Schönberg:浄夜op.4

O.クレンペラー/ACO.  
55.7.7L Concertgebouw, Amsterdam Mono
Archiphon
ARC-101
Memories
HR 4248/49


 所謂「表現主義」という言葉は、狭義にはちょうどこの曲が書かれた頃以降の芸術に使われるようで、音楽では20世紀前半の新ウィーン楽派あたりを中心としたを指すそうです。言葉の対比で言うと「印象主義」Impressionismに対し、「表現主義」Expressionism。「新音楽事典」によると次のようにあります。

 20世紀初頭、印象主義に対する反動として絵画を中心に起こった芸術運動の概念を音楽にも転用したもの。内部から外へと独自の感情世界を主観的に表出することを主眼とした。おもにゲルマン系の運動であり、第一次世界大戦の暗い予感や、深層心理学的な自我の崩壊意識を反映した題材の特異性や、既成の美学の破壊につながる革命的な技法の追求を特色とする。そこでは伝統的な調性音楽の秩序は破棄され、先鋭な音程進行、極端な高音域や低音域の使用、自由な拍節やリズム、極端な弱奏と強奏の交替、4度構成和音を含む不協和音の頻出、シュプレッヒシュティンメや音色旋律の試みなどが見られ、音楽は心理記録的な機能を担う。同時に本質的なものへの集中としての素材の緊密化は構成的なものへの欲求に支えられ、これは<ウィーン無調楽派>においては十二音技法への道を開いた。代表作としてはシェーンベルクの「清められた夜」、「期待」、「月に憑かれたピエロ」、ベルクの「ヴォツェック」、「ルル」、あるいはスクリャビン、ストラヴィンスキー、ヴェーベルン、バルトークの一部の作品などが挙げられる。

ゲルストル シェーンベルクの家族
Richard Gerstl: Die Familie Schönberg 1908
 私もクレンペラーの演奏には「表現主義的」という言葉をよく使います。個人的には戦前と戦後のEMI録音以前の演奏にはこの言葉が最もよく似合うような気がするからです。でも上の記述を見ると音楽用語で言う「表現主義」という言葉は「絵画を中心に起こった芸術運動の概念を音楽にも転用したもの」だったんですね。確かに絵画の方からの流れで言えばSchönbergが1910年代頻繁に交流があったカンディンスキーはマルクとともに「青騎士」の指導者であったわけですし、旧来のアカデミックな世界から飛び出そうとした新しい流れの精神的指導者でもありました。またアメリカ時代も交流のあったココシュカの絵画は最も表現主義という言葉が似合う画家でしょう。
 また、Schönberg夫人との不幸な事件で世に知られる前に自殺したゲルストルも、あまりに若く亡くなったためその才能を十分開花させたとは言い難いのですが、この範疇に入る画家でしょう。Schönbergの家族を描いた絵は、激しい筆致の中にも幸福な色彩が溢れ、Schönbergにとっても幸福な時代であったことを窺わせます。Schönbergの絵はかなりの数残っていて、そのいくつかはシュルレアリストの深層心理の表出を感じさせる不思議な絵ですが(こうした関心は「浄夜」の心理的変容を思わせる)、色彩とスタイルは実質の師でもあったゲルストルのスタイルを残しているように思われます。生前には作品が展覧会に出されることもなかったこの画家に対し、Schönbergはそのスタイルを意識的に持ち続けたのではないでしょうか。
 実は私はこの曲を聴くと、このゲルストルの事件を思い出してしまうのです。勿論この曲が書かれたのはかなり前で直接の接点は何もないのですが、デーメルの詩の内容(この詩を読んだことはないけれど)がどうも結びついてしまって困ります。

 Schönbergは自身、絵から学んだのは芸術のエモーショナルな要素であったと言っています。Schönbergの画家としての素質がどれほどだったのかはわかりませんが(技術的にはさほどのものではないような気がしますけど)、音楽よりは遙かに自由で幻想的であったように思います。カンディンスキーやココシュカから受けた影響は、表現主義という理論的(音楽理論ではないと言う意味ではむしろ観念的な)部分と感覚的な部分の両者だったのでしょう。

 さて、更に絵画の世界で「表現主義」を調べてみると次のようにあります。

 20世紀の美術は、おおむねルネサンス以降のヨーロッパ美術が基本課題としてきた自然の再現ということに背を向けてきたが、そのなかで、表現主義は感動・感情の直接的表現こそ芸術の真の目標であると主張した。すなわち、線や形や色はすべてそうした表現を可能にするためのみ用いられるべきだとされ、均衡のとれた構成とか伝統的な美の概念などは、感動をより協力に伝えるために犠牲にされた。「歪形」こそ重要な表現手段となったのである。
 表現主義という言葉は1911年、ドイツの批評界でフランスのフォーヴ、初期キュビスト、その他印象派や自然模倣に反対する画家達を指す用語として初めて用いられた。同じ言葉でグリューネヴァルトやエル・グレコのような画家が論じられることもあるが、20世紀初頭の特異な運動としての表現主義は、その起源を1880年代のゴッホらの作品にもち、1905年にフランスとドイツで初めて明確な姿を現し、ドイツでうってつけの土壌を見出して全面展開したのち、1933年のナチス登場で圧殺された歴史的事象とみることができよう。
 (「オックスフォード西洋美術事典」講談社)

 この後、表現主義の直接的な先達として、ゴッホ、ゴーガン、ムンク、アンソール、ホードラーの名が挙げられ、マティスを中心としたフランスのフォーヴ、ドレスデンで結成された急進的グループ「ブリッケ(橋)」、少し後の、マルク、カンディンスキーらを中心とした「ブラウエ・ライター(青騎士)」とつながり、第1次大戦後の新即物主義にもつながっています。
 「新即物主義」 Neue Sachlichkeit についても同じく調べると、

 1920年代の初めにドイツ絵画で展開された風刺的な社会派リアリズムの運動のこと。表現主義の象徴である社会批判という側面を継続しつつ、「ブリッケ(橋)」グループの抽象傾向を拒絶した。マンハイムの美術館長G.F.ハルトラウプが1923年にこの言葉を初めて用い、それに関連して1925年、「肯定的・実体的な現実への忠実さを保ち、回復した芸術家たち」の展覧会が開かれた。初期の運動は、ダダの冷笑的な破壊性や伝統的への侮蔑から、またさまざまな視点の同時的結合といった未来派的方法論から何らかの影響を受けた。・・・1930年代ナチスの台頭を前にして運動は消滅した。

 つまり「表現主義」も「新即物主義」もまとまった形では30年代のナチス台頭により消滅したこととなります。状況は音楽の世界でも同じでした。Schönbergの作曲家として束の間の幸福な時代も終わりを告げ、クレンペラーのクロルオペラ時代もまたこの時代に幕を閉じました。この最も過激で豊穣で猥雑な時代は、行くべき方向を模索している間に、道を失ってしまいました。

クレンペラーと同様、Schönbergはユダヤ人としてドイツを追い出された後、戦中からはアメリカ西部で暮らしていました。UCLA等で作曲を教えていたものの生活は決して楽ではなかったようですし、その作品もクレンペラーやコリッシュSQ等のいわば身内の演奏家に取り上げられていただけで、音楽家として正統に認められたとは言えませんでした。この時期、同じロサンゼルスのオーケストラを振っていたクレンペラーはSchönbergから作曲を教えてもらっていました。

 最初ハンス・プフィッツナーの弟子だった私は、1935年から37年まで、ロサンジェルスにいたアルノルト・シェーンベルクのもとで勉強する機会を持った。私が自分の作曲したものを見せると、彼はそれを批評してくれた。また、バッハのモテットのような巨匠の作品を分析したが、これは大変勉強になった。不思議なことに、私たちが長い間話しても、シェーンベルクは十二音音楽についてひとことも話さなかった。しかしそれでも私は、彼を存命する中では最も偉大な作曲教師であると思ったものである。 (「指揮者の本懐」1949年)

 数曲しか聴くことの出来ないクレンペラーの作品の中にどれほど反映しているのかはわかりませんが、この時の曲のアナリーゼについては大変有意義なことであったようです。面白いのは、作曲家の立場で過去の作品の分析をしているSchönbergとともに勉強していることで、これはクレンペラーが散々述べている「作曲家である指揮者」の重要性に関連しているのではないか、ということ。勿論、クレンペラーには本来作曲家であるという自意識があったのでしょうけれど、ここでの勉強が彼の自信を深めたのではないでしょうか。

 私がこの曲で印象深いのは、カラヤンが新ウィーン楽派の音楽としてBergやWebernと録音した70年代の録音でした。その繊細で透徹した演奏は、難解と考えていた音楽から徹底して研ぎ澄まされた美しい響きを引き出したものでした。カラヤンが到達した耽美的と言って良いような美しさは、同じ70年代の録音、特にDebussyの「ペレアスとメリザンド」やR.Straussの「サロメ」といったオペラで最高潮に達しています。こうした響きの美しさは、オーケストラの機能性のもとにカラヤンの美学が反映された結果であって、「浄夜」のような曲にあってはもう文句の言いようがないくらい独特の美の世界を作り上げていました。
 丁度同じ時期に録音されたブーレーズの演奏は、今聞くとそれ程細密な印象は受けませんけれど、戦後まで続いたレアリスティックでありながら表現主義傾向の強い演奏から現在の主流である音を具現化を第一とした客観的演奏への完全な転換であったと言えるでしょう。それはシステマティックな12音音楽の解釈から遡及的に組み立てられた演奏であったとも言えます。

 クレンペラーがこの曲を初めて指揮したのは1921年、ベルリンで初めて指揮した演奏会においてでした。同時に「ペレアスとメリザンド」も演奏しています。その後もクロル・オペラ時代や、アメリカ時代にかなりSchönbergの曲を振っており、クレンペラー関係の著作にもSchönbergについての事柄が数多く出てきますが、不思議なことにクレンペラーにはSchönbergの正規録音がありません。僅かに戦前の編曲物の録音があるだけです。Stravinskyも同様にかなり名前が出てきますが、こちらの方はEMI時代にいくつか録音があります。個人的な関わりでいけば遙かにSchonbergの方が大きかった筈なのですけれど、録音できなかったのは作品の知名度と親しみやすさの差だったのでしょうね。
 そういう意味でもこのアムステルダムでのライヴは、クレンペラーの貴重な録音です。

 恐ろしく悲痛な響き、カラヤンの繊細な弱音とは別世界、渾然とした響きに、作曲家と同時代の溢れるばかりの共感、過剰とも思える思い入れが作品と演奏の同質性を思わせます。こもった音質にも影響されていますが、ここに聞かれる凄まじい音響は何でしょうか。カラヤンの徹底した美意識やブーレーズの精緻な響きとは全く違った世界です。
 特に前半の部分では感情的な思い入れが支配的で、曲のどろどろした流れが全面に出ています。後半は柔らかな落ち着きを見せるけれど、それも突き放した静謐さではなく、あたかも語りかけ包み込むような温度を持っています。とにかくこれ程のロマン的と言っていいのか、世紀末的と言っていいのか、感情を強く表出している演奏はクレンペラーには珍しいですね。クレンペラーが戦前現代音楽を数多く演奏していたことは周知のことですが、その頃は恐らくもう少し客観的な演奏ではなかったかと思います。戦後のこの時期になればこそ、同時代の音楽に対しての一層の思い入れはあったでしょう。StravinskyやShostakovichの演奏と違うのは、クレンペラーの意識が表現主義的な傾向の曲に対し、かなり過剰で体質的な反応を示しているところです。

 クレンペラーのこの没入した、いわば曲が崩壊する寸前までに表現的な音楽、悲壮感さえ漂う凄まじい演奏は、スタジオ録音していたならばどんな様相になっていたのでしょうか。恐らくは音質の向上分だけ整理された雰囲気にはなっていたと思いますが、この異様な様はあまり変化がなかったのではないでしょうか。良い音で聞いてみたかったものです。

増減
ACO.(55.7.7L) 27:28 0
カラヤン/BPO.(73) 29:55 2:27 参考
ブーレーズ/NYP.(73) 28:54 1:26 参考

con

Schönberg:四重奏協奏曲(Händel合奏協奏曲op.6-7よりSchönberg編)

O.クレンペラー/LAPO. コリッシュSQ  
38.1.6 or 7L Philharmonic Auditorium, Los Angeles
 Mono

同じプログラムでこの両日行われたコンサートからの放送音源。
Archiphon
ARC-114/15
Schönbergの編曲した曲はかなりあって、特に近年J.Straussのワルツの室内楽版やBachの編曲(これはクレンペラーの録音もある)、Brahmsのピアノ四重奏曲1番の大オーケストラへの編曲などは頻繁に録音され、演奏もされるようになりましたが、その中でもこの曲は珍しいもので、1933年、Händelの合奏協奏曲op.6-7をベースとして弦楽四重奏とオーケストラ用にアレンジしたものです。初演は翌年9月26日プラハで、アメリカではストック指揮のシカゴso.が36年初演、共にコリッシュSQが演奏に関わりました。クレンペラーの演奏はアメリカ初演の2年後ですが、ここでも初演者のコリッシュSQが加わった演奏です。

 コリッシュSQはヴァイオリンのルドルフ・コリッシュRudolf Kolisch(1896-1978)をリーダーとした弦楽四重奏団。コリッシュはSchönbergの義理の兄弟(コリッシュの姉妹ゲルトルートがSchönbergの妻)に当たるヴァイオリニスト。ウィーン音楽院、ウィーン大学で勉強した後、1922年コリッシュSQを結成、特に新ウィーン楽派を中心とした現代音楽を得意としました。彼らが初演した曲はこの四重奏協奏曲を初めとして、同じくSchönbergの弦楽四重奏曲3,4番、Bergの抒情組曲、Webernの弦楽三重奏曲、弦楽四重奏曲、Bartókの弦楽四重奏曲6番等があります。1942年からはプロ・アルテSQのリーダーとしても活躍し、戦後はダルムシュタット夏季講座の教授陣でもありました。
 コリッシュは、子供の頃左手を怪我した後にヴァイオリンを始めたため、ヴァイオリニストとしては非常に珍しく右手にヴァイオリンを抱え左手に弓を持って演奏しました。私は右利きなので良くわかりませんが、通常左利きの方でもヴァイオリンや他の弦楽器を反対に構えて演奏する人はあまりないのではないかと思います。彼の楽器はストラディヴァリであったそうですが、弦を通常とは逆に張ったものだったのでしょうね。

 全12曲から成るHändelの合奏協奏曲op.6は、ヴァイオリンとチェロが独奏を受け持つコンチェルティーノの形をとる楽章がかなりありますけれど、このop.6-7は全楽章とも協奏曲的要素がありません。面白いことにSchönbergはそこに極めて特殊な独奏形態である弦楽四重奏を取り入れました。
 原曲は、Largo - Allego - Largo e piano - Andante - Hornpipie の5つの楽章から成りますが、Schönberg版での構成は
I Largo - Allegro
II Largo
III Allegretto grazioso
IV Hornpipe - moderato
 原曲の第1楽章Largoは荘厳な雰囲気を持ち、快活な主題のフーガの第2楽章に続きますけれど、Schönbergはちょうど少し長めの序奏部を持った古典交響曲の第1楽章のようにこれをまとめています。また、AndanteはAllegretto grazioso に変えられています。
 しかし、この2者はこうした表面的な違いに止まりません。例えばBrahmsのピアノ四重奏曲第1番の編曲は、響きの上で原曲とかなり異なりますけれど、それでも曲のアウトラインを忠実にトレースしたオーケストレーションを施しているのですが、この曲の場合、単に現代的なオーケストレーションをしたというようなものではありません。ほとんど、Händelの曲をベースとして新たにSchönbergが作曲したと言ってよいでしょう。殊に弦楽四重奏の部分は大変自由に書かれており、カデンツァ風な動きは原曲の響きと全く異なるもので、初めて聴くとかなり奇怪な印象です。

 このクレンペラーの録音は元々放送音源であり、これを記録したレコードのコンディションも悪かったらしくかなり聞き辛い音です。Archiphonの2枚に収められた録音の中でも特に状態は悪い。盛大なノイズに阻まれてなかなか本来の音楽を聞き分けるのが難しいのですが、コリッシュSQの隈取りの濃い(特に第2楽章のロマン的な装い)演奏に対してクレンペラーのザッハリヒな音楽の運びも違和感がなく、新しい音楽への熱い思いのようなものを感じさせます。クロルオペラ時代の覇気がまだ濃厚に残っていたのでしょう。

 なおクレンペラーが指揮したSchönbergの作品は、自身が1949年他に記したところによると(「指揮者の本懐」p.115-/214p他)
ヴァイオリン協奏曲op.36、ピアノ協奏曲op.42、弦楽三重奏曲op.45(?どんな演奏なの?)、「浄められた夜」、室内交響曲、「ペレアスとメリザンド」、「月に憑かれたピエロ」、「幸福な手」、主題と変奏op.43b
編曲作品は
オルガンのための前奏曲とフーガ変ホ長調(Bach)、コラール前奏曲(Bach)、弦楽四重奏曲ト長調(Brahms)、「映画の一場面の伴奏音楽」
とあります。

I II III IV Total
LAPO. コリッシュSQ(38.1.6L) 5:18 3:35 6:17 6:12 21:22
H.ファーバーマン/LSO. レノックスSQ 5:00 3:51 6:25 6:15 21:31 参考
リヒター/ミュンヘン・バッハo.(70) 3:41 2:23 4:47 3:56 14:46 参考
*リヒター盤の「I 3:41」 は原曲の第1楽章と第2楽章を合算したタイミング。