。私の家では蔵の前に戸板を敷いて皆で
固まって「マンゼクロマンゼクロ」と神様に祈っていました。
 夜になると空は益々赤くなり大道、片町の方まで燃え広がりましたが、乳牛の古峯神社の所で消えま
した。 古峯神社で恐ろしい火災が止まったということで、今でも古峯神社は火除けの神様として祀られ
ています。関東大震災は一生忘れられない思い出です。
                     (当時下曾屋に居住)
お月見だんご                               中町長寿会    森 富子
 この頃はどこの家庭でもお月見だんごというと餡の入った饅頭を供える家が多いようですが、私の嫁
いだ頃(五十年位前)には、中には餡などを入れず米の粉だけの団子でした。米の粉一升で十五夜には
十五ヶ、十三夜には十三ヶの団子を作ってお月様に供えました。そして次の朝お月様に供えた団子や
里芋などで雑煮を作って家族全員で食べたことが懐かしい思い出となって残っております。
ところ変われば                         今泉西上町老人クラブ    芦川二三子
 お月見団子
 お月見に、私の在所では団子をあげていました。ところが秦野では饅頭を上げています。嫁に来て饅頭
の作り方を教わり、人並みに作ろうと思って努力しましたが、饅頭作りは難しくて、上手くならないうちに
とうとう老人会に入る齢になってしまいました。以前隣のおばあさんが話して下さった話だと、昔は秦野
でも団子だったが、粉や小豆が手に入りやすくなってから饅頭に代わってしまったとのことでした。
 豆まき
 節分の豆まきも驚きました。嫁に来て初めての豆まきの時、氏神様に行くと、辺り一面に萎なの落花生
がまかれていて、随分風習わしの違った所に来たものだと、在所が恋しくなったことを今でも覚えて
います。 こんな風習もこの地に生まれ育った子供たちには当たり前のことでしょうが、秦野とは異なった
風習しのあることも子供や孫たちには話しておきたいことだと思って居ます。 
女のお節句                            今泉西町老人クラブ    佐藤カネ
 私の子供の頃のお節句は四月の三日と四日の二日間で、お花見といって、大竹の向こう山に部落別に
場所を決め、万国旗などで飾って、母親たちの作ってくれた寿司や煮物を持ち寄って食べたり、歌を歌
ったり、お手玉やあや取りをしたりして遊びました。お花見は年に一度の女の子の一番楽しい行事でした。お手玉には色々の遊び方がありましたが、三ッ玉を使って一人遊びの歌を紹介します。
 「さいよう山は霧深し 向こうの山は桜島 みなさん花見に行かないか お弁当持って早急ぎ 弁当は
何にしましょうか 饅頭か寿司かきんつばか 私はきんつば大好きよ 私はきんつば大嫌い 高い山から
見下ろせば 桜の花がちらちらと」 という歌でした。
 昔の子供はお手玉作りを母から教わって、子供のうちょから作ることが出来ました。
足中草履                          宮町老人クラブ     草山伊勢治 
 私たちが小若衆の頃の思い出だ。春になると春雨がよく降る。そんな雨の日は、藁束を持って仲の良い
仲間二三人が集まり、足中草履を作る。
 その当時は、畑に行くには足中草履だ。夏は足が蒸れるので一番良い履物だ。足中は畑のアナ(境目)に揃えてむぐ。畑で仕事をするのには裸足ばかりだ。あの頃は道路も今と違って舗装など無く、草が
生えていて、石がごろごろして、素足では歩けない。
 春、足中を真面目に作った人は良いが、怠けた人は、夏の暑い路を裸足で歩くようになる。何事も
真面目にやらなくては駄目だ。振り返って見れば、六十年も前のことだ。懐かしい思い出だ。
私の嫁入り                           宮町老人クラブ      草山アヤ子
 私は昭和二十三年に、渋沢田代から、平沢宮町の草山家に嫁入りしました。
 結婚式の三日前に、高島田に結い上げました。そして、前日には今泉の仲人(伯母家)方に泊まり、
早朝二時に、提灯で足元をてらしながら、みよし髪結いさんに、髪をなでつけに行き、でき上がったのは
五時でした。 七時には記念写真をとりに上宿の金谷写真館に行きました。大川橋は霜で真っ白でした。
花婿は一足早く、写真屋で小さな手あぶ火鉢に手をあてて待っていました。
 伯母様の細かい心くばりで、「これからは自動車に乗ることもなかろう」と渋沢田代まで八千代タクシー
に乗って行きました。
 当時は、花嫁さんといっても、江戸褄に畳付きの駒下駄でした。男は羽織袴、中折帽かモーニング、
山高帽にステッキ。女は江戸褄でした。
 タクシーは赤坂五万騎道路、平沢二号線から仲人さんの家へそして草山家へ。草山家では松明、傘で
お迎えして下さいました。
 原の組十二家へかねおや草山ふみ様と挨拶に廻り、くぐり戸をくぐって挨拶をしました。
 青年団の弓張提灯を縁柱につけての祝言でした。
 この祝言に、草山くに、お古嫁様は、六十才で「いもちゅう」二斗五升を作って用意されました。
念仏講のオオゲ                            中町長寿会   監物四郎
 私の子供の頃(昭和の初期)、祖父が毎年三月頃になると、今日はオオゲだと言って、立派な皮の袋
(中味はご詠歌の本と鐘、漆の朱塗りの台座と鐘を打つ棒)を提げて、嬉々としてステッキを持ち、畳付き
の下駄を履いて出掛けた。余程嬉しいところへ行くのだろうと思っていた。
 念仏講とは、各部落毎に年寄りが集い、念仏を唱え乍らチャンチャンと鐘をたたき、佛を供養する人達
の講中である。その各講中(本町、南、中井の一部)が、ぐるぐる廻りの当番制で、当番講中の部落の
各所に七色の幟旗をたくさん立て、各講中の人達が三三五五に寺や役員宅へ集まり、大念仏大会が
始まるのである。
 当番の講中は、各家々から米を集めたり、寄付金を戴いたりして、村中こぞってその日のために用意
し、おいでになる皆様を接待するのである。今泉や尾尻は大きなお寺があってそこで行うが、上大槻や
大竹は集合場所がないので、講中の役員の家々で行うので、村中お祭り騒ぎで大変であった。私の家
でも近所から手伝いの婦人が大勢来て、お勝手の手伝いをしてもらい、若い日の母が、てんてこ舞して
いた姿を想い出す。
 会場では呑んで食べて、ご詠歌が上手だ下手だ、やれ声が良いの悪いのと色々言い乍ら、チャン
チャンと鐘をたたく賑々しい風景が想い出される。然しご詠歌は、歌詞が殆ど哀歌であるので馬鹿騒ぎ
にはならない。とても楽しそうであった。
 これが念仏講のオオゲ(枉駕)である。
 他の地区の人々との意志疎通の場を造り、お互いに知り合い、通じ合って、見聞を広め、ボケを防ぎ、
余生への楽しい生活の一端であり、文化交流の場であったのであろうと思う。
尾尻の水車                            上方町長寿会   高橋長生
 千村を源とし、渋沢、平沢、今泉、尾尻と流れる室川は水量も多く、尾尻地内に四軒の水車があった。
 今泉稲荷神社付近の水車屋や工場は、芹沢の豊富な湧水を利用し、尾尻の水車屋は室川に堰を
設けて、用水路を造って導水し、水車に利用し製穀(精米、精麦、製粉)を行った。
 ・石井水車は尾尻上方にあり、現在は区画整理により埋め立てられている。「いまいずみ保育園」の
北側の川端にあって、昭和三十年代半ばまで営業していた。
 なお水車に利用した水は、稲作時期は樋で室川を越して、対岸の田んぼに流した。
 ・倉田(高橋)水車は尾崎橋近くにあり、昭和十年代まで営業していた。
 ・櫛田水車は鶴巻橋近くにあり、明治年代終り頃創業され刻み煙草の製造をしていたが、煙草が専売
 制度になったので、製穀の水車になって、昭和四十年近くまで営業していた。
 ・山本、櫛田水車は、明治年代後半の創業であるが、倉田、石井水車は大正時代創業と思われる。
 当時、仕事を依頼されると「こあげ」(荷揚、穀揚)ちいい、牛馬車、荷車による運搬がなされたという。
     (高橋勝治・山本テル・高橋久夫氏談)
節目のお伊勢参り                     今川町長寿会   尾登錠太郎
 今年は、伊勢皇大神宮御鎮座二千年の記念の年になります。
 先日祖父の手文庫を整理していたら
「伊勢皇大神宮御鎮座
  千九百年奉祝祭
管線日本両鉄道乗車割引証 
 「復」    神宮教院(印)
 という証書が出て来ました。
 明治三十年三月一日より、同年五月三十一日迄の使用期限で、往復各弐割引と乗車賃金サービスの、
鉄道局承認のものでした。
 祖父は日清戦争に出征していたので、台湾攻略より凱旋した記念に、お伊勢参りしたものと思われます。孫が今回お参りに行くのも、意義ある事と思います。