Shostakovich:交響曲第1番ヘ短調op.10 J.ホーレンシュタイン/RPO. 70.7.18L Albert Hall, Nottingham (BBC) Stereo |
||||||||||||||||||||||
BBC Radio Classics CRCB-6064 ![]() |
![]() 確かにこの曲はShostakovichにとって最初の交響曲ですが、30分以上の大曲である上に、既に素晴らしい音楽性を持っています。音楽自体は後年の深みを持っているわけではないのですが、ピアノの効果的な使用や威圧感のあるマーチのリズム、独特の半音階的旋律と無窮動旋律、第3楽章での繊細な書法、ソロの多用、アタッカで続く終楽章での非常に特徴的で執拗な動機繰り返しや爆発的なトウッティ、また中間部(練習番号20)でのロシア的旋律では既にヴィオラを3部に分けるなど、非常に意欲的な、そして極めて高度な技法を修得していたことがわかります。こうした音楽のスタイル、既に後の様々な技法や特徴をほとんど網羅していると言っても良いくらい完成された曲だと思います。様々な音楽家に注目されたのもわかります。 この演奏はホーレンシュタインの晩年に当たる70年のライヴ。BBC Radio ClassicsというレーベルはBBCの音源を使用しているにもかかわらず、著作権の障害のためか、肝心のイギリス本流のものやメジャーレーベルで商業的に成功していた巨匠の録音はほとんどなく、言葉は悪いですが、周辺の演奏家のライヴを大量にリリースしていました。そんな中でこのホーレンシュタインの演奏も出てきたわけですが、BBC Legendsレーベルもない当時あまりこの指揮者を聞けなかった身としては逆に大変有り難いことでした。 ここでのホーレンシュタインの演奏は、穏やかな淡々とした雰囲気です。竹内喜久雄氏の解説はカップリングのストコフスキー/LSO.の5番(64..9.17L)を大変誉めていますが、−−確かこの演奏は指揮者の独特の持ち味と曲がうまくマッチして白熱した演奏となっています。あの終楽章でさえ思いもつかないようなアゴーギクがあってすごく面白い。−−ホーレンシュタインの演奏についてはいまいち歯切れが悪い。短いので引用させてもらうと その細部まで丁寧に解析していく冷徹な指揮ぶりが、音楽のエモーショナルな動きでさえ、絶えずじっと見つめて行く複眼的視線をもたらしている。全体をバランスよく捉えるあまり、突出した色彩の魅力が後退し、全体がくすんだ色調で進行してゆく結果となっているが、音楽院の卒業制作であるこの「第1番」が、どれほどに書き込まれた作品であるかが、充実した響きとして伝わってくる演奏だ。 確かにこの演奏、そして録音は音の色彩的な点では冴えません。ストコフスキーの演奏は64年で、この演奏は70年ですから音質的にはもう少し良くてもいいような気がしますが、全体に音が軽い(近年凄まじい数が出ている非正規盤の一部のように聴くに絶えない音質のものとは違うけれど)ように聞こえます。 演奏もホーレンシュタインとしてはむしろ穏やかで、先鋭的な味はありません。ここで聴かれるのは最晩年の透徹した音の再現であって、何カ所かの爆発的な高揚を除けば、まるで北欧風の涼しげな空気を感じさせる演奏です。しかし、考えてみるとこの演奏スタイルは同時期の他の演奏、例えば一連のMahlerやBrucknerと同じです。この曲が持っているコラージュ的な要素を生かすには、もっとドライなリズムとスタティックな要素が必要かも知れませんが、ホーレンシュタインの指揮にそれを望むのは難しいでしょう。全くタイプが違うからです。 決してホーレンシュタインがShostakovichに相性の良い指揮者ではなかったにせよ、晩年に達したスタイルはこうしたものでした。Vox時代の5番とも全然違った雰囲気で、この間の変化は相当大きかったようです。
|
Shostakovich:交響曲第5番 J.ホーレンシュタイン/ウィーン・プロ・ムジカo. 52 (Vox) Mono |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Vox Legends Vox 7804 ![]() |
![]() オーケストラはShostakovichの音楽に慣れていないせいか、引き締まった精緻な演奏にはなっていません。ヴァイオリン主旋律が痛切に歌う非常に重々しい演奏。現代の良い録音で聴くとShostakovichのオーケストレーションが如何に緻密に計算されているかが如実に感じられますけれど(だから一時Mahlerブームの後はShostakovichだと騒がれたのでしょうね)ここでは、作曲者が意図した微妙な色彩やリズム、テンポの変化が消化しきれていません。第1楽章コーダ前のクライマックスは、ホーレンシュタインらしくかなり意志的な演奏。 第2楽章のスケルツォはMahlerの諧謔的なスケルツォを思わせます。こうした音楽の上手さはShostakovichの大きな特徴だと思いますけれど、この楽章の一種コミカルな、そして多分に古典的なテイストを意識した音楽は、構成の緻密さの割には面白く聞き易く作られているように感じます。直前の当局からの批判がなければ、ひょっとするともう少しアイロニカルな色の濃いラディカルな音楽になっていたのかも知れません。(と言うか、この曲自体作られていなかったかも知れませんが) 金管を全く使わない静謐なラルゴはShostakovich自身が「すべてのなかで第3楽章に一番満足している」と語った音楽でした。ヴァイオリンを同数に3部に分け、ヴィオラ、チェロもそれぞれ2部に分けるなど非常に細密に書かれていますが、ホーレンシュタインの指揮は、録音の古さを差し引いても、この楽章の透明な静けさには欠けています。ここではいくらか情に傾いた熱のために細分された弦の微妙な響きの繊細さは犠牲になっています。後半の音楽の昂りは指揮者の意志の強さを感じさせる独特な雰囲気を持っています。 終楽章冒頭のティンパニはかなり弱い。ここでも弦が主体でリズムの鋭い切れ味はありません。この楽章は頻繁にテンポが変わりますが、ここでもオーケストラは上手く対応できていません。所々で指揮者とオーケストラが上手く噛み合わないような状況が見られます。録音のための十分な余裕がなかったこともあるでしょうが、ホーレンシュタインも縦の線をぴったり合わせるタイプの指揮者ではありませんから、例えばロシアの演奏家によるものと比べるとやや鈍重な印象です。どうもホーレンシュタインの演奏はShostakovich自身のプログラム(それが本心かどうか良くわかりませんが)「第1楽章の悲劇的な緊張した瞬間を、人間皇帝の楽天的なプランに解き放つ」演奏にはなっていないように思えます。何か異様に差し迫ったような緊張感が支配していて、この頃のホーレンシュタインが(当時の)現代音楽を演奏するときの表現主義的な一面が出ています。 ホーレンシュタインはこの曲をどんな風に感じていたのでしょうか。ホーレンシュタインはロシアのキエフ出身。その頃のホーレンシュタインの環境は良く知りませんけれど、この地は、かつてロシアのユダヤ人が集まっていて、かなり迫害された歴史を持っているとどこかで読んだことがあります。私の頭をかすめているのは、この音楽のプランにこうした歴史を重ね合わせてみるとき果たして単純にBeethovenの歓喜の歌のような感慨を持つことができたのだろうか、ということです。別にShostakovichの音楽そのものとは何の関係もないことですけれど、何故か気になります。 ライヴを除くとホーレンシュタインのShostakovichはこれのみ。どれくらいホーレンシュタインがShostakovichを演奏したのかわかりませんけれども、後述のSRO.との演奏記録を見ても少なからず演奏していたのではないでしょうか。出来れば晩年の演奏でもう一度聴いてみたかった曲です。 ![]() 私は昔バーンスタインの旧盤LP(NYP. 59年)をいやと言うほど聴いていたので(その頃79年ライヴの新盤はまだ出ていなかった)、すっかりこの演奏が染みついてしまいました。終楽章の冒頭のスピードは当時有名で、ほとんど限界に近い速さだったでしょう。更に回転スピードを45回転にしたりしてその過激なテンポを面白がっていたことを思い出します。このバーンスタイン盤は当時「革命」と呼ばれたこの曲の最も人間的で先鋭な思想を感じさせたように思います。 ホーレンシュタイン盤と同じ52年に録音されたミトロプーロス/NYP.の演奏は冷徹に見据えられた骨太の演奏でした。ロシアの機能的な演奏とは違って実に人間ぽい体温を感じさせます。3楽章の室内楽的な繊細な音楽にあっても同様。終楽章は全体のタイミングは速いですけれど、冒頭のテンポは速くありません。しかし次第に熱を孕んで進み、常に強い緊張感と構成感をもって解釈に曖昧なところがありません。NYP.の演奏も完璧。この時代にこれだけの演奏が出来たというのはバーンスタイン盤の演奏とともにこのオーケストラが如何にShostakovichの音楽語彙を把握していたかがわかります。(音質は全く問題がない。ただし私が聴いているTheorema盤は数カ所金属的共振音?が入り、非常に耳障り)。アメリカのオーケストラはかなり早い時期からShostakovichを演奏していましたから、慣れもあったのでしょうか。 シルヴェストリ/VPO.の第1楽章はタイミングから見ても遅くちょっと変わった演奏の範疇でしょう。しかしVPO.にしては異様に張りつめた芯の強い音で緊張感が途切れなません。純化された音の世界で、木管や金管のVPO.らしい美しい響きが清澄な空間の広がりを感じさせます。肌合いはロシアの演奏と全く違うけれど正確なリズムと精緻で完璧なアンサンブルはシルヴェストリの手腕によります。第2楽章のスケルツォはシルヴェストリの切れの良いリズムとオーケストラの力の見せ所、ラルゴも金管を排した室内楽的世界をこれだけ清澄にしかもきっちり演奏した例はそれ程ないでしょう。 終楽章の冒頭はバーンスタイン並に速いテンポをとっていますが、バーンスタインのように激情にかられたような雰囲気ではなく、もう少し醒めた演奏で、シルヴェストリの演奏での聞き所はむしろこの後からコーダまでの寸分の隙もない完璧な演奏です。レニングラードpo.以外ではこの演奏が最も完璧だと思います。(録音もこの時期としては最上級) これらは何れも現代のような音響効果とスタイリッシュな構成とは違った演奏です。Shostakovichが本当のところどう考えていたのかわかりませんが、演奏者側が「社会的リアリズム」の産物という側面を意識しなくても、この時代の演奏には何か熱い情念を感じさせるものが多いようです。
|