失われしもの
2000・12・30〜2001・1・2 同流冬合宿 前穂高岳北尾根隊 山想酔人、小松原、三堀

記・三堀

「今回の山は荒れそうだな」
 出発前夜、ラジオから流れてきた天気予報を耳にした時思った。敗退の可能性も抱く。だができることなら登りきりたい。最初から可能性がないわけじゃないのだ。
 万全の体調ではなかった。夜行出発の当日まで体を使い続け、首、腕、足の筋肉痛、準備などでの寝不足。気力のみこの出発に合わせることはできた。
 今回の冬合宿は三隊出る。我々に加え、屏風登攀隊、徳本峠霞沢岳隊。29日深夜の新宿駅で屏風隊と合流した。混雑することのない急行アルプスで松本へ、タクシーで未明に釜トンネル入り口まで入る。歩くと案外長い上高地までの路、吐息が襟元を白くする。
 重荷と靴擦れに耐えて徳沢へと到着し、互いの健闘を祈りつつ屏風隊と別れ、新村橋から慶応尾根を目指す。登山者はぐっと減り、静謐な空気に包まれる。
 快晴。
 大西さんの命により、今回はトップを任せてもらえることになり、三人の先頭を行く。
 慶応尾根は取付から急登で雪も少なく、樹林の苦しい登高が続く。徐々に積雪も増え、やがてやせ尾根となり冬ルートらしい稜線の登りとなっていった。他隊の五人パーティーと追いつ追われつの登高の末、北尾根八峰手前の小コル付近の斜面を切って幕営する。目標としていた八峰には達し得なかったものの、順調な初日と思う。
 予報では31日は天気が崩れるらしい。どこまで行かれるだろうか。
 翌日の出と共に歩き出し、40分ほどで八峰に着く。曇。穂高山頂付近を時折雲が巻く。
 屏風隊とトランシーバーで交信が取れたが、菅原さんの不調により屏風登攀は断念するとのこと。彼等は健闘することもなく帰京である。彼等の分まで登ってやろう、などとよくわからない気合いが入る。
 北尾根は八峰から早くも急斜面の登下降やナイフリッジが始まる。だがトレースを辿ればそう困難もない。幾つも連なる小峰をひとつひとつ越えていく。途中5メートルほどの岩場もザイル無しで越え、六峰の登りにかかる。
 やがて雪。
 出だしから悪く不安定な雪にひやひやしながら左方へ二歩移る。左アイゼンの前爪二本を岩に乗せ、右足を堅雪に上げ立つ。これはもうザイルがいる。残置ハーケンのある7メートルほど上まで登り、安全確保を取ってザイルを出すことにした。大西さんにザイルを引いて登ってきてもらい、そこから引き継いでリードで登る。ちょっとした岩から雪壁となり、アイゼンの前爪を利かせて、ふくらはぎの痛みに耐えて登る。50メートルいっぱいのばして、潅木で確保に入った。小松原氏はかなり緊張を強いられているようだ。雪壁からミックスを登って六峰に立つ。視界も悪く、急斜面を五・六のコルに降りたところで決断を下すこととなった。
 このまま進んで三・四のコル、もしくは前穂ピークで泊まるか、ここで行動を打ち切るか。
自分はまだ体力的精神的に余裕はあるが、判断はリーダーの大西さんに一任する。大西さんも迷ったが、結局この場で幕営となった。
 雪つぶてがテントをサラサラと打つ。風がトレースを消す。この先の行動はすべて明朝の天候で判断することにする。

 新世紀は何の感慨もなく訪れた。天候は残念ながら好ましくはなかった。敗退、下山の気運がテント内を包む。自分にとって同流で三度目の冬合宿。毎回は計画を完遂できるわけではないだろう。この天候では今回はやむをえないかもしれない。大西さんと顔を見合わせ意志確認をする。
 日の出と共に風が強まっていた。−17〜−18℃で強風。三年前の冬合宿を思い起こさせる。顔面に凍傷を負い、自らの限界を見た西穂への稜線の過酷。だが今の自分はあの時の自分より確かに強くなっているようだ。幾日もの山と旅の経験を経て、精神は昇華したのだろうか、余裕がある。ザックを出し、テントを畳む。時を置いて烈風が我々を襲う。
 何度目かの風を背に耐えていたときだった。
 三つ並べてあったザックが風に動いた。
 そのうちのひとつが、ごろごろごろと回転しながら奥又白の谷、白濁の世界へと吸い込まれ、視界から消えた。
「あっ」
 と思ったときにはすでに何事もなかったように雪とガスの風景が我々を包んでいた。
 冬の物語はここから始まる。
 そこにザックはふたつしかなかった。悲しいことに、風にもっていかれたひとつは自分のザックだった。80リットルのガッシャーブルム。そこに共同の食糧と燃料も入っていたことに気付いた。他にも個人装備の大半は失われてしまった。
 どうしてか、妙に身軽な気分になった。自由になったような気がした。あるものは今身につけている登攀道具類のみ。状況を冷静に振り返れば、好ましい事態ではないのだが。下山して下で泊まるにしても寝袋とマットはない。防寒着もない。行動食もテルモスもない。あとの二人の持っている食糧で足りるかどうか。天蓋には免許証と財布も入っていた。現金もカードもやられた。それなのに軽くなったような気分。

 南米をパタゴニアから自転車でアンデスに沿って北上し、アタカマ高地目指してチリの沿岸砂漠を旅していた時だった。我が旅の足である自転車が盗まれてしまった。海岸でテントを張っていてふと外に出たとき、自転車がなくなっていたのだ。誰がいつやったのかもわかっていた。だけど我がチャリは戻ってこなかった。それが南米である。その時、悔しさと同時になぜか妙にほっとした気分も抱いた。自由の天地を駆けていたはずだったのに、何かから開放されたような、身軽な気分。ものを持つことで束縛されていたのかもしれない。失うことの悲劇に縛られていたのかもしれない。あの時、自らに課した苦しみからは確かに解き放たれた。だが、苦しみの末にあるはずの至福は潰えてしまった。

 下山だ。今はとにかく下山しなければ。微かに残る雪面の踏跡を辿って戻り始めた。
 六峰を登りかえし、下る。不安定な雪にザイルを出す。確保中も西からの烈風に顔面露出部は冷やされ、感覚は失われてゆく。また凍傷になってしまいそうだ。だが軽度の凍傷は行動に支障はない。あまりの冷たさに熱く感じられるほどだ。
 ビュウウウウーー
「うわ、あちちちちちち!」
 もはや感覚のなくなった頬をさすりながら懸垂の順番を待つ。天気は幸い回復に向かっており、視界がだいぶ開けてきた。それでも風は吹き続け、ナイフリッジでは繰り出すザイルが風下に流れ飛ぶ。そんな時、突然馬場さんが現れ、感慨深げに呟く。
「ううむ、冬ですな」
 目を瞑って烈風をやり過ごす。再び目を開け上を見るとゆらゆらと景色が揺れていた。めまいでふらついてきたのだ。気力で平衡を取り戻す。今日中に下山しなければならない。登り以上にザイルを使って六峰を下降し、七峰を登る。八峰ももう近い。この頃には青空も開け、槍穂高連峰が見事に広がった。
 八峰まで来ればだいぶ気も楽になる。一服して一気に慶応尾根を降りていった。
 日没前には徳沢に帰り着いたが、やけに体が冷える。テントへ入って大西さんの赤いセーターを借りて着た。それ以外、自分にはまとめるべき荷は何もなかった。
 持っている食糧を全て出しよる。幸い小松原氏に予備食を渡してあったため、一泊に足る食い物はあるようだ。それより燃料だ。大西さんがランタン用にもっていた半サイズのカートリッジひとつしかない。水は手に入らないため、これだけで雪を融かして充分なお湯を得られるだろうか。寒いが暖房に使える余裕はない。考えた末、冬期小屋の屋根から垂れ下がっているつららをぽきぽき折って、氷から水を得ることにした。雪も加えて、水になったらすぐに水筒に移し、燃料を節約して節約して使う。おかげでラーメンやおしるこなど何とか温かな食べ物にありつけた。
 寝袋がないのでふたりのシュラフカバーを借り、体には新聞紙、外にはツェルトを巻いて横になる。始めはよかったが、徐々に寒さが全身を覆ってくる。手も足も、体の末端は冷えたまま暖まらない。
 寝られない。
 起きても寒いしやることもない。だが寝ることもできない。このまま朝を待つしかない。街のぬくもりも恋しく感じられる。朝が来れば街に降りられる。食い物にもありつける。たった一日でそう思うのに、何日も閉じ込められ、いつ降りられるかわからない状況ならどんなに辛いだろう。
 2日も天候は荒れていた。視界はないが稜線上で風が唸っているのが聞こえる。北尾根の悪相も想像される。後に報道されたが、この1日に下山したか残ったかが分かれ目だったようだ。2日以降の悪天で多くのパーティーが閉じ込められたと聞いた。
 明神で徳本隊と合流した。彼等は何事もなく皆元気そうだ。ザックを失い、今回の合宿では主役になってしまった。時がたつにつれ、失ったものの多さを思うと気が重くなる。「人が飛ばされなかっただけでもよかった」のだろうか。
 やはり顔面に凍傷を負ってしまった。だが軽度であるし、残ることはないだろう。

 天候が許すなら登りきれる自信はあった。実際山中では余裕もあった。だが北尾根での自然は不敵な笑みを浮かべ、ガッシャーブルムを奪い去った。おかげで楽しい合宿になったと感謝すべきか、ザックを返しやがれと毒づくべきか。

失われたもの:財布(現金、銀行カード、免許証、部屋の鍵)、フィルム(済1、未使用1)、コンパス、ナイフ、温度計、救急セット、トランシーバー、ザイル(9o×50m)、ヘッドランプ(予備電池)、行動食三日分、共同装備(2〜3泊分食糧、ガス・カートリッジ)、プレートアブミ、ハーネス袋、アイゼン袋、冬用寝袋(高級)、シュラフカバー、テントマット、個人エアマット、フリース、毛手袋、靴下、コッヘルセット、カップ、ガスヘッド、武器、テルモス、ロールペーパー、枕、食糧(紅茶、砂糖、嗜好品、カルピス原液)、ごみ、ガッシャーブルム・ザック