Hindemith:画家マティス
Grünewald:イーゼンハイム祭壇画

 Hindemithの交響曲「画家マティス」は、マティス(マティアス)・グリューネヴァルト Grünewald の「イーゼンハイム祭壇画」 Isenheim Alter にインスパイアされて作曲されたことが知られています。グリューネヴァルトの本名は、マティス・ゴートハルト・ナイトハルト(又はニトハルト)。同時代のデューラー、クラーナハ(父)とともにドイツ・ルネサンスの重要な画家とされていますが、再評価されたのは。今世紀に入ってからのことです。
 グリューネヴァルトの生きた時代は、もっと分かりやすく言うと、ネーデルランドの特異な画家として知られるボスの少し後くらい、ブリューゲルの少し前くらい、と言ったところでしょうか。歴史的には、ルターの宗教改革(1917)前後。音楽では、ジョスカン・デ・プレやジャヌカンあたりの時代になるでしょうか。
 グリューネヴァルトの生年は諸説あるようで、1470年から1475年の間あたりとされているようです。これは、この画家の作品が極めて少なく、その経歴も残された作品から類推するしかないからです。没年は1528年です。

 この絵は現在、フランス、アルザス地方のコルマールという町にあるウンターリンデン美術館に所蔵されています。そこでは当然、祭壇画の形ではなく、3面の形で展示されているようです。この祭壇画は、もともとのイーゼンハイム村(当時アルザス地方は神聖ローマ帝国領)の聖アントニウス会修道院付属聖堂に置かれていた時の形は、祭壇の本尊である聖アントニウスの彫像を中に納めた祭壇の扉になっていました。この扉が閉じられている状態が、A図(平日面)、観音開きのように開いたものがB図(日曜面)、この面をもう一度開くと厨子が拝めるという具合で、開かれた扉の裏面がCの絵ということになります。この辺は、通常画集で見ても分かりにくいことがあります。ほとんどの画集ではいくつかの部分しか載っていないことが多く、全体像がつかみにくいのです。この構造は、例えるなら、仏壇の扉が二重になっていてそれぞれの扉の表裏に描かれた絵と言った方が分かりやすいかもしれません。
 Aの平日面とは、通常扉が閉められている状態の面ということで、つまり平日はこの面しか見られないということです。Bの日曜面とは言葉通り日曜日や祝日に扉が1枚開かれて現れる面のことで週に1度だけ見られる面です。C図の2枚の絵とご本尊(D図)は修道院守護聖人の祝日のみ見られるというものです。
 本尊の3体の彫像は、グリューネヴァルトの手によるものではなく、同時代のニコラス・フォン・ハーゲナウの作で、この祭壇画は、既に完成していたこれらの彫像を包むような形で作成されたものです。描かれたのは1512年〜15年頃。この時代のアルプス北方の地域では、こうした木彫祭壇が非常に盛んになった時代で、各地に巨大な祭壇が作られました。イーゼンハイムの祭壇画には残っていませんが、上部にはゴシック建築の尖塔を思わせる装飾が施され、通常10メートルを超えるほどの大きさでした。まさに教会の荘厳さを示すもので、宗教芸術の典型でもあったわけです。
 しかし、こうした大規模な祭壇は、16世紀前半で姿を消しました。第一の原因は、宗教改革の偶像崇拝批判にありました。これにより、場所によってはかなり破壊されたようで、工房を中心とした(ある意味では工場的な)芸術は、次第に個人へシフトしていくことになります。

 ところで、この祭壇画が設置されていた聖アントニウス会修道院というのは、聖アントニウスを本尊とするのですが、この聖人は当時「アントニウスの火」と呼ばれた流行性の疫病に対抗する聖人でもありました。ヨーロッパ中世はペストをはじめとした様々な疫病が流行っていたいましたが、これを治療する医学など発達していませんでしたから、まずは神頼みです。(左翼の聖セバスティアヌスはペストの守護聖人。)第3面(C図)右翼の左下部分、頭を怪物に引っ張られている聖アントニウスの左下に、腹の膨れた蛙のような怪物?が見えますが、これが「アントニウスの火」に冒された症状ではないかといわれています。

 この辺は、最近小学館から出版された「西洋美術館」のグリューネヴァルトの項に全てが載っているので分かりやすいと思います。以下の図版もここから採らせていただきました。ただ、図版のサイズが小さいので細部が見えにくいのは欠点ですが、全体像が把握できるのはありがたいものです。大きな図版は美術館や図書館で画家別の全集ではなく、年代別の全集が良いと思います。(実は、一般の画集ではサイズが大きすぎて私の持っているスキャナでは取り込めない、という事情が第一なのですが。)

A 第1面 左翼「聖セバスティアヌス」 hl. Sbastian、中央「キリスト磔刑」 Kreuzigung Christi 、左翼「聖アントニウス」 hl. Antonius
プレデッラ 「キリストの死への哀悼」 Beweinung Christi 

B 第2面 左翼「受胎告知」 Verkundigung、中央「キリスト降誕」 Geburt Christi、右翼「キリストの復活」 Auferstehung Christi

   

左図 C 第3面 左翼「聖アントニウスの聖パウルスの訪問」 Besuch des hl. Antonius beim hl. Paulus、
右翼「聖アントニウスの誘惑」 Versuchung des hl. Antonius
(下の厨子を囲む形でその両翼にあたる)

右図 D 厨子 中央:聖アントニウス、左:聖アウグスティヌス、右:聖ヒエロニムス ニコラス・フォン・ハーゲナウ作
下段:中央にキリスト、両脇に十二使徒の彫像

 第1面(A図)は左翼に「聖セバスティアヌス」、右翼に「聖アントニウス」が描かれ、中央には、劇的な「キリスト磔刑」が描かれています。このキリスト磔刑は、宗教的な象徴として沢山の絵の題材として描かれてきたものですが、ここにみられる劇的表現はそれまでの絵には見られないものです。下部の横長部分は、プレデッラと呼ばれ、十字架から降ろされたキリストが描かれています。
 第2面(B図)は、一転して輝かしい画面となります。左から「受胎告知」、天使達に祝福される「キリスト降誕」、力強く輝かしい「キリスト復活」。
 第3面(C図)は、左に「聖アントニウスの聖パウルスの訪問」、右がボスの作品を思わせる怪物が登場する「聖アントニウスの誘惑」です。

 ここで、Hindemithの交響曲「画家マチス」について見てみます。この曲は、1934年にフルトヴェングラーの指揮でベルリンで初演され成功をおさめました。曲は次の3つの楽章から構成されています。
第1楽章 Engelkonzert 「天使の合奏」
第2楽章 Grablegung 「埋葬」
第3楽章 Versuchung des heinligen Antonius 「聖アントニウスの誘惑」

 このうち、第1楽章の「天使の合奏」は第2面の中央、「キリスト降誕」左部分を指しています(右E図)。前面で天使がヴィオラ・ダ・ガンバでしょうか、音楽を奏でていますし、後方ではヴィオラ・ダモーレのような楽器も見えます。私には天使の表情が少し不気味に見えるのですが、何か意味するものでもあるのでしょうか。
 第3楽章は第3面右翼の同名の絵を指しています。まさに魑魅魍魎の世界で、誘惑、と言うより地獄絵のような印象です。ボスの怪物はほとんど何らかの寓意をもった時にコミカルな形状ですが、ここでの怪物は、宗教的信念をくじこうとする、見る者にとっては本当に現実味のある恐怖を感じさせたことでしょう。
 ここで第2楽章の「埋葬」と題されている曲ですが、これは第1面のキリスト磔刑ではなく、祭壇下部のプラデッラに描かれている「キリストの死への哀悼」(下F図)と題された絵の方がしっくりきます。ただ、グリューネヴァルトの数少ない作品(今日知られている絵としては28点、祭壇画は複数の絵で構成されていますから、これを1点と数えると全部で11点しかないそうです。)の中には他に「キリストの埋葬」Grablegung Christi と題された絵があります。(G)これも「キリストの死への哀悼」と同じく、恐らく祭壇画のプラデッラと思われる絵で、横たわるキリストの左右が逆であるものの構図的には似た形のものです。(1523-25年、ドイツ、アシャッフェンブルク Aschaffenburg 参事会聖堂)モノクロームの図版しか見つけられなかったので申し訳ないのですが、若干写実的な、そして穏やかな表現に見えます。Hindemithが現実にどちらの絵を想定していたのかは分かりませんが、基本的にはどちらでも構わなかったでしょう。


上図 E 「キリストの降誕」の左部分「天使の合奏」

F プレデッラ部分拡大 「キリストの死への哀悼」 Beweinung Christi

G 「キリストの埋葬」 Grablegung Christi 1523-25

 
 もともとこの交響曲は同名のオペラから組み直されたもので、オペラの方は、描かれた絵画ではなく、グリューネヴァルト本人の生き方に依っています。

 グリューネヴァルトはイーゼンハイムの祭壇画を描いた以前からマインツの大司教の宮廷画家でした。1525年、農民戦争と宗教改革運動が激しくなり、翌年マインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは廷臣達のうち、農民活動に加担した者、ルターに同調した者を裁判にかけ、追放します。丁度この年、グリューネヴァルトもマインツを離れ、自由都市フランクフルトへ移っていることから、どうも同様の嫌疑によるものだったようです。事実、画家の所持品目録の中に、新約聖書、ルターの説教集などとともに一通の「証文」がありました。これは、「社会的・宗教的反乱への実際的或いは精神的参加の嫌疑にも関わらず、それゆえをもって復讐されることのないのを保証する」といったようなものでした。
 こののち、グリューネヴァルトは一切の画家としての活動をやめてしまいます。宮廷から離れ、一般市民と同じく、主として石鹸の製造や顔料の製造販売、或いは技師などをしていたそうです。

 こうした画家の生涯を題材として、Hindemithのオペラでは、「社会と芸術家の関わりが描かれています。それは一芸術家は農民運動が象徴するような社会的正義に加わるよりも、自らの創作によって社会との幸せな関係を得ることが出来る」(ゲブラウフスムジークの思想 高原真由美 WAVE34)という思想を表したものだそうです。(私自身聴いたことがないので、内容についてはあまり言えないのですが、概ね史実に沿ったもののようです。ただし、オペラのほうにある男女関係のストーリーは創作のように思えますが。)
 ただし、上述したHindemithの思想中「社会的正義に加わるよりも」という件は、この画家の生き方とは少々違う表現にも思えます。つまり、この画家は、「復讐されない証文」をもらったにもかかわらず、(表現が悪いかも知れませんが)逃げたわけではないようです。思想的なものを捨てない代わりに、公的職を捨てた、或いは、弾圧する側の一員であることに耐えられなかったといっても良いかも知れません。この辺の状況はHindemithの状況とよく似ていて、この画家に自らを投影して見ていたのも頷けるところです。

 ところで、前途有望な作曲家であったHindemithが、こういった芸術の独立性を標榜せざるを得ない状況というのは、フルトヴェングラーも含めて、当時の社会情勢、政治情勢の中では大変なことだったと思います。つまり、結果的には、非アーリア系という被害者が予め決められていて、意図するか否かは別として加害者側に立たねばならない、という状況は想像を絶するものがあるからです。
 この曲を初演した後1937年にHindemithも亡命を余儀なくされました。


参考文献 世界美術大全集 第14巻「北方ルネサンス」 小学館
       西洋美術館 小学館