穂高 屏風岩右岩壁大ジェードル・ルート


2006/08/14 遠藤、三堀(記)

 右岩壁への取り付きは、涸沢への登り、横尾本谷に架かるつり橋を渡ってつづらの急登の上からだという朧な記憶があった。だがそれは何も確かではなく、13日の入山日、取り付きに登攀装備をデポするために記憶を頼ったが、結局深い藪にはまってしまった。

 藪を、見えない右岩壁目指して上へと漕ぐと、なにやら岩壁が迫ってきた。それがどこら辺りなのかはっきりしないが、とにかくもっと左が取り付きだという感覚を頼りに、傾斜のある身の丈の草原をトラバースする。すると細い枯沢に出た。対岸の登山道から見上げたとき、道のように見えていたラインで、それを詰めれば右岩壁の取付に至るのだった。

 大ジェードル・ルートは下部に走るバンドを数百メートルも左へ横断したところが取り付きで、そのバンドに上がるために辿るルンゼ状スラブからロープを出すことになる。ここが実質のスタート地点だ。見上げる右岩壁はそれほどプレッシャーをかけてこない。今回は登れる可能性を充分感じ取った。


屏風岩右岩壁大ジェードルルートを見上げる

 突然、左から人が現れた。三人パーティー。

「右岩壁で人に会うなんて。嬉しいなあ」

 そう言ってトップを切ってやってきたのは五〇がらみ。場慣れした振る舞いに貫禄がにじみ出る。がっしりとした体躯。

 こちらもこんなところで人に会うとは思わなかった。聞くと関西パーティー。大ジェードルの左を登るという。そんなところにルートはあったっけ?

「大ジェードルルート、登ったことありますか」

 関西パーティーに訊くと、一番若い男がリーダーに聞いた。

「松本さん、登ったことありますよね」

 マツモト、さん・・・。

「ああ、何度か登っとるよ」

 しかもビレー点は新しく打ち足しているという。ルートの状況など少しばかり情報を仕入れる。最近では1998年の夏に登ったらしい。

「『マイ・フェイバリット・ルート』読んでないな」

 山岳月刊誌「岳人」連載の記事だ。リーダーの男はそこに寄稿していた。松本憲親氏。彼のフェイバリット・ルートがこの右岩壁大ジェードルルートだったのだ。それを見た遠藤が、今回の登攀希望ルートに挙げたのだ。

 彼らはこれからフィックスに登るという。我々は取付左の洞穴に装備をデポして下った。白い枯沢をそのまま下り、最後藪を突っ切ると、本谷橋の100mほど下流に出た。ケルンを積む。これでアプローチもOKだ。登山道へ戻って大ザックをピックアップし、今回のベース涸沢へと歩いた。

 翌、3:52涸沢を発つ。本谷橋へと下り、休まず下流から藪へ入る。5:20頃前日デポした地点へ至る。松本氏パーティーの荷が残されたまま、彼らは来ていない。ハーネスを着け取り付く。


ルンゼ状スラブルートから取り付く

 遠藤氏リードでアプローチをスタート。1ピッチ登って左へひたすらトラバースする。滑りやすい草地を、草をわし掴んで進む。一時間余りで2ルンゼの中となる大ジェードルルート取付に立てた。これから登るルートより2ルンゼの深く暗い峡谷の迫力に気圧される。

右岩壁は今も崩壊真っ盛りといった風で、角の尖った岩や割れたての石片がそこらに散乱している。長居したくはない。さっそく登攀にかかる。

 頭上高くには岩が剥がれたあとに出現するような、白い傾斜のある壁となっている。ルートはここを右に出て、ジェードル右のフェースに入っていくようだが、残置支点やビレー点は見当たらない。とりあえず登ってみる。

 1P目はW+となっているが、砂や石片がのっていてさっそく悪い。あまり見かけない型のボルト支点が忘れたころに2箇所ほど出てきたきり残置はなく、他にキャメロット#0.5を使っただけだが、難しい。最後はランナウトして右にトラバースし、潅木でピッチを切る。フォロー遠藤を迎えたが、彼も、

「難しい」

 と言った。

 2P目、遠藤リード。一旦右のフェースに出るが、手がかりが乏しく、中間支点もとれそうにないフェースを登ることもできず、左の草付きをからめて登るが、岩は脆く厳しいクライミングになる。3P目からしっかり右のフェースに出て右上。確実に残置のある比較的安定した場所でピッチを切る。ルート図2Pを3Pに分けて登る結果となった。


3P目、もろい岩をほとんどプロテクションを取らずに行く。後方はユマーリングする松本氏(別ラインを開拓中?)

 見上げる4P目は、まだマシなフェースから潅木地帯へ伸び、ルート図のX+とは出だしのフェースに付されたグレードだと思った。遠藤リードで行くが、フェースを、少なく不安定なプロテクションで抜け、草付き帯に入り体が見えにくくなった。上部は容易に見えたがロープがほとんど伸びない。何をそんなに苦労しているのかビレーしているだけでは分からなかった。この1ピッチだけで一時間余りをかけ、ようやくビレー解除コールが下りてくる。

フォローで堅くなった体をほぐしながらフェースを登る。確かにバランスィーで手ごたえはある。



バランスィーなフェース。この上がルートの大核心

実は核心は草付き潅木帯だった。フェースを抜けた後、濡れてぬめった壁になった。フリクションなど望むべくも無く、左右の草付き潅木に頼ろうにも根元の岩がぼろぼろでつかめない。左上の太目の潅木にプロテクションがとられているため、右から登りたいが回収に一旦左に移った。すると右に戻れなくなってしまった。潅木にぶら下がる感じで休むこともできず、根元の岩は脆い。つるつる滑る足下。右に戻らないと上部へ抜けられそうもなく、テンション覚悟でクライムダウンして右に移ろうとした。手をかけた岩が「ガリ」と動いて、フェースを滑り落ちていく。なす術なし。ひとかかえもある岩がガラガラと反響音をたてて粉砕しながら落ちていった。下には誰もいない。もう知るか!右に移り、脆い岩と滑る足にプレッシャーをかけられながら草付き潅木を掴んで登った。

 よくぞリードしたものだ。

「ここでラクを落としたら三堀さんを殺してしまう」

 と思って落とさないよう登ったという。しかしその上はプロテクション用スリングの手持ちがなくなり、カムについていたスリングやらカラビナを無理やり潅木にひっかけて支点としていた。ありありと苦闘が伺える。

 このピッチがルート中の大核心だったが、全体を通しての脆さは変わらず、W級というグレードには表れない難しさと少ない支点に、気を抜ける場面がない。そんな中にあってせめて快適と言えたのが次の5P目だった。ルート図では「凹角X級」となっているパートだ。レイバック・チックに登ったり、細かいフェースのトラバースがあったりで、フリーの楽しさが少しばかり味わえる。残置はあるが折れ曲がって使い物にならず、浮石かあやしいクラックにキャメロット#3を「あまあま」にきめ、その上にストッパーを一発ねじ込んだだけだった。

 続くピッチは「脆い凹角U級」となっているが、U級とは何のことなのか、エイドにならんばかりに連打されたピンが見える。ルート図中のどこにあたるのか分からなくなってきた。ここをA0で登り、次がルートの核心と踏んでいたA1、振り子トラバースのあるピッチと思われた。一応アブミを準備して登りだす。一段右のフェースに出ると少し上に残置カラビナのついた支点があった。振り子になるのはピッチの最後だと思っていたが、この上を直上できるようには見えず、こいつが振り子なのかと迷う。ダイナミックな振りをイメージしていたが、ここはちょぼちょぼとせいぜい1メートルの段差を右に移るだけだ。ほとんど単なるフリーのトラバースで、振り子になっていない。右上のフェースにリングボルトが見え、ルートはこのラインで間違いはなさそうだ。相変わらず脆いフェースを上へ、そしてリングボルトから右へ、浮石と細かいスタンスのトラバースをこなす。デリケートなムーブらしい動きが要求される。登れそうなラインを見極めて潅木にからみながら右上へ登ると、もうひとつリングボルトを発見した。先人のルートどりと重なる。悪くない気分だ。上部の潅木でピッチを切ろうと登ったが、安定したビレー点にはなり得ず、さらに伸ばす。ずりずりと45mほども引っ張り、潅木の束二箇所でビレー点とした。白樺テラスが近い。アブミは使わなかった。A1となっているが、エイドをする場所もない。

 続いて遠藤氏が急傾斜の草付きにロープを伸ばす。確実な支点は取れず、岩場のパートも脆く、決して易しくはない。ムーブはW級程度なのだろうが、W級の力量ではこなせない難しさがある。白樺テラス直下まで達し、ピッチを切る。

最後は草を鷲掴みながらテラスに這い上がった。

 ようやく一息つける場所で、水を飲む。

 終了点は近い。10P目は右に5mほどトラバースし、立った草付きと脆い岩を上へ。遠藤リードでロープを更に伸ばす。ルート中初めてといえる、堅い岩が、このピッチの後半、二箇所ほど出てきた。唯一これがまともに登れる岩場かもしれない。

 11P目は潅木帯を真っ直ぐ上部へ、カモシカ尾根へと続く樹林帯の終了点へ達した。午後2:20。悪いピッチが続いたにしては悪くはない登攀時間だろう。

 涸沢ベースのため、屏風の頭経由と決めていた。実際のところ、下山にカモシカ尾根は夏に使えそうもなく、松本氏が勧めてくれた3ルンゼも初見で安全に降りられる自信がなかっただけだ。それなら落ちる危険のない藪を漕いで頭を経由した方がプレッシャーがなかったのだ。

 終了点から獣道程度の踏跡を左へ進み、2ルンゼへ近付く。急になってきた辺りで上の尾根目指して濃い藪を漕いだ。尾根上には藪の底に踏跡らしきものが見られるが、このところほとんど人が入った形跡はなく、強力な藪が繁茂し行く手を阻む。終了点から屏風の頭までは標高差で300m弱のようだが、登高スピードは最低レベル。パワーはどんどん藪に吸い取られる。場所によっては足がつかない猛烈級の藪。尾根が、細く急になり、岩場が出てくる頃にようやく上が見えてくる。屏風の頭へと続く稜線へ抜け出たのは、終了点から二時間近くたった頃。ここでやっと「終わった」という実感を得る。声にならない叫びを発す。

 屏風の頭に立つ。また、来た。

「湯山さん、馬場さん、来ましたよ」

 手を合わせて目を瞑った。二人の魂が心に触れてきた思いがし、感情がこみ上げてきた。そんな感情はもういらない。目を開き、涸沢へと下りだした。